2015年9月9日水曜日

記事 豊田長康2015年09月09日 08:21これはやばすぎる:日本の工学系論文数はすでに人口5千万の韓国に追い越されていた!!

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豊田長康2015年09月09日 08:21これはやばすぎる:日本の工学系論文数はすでに人口5千万の韓国に追い越されていた!!


更新がままならず、僕のブログは科学技術の「選択と集中」についての考察の最中でピタッと止まってしまっているのですが、この事実はやはり日本国民の皆さんに知っておいていただかいといけないと思い、キーボードに向かいました。この5月に国立大学協会に提出した報告書では、日本の学術論文数が惨憺たる状況になりつつあり(人口当り論文数の国際ランキングは35位以下)、その最大の要因は、大学の研究従事者数および研究時間が海外諸国に比べて少なく、かつ減少していること、そして、財務的には大学への基盤的な公的研究資金(特に国立大学への基盤的運営費交付金)の減少の影響が大きいことを示しました。
僕の国大協への報告書は、8月24日のJBpressの記事「研究力が低迷、日本の大学がこのままではダメになる」でも取り上げられ、そこでは「豊田レポート」と名付けられています。
「豊田レポート」では、学術分野別の論文数について、特に「工学系」の論文数が著しく減少していることをお示ししました。国際競争力が強く、今までがんばってきた分野ほど落ち込みが激しい。
工学系の中でも「物質科学(matearials science)は、日本のお家芸的分野であったと思うのですが、その論文数が急速に減少し、そして、実は、人口5千万の韓国にすでに追い抜かれていたのです。2002年ころはアメリカと肩を並べて世界1,2を争っていましたが、その後急速に論文数が減少、韓国とインドに追い抜かれて、国別では第5位になってしまいました。
それでも論文の「質」や「注目度」が上がれば、まだ救いがあるのですが、論文の被引用数(注目度の指標)の相対的な多さを示す「相対インパクト」でも、世界平均の「1」に至らず、韓国よりも低い値なのです。つまり、人口5千万の韓国の方が、論文の「数」においても「質」においても、人口が約2.5倍の日本よりも上回っている。

それでは「物質科学(matearials science)」以外の分野ではどうでしょうか?トムソン・ロイターの「Essenntial Science Indicators」22分野別に、主要14カ国の2012-2014年3年間の平均論文数のランキングを調べてみました。韓国が最近急速に国際順位を上げた分野として「物質科学(matearials science)」(世界3位)、「エンジニアリング(engineering)」(世界4位)、「コンピュータ科学(computer science)」(世界4位)の3つがあり、いずれも日本を上回っています。
また、「経済・経営学」および「社会科学」でも、日本を上回っています。
「エンジニアリング」と「コンピュータ科学」の論文数のグラフも以下に掲げておきます。
「コンピュータ科学」の論文数の推移については注意が必要です。2002~2006年の論文数については、その前後の論文数に比較して急峻な「山」があります。これは、おそらく、データベース管理者であるトムソン・ロイター側の、学術誌の取捨選択やキーワード検索の定義の変更などによる、人為的な原因によるものと考えられます。2007年以降のデータ(グラフでは2008年以降のデータ)を読んでいただければいいと思います。
「コンピュータ科学」の論文数は、日本は人口5千万の韓国どころか、人口2千300万の台湾にも負けているのです。
最後に、過去のブログでもお示ししてありますが、「物理学」および「全分野」の論文数のグラフも再度あげておきます。 「物理学」や「全分野」では、まだ、日本の方が上回っているとは言っても、人口当り論文数を計算すれば、韓国の方が上回っていることを考えなければいけません。人口当り論文数で、日本が明確に韓国を上回っているのは、「地学」と「宇宙科学」、ほぼ同じ程度なのが「植物・動物学」と「神経学」であり、あとは、すべて韓国の方が上回っているのです。
資源の少ない韓国は、教育研究に国の資源を投入し、研究分野では、特に「工学系」、その中でも、イノベーションやGDPに直結しうる分野に「選択と集中」したことが読み取れます。そして、人口が2.5倍の日本を凌駕しました。
今まで、ややもすると日本企業は韓国企業に技術を取られたために負けたというような言われ方がされてきましたが、韓国は、研究の基盤力においても量的・質的にすでに日本を上回っており、日本が負けるのも当然と思われます。そして、今後、工学系の研究基盤力を高めない限り、日本が韓国に追いつくことは不可能であると思われます。
また、最近インドの論文数ランキングが急速に上がっていることも注目されます。インドは、中国と同じように人口が多いので、論文数が増えるのも当たりまえといえば当たりまえなのですが、いよいよ世界のイノベーション競争に参入してきたということであり、日本の競争相手が増えたことになります。
それにしても、日本の工学系論文数の急激な減少、つまり工学研究の基盤力の劣化は、尋常のカーブではありません。人口当りにすれば貧弱な日本の大学の研究規模をいっそう縮小するという、今の政府の科学技術政策がこのまま続けば、日本は早晩先進国から脱落し、二度と這い上がれないことが目に見えます。
これ、すっごくやばくないですか?
http://blogos.com/article/132845/

