2016年3月15日火曜日

いじめ仕返し屋と言う商売があったら、まずいですか? いじめをゼロにする一番現実的な方法は、元やくざとか暴走族の人に、お金を払って報復して貰う。

いじめ仕返し屋と言う商売があったら、まずいですか?
いじめをゼロにする一番現実的な方法は、元やくざとか暴走族の人に、お金を払って報復して貰う。

例えば、過去数十万円、イジメの加害者から取られたと言う事件があります。
それで自殺までするなら、

お金を用心棒に渡して、もう二度とイジメない所までやってもらう。
警察への通報と言うのもあるかもしれませんが、
その商売人から、いじめ加害者にさらなる報復があるかもしれない。
だから、警察に通報しないで、いじめをやめれば、その加害者はもう痛めつけられない訳です。

だったらやめようとする気持ちになるじゃないですか?

ただやめさえすれば、用心棒は商売だから動かない。

例えばその商売人に電話して、下校途中後をつけて貰って、いじめの現場を目撃してもらう。
そうすれば、問題ないです。

と、言う想像の話。
私はそんなのはおかしいと思うし、警察や学校がきちんと動くべきと思います。

ただ、言わゆるいじめなくそうなんて言うなら、これが現実じゃないですか?
NHKでいじめなくす為に考えるとか、言ってますが、
かつての金八先生もありますが、
現実に、本当になくそうとしたら、こう言う方法しかないのでは?と言う事を感じます。
どうですか?

補足
ちなみに、Yahooニュースでいじめの重大事件の報告がどうのとか、出てます。
現実はそうです。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10156774030


再生核研究所声明 130 (2013.9.1): 復讐心も、競争心も、嫉妬心も空しい: 忠臣蔵の断罪を求める。
― 世界中のテロリストをなだめる方法(宗教間と民族間)
(2013.8.29:11:45  声明に興味を抱く人の要望が 副題の課題であるが、全貌の考えが独りでに閃く、ぞっとするような静かな研究室で)

人は誰でも幸せになりたい、良い気持ちになりたい、良い感動をしたいは 当然であり、それらを求めるのが 道 であり、道理である。しかしながら、人間と人間の間には利害が対立したり、自然な意味での対立などの心が湧くのも 世の常である。これらを上手く調整させる原理は 公正の原則、再生核研究所声明129にあると考える。絶望的に考える必要は全然ない。人間には 生命と共に、共感、共鳴、共生の原理が働き、さらに儚い命において、本質的に同じ運命を担っているからである。
好きなように生きるは、実はそうは簡単ではなく、自分が本当に何を求めているか、何者かさえ定かに分からないのが 真相であると言える。 汝自らを知れは、実は 汝世界が観えるか と同様 難しい 永遠の問題 と言える。
幸せを求めるとは、自分の世界を環境と調和させ 全体を良く治め、豊かな感情が湧いてくるように することである。大事なことは食欲から、人間を考えるように、己が生命の求めるところを理解して、上記公正の原則に背馳しないように調和を保ちながら、好きなようにすることである: 再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること 実際、我が生命は 何を求めているのか と 絶えず、自らに問うべきである。これは 人生の基本定理 を内から表したものである(再生核研究所声明 12:人生、世界の存在していることの意味について)。

復讐心も、競争心も、嫉妬心も自然に発想するとしても、それらが浄化され、冷静さを失えば、自己の心に著しく反する マイナスばかりの情念に変身して、多くは空しい、空虚なものを求めていたとなるだろう。 最も大事な己を見失いがちになるだろう。また、復讐心の基礎には、元には 過去にあり、既に多くは取り返しのつかない事実に成っているではないだろうか。復讐には、復讐の事実より はるかに多くの犠牲を受けているのは 世に多い。復讐は空しいことである。日本国で有名な 忠臣蔵など、冷静に分析すれば、野蛮な封建時代の小さな世界の中での事件としても、存念を晴らすため、浪士たち自身はもとより、浪士たちの家族、周辺に如何に犠牲を与え、若者を道ずれにしたかを見れば、歴史的に断罪されるべき行為であると考える。歴史は、冷静に評価し、物語は書き換えられるべきであると考える。
競争心、嫉妬心は 相当に根深いものが有ると考えられるが、競争は 本質的にはあり得ない。なぜなら、それぞれ個性を持った人間が好きなように生きるのであるから、たまたま道ずれに成っても 本質は 目標も行先も違うはずである。したがって、スポーツなどの世界では 短期的にあっても、限られた限定された内での競争となるだろう。大事なことは、我が道であって、他人の様ではない と言うことである。
多くの嫉妬心、妬み、羨望感は それらは虚像であると言える。もし、自分が相手の立場に 実際になれば、そんなはずでは無かったとなるのが 実像ではないだろうか。古くは王子様と乞食のたとえの通りではないだろうか。 面白いのは 大金持ちに成って、逆に不幸になった人は 世には多いという報告すらあるくらいである。

