太陽がどうやって死ぬのか、おさらいしましょ。
sorae.jp 3月10日(木)18時44分配信
太陽がどうやって死ぬのか、おさらいしましょ。
太陽の最期を、他の恒星から予測する
私たちの頭上でいつも輝いている「太陽」。3月9日には日本でも部分日食が観測されるなど、普段意識していなくても大事な恒星であることに変わりはありません。そして、その太陽は約50億年後に寿命が尽きると予測されています。それでは、どのような形で太陽の寿命が尽きるのでしょうか?
それを知るのに、ちょうどいい画像がハッブル宇宙望遠鏡によって撮影されました。上の画像は、はくちょう座にある惑星状星雲の「Kohoutek 4-55」。太陽とほぼ同一の質量をもつこの恒星は、まさに今寿命を迎えようとしています。
ちなみに、上の美しい赤やエメラルドグリーンの部分は恒星本体ではありません。これは超新星にならなかった恒星が赤色巨星となり放出したガスが、恒星の紫外線によって照らしだされたものです。惑星状星雲の色や形は恒星によってことなり、Hen 2-437のようにローブが双極に放たれる美しい「双極性星雲」を形作ることもあります。なお、赤は窒素ガス、グリーンは水素ガス、青は酸素を示しています。
今後、太陽は中心核の水素を使い果たした後に膨張し、水星や金星を飲みこむとされています。その後一度縮小し、再度現在の地球の軌道付近まで膨張します。その際に地球が飲み込まれるのかどうかは、太陽質量の減少による地球の公転軌道の拡大もありうるのでなんともいえません。
もちろん私たちは誰も太陽や地球の最期を見送ることはできないのですが、その頃には人類は他の天文へと活動の場を広げているのでしょうか? 私たちが生きているうちに有人の火星探査が行われる予定なことを考えると、さもありなん、といったところでしょうか。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160310-00010004-sorae_jp-sctch
再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得
8歳の少年から、巨大素数の構造に興味があると聞いたときには驚かされた。生まれながらの感性と言えるものも確かにあるように感じられる。思えば、子どもの頃 星空を見るのが好きで、宇宙の営みの壮大さと人間の生涯の儚さを知って、そもそも人生の意義とは何だろうかという疑問を懐いたが そのころから永い歳月が夢のように過ぎた。気づいてみれば、何の変化も、進歩というほどのこともなく、在るように感じられる。しかしながら、結局,人生とはどのようでも結局は同じようなものであるという心境にいたれば、 それはそれで相当に良い状況であると言える。それは生まれたからには、人生を肯定したいという 誰しも懐くであろう心境だからである。
宗教関係者は あるいは宗教や信仰に興味を懐く人は、いろいろ心の準備や人間の在り様の心構えを,あるいはそのための修行の必要性を感じるかも知れない。しかし 結局はみな同じようではないだろうか。心の在りようには個性があって それぞれに 自分に合ったように考えるのが良いのではないだろうか。
そこで、内省の状況について 心の持ちようについての最近の心境を表現してみたい。
まずは、神の概念を想起したい。人間はなにものかによって作られたものであり、人間は生まれる前も、終末の後も、気づいてみれば、生きている現在ですら、定かには分からず、ただ本能に従って生かされているだけである。生きているだけである。それはちょうど母親の懐にあって、ぼんやり生きているような存在である。真智への愛と言っても、求道と言っても 食欲などと本質的に変わらないと言える。そこでは 人間も、動物も、植物も、草木や花も みな同じような存在にみえる。それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流さられるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。それゆえに われわれは良くは分からないが 大いなるものに愛されていると感じられる者は まこと幸せではないだろうか。心から祈り、祈れるものは幸せであるといえる。そのような意味で、古代人は幸せな存在であったともいえる。大自然とともに在ったからである。― 無明であるだけ、それだけ幸せな面が、明暗のようにあるように感じられる。
深い確信にいたらずとも、そもそも人類、地球といっても 所詮小さな 儚い存在であり、この世で拘るようなものは 何もない事実を、真実をしっかりと見つめれば、大きな自由を得て、安らかな終末を迎えられるのではないだろうか。そのとき、人生を、希なる機会として、肯定できるだろう。
そのような心境では、世界は より良く見えて、世の美しさと 人類の愚かさを実感できるのではないだろうか? 愚かな人類の世界史を恥ずかしく想起したい。
以 上
再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴
(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。
以 上
sorae.jp 3月10日(木)18時44分配信
太陽がどうやって死ぬのか、おさらいしましょ。
太陽の最期を、他の恒星から予測する
私たちの頭上でいつも輝いている「太陽」。3月9日には日本でも部分日食が観測されるなど、普段意識していなくても大事な恒星であることに変わりはありません。そして、その太陽は約50億年後に寿命が尽きると予測されています。それでは、どのような形で太陽の寿命が尽きるのでしょうか?
