ニコラウス・コペルニクス(ラテン語名: Nicolaus Copernicus、ポーランド語名: ミコワイ・コペルニク Mikołaj Kopernik、1473年2月19日 - 1543年5月24日)は、ポーランド出身の天文学者、カトリック司祭である。当時主流だった地球中心説(天動説)を覆す太陽中心説(地動説)を唱えた。これは天文学史上最も重要な発見とされる。(ただし、太陽中心説をはじめて唱えたのは紀元前三世紀のサモスのアリスタルコスである)。また経済学においても、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことに最初に気づいた人物の一人としても知られる。
コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。
1965年より発行されていた1000ズウォティ紙幣に彼の肖像が使用されていた。
目次 [非表示]
1 人物伝
1.1 幼少期
1.2 学生時代
1.3 地動説の完成
1.4 司祭として
1.5 地動説の発表と死
2 著作
3 地動説
4 グレシャムの法則
5 死後の影響
6 『天体の回転について』とローマ教皇庁
7 ナチス政権下での国籍論争
8 元素名
9 脚注
10 参考書
11 関連項目
12 外部リンク
人物伝[編集]
幼少期[編集]
コペルニクスの生家
トルン旧市街広場
母方の叔父ルーカス
クラクフ大学コレギウム・マイウス(大カレッジ)
恩師のブルゼフスキ教授
ボローニャ大学
クラクフ大学コレギウム・マイウス(大カレッジ)のヤギェウォ教室
ここでコペルニクスが学んだ
第二次トルンの和約で成立したポーランド王領プロシアの区分。黄色がヴァルミア司教領(エルムラント)であり、コペルニクスはこの黄色の地域で生涯の大半を過ごした
フロムボルク大聖堂
(フロムボルク城内)
コペルニクスの塔
(フロムボルク城内)
司教座聖堂参事会員として赴任してきたコペルニクスの住居兼執務室
第二次大戦で破壊され、戦後に復元された
コペルニクスは、1473年にトルンで生まれた。生家は旧市街広場の一角にある。トルンは1772年のポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。ナチス時代にはドイツ人かポーランド人かで論争がおこなわれたが、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。ポーランド・リトアニア共和国は単一民族による国民国家ではなく、ポーランド王に従う多民族国家であったため、ポーランド人、リトアニア人、ドイツ人、チェコ人、スロバキア人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ラトビア人、エストニア人、タタール人などが民族に関係なく暮らしており、ポーランドの市民権を持っている人は皆「ポーランド人」であった。王国内の共通言語はラテン語とポーランド語であり、クラクフ大学で大学教育を受けてもいることから、コペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。
彼の姓の「コペルニクス」はラテン語表記の Copernicus を日本語で読み下したもので、ポーランド語では「コペルニク (Kopernik)」となる。ポーランド語で「銅屋」の意味。すなわち彼は「銅屋のミコワイ(ニコラウス)」である。父方の一族のコペルニク家はポーランドのシレジア地方オポーレ県にある古い銅山の街コペルニキ (Koperniki) の出身。シレジア地方は13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人移民を招いている(ドイツ人の東方殖民)。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族がドイツ語を母語としていたものと推測される。
10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラ・ヴァッツェンローデ (Barbara Watzenrode) は既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデ (Lucas Watzenrode) が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後にポーランド王領プロイセンにあるヴァルミア (Warmia) の領主司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス (Andreas) はポーランド王領プロイセンのフロムボルク(ドイツ語: フラウエンブルク Frauenburg)のカノンとなり、妹バルバラ (Barbara) はベネディクト修道院の修道女となった。他の妹カタリーナ (Katharina) は市の評議委員だったバルテル・ゲルトナー (Barthel Gertner) と結婚した。
学生時代[編集]
コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでおり、1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、自由七科を学んだ。この過程で月の精密な軌道計算を史上はじめて行った著名な天文学者で従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。さらにニコラウスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。1495年に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、叔父の計らいでヴァルミアの律修司祭の職につき生活の保障を得、1年ほどバルト海沿岸にあるフロムボルクにいたあと、1496年にはイタリアのボローニャ大学に留学し、法律(カノン法)について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラと出会い、その弟子となった。1500年にはボローニャ大学での学業を終え、ローマを見物したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って1501年に再びイタリアに留学した。今度の留学先はパドヴァ大学であり、ここでコペルニクスは今度は医学を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた占星術も学んでいる。パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には1503年にフェラーラ大学でカノン法の博士号を取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方およびその近隣から出ることはなかった[1]。
地動説の完成[編集]
戻ってきた当初コペルニクスは律修司祭ではあったが、ヴァルミア領ではなく叔父付きの補佐となり、リズバルク(リズバルク=ヴァルミニスキ)にある司教宮殿に移り住んだ。ここで聖職者として、また医師として多忙な日々を送るようになったが、一方で余暇を見つけては天体観測を行い、自らの考えをゆっくりとまとめていった。本格的に地動説の着想を得たのは1508年から1510年ごろと推定されており[2]、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。またこのころ彼はギリシア語も独習しており、1509年にはギリシア語からラテン語に翻訳した手紙集を出版している。1510年にはコペルニクスは叔父のもとから独立し、再びヴァルミア領の律修司祭に戻り、フロムボルクにて職務に就くようになった。そしてこの年、コペルニクスは同人誌として「コメンタリオルス」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。
司祭として[編集]