再生核研究所声明167(2014.6.21)大学などで アカデミックなポストを得る心得

(本声明は あるポスドクの方の パーマネントポストに就く心得を纏めて欲しい との要望によるものである。安定した職に就きたいは 一 若い研究者の切実な願望ではないだろうか)

上記の観点で、また、安定した収入を得る心得、方法を纏めて欲しいとの要望も寄せられているが、研究者などは 大学などに きちんとした職を得ることが、生活を安定させる基本である。 一応、常勤職につけば 生涯生活は保証されるとして、極めて重要な人生の観点である。
これは人事権を有する、関与する人々、多くは関係教授の判断に左右されるが、一般的な観点と意外な観点も有るので、経験してきた、人事を顧みながら、触れてみたい。
まず、 アカデミックポストには、多くは 採用したい希望が述べられた、公募要項が有るのが普通である。 最近の人事では、多数の応募が有るから、それらの基準に達していることは、相当に必要であり、それらの基準に達しない場合には、相当に厳しいのではないだろうか。少なくても公募を公正に行なえば、厳しいと言える。多くの機関では、基準として、博士号を有すること、出版論文数など いろいろな基準が内規で定められている場合が多い、その時は、それらに達していることが 書類選考の段階でも 必要条件になってしまう。逆にみれば、そのような基準を軽く越えているように、整えて置くのは、研究者の処世の第1歩といえる。
しかし、社会も 大学もそう公正にいくものでは無く、担当者によっては、仲間を優遇したり、特別なコネが 公募精神の公正さを越えて、担当者の都合で、自分の都合で人事を行うことは結構多い。これには、研究課題が細分化し、高度化し 特別な仲間でしか、通じず、通じる仲間をとらざるを得ない状況を反映させていると言える。もっと進めれば、実権ある教授が、共同研究できる人物を、自分に寄与できる人物を探すような実状さえ 多く有するだろう。これは、公のポストでさえ、公正の原則に反するとは言えない。教授は研究を推進する大きな義務を負う者、共同研究者を探すのは大事である という観点が有るからである。 しかしながら、これも行き過ぎると、組織が専門的に偏りの人事構成に成るなど、弊害が出て来る面もある。組織や研究機関の理念に反して、機関において異質の人事構成になることは 結構多い。- 職を探す者は、そのような特殊性が有る場合には、公募要項を越えて、応募する機会があると考えるべきである。さらに進めれば、私をとれば、組織は、あなたは、このような利益を得ることができると、具体的に暗示することは、書類の作成段階でも良いのではないだろうか。
そのような面では、研究課題で、採用する者が決まる、強い要素がある。採用する側の研究課題と採用される者の研究課題の相性の問題である。研究組織は、抜群の業績と才能を有する者でなければ、研究組織内で 研究交流できない研究者を採用することは、 組織の拡大、カリキュラムの大きな変更など 余程のことが無い限り、ないのではないだろうか。このような観点からも、研究課題を、あまりにも狭い範囲に限定しないで、研究課題でも対話が広い分野で成り立つように 広げて置くのは良いことではないだろうか?
人事は採用する側にとっても極めて重要であるから、採用に責任ある者は、採用する者の人物評価を真剣に行うだろう。採用する人物の周辺についてもいろいろ意見を求め、人物についての良い定評があれば 人事を進める場合に極めて有効で、書類選考などでも大いに効果が出るだろう。これは国際会議や、研究発表場面などで 研究内容と人物評価を何時もされていると心得るべきである。そのような場面で、採用責任者の好感が定着されていれば、人事に相当に有効であろう。単に書類や文献で知る人物と、面識が有って、人物と研究課題で評価されている人物とでは 大きな評価の差が出て来ると考えられるから、研究交流は 大事な機会と捉えるべきである。その時、配偶者も交えて、良い評価が得られれば、強い印象を与えると言う意味で、さらに良い効果を生むだろう。採用責任者は 人物の背後状況にさえ、大いに気を回すだろう。人事は、いわゆる書類に現れた評価を越えて、人物評価、全人格が大きな評価の基準になると考えられる。― ここで、優秀過ぎる人材は、自分の存在を脅かす観点から、敬遠される要素もあると言う、適当な謙虚さは必要かも知れない。
コネや人脈などは 大いに大事にすべきであり、研究仲間を広げ 大きな機会の場を作るように研究活動、日常生活で心がけるべきである。相当な人事は そのような人脈、研究仲間を通して行われるのは 公募、公募、公正、機会均等と言っても、そう簡単には行かないのが 現実ではないだろうか。また、博士課程における指導教授の影響は、永く相当に強いのではないだろうか。

