2016年3月28日月曜日

記事 PRESIDENT Online2016年03月27日 16:00なぜ「自宅で死ぬこと」はこれほど難しいのか - 命を紡ぐ 現場の声

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PRESIDENT Online2016年03月27日 16:00なぜ「自宅で死ぬこと」はこれほど難しいのか - 命を紡ぐ 現場の声




船戸クリニック 院長 船戸崇史 取材・構成=田中響子

超高齢化の時代を迎え、ますます、死亡者数が増えていく日本。一人ひとりが死に対する考え方や、死生観について考える時期に来ています。最後まで患者さんに寄り添える医療を行いたいと、在宅医療を行う船戸クリニックの船戸崇史先生は、「健全な死」を選択できる大切さを訴えます。


船戸崇史・船戸クリニック院長

人はがんが治ってもいずれ死ぬ
私は、消化器腫瘍外科医として、12年間の勤務医を経て開業しました。勤務医時代は、メスで患者さんのがんを治すことに力を注いでいました。しかし、メスをもって10数年目にふと気が付きました。「人はがんが治らなかったら死ぬが、がんが治ってもいずれ死ぬ」。つまり、「人は等しく死ぬ」のです。その現実に突き当たり、自分のやっていることに疑問を感じるようになりました。そして、手術で治そうとするより、「最期まで患者さんに寄り添った医療」に関心が向かい、在宅医療のできる開業医となったのです。

我々医師は医学部に入学してから、「病気を治す」ことだけを学びます。しかし、これは同時に「死は罪悪」「死は敗北」ということなのです。事実、「死に負けてはならない」と歯を食いしばる気持ちが医学をここまで発展させ、日本は長寿国になってきたと思っています。それは紛れもなく現代医学の功績です。

しかし、どんなに最善を尽くして手術や治療に成功したところで、最終的に人は死んでいきます。

私のところには、余命宣告をされた末期がんの患者さんや、他の医療機関で治療法がないと言われ、絶望された患者さんが多くいらっしゃいます。医師から匙を投げられるほどショックなことはありません。確かに、治癒を目的としている西洋医学では、末期がんの患者さんにできることはありません。しかし、それは“西洋医学の場合”なのです。

東洋医学や伝統医学など、最後の最後まで患者さんに対応できることはあります。痛みを和らげたり、自己免疫力を上げるような療法はいろいろあるのです。私も医者ですから、きちんと自分で調べて判断した上で、患者さんにとって有益なものを採用するようにしています。

なぜなら、患者さんや家族は、やはり最後まで希望を捨てたくはないからです。どんなことをしても助かるものなら、少しでも良くなるのならと最後まで望みをかけて治療法を探します。本来、患者さんへのサポートが医療者の務めなら、患者さんが生ききることを最後までサポートすることも医師の役割だと考えています。

「死にたい」患者と「死なせたくない」家族
もうひとつ、気をつけるべきことがあります。

現在の医療の現場では、患者さんが自分の希望通りに死ぬということは、実は困難です。末期がんの患者さんたちは、自分の体のことがわかるのでしょう。私が診てきた多くの患者さんは、最期が近づくと自分の死を受け入れていました。そして最後は、「家に帰って家族と一緒に過ごしたい」、「家族に囲まれて旅立ちたい」と思われるようになります。

しかし、がん患者である時点で、すでに家族に迷惑をかけているという罪悪感があるし、事実、自宅に帰れば、介護は家族に頼ることになります。これ以上の迷惑はかけたくないと、自分の希望を言わずに遠慮してしまい、孤独な気持ちのまま旅立っていくのです。

また、本人は自然のままに逝きたいと願っているのに、ご家族が受け入れられないというケースも珍しいことではありません。患者さん本人が乗り気でない延命治療を、家族からすすめられて我慢して受ける場面も見てきました。もちろん、家族も精一杯なのです。しかしこの選択はときには患者さんご本人にとって一番辛い。

しかも、入院していれば、体中にチューブをつけたままで、死ぬ瞬間は家族が病室に入れず、医師が臨終を確認した後、やっと家族は遺体に対面できるという場合もあります。これでは最期が誰のためにあるのかわかりません。

確かに患者さんが自宅に帰って在宅看護に入ると介護をするご家族の負担は増えます。しかし、患者さんが自らの死を受け入れ、ご自身が望むような最期を迎えて生ききることができれば、それこそが「健全な死」といえるのではないでしょうか。厚生労働省が施策を総動員して在宅医療を推進している理由のひとつに、こうした背景があるのです。

病院医療は、ひとつの理想的な完結したシステムをもっています。地域医療とは、この病院医療の相似形として、医療、福祉、介護を地域に広げ、すべてを30分圏内にもつという地域包括ケアシステムが重要であると考えています。

在宅医療推進と関わる多職種連携こそが、患者さんにとってもご家族にとっても思い残すことのない尊厳ある最期を迎えられる仕組みのひとつだと思うのです。

船戸クリニック院長 船戸崇史
1959年岐阜県生まれ。愛知医科大学医学部卒業後、岐阜大学第一外科に入局。数々の病院で消化器腫瘍外科を専門に。しかし、「がんには自分のメスでは勝てない、ならばがん患者を在宅で看取る手伝いをしたい」と、1994年岐阜県養老町に船戸クリニックを開業。西洋医学を中心に東洋医学や補完代替医療も取り入れ、全人的な治療、診察を行っている。http://blogos.com/article/169096/


再生核研究所声明 47(2011.02.08):  肯定死

(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)

そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)











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