「難民受け入れは積極的平和主義の一部」 緒方貞子氏
大島隆、今村優莉2015年9月24日08時13分
緒方貞子・元国連難民高等弁務官は朝日新聞の取材に応じ、「難民の受け入れくらいは積極性を見いださなければ、積極的平和主義というものがあるとは思えない」と話し、難民受け入れに慎重な日本政府の姿勢を改めるべきだと訴えた。
日本の難民認定、5千人中11人 条約を厳格解釈し審査
難民 世界と私たち
日本では昨年、5千人が難民申請をしたが、昨年以前に申請されたものを含めて、昨年1年間に認定したのは11人だった。
1991年から00年まで国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップとして世界の難民問題に対処した緒方氏は「当時から日本に難民を受け入れてもらうのに苦労した。変わっていないのは情けない話だ」と指摘。「難民の受け入れは積極的平和主義の一部だ。開発援助も、底辺に届くようなものをどれだけやるかだ」と話した。
シリアなどからの難民については欧州だけでなく米国なども受け入れを表明している。これまで日本で難民申請をした約60人のシリア人のうち、日本政府が難民と認定したのが3人にとどまっていることについて「シリア情勢に対する日本の無知ではないか」と批判した。「日本を目指して逃げてくる人は少ない」としながらも、日本に着いた人びとについては、難民としての保護を検討すべきだとの考えを示した。(大島隆、今村優莉)
■島国根性でやっていけるのか
――日本の難民受け入れをどう考えていますか。
「物足りない、の一言です。特に人道的なこういう事件(シリアなどからの大量難民)が起こったときに『まだか』という感じですよね。日本は、非常に安全管理がやかましいから。リスクなしに良いことなんてできませんよ」
「簡単に言えば、難民受け入れがものすごく厳しいですよ。私が(難民高等弁務官だったのが)2000年までで、今、15年でしょう。変わっていないみたいですよ、残念ながら」http://www.asahi.com/articles/ASH9P2VWLH9PUHBI00H.html
国情というのも考える必要があるのでは・・・・
ゴチャゴチャにすればいいと言うものでは・・・・ないのでは
再生核研究所声明 11 (2007/09/14): 国の構成について
まず 国家の意味について、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用しておこう http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%AE%B6:
法学・政治学においては、以下の「国家の三要素」を持つものを「国家」とする。これは、ドイツの法学者・国家学者であるゲオルク・イェリネックの学説に基づくものであるが、今日では、一般に国際法上の「国家」の承認要件として認められている。国家の三要素:
領域(Staatsgebiet:領土、領海、領空)- 一定に区画されている。
人民(Staatsvolk:国民、住民)- 恒久的に属し、一時の好悪で脱したり復したりはしない。
権力(Staatsgewalt)ないし主権 - 正統な物理的実力のことである。この実力は、対外的・対内的に排他的に行使できなければ、つまり、主権的で(souverän)なければならない。
このモデルにおいては、国家とは、権力が領域と人民を内外の干渉を許さず統治する存在であると捉えられているのである。領域に対する権力を領土高権(Gebietshoheit)、人民に対する権力を対人高権(Personalhoheit)という。国際法上、これらの三要素を有するものは国家として認められるが、満たさないものは国家として認められない。この場合、認めるか認めないかを実際に判断するのは他の国家なので、他国からの承認を第四の要素に挙げる場合もある。
声明10において、絶対的な世界の平和が実現したとき、いわば世界が全体として1つの国のような存在になるから、そのときには国の構成はそれほど重要な意味を為さない時代を迎えることになる。そのときの国とは、その構成員たる人民の自由な意志によって、国が構成され、如何なる国といえども、その力によって強制されるべきではなく、また強制すべきではない。これを保証することは地球防衛軍の基本的な任務であり、目的である。すなわち国家とは、全ての人民のために存在するのであって、如何なる人民も犠牲にしたり、強制したりしてはならないのであって、人民は国家に対して不満を有するときには自由に望む国家を構成できるものと考えよう。歴史上武力によって成し遂げられた所謂独立戦争は、平和な民主的な自由な意志によって、今後は自由に独立を認めていくべきである。国際機関が このように自由な国家を構成する権利を 全ての人間に基本的な人権として生存権ともに保障することを求めます。みなさん、これは決して難しいことではなくて、世界全体が日本国のようになり、国々が日本国の都道府県のようになればよいのです。このような世界を実現させ、暴力のない世界をつくり、世界の愚かな軍事費を 美しい世界の営みにまわそうではありませんか。
以 上
再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと
世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。
国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。
特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。
この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。
再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙
(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)
猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。
何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:
再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること
言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上
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