1511年には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な司祭として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる[3][4]。1512年にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、1515年には開催中の第5ラテラン公会議において改暦が議題に上がる中、フォッソンブローネ司教であるミデルブルクのパウルがコペルニクスに意見を求めている。
1516年には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で貨幣の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、1517年に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した[5]。この論文は1519年にはラテン語からドイツ語に翻訳され、1522年には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。
しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在するドイツ騎士団国がポーランド王領プロイセン内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、1520年にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部のオルシュティンへと逃れ、同地の防衛にあたった。1521年にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。1523年には司教が死去したため、次の司教が選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。1525年にはドイツ騎士団国の最後の総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがポーランドに臣従し、プロイセン公を称してプロシア公領を創設したため抗争は完全に終結した。
ドイツ騎士団国との抗争は終結したものの、まもなく宗教改革の波がヴァルミアにも押し寄せてきた。1517年にマルティン・ルターが開始した宗教改革は周囲に急速に広がり、1523年には隣接するドイツ騎士団国がルター派に改宗し、ヴァルミア近隣にもルター派寄りの勢力が現れ始めた。コペルニクスはカトリックの立場を堅持したが、友人である司祭ティーデマン・ギーゼとともに、ルター派の禁教には反対の立場だった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の先輩で親友の地図学者ベルナルド・ヴァポフスキ (Bernard Wapowski) がポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った[6]
地動説の発表と死[編集]
1529年ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、1533年には教皇クレメンス7世にこの考えが伝えられている。1535年にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。1536年には枢機卿の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころにはヘウムノの司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を進めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。
1539年、ヴィッテンベルク大学の教授であるゲオルク・レティクスがコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めた。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めた。1540年にはレティクスはグダニスクの出版業者から「最初の報告」を出版させ、コペルニクスの理論の要約を広めるとともに完成版の出版を予告した。コペルニクスとレティクスは理論のチェックを進め、1542年にはコペルニクスの主著となるであろう『天体の回転について』の草稿が完成し、ニュルンベルクの印刷業者であるペトレイウスのもとで印刷された。しかしここでレティクスがライプツィヒ大学の数学教授に招聘されたため、レティクスはルター派の神学者アンドレアス・オジアンダーに校正を依頼した。こうしてこの理論は出版を待つばかりとなったが、1542年11月にコペルニクスは脳卒中で倒れ、半身不随となった。仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日に彼のもとに届いたという[7]。1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去った。
コペルニクスの遺物
オルシュティンの聖ヤコブ大聖堂
死後コペルニクスは埋葬されたものの、どこに埋葬されているのかは不明だった。コペルニクスの墓は、各国の学者によって2世紀にわたって捜索が続いていた。こうした中、シュチェチン大学などのチームがコペルニクスの主な任地であったフロムボルクの大聖堂で2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。2008年11月、シュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同で、この遺骨と、ウプサラ大学で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる本に挟まっていた2本の毛髪とのDNA鑑定を行い、両者のDNAの一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された[8]。
著作[編集]
1510年頃 「コメンタリオルス」(Comentariolus、同人誌)
太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。
1528年 『貨幣鋳造の方法』(Monetae Cudendae Ratio)
経済学でいうグレシャムの法則を提唱した。
1543年 『天体の回転について』[9][10](De Revolutionibus Orbium Coelestium)
コペルニクスの主著。地動説を元に、実際に星の軌道計算を行った。
地動説[編集]
コペルニクスのもっとも重要な業績は地動説の再発見である。当時はプトレマイオスが2世紀中ごろに大成した天動説が一般的な学説であったが、惑星観測の精度が上がるたびに惑星の運行を説明するための周転円の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていた[11]。この複雑さを解消するためにコペルニクスは地球を太陽の周りを回るものと仮定し、その結果従来の天動説よりもずっと簡単に天体の逆行運動などを説明できることを発見した。ただしコペルニクスは惑星は完全な円軌道を描くと考えており、その点については従来の天動説と同様であり単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らしたに過ぎない。実際には惑星は楕円軌道を描いていることは、ヨハネス・ケプラーにより発見された(もっとも天体が円運動を描いているという仮定により、天文学者は天体の逆行運動の説明を迫られたのであり、そういう思い込みが存在しなかったのならそもそも天体運動を探求する動機すら存在しなかったのであり、コペルニクスが円運動にこだわった限界はやむを得なかったとする評がある[12])。
グレシャムの法則[編集]
コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを突き止めたことである。これは、当時ドイツ騎士団が粗悪な銀貨を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された[13]。この理論はほぼ半世紀後、1560年に彼とは別に独自にこのことに気付いたイギリス国王財政顧問のトーマス・グレシャムによって知られるようになり、「グレシャムの法則」の名で知られるようになった。
