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岸本周平2015年09月25日 23:00「一億総活躍社会」? 「一億火の玉」?
安倍総理は、金融緩和、財政出動、成長戦略の三本の矢を引っ込め、強い経済、子育て支援、社会保障の新三本の矢への移行を宣言。
このアベノミクス第2弾では、「一億総活躍社会」を目標にしました。
戦前は、「一億一心」、「一億火の玉」、そして、終戦後の東久邇宮内閣では、「一億総懺悔」。古色蒼然とは、こういうことだと思います。
名目GDPを2020年度に600兆円にすることも掲げています。
子育て支援では、希望出生率1.8の実現、待機児童ゼロ、幼児教育無償化などを掲げています。
そのこと自体は国民の誰もが賛成することですが、その財源をどうするのかについての説明はありません。
介護離職ゼロなどの安心につながる社会保障も、素晴らしいことですが財源はどうするのでしょうか。
17年4月の消費税10%引上げは、必ずやると言っていますが、その財源は別の社会保障の充実に充てられる予定です。
安保法案の強行採決による内閣支持率低下を取り戻すために、目くらましの政策変更に他なりません。
アベノミクス第1段の検証もなされないまま、第2段に移行したのなぜでしょうか。
確かに、株価は政権発足時の1万80円から1万8千円台に回復。しかし、個人消費は伸びていません。実質賃金指数が、いまだにマイナス3%のままだからです。消費税の増税だけが原因ではありません。
正規労働者は3年間で約60万人減る一方、非正規労働者は180万人増加。貯金ゼロ世帯もついに3割を超えました。
貧富の格差は確実に広がりました。
為替は80円台から120円前後に円安に振れましたが、輸出数量は増えることなく、大企業の帳簿上の利益をふくらませるだけ。
笛太鼓で始まった日銀のインフレターゲット政策も、先月、ついに消費者物価(除く生鮮食品)がマイナスになってしまいました。むしろ、国債の大量購入により市場をゆがめ、出口戦略が描けない状況になりました。
成長戦略は、成果が見られません。
農協改革も形式的な改正で、農業所得の向上とは結びつくような期待が持てません。
アベノミクスをやりっぱなし、言いっぱなしのまま、反省もなく、美辞麗句だけの次の目標を掲げるのは、いくらなんでも、国民を馬鹿にしてはいませんか。http://blogos.com/article/135996/
再生核研究所声明238(2015.6.20)西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 西行の恋と愛
著書の再読を始めたが、今回(前回声明233、234,235)は 西行の恋と愛について 相当深く具体的に表現されているので、それについて印象を述べたい。
西行は 最も有能で、好感の持てる、時代の寵児であり、世にも希に 最も純粋な恋と愛に生きた人物とみなせるだろう。相当に虚像と考えられる面は多い。小説では、恋と愛について深く触れていて、日本文学の得意な面が詳しく表現されている。 西行の恋と愛は結構、次の原理を振り返るまでもなく、単純で 純粋と言える:
再生核研究所声明 36: 恋の原理と心得
再生核研究所声明 124 (2013.8.20): 恋の機微 - 恋の極意
結婚し二人の子を儲けた豪族、高官の立場であるが、恋と愛は 女院との恋と愛の表現にほとんど限られていて その記述は深い。 しかし、その本質は 純粋であるがゆえに簡明である。
まず、恋であるが、それは現代の見方では、誠に奇妙にみえる。相手が、白河院に幼き頃から愛され、やがて天皇にも愛され、相当に自由な性の時代、結構多感で情熱的な高貴な 女性らしい女性である。 西行にとっては、誠に高貴な身分であるから、直接拝見できることさえ少なく、会話も交流も殆どなく、噂や微かな雰囲気くらいしか、交流がなかったと言える。 それが女院に召されるような形で一夜出会い、情を交わし、その後、殆ど身分の違いもあって、会うこともなく、恋は終わり、深い愛となって、生涯その想い出と愛に生きることになる。 その純粋さは驚くべきことである。 実際、 いつも女院とともに世界を観、感じて、その深さは如何なる愛よりも深かったと見なされる。 女院の想い出は 遠くの陸奥まで厳しい自然とともにいだき続けていた。実際その愛は、単に女院その人ばかりではなく その子供たち(男子は天皇になる崇徳院), 孫にも及び、その愛は 命を掛けても良いほど切ないものである。
