2015年9月10日木曜日

記事 木村正人2015年09月09日 06:00エリザベス女王が英国の在位最長記録を更新、人気の秘密は

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木村正人2015年09月09日 06:00エリザベス女王が英国の在位最長記録を更新、人気の秘密は




女王の治世下に発展する英国
英国と英連邦加盟国中15カ国の元首を務めるエリザベス女王(89)が9日、ビクトリア女王(在位1837~1901年)を抜き、同国の在位最長記録を更新する。在位63年216日。25歳で即位し、第二次大戦からの復興、ダイアナ元皇太子妃の交通事故死など数々の苦難を乗り越え、今もドイツに飛び、メルケル首相と会談するなど元気はつらつとしている。

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(C)Michael Gwyther-Jones

エリザベス1世(在位1558~1603年)、ビクトリア女王、現在のエリザベス2世と、英国は女王の治世下に発展と安定を達成した。

英王室に詳しい歴史家ルーシー・ウォズリーさんは「エリザベス1世はスペイン無敵艦隊を迎え撃つに際し、『私は弱い女の体を持っているが、国王としての心と魂を宿している』と演説したことがあります。今は国王が実際に戦場で戦うことがなくなり、男でなければならない理由はなくなりました。女性の方が外交力と柔軟性に富んでいるのが成功のカギだと思います」という。

英日曜紙サンデー・タイムズとYouGovの世論調査によれば、エリザベス女王が27%を獲得して「君主の中の君主」に選ばれた。エリザベス1世の13%とビクトリア女王の12%を合わせたより支持率は高かった。「女王の中の女王」だ。エリザベス人気を支えるのは、君主としての強い責任感と時代に適応してきた柔軟性にある。

「王冠を賭けた恋」が運命を一変
女王は9日、北部スコットランドで鉄道開通式に出席する予定だ。これまでに116カ国を延べ265回訪問。毎日午前9時、朝食を済ませると、国民などから寄せられる200~300通もの手紙を読む。返事を書くこともある。政府文書にも目を通し、週に1度、首相との会談をこなす。

20150908_165816 女王の生地であることを示す金属板(筆者撮影)

エリザベス女王が誕生したのは1926年4月21日、ロンドンの高級住宅街メイフェアーにあるブルトン・ストリート17番地。現在は女王の生地であることを示す小さな金属板が残るだけだ。そのときエリザベス女王が将来、王位を継承するとは誰も思わなかった。

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エリザベス女王が生まれたメイフェアーの通り(同)

運命が一変したのは伯父のエドワード8世が米国人女性シンプソン夫人と恋に落ちてから。英国王が世俗の長を務める英国国教会は離婚を認めていなかった。2度も離婚経験のあるシンプソン夫人との結婚など受け入れられるはずもなかった。

エドワード8世は36年12月、「国王としての重責と義務を愛する女性の助けと支持なしに遂行することはできない」と王位を放棄した。「王冠を賭けた恋」としてニュースは世界中を駆け巡った。エリザベス女王の父、ヨーク公が即位してジョージ6世となる。エリザベスは10歳8カ月のあどけない少女だった。

13歳、初恋のお相手はフィリップ殿下
13歳の誕生日、エリザベス王女はギリシャの海軍士官フィリップ王子(当時18歳)と出会う。王子はギリシャ、デンマーク、ロシア王家とビクトリア女王直系の血を引く。長身で金髪、しかも、とびきりのハンサムだった。

フィリップ王子はエリザベス王女、妹のマーガレット王女とテニスコートのネットでジャンプ遊びをして楽しんだ。高くジャンプするフィリップ王子の躍動感に、エリザベス王女は「何てすごいのでしょう」と釘付けになった。まさに運命の出会い、一目惚れだった。

ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次戦争が勃発。ナチスはノルウェーやオランダでロイヤルファミリーを捕らえようとした。このため、エリザベス王女をカナダに疎開させようという提案が持ち上がったが、ジョージ6世は一蹴した。

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バッキンガム宮殿(同)