死後の影響[編集]
コペルニクスの死と同時に世に送り出された地動説は、しかし直ちに大きく学界を動かすといったことはなかった。『天体の回転について』は禁書となることもなく各地の天文学者のもとに広く知られるようになっていったが、だからと言ってこの理論が正しいと考える者もあまりいなかった。コペルニクスの観測記録は精度が悪く、それを基にした地動説も天動説と比べてそれほど精度に差があるものではなかったためである。1551年にはエラスムス・ラインホルトが『天体の回転について』に基づいて『プロイセン表』を作成したが、これも従来の星表の精度から大きく離れるものではなかった。この状況が大きく変わるのは、1619年にヨハネス・ケプラーが惑星は楕円軌道を描いているというケプラーの法則を発見し、これによって地動説を補強するデータが大幅に精度を上げて以降のことである。1627年にはケプラーが地動説に基づいて『ルドルフ表』を完成させ、これによって地動説は天動説に対し完全に優位に立った。そしてアイザック・ニュートンが1687年に『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)の中で万有引力の法則を発表し、これによって地動説は完全なものとなった。
コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、最終的にはコペルニクスの説は世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者イマヌエル・カントが「コペルニクス的転回」という言葉を作り、やがてこの言葉がパラダイム転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。
『天体の回転について』とローマ教皇庁[編集]
1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『天体の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『聖書』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。) ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。
アメリカ合衆国の科学関連のゴンゾー・ジャーナリズム雑誌OMNIの創設者の一人であるアマチュア科学研究者ディック・テレシによると、このアイデアはアラビア自然学からの剽窃であり、また近代社会における西欧の興隆にともない、西洋中心主義および白人中心主義史観によって、非西欧文明圏の影響を故意に見落としてきたことがあるとしている[14]。
ナチス政権下での国籍論争[編集]
ヤン・マテイコによるコペルニクスの肖像『コペルニクス: 神との対話』
ドイツでナチスが勢力を誇っていた時代は、彼がポーランド人かドイツ人かが大きな論争の的となった(コペルニクスの国籍論争)が、現在は「多民族国家ポーランド王国の国民(すなわち国籍はポーランド人)であり、クラクフの大学を出るなどポーランドの教育を受けた、この地方のドイツ語の方言を母語とする家系(民族はドイツ人)出身の人物」、すなわち「ドイツ系ポーランド人」ということで落ち着いている。
元素名[編集]
超アクチノイド元素のひとつ、原子番号112の元素はコペルニクスにちなんで "copernicium"(コペルニシウム)と命名された。この新元素名 "copercinium" は2009年に発見者であるドイツの重イオン研究所 (GSI) により提案された。その後 2010年の2月19日、コペルニクスの誕生日に合わせて IUPAC(国際純正・応用化学連合)から正式名として発表された[15]。その発表文の中では、コペルニクスが考えた太陽系のモデルが、ニールス・ボーアによる原子モデルに通じると述べられている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9
再生核研究所声明290(2016.03.01) 神の隠し事、神の意地悪、人類の知能の程
オイラーの公式 e^{pi i}= -1 は最も基本的な数、-1, pi, i, eの4つの数の間の簡潔な関係を確立させているとして、数学とは何かを論じて、神秘的な公式として、その様を詳しく論じた(No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf Traduzir esta página
19/03/2012 -ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。)。
余りにも深い公式なので、神の人類に対する意地悪かと表現して、神は恥ずかしがり屋で、人類があまりに神に近づくのを嫌がっているのではないかと発想した。
ここ2年間、ゼロ除算を発見して、ゼロ除算の実在性は確信できたが、ゼロ除算の神秘的な歴史(再生核研究所声明287(2016.02.13)神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算)とともに、誠に神秘的な性質があるので その神秘性に触れたい。同時に これを未解決の問題として世に提起したい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能である、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。天才オイラーの無限であることの証明とその誤りを論じた論文があるが、アーベル、リーマンと継承されて現在に至る。他方極めて面白いのは、アリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインで問題にされ、下記の貴重な言葉が残されている:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
現在、ゼロ除算の興味、関心は 相対性の理論との関係と、ゼロ除算が計算機障害を起すことから、論理の見直しと数体系の見直しの観点にある。さらに、数学界の難問、リーマン予想に関係していると言う。
ゼロ除算の神秘的な歴史は、早期の段階で ゼロ除算、割り算が乗法の逆で、不可能であるとの烙印を押され、確定的に、 数学的に定まった と 人は信じてしまったことにあると考えられる。さらに、それを天才達が一様に保証してきたことにある。誠に重い歴史である。
第2の要素も、極めて大事である。アリストテレス以来、連続性で世界を考える が世界を支配してきた基本的な考え方である。関数y=1/x の原点での値を考えるとき、正方向、あるいは 負方向からゼロに近づけば、正の無限や負の無限に近づくのをみて、ゼロ除算とは無限の何か、無限遠と考えるのは極めて自然で、誰もがそのように考えるだろう。
ところが、結果はゼロであるというのであるから、驚嘆して、多くの人は それは何だと顔さえしかめたものである。しばらく、話さえできない状況が国際的にも一部の友人たちの間でも1年を超えても続いた。 そこで、最近、次のような文書を公表した:
ゼロ除算についての謎 ― 神の意思は?:
ゼロ除算は数学的な真実で、我々の数学の基本的な結果です。ところが未だ、謎めいた現象があり、ゼロ除算の何か隠れた性質が有るように感じます。それはギリシャ、アリストテレスの世界観、世の連続性を否定し、強力な不連続性を表しています。強力な不連続性は普遍的に沢山あることが分かりましたが、肝心な次の等角写像での不連続性が分かりません:複素関数
W = z+ 1/z
は 単位円の外と内を [-2,+2] を除いた全複素平面上に一対一上へ等角に写します。単位円は[-2,+2]を往復するようにちょうど写ります。単位円が少しずれると飛行機の翼の断面のような形に写るので、航空力学での基本関数です。問題は、原点が所謂無限遠点に写っているということです。ところがゼロ除算では、無限遠点は空間の想像上の点としては考えられても、数値では存在せず、数値としては、その代わりに原点ゼロで、それで原点に写っていることになります。それで強力な不連続性を起こしている。
神が、そのように写像を定めたというのですが、何か上手い解釈が有るでしょうか?