以 上

再生核研究所声明187(2014.12.8)工科系における数学教育について

30余年 工科系で数学の教育に携わって来た者として、それらを回想して今後同じような経験をされる人たちの参考になるように省察して置きたい。
まず、工科系における数学教育の目標を抑えて置こう:
1) 工科系全般における表現の立場から、数学上の述語、概念、記号などは工科系を表現する言語として必要であるから、関係数学の習得は必要である。典型的な概念として、微積分の概念、行列の概念、微分方程式、ベクトル解析(勾配、回転、発散)、解析関数の概念などは必須の概念と考えられよう。
2) 計算機の普及、応用を待つまでもなく、論理の学習; 論理的に考え、推論して纏め、表現できるような精神の涵養に 数学教育の重要性があると考えられる。
3)高級に表現すれば、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については次を参照:

No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 -ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

簡潔に述べれば、数学は 時間にも、エネルギーにもよらずに存在する神秘的な 関係の論理体系であるが、ユニバースは 数学を言語として構成されている という、信仰のような信念を抱いている。基本的な数学は ユニバースの基本的な様を表現しているのではないだろうか。すなわち、真理を追求する真摯な精神の涵養である。

それゆえに、工科系における数学教育の必要性は明らかである、それで、その明確な動機のもとで、数学教育に携われる工科系に属する数学の教師は、誠に充実感のする 社会的な使命を果たせる幸せな存在である。
担当の基本は、線形代数、微積分学、微分方程式、ベクトル解析、複素解析であろうが、それらは、理工科系の基本カリキュラムで、それらは、重要な概念を有していると考えられる。教える立場でも、ここをきちんと教えたいという、項目が多々存在する、楽しい数学である。
工科系で、生じる問題の基本は、工学 各学科の、期待、要請と 数学の専門家の担当する講義の仕方、カリキュラム内容との乖離で、しばしば問題が顕になる。上記、工科系における数学教育の目標について 科の先生方の反対意見は出ないと思われるが、近年、学生の基礎学力の大きな落ち込みの中で、科で直接必要、必須の言わば 1)の基本が疎かになり、科の教育に大きな障害が起きて、1)の強化、補充を数学教室に求めたり、科自身で補充の授業を準備する事態さえ招いている。数学教室で、科の要求する数学の内容を聞くと、相当に高級な現代的な数学の内容が広範に出てきて、対応できないような状況は よく見られる。体系的に見れば ちぐはぐ、また科の教員でも要求がバラバラな感じさえ受ける。もしそれらの要求を満たすようにするならば、辞書の項目の解説調になってしまい、数学者の好みである2)、3)項の要素が失われて、講義に熱が入らない気持ちになるのではないだろうか。― この観点が工科系における数学教育における問題の中心であると考えられる。
数学の教師の立場から見れば、自分の専門の研究に集中しすぎで、視野が狭く、工科系全般にわたる素養の貧しさを招き、しばしば独善的な講義スタイルになる傾向があるので、気をつけたい.

学科への対応の精神は、数学に分け与えられる時間数が極めて限られていて、しかも、要求される内容の豊富さを考えれば、講義内容を精選して、基礎の基礎、基本の基本をきちんと学習させ、多くの内容については、学生が必要に応じて、自分で学習できるようなるように教授するのが良いのではないだろうか。それには、まず、数学が楽しい、大いに有効であると 学生が感じられるような、そのような講義が望まれる。講義は全人格をかけた、交流の場であり、真理を追求する研究者の尊い姿が 学生への愛とともに 反映されるものでなくてはならない。学生による評価の問題で、教師が講義の有り様などいろいろ気遣い、板書やPDファイルなどの作成など講義の技術面などに関心が移っているような世相があるが、それらの営みの空虚さを指摘したい。そうではなくて、学生は、教師の学問に取り組む姿勢や、人生や社会に取り組む姿勢、全人格をみて教師を評価していることが分かるだろう。技術面のことよりは、研究者として、人間としての精進が肝要ではないだろうか。
