2016年3月23日水曜日

記事 Platnews2016年03月22日 17:34「右」と「左」はなぜ分かり合えないのか?

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Platnews2016年03月22日 17:34「右」と「左」はなぜ分かり合えないのか?




鬱屈した政治状況
民主党と維新の党が、新党名を「民進党」とすることにした。自民党どころか、安倍晋三首相一強とも言われるような状況の中、野党は選挙などで協力することにより、与党に対抗しようとしている。

しかしながら、強大な与党の前に、弱小な野党が離合集散を繰り返してきたのが日本政治である。政権を担った民主党の無様な失敗は、「何はともあれ協力」という方針が、政権担当能力や、統治能力に対して、いい影響をもたらさないということを何よりも示している。民進党が政権交代可能な野党になるにはまだまだ道は遠いと思われるが、政党政治が健全に機能するためには、安定した野党が存在していることが望ましい。「何はともあれ協力」という方針をいかに発展させることができるかが、試金石となるだろう。

私たちの見方を左右するもの
政治学では最近、道徳哲学や道徳心理学の成果が積極的に取り入れられるようになってきている。そこでは、私たちの政治への見方や意見が、イデオロギーや感情によってかなりの程度、左右されていることが示唆されている。

たとえば、ジョシュア・グリーンという、哲学者であり、心理学者でもある著名な研究者による『モラル・トライブズ』(竹田円訳、岩波書店、2015年)という本がある。これは、功利主義を擁護する立場から書かれたもので、この主張自体も大変興味深いものがあるが、ここでは興味深いエピソードをこの本から引用しよう。

あるデモ行進を何人かの人に見せてその感想を聞く。そのデモは、マイノリティの保護を訴えるものであり、当然、共和党支持者の人はこのデモを「やりすぎ」「迷惑」「言論の自由の幅を超えている」と見なした。民主党支持者においてはその逆であり、「言論の自由の行使」だという肯定的な見解を示したそうである。

結局のところ、人々は自分のイデオロギーと合致するものを肯定的に捉え、そうでないものは否定的に捉える。これは当たり前のように聞こえるが、深刻な事実でもある。

相手を説き伏せるときに用いられるもの
このような党派性にも関わらず、多くの論者は自身が「中立客観的、冷静に、そして科学的な根拠をもって」いるものだとして主張を展開している。右であろうと左であろうと、相手はイデオロギーによって目が眩んでいる状態だと考えている人が多いように思われる。お互いに、膨大なデータやエビデンス、事実を並べ立て、相手の主張がいかに間違っているか、相手がいかに荒唐無稽か、相手がいかに嘘つきかということを暴きたてようとしている。そして、彼ら彼女らは、最後に「これだけのことが明らかになっているのに、未だに自分たちと反対の立場をとっているのは、頭がおかしいか、宗教の信者(合理的、理性的な話が通用しない人)にでもなってしまったのだろう」と言うのである。

しかし、実際にはある個人の事実認識の能力には限界がある。どれ程努力を重ねたとしても、客観的に世界を把握することは困難であり、科学的な根拠を求めたとしても、それすら曖昧で、いくらでも解釈しようがある、というケースは多い。どれだけ冷静さや平静さを装い、常識的に振舞ったとしても、ある特定の立場やイデオロギーから完全に自由でいることは、ほとんどの場合不可能なのである。

イデオロギーは悪か?
イデオロギーという響きは、そこには客観的な議論はなく、断定的な物言いのみが存在し、過激な「信者」たちが跋扈している状況だという印象を抱かせるものである。しかし、実際にはイデオロギーから完全に自由な人はほとんど存在していない。多くの人がある特定のイデオロギー(その濃淡はあれど)の眼鏡を通して世界を眺めるのである。このことは、決して咎められるようなことではない。「真実」(誰もが同意できるような内容)が存在しない中で何かを判断しなければならないとき、私たちの参照軸はイデオロギーや価値観しかないのである。

むしろ問題なのは、「あいつらは特定のイデオロギーに囚われて何も見えなくなっている。私はそれができるのだ」という思い込みである。こうなってしまうと、相手との対話どころか、自分の考えに賛同しない人を徹底的に攻撃するしかなくなってしまう。右と左の話が全く合わなくなっているように感じられるのは(右派が語っている日本と左派が語っている日本が同じ国とは思えない)、お互いにお互いを話が分からない、対話できない存在なのだと決め付けていることに起因している。

そもそも、政治や政策に関わることは、全て事実で白黒分けられるようなことばかりではない。そこには価値観やイデオロギーが介在して当たり前なのである。社会に関わることを、データや事実だけで、全くの争い無く決めることができるという発想こそ、警戒しなければならない。右と左の話が全く合わなくなってきているのは、お互いにお互いが、誰もが同意できる強靭な根拠に基づいて話をしているのだという思い込みにその原因があると考えられる。

関連記事:http://blogos.com/article/168201/

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。

経過などは 次を参照:

再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案

これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM

以 上

再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/













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