神の意思が知りたい。
2016.2.27.16:46
既に 数学における強力な不連続性は 沢山発見され、新しい世界観として定着しつつあるが、一般の解析関数の孤立特異点での確定値がどのような意味があり、なぜそのような不連続性が存在するのかは、神の意思に関わることで、神秘的な問題ではないだろうか。 神秘の世界があることを指摘して置きたい。
以 上
再生核研究所声明287(2016.02.12) 神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算
(最近 相当 ゼロ除算について幅広く歴史、状況について調べている。)
ゼロ除算とは ゼロで割ることを考えることである。ゼロがインドで628年に記録され、現代数学の四則演算ができていたが、そのとき、既にゼロで割ることか考えられていた。しかしながら、その後1300年を超えてずっと我々の研究成果以外解決には至っていないと言える。実に面白いのは、628年の時に、ゼロ除算は正解と判断される結果1/0=0が期待されていたということである。さらに、詳しく歴史を調べているC.B. Boyer氏の視点では、ゼロ除算を最初に考えたのはアリストテレスであると判断され、アリストテレスは ゼロ除算は不可能であると判断していたという。― 真空で比を考えること、ゼロで割ることはできない。アリストテレスの世界観は 2000年を超えて現代にも及び、我々の得たゼロ除算はアリストテレスの 世界は連続である に反しているので受け入れられないと 複数の数学者が言明されたり、情感でゼロ除算は受け入れられないという人は結構多い。
数学界では,オイラーが積極的に1/0 は無限であるという論文を書き、その誤りを論じた論文がある。アーベルも記号として、それを無限と表し、リーマンもその流れで無限遠点の概念を持ち、リーマン球面を考えている。これらの思想は現代でも踏襲され、超古典アルフォースの複素解析の本にもしっかりと受け継がれている。現代数学の世界の常識である。これらが畏れ多い天才たちの足跡である。こうなると、ゼロ除算は数学的に確定し、何びとと雖も疑うことのない、数学的真実であると考えるのは至極当然である。― ゼロ除算はそのような重い歴史で、数学界では見捨てられていた問題であると言える。
しかしながら、現在に至るも ゼロ除算は広い世界で話題になっている。 まず、顕著な研究者たちの議論を紹介したい:
論理、計算機科学、代数的な体の構造の問題(J. A. Bergstra, Y. Hirshfeld and J. V. Tucker)、
特殊相対性の理論とゼロ除算の関係(J. P. Barukcic and I. Barukcic)、
計算器がゼロ除算に会うと実害が起きることから、ゼロ除算回避の視点から、ゼロ除算の研究(T. S. Reis and James A.D.W. Anderson)。
またフランスでも、奇怪な抽象的な世界を建設している人たちがいるが、個人レベルでもいろいろ奇怪な議論をしている人があとを立たない。また、数学界の難問リーマン予想に関係しているという。
直接議論を行っているところであるが、ゼロ除算で大きな広い話題は 特殊相対性理論、一般相対性理論の関係である。実際、物理とゼロ除算の関係はアリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインの中心的な課題で、それはアインシュタインの次の意味深長な言葉で表現される:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
数学では不可能である、あるいは無限遠点と確定していた数学、それでも話題が尽きなかったゼロ除算、それが予想外の偶然性から、思いがけない結果、ゼロ除算は一般化された除算,分数の意味で、何時でも唯一つに定まり、解は何時でもゼロであるという、美しい結果が発見された。いろいろ具体的な例を上げて、我々の世界に直接関係する数学で、結果は確定的であるとして、世界の公認を要請している:
再生核研究所声明280(2016.01.29) ゼロ除算の公認、認知を求める
Announcement 282: The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday
詳しい解説も次で行っている:
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える(18)
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
以 上
何故ゼロ除算が不可能であったか理由
1 割り算を掛け算の逆と考えた事
2 極限で考えようとした事
3 教科書やあらゆる文献が、不可能であると書いてあるので、みんなそう思った。
コペルニクスはまた、教会では司教座聖堂参事会員(カノン)であり、知事、長官、法学者、占星術師であり、医者でもあった。暫定的に領主司祭を務めたこともある。
1965年より発行されていた1000ズウォティ紙幣に彼の肖像が使用されていた。
目次 [非表示]
1 人物伝
1.1 幼少期
1.2 学生時代
1.3 地動説の完成
1.4 司祭として
1.5 地動説の発表と死
2 著作
3 地動説
4 グレシャムの法則
5 死後の影響
6 『天体の回転について』とローマ教皇庁
7 ナチス政権下での国籍論争
8 元素名
9 脚注
10 参考書
11 関連項目
12 外部リンク
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幼少期[編集]
コペルニクスの生家
トルン旧市街広場
母方の叔父ルーカス
クラクフ大学コレギウム・マイウス(大カレッジ)
恩師のブルゼフスキ教授
ボローニャ大学
クラクフ大学コレギウム・マイウス(大カレッジ)のヤギェウォ教室
ここでコペルニクスが学んだ
第二次トルンの和約で成立したポーランド王領プロシアの区分。黄色がヴァルミア司教領(エルムラント)であり、コペルニクスはこの黄色の地域で生涯の大半を過ごした
フロムボルク大聖堂
(フロムボルク城内)
コペルニクスの塔
(フロムボルク城内)
司教座聖堂参事会員として赴任してきたコペルニクスの住居兼執務室
第二次大戦で破壊され、戦後に復元された