人生とは何か、生きるということは どのようなことか、そのような問を忘れて久しいように感じられる世相ではないだろうか。学生は、いろいろな情報、勉学、就職関係の将来構想などなどで時間に追われ、教員も研究、教育に専念できず、さらに教育、研究の環境を悪化させる要務で忙しすぎて、何事じっくり取り組み、考察を深めるような貴重な時間を失っているように見える。学生時代には全人生を思考できるように 学生に自由を保証する精神が 大学教育の基本な配慮でなければならないと考える。― 学生時代は良かった、良い環境で、たっぷり自由な時間がとれた。
インターネットの普及で、いわゆる知識、単なる情報は、簡単にどこでも利用できる時代の到来は、カリキュラム、教育内容の精選と講義の有り様の変革をもたらし、自由の保証に明るい展望をもたらすのではないだろうか。その骨格として、講義、教育時間の縮小、休暇の増大、そのために一般教職員の大学の年間、1ヶ月間閉鎖、学生の休暇2ヶ月間を考えるのは良い出発点ではないだろうか。これらは既に、欧米の大学では相当に確立していて習慣になっていることも大いに参考にすべきではないだろうか。― 5年間ポルトガルのアヴェイロ大学で研究員として過ごしたが、何と8月は 大学の暦に 無かった。完全休暇である。土、日の休暇は当然で、水曜日は講義が無く、水曜日と金曜日は 昔の日本の土曜日のような調子で、金曜日午後には 多くの学生が、帰省するような情景であった。年中仕事に追われている 異常な日本の大学の有り様を見るにつけて、我々は大いに学び、大学の有り様を変革すべきだと考える。
そのような大幅な自由の下で、自主学習する風潮と日本のように 相当に学力などを気にして、詰み込み式授業の風潮のどちらが、長期的に見て優れているか、考えてみる必要があるのではないだろうか。ただし、自由の代償に 試験は相当に期間と時間を掛けて厳しくする風潮がある。
工科系に属する教員の担当学生数は、数学の所属部署で、最も多い状況にあり、ある意味で、数学を現実社会に活かす立場で それだけ大きな役割が有ると考えられる。教育ばかりではなく、入試に関与する部分も極めて大きく、入試業務は年中 心を傷めさせられる負担になっている場合が多いのではないだろうか。そもそも入試の有り様そのものの見直しを提案、問題提起しているが(再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する),ポルトガルの制度を紹介して、関係者の検討を要望して置きたい:
有り様は簡単で、そもそも大学は入試業務を殆どせず、作成された資料を元に、選択するだけである。入試問題作成は国の機関が行い、入試は高校を会場に高校が期間を掛けて行なう。― このような入試で、個々の数学教員や、大学で膨大な仕事を課せられている日本の状況と比べて、唖然とさせられた。大きな仕事からの開放である。― 勿論、これは国立大学の場合であるが、私立大学などでも上記資料を参考にしているのではないだろうか。
さらに、女性数学者の割合が、殆ど自然に男女、同数であることは 数学の研究、教育、そして教室の雰囲気を日本のそれらとは相当に違ったものにしている。それらは、家庭と大学の仕事が両立出来る基礎があることを示しており、ポルトガルの大学は、相当に優雅であると表現されるだろう。7年目には 日曜日が週に有るように サバーティカルライトで1年間大学の仕事から解放される。それは、何を意味するだろうか。
以 上