バッキンガム宮殿にもドイツ軍の空爆に備えて防空壕がつくられた。40年9月、200機の編隊がロンドンをじゅうたん爆撃し、宮殿の中庭にも爆弾6個が落とされた。危険を承知のうえでバッキンガム宮殿にとどまったロイヤルファミリーは国民を勇気づけた。

このあとエリザベス王女はウィンザー城から「帝国の子供たち」と題したラジオ放送を堂々と行っている。その後、王位を継承してからもエリザベス女王は電話やテレビ放送、電子メール、ソーシャルメディアなど最先端の通信手段を使って王室のメッセージや価値観を送り続けている。

45年春、エリザベス王女は女子国防軍(ATS)に入隊、二等准大尉となる。どんな車種でも運転できるように訓練を受けてから、幹部訓練コースに参加。ロイヤルファミリーが一般人に交じって訓練を受けるのは初めてのことだった。

ロイヤルウェディング
第二次大戦後、英国は帝国を維持する力を失った。王室の財政も逼迫していった。47年11月、エリザベス王女は初恋の人、フィリップ殿下と結婚式を挙げる。ウェディングドレスの生地を配給制のクーポンで購入。エリザベス王女もマーガレット王女も鉛筆や消しゴムをちびるまで使うなど、質素倹約を身につけていた。

ジョージ6世は結婚式の当時を休日にしてほしいと要請したが、労働党政権は生産が停滞するとして拒否したというエピソードも残っている。ウェストミンスター寺院でのロイヤルウェディングとパレードをひと目見ようと沿道を国民が埋め尽くし、その様子を伝えるBBCのラジオ放送に世界中の2億人が聞き入った。

父ジョージ6世が52年2月、急死し、エリザベス王女が即位。53年6月、ウェストミンスター寺院で戴冠式が行われた。大英帝国崩壊後の英連邦と英国民の心を一つにするという重責が若き女王にのしかかった。「ある意味で私には修行時代がありませんでした。父の死はあまりに早かった。とりあえず引き継いで、賢明に努めてきたという格好でした」と振り返っている。

「アナス・ホリビリス(ひどい年)」からの出直し
「オーストラリアやニュージーランドを訪問した際、女王とフィリップ殿下を見ようと街頭に50万人が詰めかけた。今のウィリアム王子とキャサリン妃も人気では女王に及ばない」と英王室ジャーナリストのロバート・ジョブソン氏は言う。

しかし、即位40周年に当たる92年、チャールズ皇太子とダイアナ元妃がダブル不倫の末に別居。女王の次男アンドルー王子が別居を発表し、長女のアン王女も離婚した。ウィンザー城も大火災に見舞われた。エリザベス女王はラテン語の「アナス・ホリビリス(ひどい年)」という言葉で1年を振り返った。

97年8月、元妃がパリで交通事故死した際、「どうして英王室はバッキンガム宮殿に半旗を掲げないのか」と轟々たる非難を浴びた。国家の威信を守ろうとする女王の頑なな姿勢は国民の気持ちから乖離していた。エリザベス女王は王室も時代や国民の変化とともに変わるべきだということに目覚め、国民の前に現れて元妃の死を悼んだ。

ウィリアム王子とキャサリン妃の結婚後、キャメロン政権の助言で王位継承法の男子優先を廃し、長子が王位を継承できるよう法改正することにも同意する柔軟性を見せた。

エリザベス女王を支えるのは
エリザベス女王は2011年5月、アイルランドを公式訪問した。英国君主の訪問は1937年のアイルランド独立後では初めてだった。エリザベス女王が77年に英国・北アイルランドのベルファストを訪れた際には、女王の人形がつるされる騒ぎが起きた。

アイルランドでは英国からの独立運動と宗教抗争の歴史が続き、1845年のジャガイモ飢饉(ききん)では連合王国政府の失政で多くの犠牲者を出した。独立後の北アイルランド紛争では3200人以上が死亡。英国とアイランドの感情的なしこりは根強く残るが、エリザベス女王のアイルランド訪問は最終的な和解の象徴となった。