上記声明に、愛の原理、機微が述べられているが、恋の契機、愛の姿は 最も理想的、最も深い形で実現されていると言える。 純粋に生きた西行は幸せな一生と見なせるが、出家の立場、他から見れば、 不運なあるいは愚かな愛とも受け止められかねない。 他方、女院の立場では、不遜な味方をすれば、いい人を手懐けて、自分の子供の時代まで、尽くして頂いたという感じになるだろう。 ― 女性にとっては、純粋ないい人を見つければ、次世代までも尽くしてくれる かけがいのない 大事なものを得ることができるのが恋であると考えることができるだろう。 原理としては、男女関係の原理を簡潔に表現しているのが 西行の恋と愛である言える。
このような恋と愛の形は、世に普遍的に見られる男女関係であると考えられる。― 男性は女性に奉仕し、使われる立場である。そのために 命さえ失いかねないのが 男性の宿命である。
西行の愛は余りにも切ないものであったと、深く悟られた境地に達せれたものの感じざるを得ない。
以 上
再生核研究所声明235(2015.6.17)西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 出家について
著書の再読を始めたが、今回(前回声明233、234)は 西行の 出家 について興味深いので、動機、考え方、人生、世界の捉え方などについて印象を述べたい。まず、出家の語を確認して置こう:
出家(しゅっけ、巴: pabbajja、梵: pravrajyaa、प्रव्रज्या ) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏門に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。
在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。
仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。(ウィキペディア)
まず、大事な言葉を引用しよう(その辺の精読を勧めたい):
親友を突然失って、憲康が亡くなったとき、あの虚しい明るい初夏の光が漲り渡っていた朝、私は憲康とともに死んだのだと思います。
形は生者ですが、心は浮世を超えた者になっています。
清盛のいう武力と権能があくまでもこの世のものだということ、それは浮島に似た浮世のなかだけのこと、
身が軽々となったのは、浮世の外が、ただこの世の花を楽しむ空間であり、雅の舞台あり、事が 成る 成らぬ から全く免れている場所だからでした。
無偏上人の質素な庵を訪ねて、これこそが私たちの住むべき家だとは思わないか。 森羅万象の喜びが、まるで唱和する歌声のように、この小さな庵に響いているではないか。
鳥羽院に、私は理屈の何もなく、 院が足を置かれる大地を、虚空に中に作らなければならない、と思いました。そしてそれを作れるのは言葉だけ、歌だけだ、と咄嗟に考えた。
この世を法爾自然として感じるためだったと 捉えた。
さらに次の言葉に 人生の在り様、志の方向が現れている: でも、歌が人々を支える大地になったとき、生と死を超えるあの何か大きなものも、きっと私に分かるようになるのではないだろうか。
あらすじは次のように纏められるだろう: 西行は才能に恵まれた、相当な豪族の棟梁であり、宮廷でも相当な地位にあり、 いわゆる立身出世には 相当に有望であったが、政情不安と宮廷内の権力争いの醜さには相当に詳しく、 清盛や頼朝のような世界を志向せず、逆にそれらを浮世と見て、浮世を離れた世界を求めた。生きる目的も上記に述べられているように 相当に明確に 志として述べられている。
出家の直接の動機は、親友の突然の死であるが、もともと、出家するような背景は強く存在していたと言える。これは生まれながらの性格の影響も強く、いつの時代でもそのように志向するものはいるものである。 西行の場合は、普通の出家と違って、歌を詠むこと、自然とともに存在して、歌に表現する事を相当しっかりと志していることは生涯に見ることができる。質素な生活の中から、より自然にとけ込み、生きることの喜びを歌に表現することを生きがいにされていたように思われる。いろいろなところで開かれた歌会では相当に優遇され、人間関係, 交友関係も広く、相当に充実した人生であると見える。 生活の記念碑は歌に表現されて、歌集などに発表、採択されるなど、現在の芸術家, 研究者たちと同じように道を求める存在で、大いに共感、共鳴を受ける。
自然とともに在って、歌に表現することを そのように深く捉えた文化は、 相当に日本の深い文化ではないだろうか。歌の中に人生、世界が表現されているとして、歌に如何に深い思いを入れられたかは、当時の文化の驚嘆すべきものではないだろうか。良い歌を作れるは、恋の成就や出世の大事な要素だったとは、如何にも優雅な文化と理解される。
研究者や芸術家のようであったと言えば、現在の我々との相違はどこにあるだろうか。