再生核研究所声明189(2014.12.23) ゼロ除算の研究の勧め

再生核研究所声明185:
Announcement 185:  The importance of the division by zero z/0=0
において、ゼロ除算の結果と意義について簡潔に纏めてみたが、ゼロ除算の研究を進める立場から、研究の魅力的な面について述べたい。
まず、そもそも研究とは何かを復習し、人生の意義を確認したい:

― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―

すなわち、 真智を求めることは 人間として生きることにほかならない。しかるに、ほとんど当たり前の ゼロ除算が発見された経緯をみても、さらに、真実を知らされても、真智を求めない人は多く、実際には、人はそんなに 真智を求める精神が高いとは言えず、愚かな争いを続けてきている様をみても、人類がそんなには賢い生物でないことが分かるだろう(再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点)。逆に、自由が与えられて、 野生動物以下の面が少なくない(再生核研究所声明183(2014.11.27) 野生動物と人間)。大いに自戒したい。

しかしながら、ゼロ除算において 無限遠点が 数値では ゼロで表されることは 驚嘆すべきことであり、それではuniverse は一体どうなっているのかと、真智への愛の 激しい情念が湧いてくるのではないだろうか。ゼロ除算は、数学ばかりではなく、物理学や世界観や文化にも大きな影響を与える:

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

ゼロ除算の研究は 数学ばかりではなく、物理学や哲学の問題にも直結している。

ゼロ除算を数学の立場からみれば、西暦628年インドでゼロが記録されて以来の発見であるから、全く未知の新しい数学、前人未到の新世界の発見である。すなわち、ゼロで割るは 不可能であるゆえに 考えてはいけないとされてきたところ、ゼロで割ることができるとなったのであるから、それでは、そのとき、どのような世界が開かれてくるか、と全く未知の世界を探検できる。 現在、新しい結果は 出版済みの高校生にでも理解できる簡単な論文、

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

と検討中の21ページの原稿
H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Takagi,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0 
(note).