コペルニクスは、1473年にトルンで生まれた。生家は旧市街広場の一角にある。トルンは1772年のポーランド分割によってプロイセン王国領となり、現在はポーランドの一部に復帰している。ナチス時代にはドイツ人かポーランド人かで論争がおこなわれたが、現在ではドイツ系ポーランド人と思われている。ポーランド・リトアニア共和国は単一民族による国民国家ではなく、ポーランド王に従う多民族国家であったため、ポーランド人、リトアニア人、ドイツ人、チェコ人、スロバキア人、ユダヤ人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ラトビア人、エストニア人、タタール人などが民族に関係なく暮らしており、ポーランドの市民権を持っている人は皆「ポーランド人」であった。王国内の共通言語はラテン語とポーランド語であり、クラクフ大学で大学教育を受けてもいることから、コペルニクスが日常生活に困らない程度のポーランド語を話すことができたことは推定されているが、本人がポーランド語で書いたものは現在発見されておらず、彼が実際に日常会話以上のポーランド語をどの程度使えたかは定かではない。
彼の姓の「コペルニクス」はラテン語表記の Copernicus を日本語で読み下したもので、ポーランド語では「コペルニク (Kopernik)」となる。ポーランド語で「銅屋」の意味。すなわち彼は「銅屋のミコワイ(ニコラウス)」である。父方の一族のコペルニク家はポーランドのシレジア地方オポーレ県にある古い銅山の街コペルニキ (Koperniki) の出身。シレジア地方は13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人移民を招いている(ドイツ人の東方殖民)。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族がドイツ語を母語としていたものと推測される。
10歳の時、銅を商う裕福な商売人だった父親が亡くなり、母親のバルバラ・ヴァッツェンローデ (Barbara Watzenrode) は既に亡くなっていた。そのため、母方の叔父であるルーカス・ヴァッツェンローデ (Lucas Watzenrode) が父の死後、コペルニクスと兄弟を育てた。ルーカスは当時教会の律修司祭(カノン)であり、後にポーランド王領プロイセンにあるヴァルミア (Warmia) の領主司教となった。コペルニクスの兄弟アンドレーアス (Andreas) はポーランド王領プロイセンのフロムボルク(ドイツ語: フラウエンブルク Frauenburg)のカノンとなり、妹バルバラ (Barbara) はベネディクト修道院の修道女となった。他の妹カタリーナ (Katharina) は市の評議委員だったバルテル・ゲルトナー (Barthel Gertner) と結婚した。
学生時代[編集]
コペルニクスの後見をしていた叔父は彼が司祭になることを望んでおり、1491年にコペルニクスはクラクフ大学に入学し、自由七科を学んだ。この過程で月の精密な軌道計算を史上はじめて行った著名な天文学者で従来より定説とされていた天動説に懐疑的な見解を持っていたアルベルト・ブルゼフスキ教授によってはじめて天文学に触れた。さらにニコラウスが化学に引き込まれていたことが、ウプサラの図書館に収蔵されている当時の彼の本からも窺うことができる。1495年に学位を取らずにクラクフ大での学業を終えると、叔父の計らいでヴァルミアの律修司祭の職につき生活の保障を得、1年ほどバルト海沿岸にあるフロムボルクにいたあと、1496年にはイタリアのボローニャ大学に留学し、法律(カノン法)について学んだ。カノンとローマ法について学んでいる間に、彼の恩師であり著名な天文学者であるドメーニコ・マリーア・ノヴァーラ・ダ・フェッラーラと出会い、その弟子となった。1500年にはボローニャ大学での学業を終え、ローマを見物したのちにいったんフロムボルクに戻り、ヴァルミアの聖堂参事会に許可を取って1501年に再びイタリアに留学した。今度の留学先はパドヴァ大学であり、ここでコペルニクスは今度は医学を学んだ。この際、コペルニクスは当時医療に必須とされていた占星術も学んでいる。パドヴァでの学生生活は2年間に及び、最終的には1503年にフェラーラ大学でカノン法の博士号を取ったのちにヴァルミアに戻り、再び律修司祭の職に就いて、こののちヴァルミア地方およびその近隣から出ることはなかった[1]。
地動説の完成[編集]
戻ってきた当初コペルニクスは律修司祭ではあったが、ヴァルミア領ではなく叔父付きの補佐となり、リズバルク(リズバルク=ヴァルミニスキ)にある司教宮殿に移り住んだ。ここで聖職者として、また医師として多忙な日々を送るようになったが、一方で余暇を見つけては天体観測を行い、自らの考えをゆっくりとまとめていった。本格的に地動説の着想を得たのは1508年から1510年ごろと推定されており[2]、天動説では周転円により説明されていた天体の逆行運動を、地球との公転速度の差による見かけ上の物であると説明するなどの理論的裏付けを行っていった。またこのころ彼はギリシア語も独習しており、1509年にはギリシア語からラテン語に翻訳した手紙集を出版している。1510年にはコペルニクスは叔父のもとから独立し、再びヴァルミア領の律修司祭に戻り、フロムボルクにて職務に就くようになった。そしてこの年、コペルニクスは同人誌として「コメンタリオルス」(Comentariolus)を出版し、太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。ただしこれは友人の数学者たち数人に送られたものに過ぎず、一般にはほとんど知られていなかった。
司祭として[編集]
1511年には聖堂参事会の尚書に選ばれ、文書管理や金融取引の記録を行った。その後も有能で勤勉な司祭として多くの仕事をする一方、フロムボルクの聖堂付近の塔で天体の観測・研究を続け、新しい理論の創造に向かっていた。ただし、コペルニクスは理論家・数学者としては優れていたものの天体観測の腕は必ずしも良くなかったとされる[3][4]。1512年にはヴァルミアの領主司教だった叔父のルーカス・ヴァッツェンローデが死去している。このころには天文学者内において少しずつ名が知られ始めており、1515年には開催中の第5ラテラン公会議において改暦が議題に上がる中、フォッソンブローネ司教であるミデルブルクのパウルがコペルニクスに意見を求めている。
1516年には聖堂参事会の財産管理を担当するようになった。この仕事の過程で貨幣の質のばらつきとそれによる害に気が付いたコペルニクスは、1517年に執筆した論文で貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを説明するとともに、貨幣の質を安定させ経済を活性化させるために国王が貨幣鋳造を監督し品質を保障することを提案した[5]。この論文は1519年にはラテン語からドイツ語に翻訳され、1522年には王領プロシアの議会にかけられた。コペルニクスは議会の席上でこの理論について説明し、いくつかの提案が採用され実行された。