いわゆる 世にあるテロであるが、
  
全て成功しても、不幸を世に広めるだけ、
自分を犠牲にするなど、身内、同族でも 喜ばないのでは、
関係のない人を巻き込むなど、言語同断である。

公正の原則に反する 反社会的となれば、世界と世界史を敵に回すことに成るだろう。知恵を付けて、賢明に対処したい。命あるものは みんな 同じ運命を生きている、仲間たち ではないのかと考える。
以 上

追記:
再生核研究所声明 61 (2011.05.11) : ビンラディン氏殺害 ― アメリカの名誉と大義を傷つけた オバマ大統領
               
オバマ大統領の直接指示で、ビンラディン氏殺害の現場を 政権幹部とともにホワイトハウスで目撃していた現場が 映像で広く公然と報じられたのは 世界に衝撃を与えている。堂々たる戦いでの殺害ならば、戦死として 仕方ない状況は テロ事件の背景からも、当然考えられる。しかしながら、問題は、武器を持たない人物を 妻やしかも12歳の子供の目前で、射殺したという経過には はなはだ 大きな問題を感じざるを得ない。 愚策でしかも、アメリカの威信を著しく傷つけた 大義なき重罪に当たると考える。 しかも、公然と映像で公開した罪は大きい、人間の尊厳などは少しも感じられない野蛮性すら顕わしている。

もちろん、アメリカは 世界の超大国であり、世界の平和と安定に 世界的に貢献している、 国際社会そのものであり、大統領は その最高責任者である。 されば、それゆえに、逆に 高い倫理性と正義を貫く姿勢を 世界に示して 頂きたいと考えるのは 当然である。この事件は その偉大なるアメリカの名誉を傷つけた 愚策として 世界の歴史に刻まれるだろう。

何人であり、法によって、客観的な裁判にかけて裁くのが、アメリカの 自由と法を尊重する 偉大なるアメリカの伝統であり、正義ではないだろうか。それこそ、世界を指導する国家の 在るべき姿ではないのか。

また、敵の指導者をみすみす殺害して、何の効果があるだろうか。 背後にいる多くの共鳴者や共感者は どのようにみるだろうか。 大きなテロ事件の指導者の 動機も真相も背後も分からなくなってしまった。 目前で父を殺害された少女の想いに 想いがいかないのかと その感性に対する疑念を抱かざるを得ない。 相手の立場を尊重する、相手の立場に想いを致すは、公正と倫理の基本ではないのか。 また、法の原理ではないのか。 力だけが支配する世界を 神を抱く、偉大なるアメリカが 求めているのかと問いたい。

アメリカは その偉大なる国家の名誉にかけて、大統領の処置を断罪すべきである、追及すべきである と考える。

賢明なる大統領ならば、できるだけ、生きたまま逮捕して、テロ事件の背景、真相、動機などを深く探り、 テロ事件の背景の全貌を掌握し、テロ事件の根絶を図るように 意図するのではないだろうか。 たとえば、人間性あふれるカーター元大統領 ならば、また若き、英明なる指導者であった ケネデイ元大統領ならば、実際そのようにしたと 信じて疑わない。 いや歴代のアメリカ大統領は みなそうしたのではないだろうか。 実際、ブッシュ大統領でさえ、サダム・フセイン元大統領を裁判にかけたではないか。 殺害は 正義に反し、神聖なホワイトハウスを血で汚した、愚策で犯罪そのものであると考える。

もちろん、この声明は、テロリストを元気づけるのものでも、テロリストに共感を寄せているものでもない。 実際、逆である。 武器を納め、 インドのネール元首相のように、武器によらない賢明な方法で、共生、共存の世界を拓き、 夜明けを迎え、 野蛮な時代を終結させようではないかと 訴えたい。 まこと、恨みと復讐では 何時までも不幸な争いは続き、何のために生まれてきたのかさえ 分からない人生になってしまう。 関係の無い第3者を巻き込むなど、言語道断である。 狂気の沙汰としか 言いようが無い。

然るに、双方の指導者たちが 復讐と相手の根絶を宣言しているのは異様であり、未だ地球上では力が、暴力がはびこり、野蛮な闘争を繰り返している事を示している。 運命共同体の かけがいのない地球の環境などには 思いがいかない 愚か者たちである。世界史を進化させ、発展させるためにも、そのような双方の指導部の交代を求めるものである。 共生、共存の道を探り、美しい世界を作ろうではないか。 誰も儚い人生を生きている、同じ運命を共有する者、仲間たちではないか。 同じ時代に生を受けた、 私たちの出会いを 美しいものにしようではないか と呼びかける。          以 上


再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上

https://twitter.com/SLANG_SCHC/status/667233481408184321


再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい:
1)  多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)  これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)  政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4)  いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)  お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)  上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)  いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。

言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。

以 上


再生核研究所声明 127 (2013.8.26): お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。

以 上









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