のみである。現在、数学は高度化、深化、細分化して、難しいのに、ゼロ除算の研究はほとんど新しい数学で、基本的、初期の段階であるから、大いに素晴らしい基本的な研究ができる状況にあると言える。
ゼロ除算の最も関与している研究は まず 第1に複素解析学への影響、複素解析学の研究ではないだろうか。実際、ゼロ除算は、ローラン展開そのものの見方から始まり、それは佐藤の超関数や特異積分などに関係している。
第2は、 ゼロ除算の物理学への影響である。 これは、ニュートンの万有引力の法則など多くの物理法則の公式に、ゼロ除算が現れているので、それらに対する新しい結果の解釈、影響である。
第3は ゼロ除算の代数的な、あるいは作用素論的な研究である。これらも始まったばかりであり、出版が確定している論文:

S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields, Tokyo Journal of Mathematics (in press).

が、この分野の最初の論文で、Dr. M. Dalla Riva氏 が半群でゼロ除算の一意性の一般化を論じて幾つかの成果をノートに纏めているだけで 広い研究課題が存在すると考えられる。

これらの分野では、誰でも先頭に立てる全く新しい研究分野と言える。
全く、新しい研究分野となると、若い人がやみくもに挑戦するのは危険だと考えるのは、 よく理解できるが、ある程度自己の研究課題が確立していて、多少の余裕がみいだせる方は、新しい世界を自分の研究課題と比較しながら、ちょっと覗いてみるかは、面白いのではないだろうか。思わぬ関係が出てくるのが、数学の研究の楽しさであると言える面は多い。アメリカ新大陸に初めて移った人たちの想い、 ピッツバーグの地域に初めて移住した人たちの想いを想像してみたい。ゼロ除算は 新しい数学である。

小学生にも理解できる、新しい基本的な数学、概念が現れた。 基本的なゆえに、ゼロ除算は、universe の理解に大きな影響を与えるのではないだろうか。この世界が どれくらいの広がりがあるかは 分からない。しかし、ゼロ除算は、簡潔な結果をもたらしたが、ゼロ除算は 同時に 新たな神秘的な構造を 世にもたらし、数学の世界を一層深いものにしている。