しかし、このころからヴァルミアを取り囲むように存在するドイツ騎士団国がポーランド王領プロイセン内ヴァルミアに盛んに侵入を繰り返すようになり、1520年にはフロムボルクが攻撃され、大聖堂こそ生き残ったものの町は大打撃を受けた。コペルニクスはヴァルミア南部のオルシュティンへと逃れ、同地の防衛にあたった。1521年にはオルシュティンが攻撃されたものの2月に休戦協定が結ばれ、コペルニクスは再びフロムボルクへと戻った。1523年には司教が死去したため、次の司教が選出されるまでの9か月間、コペルニクスはヴァルミア全体の行政を担当していた。1525年にはドイツ騎士団国の最後の総長アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクがポーランドに臣従し、プロイセン公を称してプロシア公領を創設したため抗争は完全に終結した。
ドイツ騎士団国との抗争は終結したものの、まもなく宗教改革の波がヴァルミアにも押し寄せてきた。1517年にマルティン・ルターが開始した宗教改革は周囲に急速に広がり、1523年には隣接するドイツ騎士団国がルター派に改宗し、ヴァルミア近隣にもルター派寄りの勢力が現れ始めた。コペルニクスはカトリックの立場を堅持したが、友人である司祭ティーデマン・ギーゼとともに、ルター派の禁教には反対の立場だった。1526年にはクラクフ大学時代のブルゼフスキ教授の天文学の講座の同窓の先輩で親友の地図学者ベルナルド・ヴァポフスキ (Bernard Wapowski) がポーランド王国とリトアニア大公国の版図全体の地図を作成した際、コペルニクスはその事業を手伝った[6]
地動説の発表と死[編集]
1529年ごろからコペルニクスは地動説についての論考をまとめ始め、推敲と加筆を繰り返していたが、これを出版するつもりは全くなかった。しかしコペルニクスの考えは友人たちを通じてこのころにはかなり知られるようになっており、1533年には教皇クレメンス7世にこの考えが伝えられている。1535年にはヴァポフスキがコペルニクスの元を訪れ、地動説についての話を聞いている。1536年には枢機卿の一人であるニコラス・シェーンベルクがコペルニクスに賞賛の手紙を送っている。しかし、このころはいまだコペルニクスはこの考えを出版する気持ちを持っていなかった。このころにはヘウムノの司教となっていた親友のギーゼは何度も出版を進めたが、それでもコペルニクスは動かなかった。
1539年、ヴィッテンベルク大学の教授であるゲオルク・レティクスがコペルニクスのもとを訪れ、地動説の話を聞き、感銘を受けて弟子入りを申し込んで、コペルニクスの唯一の弟子となった。レティクスはコペルニクスの理論を急速に吸収するとともに、この理論の出版を強く勧めた。ここに至ってコペルニクスも重い腰を上げ、自らの理論の集大成に取り組み始めた。1540年にはレティクスはグダニスクの出版業者から「最初の報告」を出版させ、コペルニクスの理論の要約を広めるとともに完成版の出版を予告した。コペルニクスとレティクスは理論のチェックを進め、1542年にはコペルニクスの主著となるであろう『天体の回転について』の草稿が完成し、ニュルンベルクの印刷業者であるペトレイウスのもとで印刷された。しかしここでレティクスがライプツィヒ大学の数学教授に招聘されたため、レティクスはルター派の神学者アンドレアス・オジアンダーに校正を依頼した。こうしてこの理論は出版を待つばかりとなったが、1542年11月にコペルニクスは脳卒中で倒れ、半身不随となった。仕上がった校正刷りは、コペルニクスの死の当日に彼のもとに届いたという[7]。1543年5月24日、コペルニクスは70歳でこの世を去った。
コペルニクスの遺物
オルシュティンの聖ヤコブ大聖堂
死後コペルニクスは埋葬されたものの、どこに埋葬されているのかは不明だった。コペルニクスの墓は、各国の学者によって2世紀にわたって捜索が続いていた。こうした中、シュチェチン大学などのチームがコペルニクスの主な任地であったフロムボルクの大聖堂で2004年から発掘を進め、大聖堂の深さ約2メートルの場所から2005年夏、遺骨を発見した。この遺骨は肖像画と頭蓋骨が互いに非常に似ていて、時代と年齢もほぼ一致していたので、遺骨がコペルニクスのものである可能性が高まった。2008年11月、シュチェチン大学とスウェーデンのウプサラ大学との共同で、この遺骨と、ウプサラ大学で4世紀以上も保管されていたコペルニクスのものとされる本に挟まっていた2本の毛髪とのDNA鑑定を行い、両者のDNAの一致によりこの遺骨がコペルニクスのものと最終的に認定された[8]。
著作[編集]
1510年頃 「コメンタリオルス」(Comentariolus、同人誌)
太陽中心説(地動説)をはじめて公にした。
1528年 『貨幣鋳造の方法』(Monetae Cudendae Ratio)
経済学でいうグレシャムの法則を提唱した。
1543年 『天体の回転について』[9][10](De Revolutionibus Orbium Coelestium)
コペルニクスの主著。地動説を元に、実際に星の軌道計算を行った。
地動説[編集]
コペルニクスのもっとも重要な業績は地動説の再発見である。当時はプトレマイオスが2世紀中ごろに大成した天動説が一般的な学説であったが、惑星観測の精度が上がるたびに惑星の運行を説明するための周転円の数が増えていき、非常に複雑なものとなっていた[11]。この複雑さを解消するためにコペルニクスは地球を太陽の周りを回るものと仮定し、その結果従来の天動説よりもずっと簡単に天体の逆行運動などを説明できることを発見した。ただしコペルニクスは惑星は完全な円軌道を描くと考えており、その点については従来の天動説と同様であり単にプトレマイオスの天動説よりも周転円の数を減らしたに過ぎない。実際には惑星は楕円軌道を描いていることは、ヨハネス・ケプラーにより発見された(もっとも天体が円運動を描いているという仮定により、天文学者は天体の逆行運動の説明を迫られたのであり、そういう思い込みが存在しなかったのならそもそも天体運動を探求する動機すら存在しなかったのであり、コペルニクスが円運動にこだわった限界はやむを得なかったとする評がある[12])。
グレシャムの法則[編集]
コペルニクスのもう一つの重要な功績は、貨幣の額面価値と実質価値の間に乖離が生じた場合、実質価値の低い貨幣のほうが流通し、価値の高い方の貨幣は退蔵され流通しなくなる (「悪貨は良貨を駆逐する」) ことを突き止めたことである。これは、当時ドイツ騎士団が粗悪な銀貨を鋳造して大量に流通させていたため、隣接するヴァルミアで経済混乱が起きつつあったことに、教会の財務担当だったコペルニクスが気付いたことにより理論化された[13]。この理論はほぼ半世紀後、1560年に彼とは別に独自にこのことに気付いたイギリス国王財政顧問のトーマス・グレシャムによって知られるようになり、「グレシャムの法則」の名で知られるようになった。