それを知るのに、ちょうどいい画像がハッブル宇宙望遠鏡によって撮影されました。上の画像は、はくちょう座にある惑星状星雲の「Kohoutek 4-55」。太陽とほぼ同一の質量をもつこの恒星は、まさに今寿命を迎えようとしています。
ちなみに、上の美しい赤やエメラルドグリーンの部分は恒星本体ではありません。これは超新星にならなかった恒星が赤色巨星となり放出したガスが、恒星の紫外線によって照らしだされたものです。惑星状星雲の色や形は恒星によってことなり、Hen 2-437のようにローブが双極に放たれる美しい「双極性星雲」を形作ることもあります。なお、赤は窒素ガス、グリーンは水素ガス、青は酸素を示しています。
今後、太陽は中心核の水素を使い果たした後に膨張し、水星や金星を飲みこむとされています。その後一度縮小し、再度現在の地球の軌道付近まで膨張します。その際に地球が飲み込まれるのかどうかは、太陽質量の減少による地球の公転軌道の拡大もありうるのでなんともいえません。
もちろん私たちは誰も太陽や地球の最期を見送ることはできないのですが、その頃には人類は他の天文へと活動の場を広げているのでしょうか? 私たちが生きているうちに有人の火星探査が行われる予定なことを考えると、さもありなん、といったところでしょうか。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160310-00010004-sorae_jp-sctch
再生核研究所声明289(2016.02.26) 終末の心得
8歳の少年から、巨大素数の構造に興味があると聞いたときには驚かされた。生まれながらの感性と言えるものも確かにあるように感じられる。思えば、子どもの頃 星空を見るのが好きで、宇宙の営みの壮大さと人間の生涯の儚さを知って、そもそも人生の意義とは何だろうかという疑問を懐いたが そのころから永い歳月が夢のように過ぎた。気づいてみれば、何の変化も、進歩というほどのこともなく、在るように感じられる。しかしながら、結局,人生とはどのようでも結局は同じようなものであるという心境にいたれば、 それはそれで相当に良い状況であると言える。それは生まれたからには、人生を肯定したいという 誰しも懐くであろう心境だからである。
宗教関係者は あるいは宗教や信仰に興味を懐く人は、いろいろ心の準備や人間の在り様の心構えを,あるいはそのための修行の必要性を感じるかも知れない。しかし 結局はみな同じようではないだろうか。心の在りようには個性があって それぞれに 自分に合ったように考えるのが良いのではないだろうか。
そこで、内省の状況について 心の持ちようについての最近の心境を表現してみたい。
まずは、神の概念を想起したい。人間はなにものかによって作られたものであり、人間は生まれる前も、終末の後も、気づいてみれば、生きている現在ですら、定かには分からず、ただ本能に従って生かされているだけである。生きているだけである。それはちょうど母親の懐にあって、ぼんやり生きているような存在である。真智への愛と言っても、求道と言っても 食欲などと本質的に変わらないと言える。そこでは 人間も、動物も、植物も、草木や花も みな同じような存在にみえる。それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流さられるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。それゆえに われわれは良くは分からないが 大いなるものに愛されていると感じられる者は まこと幸せではないだろうか。心から祈り、祈れるものは幸せであるといえる。そのような意味で、古代人は幸せな存在であったともいえる。大自然とともに在ったからである。― 無明であるだけ、それだけ幸せな面が、明暗のようにあるように感じられる。
深い確信にいたらずとも、そもそも人類、地球といっても 所詮小さな 儚い存在であり、この世で拘るようなものは 何もない事実を、真実をしっかりと見つめれば、大きな自由を得て、安らかな終末を迎えられるのではないだろうか。そのとき、人生を、希なる機会として、肯定できるだろう。
そのような心境では、世界は より良く見えて、世の美しさと 人類の愚かさを実感できるのではないだろうか? 愚かな人類の世界史を恥ずかしく想起したい。
以 上
再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴
(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。
以 上
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