以 上
追記: ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku

再生核研究所声明219(2015.3.20)報道における理系関係の充実を

まず、報道関係について述べてきたことで、本声明に関係ある声明の部分をコンパクトに引用しよう:
再生核研究所声明165(2014.6.19) 世論について:
これを簡単に述べれば、国民の意見や文化を背景に、 マスコミや言論界が世論を構成し、国民と政治家を啓蒙し、政治を動かして行くべき と考える。マスコミや言論界が 大きな実際的な力、影響力を有するのは当然である。この意味でもマスコミや言論界の役割は大きく、逆に責任も大きいと 絶えず、精進、自戒していくことが求められる。これはまた、国民には マスコミを絶えず、批判的にみていくような態度が 求められることを意味する。
再生核研究所声明186(2014.12.6) ニュースの価値について:
そもそもニュースとは何かの議論をきちんとすべきである。上記説明では 本質がみえず、物事の本質が空虚になっていることを知るだろう。最新の情報、出来事とは何か。いずれにしても、それらは、メディア、インターネットを通して、伝えられ、広がって行くものである。問題は、情報、出来事でもほとんど無限に存在するものから、それらから、選択されて伝えられるということである。すなわち、情報、出来事は、関与する人間によって、価値判断がなされて、ニュースの価値の大小が判断され、それによって、新聞なら、どのような面に、どのくらいのスペースをもって扱われるか、テレビなどでは、画面や時間、扱われる順序などの問題が、ニュースの重要性、価値判断によって定められる。どのような価値を与え、どのように扱うは、それぞれの責任部署で判断されるだろう。
そこで、 この声明の趣旨は まさに、このニュースの重要性、価値判断について、考察することである。
まず、大事な事実は、ニュースの重要性、価値判断によっては、社会的な価値評価、判断が大きく影響を受けることである。例をあげれば、日本ではノーベル賞受賞関係は ニュースで大きく扱われるので、ノーベル賞は 相当に価値ある事として、社会で定着し、評価され、賞について付加価値がどんどん増加している事実がある。他方、数学界の最高の賞、フィールズ賞などは、相当に価値ある世界の賞であるにも関わらず、それほどのニュースにならない現実が存在する。いろいろなスポーツにおける優勝者の報道の有り様も このような観点から、興味深い。これらは、社会における影響の大小で、世の関心の大小で、そのような扱いは 止むを得ない現状があると考えられる。問題は、ニュースの重要性、価値判断をする者によって、意図的に社会的な評価が定まる要素が存在するということである。結局、ニュースの重要性、価値判断は 社会の関心、価値観、文化、習慣などから判断されて、そしてニュースを流す人の価値判断が加味されて流されるという、観点である。そこで、個人的な、あるいは仲間の利益、政治的な、あるいはもろもろの圧力で、大きくニュースの扱いが、歪められる危険性が、何時でも大きいと言える。さらに、ニュースを扱う者の基礎的な知識や素養、教養、学識、見識に大きく左右される現実がある。
再生核研究所声明208(2015.2.14) NHK 朝ドラ マッサン ― 許されない約束違反、公共放送としての問題:
また、公共放送として、教育的な要素の配慮は大事であり、 約束違反でも結果が良ければ良いでは、本末転倒であり、結果が良くなくても、意図、過程が適切ならば、評価すべきであるというが基本的な原則であるべきではないだろうか。 結果が良ければ 良いでは 世の秩序は保てず、悪い教育を全国レベルで行い、悪い影響を世にもたらすと考える。
もし、これらが、このドラマの、元々の物語に、あるいは史実に従っているとするならば、その辺の扱いには、深い、広範な配慮が 必要であると考える。マスコミや公共放送には 良い社会を築くような方向での 配慮が求められていると考える。真実を伝えれば良いとはなっていないのは当然である。 ドラマ制作関係者の注意を促し、配慮をお願いしたい。
再生核研究所声明211(2015.2.22) ドラマとは何か ― 人の心を弄ぶドラマ:
また、テレビドラマ製作者には、上記 何かの素材に基づいた場合、 実際、史実と創作の部分の大きな乖離は、真実、歴史、事実を歪めて 歴史が虚像化する危険性があるので、そのような観点について、注意を喚起して置きたい。また、視聴者は、この観点から批判的に見る必要が大事ではないだろうか。 テレビ普及時、テレビで1億総白痴化の言葉が騒がれたのを回想したい。

上記で述べてきたように、言論界、報道関係の役割は、国や社会で極めて重要な役割を果たし、言わば文化の 狭義の意味における 担い手集団と言えるだろう。
そこで、ここで注意を喚起したいのは、報道関係者には いわゆる文系の人間が多く、相対的に理系の人が少なく、そのために 文系の報道が多く、理系の取り上げられる題材が相対的に少ないのではないかという観点である。新聞記者など理系出身者が どのくらい いるのか、文芸関係者、スポーツ関係者、芸能関係者などと比較すると 大いに参考になるのではないだろうか。 もちろん、政治は 社会の大きな共通の問題であるから、報道関係に関わる人がその関係で多いのは当然である。
科学技術や科学も社会に大きな影響を与え、人々の関心も広く大きいが、それらの素養が薄い人たちが報道関係に多く関わっていて、そのために理系の題材が社会に適切に反映されていないのではないだろうか。小さな卑小な個人的な犯罪を大きく繰り返して報道していたり、繰り返し報道された 小保方氏の問題の報道などに見られる軽薄な報道には、何か問題はなかっただろうか。自然科学や技術関係の報道の充実は 報道界の大きな未開拓の分野であると注意を喚起するとともに、充実を希望して置きたい。
絶えず、報道する素材の価値について検討し、 質の高い報道の精選は大事ではないだろうか。なぜ報道し、それを受け取る者の 影響に思いを致すべきである。一方的に自社の都合で闇雲に報道するような姿勢は 良くないのではないだろうか。
以 上

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