死後の影響[編集]
コペルニクスの死と同時に世に送り出された地動説は、しかし直ちに大きく学界を動かすといったことはなかった。『天体の回転について』は禁書となることもなく各地の天文学者のもとに広く知られるようになっていったが、だからと言ってこの理論が正しいと考える者もあまりいなかった。コペルニクスの観測記録は精度が悪く、それを基にした地動説も天動説と比べてそれほど精度に差があるものではなかったためである。1551年にはエラスムス・ラインホルトが『天体の回転について』に基づいて『プロイセン表』を作成したが、これも従来の星表の精度から大きく離れるものではなかった。この状況が大きく変わるのは、1619年にヨハネス・ケプラーが惑星は楕円軌道を描いているというケプラーの法則を発見し、これによって地動説を補強するデータが大幅に精度を上げて以降のことである。1627年にはケプラーが地動説に基づいて『ルドルフ表』を完成させ、これによって地動説は天動説に対し完全に優位に立った。そしてアイザック・ニュートンが1687年に『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)の中で万有引力の法則を発表し、これによって地動説は完全なものとなった。
コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、最終的にはコペルニクスの説は世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者イマヌエル・カントが「コペルニクス的転回」という言葉を作り、やがてこの言葉がパラダイム転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。
『天体の回転について』とローマ教皇庁[編集]
1616年、ガリレオ・ガリレイに対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『天体の回転について』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『聖書』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。) ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。
アメリカ合衆国の科学関連のゴンゾー・ジャーナリズム雑誌OMNIの創設者の一人であるアマチュア科学研究者ディック・テレシによると、このアイデアはアラビア自然学からの剽窃であり、また近代社会における西欧の興隆にともない、西洋中心主義および白人中心主義史観によって、非西欧文明圏の影響を故意に見落としてきたことがあるとしている[14]。
ナチス政権下での国籍論争[編集]
ヤン・マテイコによるコペルニクスの肖像『コペルニクス: 神との対話』
ドイツでナチスが勢力を誇っていた時代は、彼がポーランド人かドイツ人かが大きな論争の的となった(コペルニクスの国籍論争)が、現在は「多民族国家ポーランド王国の国民(すなわち国籍はポーランド人)であり、クラクフの大学を出るなどポーランドの教育を受けた、この地方のドイツ語の方言を母語とする家系(民族はドイツ人)出身の人物」、すなわち「ドイツ系ポーランド人」ということで落ち着いている。
元素名[編集]
超アクチノイド元素のひとつ、原子番号112の元素はコペルニクスにちなんで "copernicium"(コペルニシウム)と命名された。この新元素名 "copercinium" は2009年に発見者であるドイツの重イオン研究所 (GSI) により提案された。その後 2010年の2月19日、コペルニクスの誕生日に合わせて IUPAC(国際純正・応用化学連合)から正式名として発表された[15]。その発表文の中では、コペルニクスが考えた太陽系のモデルが、ニールス・ボーアによる原子モデルに通じると述べられている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9
再生核研究所声明290(2016.03.01) 神の隠し事、神の意地悪、人類の知能の程
オイラーの公式 e^{pi i}= -1 は最も基本的な数、-1, pi, i, eの4つの数の間の簡潔な関係を確立させているとして、数学とは何かを論じて、神秘的な公式として、その様を詳しく論じた(No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf Traduzir esta página
19/03/2012 -ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。)。
余りにも深い公式なので、神の人類に対する意地悪かと表現して、神は恥ずかしがり屋で、人類があまりに神に近づくのを嫌がっているのではないかと発想した。
ここ2年間、ゼロ除算を発見して、ゼロ除算の実在性は確信できたが、ゼロ除算の神秘的な歴史(再生核研究所声明287(2016.02.13)神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算)とともに、誠に神秘的な性質があるので その神秘性に触れたい。同時に これを未解決の問題として世に提起したい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えるであるが、アリストテレス以来問題とされ、ゼロの記録がインドで初めて628年になされているが、既にそのとき、正解1/0が期待されていたと言う。しかし、理論づけられず、その後1300年を超えて、不可能である、あるいは無限、無限大、無限遠点とされてきたものである。天才オイラーの無限であることの証明とその誤りを論じた論文があるが、アーベル、リーマンと継承されて現在に至る。他方極めて面白いのは、アリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインで問題にされ、下記の貴重な言葉が残されている:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
現在、ゼロ除算の興味、関心は 相対性の理論との関係と、ゼロ除算が計算機障害を起すことから、論理の見直しと数体系の見直しの観点にある。さらに、数学界の難問、リーマン予想に関係していると言う。
ゼロ除算の神秘的な歴史は、早期の段階で ゼロ除算、割り算が乗法の逆で、不可能であるとの烙印を押され、確定的に、 数学的に定まった と 人は信じてしまったことにあると考えられる。さらに、それを天才達が一様に保証してきたことにある。誠に重い歴史である。