何といっても、自然とともに歩む心、それは、生活環境、食生活などの簡素さ、いくら大豪族の棟梁の立場といっても、現代人の生活からすれば、想像もできないほどの簡素さである。優雅な生活を営める立場であったものを そのように厳しい生活を選択されていること、この事実は大いに省察に値するのではないだろうか。食生活の質素さ、生活環境における厳しさの中で、900年も前に、73歳の天授を全うされていることも注目に値する。二人の子供を有し 恵まれた家庭と裕福な生活を放棄しての出家であることにも触れておきたい。
健康、健康、健康食品と にぎはしている 現代の世相、美食を求めている世相とは 相当に違う人生の有り様である。生活面における修行と仏教の関係について、人として生きることの意味を問うていきたい。仏教との深い関わりについては、 著者は宗教に深い理解があるとは思えず、そのへんは表現されていない。
出家と歌の世界、世界の文化でも相当に特徴のある深い文化ではないだろうが。 日本人の相当な精神の基礎を与えていると言える。 勅撰和歌集などの概念も 極めて面白いと評価したい。その美しい伝統は 歌会始の儀 や広い層を持つ歌や俳句を楽しむ文化に受け継がれている。
以 上
再生核研究所声明234(2015.6.16)西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 雅について
著書の再読を始めたが、今回(前回声明233)は 雅について興味深い解釈が述べられているので、それについて印象を述べたい。まず、雅の語を確認して置こう:
雅(みやび、まさ〔名乗り〕)とは、上品で優雅なこと。宮廷風・都会風であること。風采の立派なこと。動詞形は「みやぶ」。(ウィキペディア)
本では、弓の名人、源重実が 西行(義清)に雅の意味を説明している。 大事な言葉を引用しよう(その辺の精読を勧めたい):
弓を射るとき、型があり、それから外れると、いかに矢が的を射ぬいても、それは雅の匂いを失う、
的に当たるより、むしろ雅であるが大事、
雅であることは、この世に花を楽しむ心である、
余裕があったとき初めてこの世を楽しもうとする気持ちになる。この楽しもうとする心が雅なのだ、
矢を射ること そのことが、好きな人、当たれば嬉しいが、当たらなくても好きな人 そういう人こそが 留まる人、つまり雅である人だ。
ところが西行は後に、矢が的に当たるも 外れるも同じように楽しいとする雅の心を、生きる楽しみと死ぬることの楽しみを同じように感じるにはどうしたらよいかと深く思索している。実際、そこから、生を喜ぶと同時に死を喜ばなくてはいけないんじゃないだろうか と発想している。ここに著者 辻 邦生氏の 西行を通しての 大きな人生における姿勢 が現れているのではないだろうか。すなわち、死からの開放である。しかしながら、雅とは拘らない、自由に楽しむ姿勢であるから、生や死に拘ることは既に 雅の心に反している のであるから、相当に高い悟りを表していると言える。 この辺の心境、世界観は再生核研究所声明の中でも述べて来たことであるが、さらに、ゼロ除算の世界観とも奇妙に通じていると感じられる。
ガツガツしないで ゆったりと楽しむ心、超然とした心持ち、それが雅と表現できるだろう。 留まる心 だという。
さらに次の言葉に 人生の在り様、志の方向が現れている: でも、歌が人々を支える大地になったとき、生と死を超えるあの何か大きなものも、きっと私に分かるようになるのではないだろうか。
そこで、反対の心に触れたい。ゲーテの達した活動して止まないことに人生、世界の意義がある、 アインシュタインの動いていなければ、自転車のように倒れてしまう、岡本太郎の芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けること。そこで、それらの真理に照らし合わせて、いろいろ変化を持たせることの重要性を 雅の心は述べていると理解できるのではないだろうか。
世相で言えば、平安時代の貴族の生活は 雅すぎで、現代の世相は ガツガツしすぎているとは言えないだろうか。世相に落ち着きをとり戻したい。
生や死に拘ることは 既に 雅の心に反している という言葉であるが、年の功という諺があるように そのような一種の悟りは 実際はそう難しいことではないことを 特に若い人たちに述べておきたい。 実際、散歩の折り、座っていかないとよく誘ってくれる90-91歳の方が、周りの花のように穏やかに明るい表情で 人生、世界についてそのような心境を話されている。ある世代では、そのような心境は 相当に普遍的な心境であると言える。
以 上
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