エリザベス女王は全身全霊を国家に捧げ、新しいテクノロジーを取り入れて市民とコミュニケーションをとる努力を怠らない。その瑞々しさとひたむきさを支えているのは、13歳のとき恋に落ちた頑固で少し風変わりなフィリップ殿下だという。

(おわり)

参考:サラ・ブラッドフォード著『エリザベス』上下巻(読売新聞社)http://blogos.com/article/132825/



再生核研究所声明82(2012.3.16)  皇室の在りようについての 一考察

まず、日本国の永い歴史で中心的な役割を果たしてきた、日本の皇室については 高く評価し、また日本国の文化的な誇りでもあると考える(美しい国、日本; 再生核研究所声明23[付記] 参照)。
最近、国家元首の問題や女性皇族問題などが話題となっているので、 日本の皇室の在りようについての 考察を行って置きたい。
この考察の出発点は もちろん、日本国の永い歴史における皇室の役割の評価と あるべき姿との調整、調和である。
ここで、在るべき姿とは何か。 それは世界史の展開に対する評価と位置づけ、そして、自由、平等、博愛の原則である。 基本的な人権の尊重は、人間の尊厳に直結する 個人の固有な権利であり、皇族といえども保証されるべきである。 生まれながらに日本国の天皇の任に就かされることは、甚だしい人権侵害であると言わざるを得ない。これは皇族離脱の権利も広く保証されるべきであるという、見解に繋がると考える。また、皇族が日本国の在るべき姿について適切に指導できると 十分な裏付けと準備もなく 期待するのは 適切な見方ではないと考える。 よって、国家元首と言っても 実際的な意味を持たせるべきでなく、現在のように象徴的なものであると 考えるべきである。国家元首の件は 現在の憲法以上の意味を持たせるべきではなく、天皇によって任命された日本国首相が すべて 国家の責任を負うべきであると考える。
世界は 世界が大きな一つの国のように発展するのが 世界史の必然的な流れであると考える。 そのとき、日本国は ある纏まりのある相当な自治権を有する国となるだろう。 その時、皇室は 日本国の永い歴史上に存在する、家長的な存在、特に 日本文化の象徴的な 中心的な役割 を果たすと期待される。
上記文脈で見えて来る皇族の在りようは、 明治天皇のようではなく、現在の皇室の在り様、あるいは江戸幕府時代の皇室の在りようを暗示させるように見える。 この観点で、世界の先進国イギリスにおける 在りようや ヨーロッパ諸国の在りようを参考に 具体的には 1歩1歩考えていくと 柔軟に考えていけばよいと考える。
女性の皇族の問題(女性宮家の問題など)は 前向きに進め、皇族方をある程度大きくし、天皇などについても辞退が できたり、適任者が就任できるような余裕を持たせるような在りようが良いのではないだろうか。
現在、民主主義の問題が露になり、政治家は自分の保身や人気取りに気遣いし過ぎて 国家をおろそかにし、 国を危うくしている状況が 世界的に危惧される。 政治家不信は 世界的な風潮ではないだろうか。 誰が日本国の歴史と日本国に責任を持っているのかさえ、明確ではないような世相である(再生核研究所声明73:日本国首相の役割 参照)。
他方、天皇をはじめ、皇族の方々は、永い歴史上に存在する歴史上の存在であり、政党や派閥、特定団体を越えた 高い次元、視点に立てる存在である。 そこで、ある程度皇族を充実させ、政治などについても影響力を行使できるような在りようは、 現在の民主主義の次の時代の在りようとして、考える余地を残しておくのは 賢明な在りようではないだろうか。
政治の在りようは やがて進化して、愚かで、野蛮な政争などは無くなり、社会科学と人間の進化によって 専門家が各級の判断をするようになるだろう。そのとき 政治を取り巻く世界は安定して 緩やかな王政のような形がとられるだろう。
また、当分 夜明け前の時代には、 政治的な実権と国家元首を兼ねる大統領制よりは、 イギリス、日本などの 議員内閣制の政治体制の方が、政治体制として 優れていると評価したい。

以 上

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