第2の要素も、極めて大事である。アリストテレス以来、連続性で世界を考える が世界を支配してきた基本的な考え方である。関数y=1/x の原点での値を考えるとき、正方向、あるいは 負方向からゼロに近づけば、正の無限や負の無限に近づくのをみて、ゼロ除算とは無限の何か、無限遠と考えるのは極めて自然で、誰もがそのように考えるだろう。
ところが、結果はゼロであるというのであるから、驚嘆して、多くの人は それは何だと顔さえしかめたものである。しばらく、話さえできない状況が国際的にも一部の友人たちの間でも1年を超えても続いた。 そこで、最近、次のような文書を公表した:
ゼロ除算についての謎 ― 神の意思は?:
ゼロ除算は数学的な真実で、我々の数学の基本的な結果です。ところが未だ、謎めいた現象があり、ゼロ除算の何か隠れた性質が有るように感じます。それはギリシャ、アリストテレスの世界観、世の連続性を否定し、強力な不連続性を表しています。強力な不連続性は普遍的に沢山あることが分かりましたが、肝心な次の等角写像での不連続性が分かりません:複素関数
W = z+ 1/z
は 単位円の外と内を [-2,+2] を除いた全複素平面上に一対一上へ等角に写します。単位円は[-2,+2]を往復するようにちょうど写ります。単位円が少しずれると飛行機の翼の断面のような形に写るので、航空力学での基本関数です。問題は、原点が所謂無限遠点に写っているということです。ところがゼロ除算では、無限遠点は空間の想像上の点としては考えられても、数値では存在せず、数値としては、その代わりに原点ゼロで、それで原点に写っていることになります。それで強力な不連続性を起こしている。
神が、そのように写像を定めたというのですが、何か上手い解釈が有るでしょうか?
神の意思が知りたい。
2016.2.27.16:46
既に 数学における強力な不連続性は 沢山発見され、新しい世界観として定着しつつあるが、一般の解析関数の孤立特異点での確定値がどのような意味があり、なぜそのような不連続性が存在するのかは、神の意思に関わることで、神秘的な問題ではないだろうか。 神秘の世界があることを指摘して置きたい。
以 上
再生核研究所声明287(2016.02.12) 神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算
(最近 相当 ゼロ除算について幅広く歴史、状況について調べている。)
ゼロ除算とは ゼロで割ることを考えることである。ゼロがインドで628年に記録され、現代数学の四則演算ができていたが、そのとき、既にゼロで割ることか考えられていた。しかしながら、その後1300年を超えてずっと我々の研究成果以外解決には至っていないと言える。実に面白いのは、628年の時に、ゼロ除算は正解と判断される結果1/0=0が期待されていたということである。さらに、詳しく歴史を調べているC.B. Boyer氏の視点では、ゼロ除算を最初に考えたのはアリストテレスであると判断され、アリストテレスは ゼロ除算は不可能であると判断していたという。― 真空で比を考えること、ゼロで割ることはできない。アリストテレスの世界観は 2000年を超えて現代にも及び、我々の得たゼロ除算はアリストテレスの 世界は連続である に反しているので受け入れられないと 複数の数学者が言明されたり、情感でゼロ除算は受け入れられないという人は結構多い。
数学界では,オイラーが積極的に1/0 は無限であるという論文を書き、その誤りを論じた論文がある。アーベルも記号として、それを無限と表し、リーマンもその流れで無限遠点の概念を持ち、リーマン球面を考えている。これらの思想は現代でも踏襲され、超古典アルフォースの複素解析の本にもしっかりと受け継がれている。現代数学の世界の常識である。これらが畏れ多い天才たちの足跡である。こうなると、ゼロ除算は数学的に確定し、何びとと雖も疑うことのない、数学的真実であると考えるのは至極当然である。― ゼロ除算はそのような重い歴史で、数学界では見捨てられていた問題であると言える。
しかしながら、現在に至るも ゼロ除算は広い世界で話題になっている。 まず、顕著な研究者たちの議論を紹介したい:
論理、計算機科学、代数的な体の構造の問題(J. A. Bergstra, Y. Hirshfeld and J. V. Tucker)、
特殊相対性の理論とゼロ除算の関係(J. P. Barukcic and I. Barukcic)、
計算器がゼロ除算に会うと実害が起きることから、ゼロ除算回避の視点から、ゼロ除算の研究(T. S. Reis and James A.D.W. Anderson)。
またフランスでも、奇怪な抽象的な世界を建設している人たちがいるが、個人レベルでもいろいろ奇怪な議論をしている人があとを立たない。また、数学界の難問リーマン予想に関係しているという。
直接議論を行っているところであるが、ゼロ除算で大きな広い話題は 特殊相対性理論、一般相対性理論の関係である。実際、物理とゼロ除算の関係はアリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインの中心的な課題で、それはアインシュタインの次の意味深長な言葉で表現される:
Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
数学では不可能である、あるいは無限遠点と確定していた数学、それでも話題が尽きなかったゼロ除算、それが予想外の偶然性から、思いがけない結果、ゼロ除算は一般化された除算,分数の意味で、何時でも唯一つに定まり、解は何時でもゼロであるという、美しい結果が発見された。いろいろ具体的な例を上げて、我々の世界に直接関係する数学で、結果は確定的であるとして、世界の公認を要請している:
再生核研究所声明280(2016.01.29) ゼロ除算の公認、認知を求める
Announcement 282: The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday
詳しい解説も次で行っている:
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える(18)
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
以 上
何故ゼロ除算が不可能であったか理由
1 割り算を掛け算の逆と考えた事
2 極限で考えようとした事
3 教科書やあらゆる文献が、不可能であると書いてあるので、みんなそう思った。
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