視点・論点 「将棋ソフト勝利の意味」
はこだて未来大学教授 松原仁
先日プロ棋士と将棋ソフトが5対5で戦って将棋ソフトの側が勝利しました。大きなニュースになったのでご存知の方も多いことと思います。ここではこの勝利が意味するのはどういうことかについて考えてみます。
人工知能という研究領域があります。人間のように賢いコンピュータあるいはロボットを作ることを目指した領域です。手塚治虫さんの「鉄腕アトム」のようなロボットを作ることを目指していると言えばイメージしやすいかもしれません。20世紀の半ば、1950年ごろに研究が始まりました。
将棋や囲碁といったゲームは人工知能の研究のいい題材になっています。ゲームはルールが明確で勝ち負けによって良し悪しが客観的に評価できます。ゲームに強い人は頭がいい、すなわち高度な知能を持っていると考えられています。そのゲームでもし人間に勝つようなコンピュータを作ることができれば、コンピュータが人間のように賢くなれる一つの証拠になるというわけです。
人工知能研究で長い間題材となっていたチェスはいまから15年以上前の1997年にコンピュータが世界チャンピオンに勝ちました。強いチェスのソフトを開発しようという研究から世の中で使われている多くの人工知能の成果が得られました。たとえば電車をどう乗り換えたら目的地に早く着けるか教えてくれるソフトではチェスで工夫された探索の手法が使われています。チェスの次に取り上げられたのが将棋です。将棋はチェスに似たゲームですが、敵から取った駒を再利用できるという持ち駒制度があるために場合の数がチェスよりはるかに多く、コンピュータにとってチェスよりずっとむずかしいゲームなのです。その将棋もチェスには遅れましたがここまで強くなりました。
将棋ソフトの関係者としては今回の勝利に特に驚きはありませんでした。必ず勝てるという保証はありませんでしたが、互角以上の戦いはできると予想していました。まだ羽生さんや渡辺さんといったトッププロ棋士には勝っていませんが、ここ数年で彼らにも勝てるようになります。あと十年もしたら人間は誰もコンピュータに勝てなくなります。すでにチェスはそうなっています。四則演算ではかなり前から人間はコンピュータにかないません。将棋は四則演算よりははるかに複雑ですが、次の一手を決めるのは何らかの計算の結果と見なせます。計算で答えを求めている以上、いつかはコンピュータが人間を追い越します。それは人間が発明したコンピュータという機械の進歩であり、決して人間にとって不名誉なことではないのです。
そうは言っても、今回プロ棋士が将棋ソフトに負けたことは大きな衝撃として受け止められました。負けたプロ棋士のブログにきつい調子で非難する書き込みがありました。人間の尊厳が傷つけられたという報道もなされました。これらは過剰な反応と言えるでしょう。チェスのチャンピオンが負けたときにも西欧でこのような過剰な反応が見られましたが、日本ではチェスはあまりなじみがないのであくまで他人事でした。今回はなじみのある将棋だったのでショックが大きかったのだと思います。100メートル競走で人間が車に負けても人間の尊厳が傷つかないように、将棋で人間がコンピュータに負けても傷つくものではないのです。人間の中で足が早いこと、将棋が強いことは、たとえ車やコンピュータに負けたとしても依然として尊重されるべきことなのです。
いつかプロ棋士が将棋ソフトに負けるときが来るとわかっていて、そしてそれは人間の尊厳とは無関係とわかっていても、いざ実際に負けてしまうととても悔しいし受け入れがたいと感じます。それは自分の存在意義を脅かされるという漠然とした不安からくるものではないかと思います。肉体ではなく頭脳に存在意義があると思っているからこそ、スポーツで負けても悔しくないのにゲームで負けたら悔しいのでしょう。
プロ棋士よりもコンピュータが強くなった将棋は今後どうなっていくでしょうか。チェスはコンピュータの方が人間よりも強くなってからかなり経ちますが、いまでも多くのファンが盛んにプレイしています。チェスのプロ棋士はファンに尊敬されて生計もちゃんと成り立っています。コンピュータの方が強くなったからといって決してすたれていません。将棋もそのようになってほしいと強く願っています。
人工知能の研究はこれまでもっぱら論理的思考を対象としてきました。将棋ソフトもそうです。ゲームでもまだ囲碁ソフトはプロ棋士にかなわないのでそれを強くする研究は続けていきます。いまはコンピュータには扱えない感性や直感を扱えるようにしようという研究もこれから盛んになっていくと思います。私自身もコンピュータに星新一さんのようなショートショートを創作させる研究を開始しました。とてもむずかしいですが、なんとか頑張っていい作品をコンピュータに作らせたいと思っています。
今回は将棋でしたが、これからも徐々にいまは人間の方が得意なことがコンピュータの方がうまくできるようになっていきます。自分が仕事としていること、あるいは生きがいとしていることをコンピュータの方がうまくこなせるようになるのです。そうなったときに人間はどう対応すればいいでしょうか。アメリカでは人工知能の成果を応用した優れた会計のソフトが開発されたために、ここ数年で会計処理あるいは税務処理の専門家が数万人も職を失ったと言われています。決して他人事ではないのです。
私は大学の教員として研究や教育を仕事としています。これらもコンピュータが進歩していくと私よりうまくできるようになるかもしれません。人工知能の研究者はよく自分そっくりのロボットが一台欲しいという話をします。書類書きなどの事務作業は自分はやりたくないのでそのロボットに任せてしまって、自分は楽しい人工知能の研究に没頭したいのです。しかしもしかしたら自分そっくりのロボットにこう言われてしまうかもしれません。「比較した結果、研究はあなたより私の方がうまくできます。事務作業はあなたの方が得意そうです。したがって私が研究に専念しますのであなたは事務作業に専念してください」。そう言われたらどうしましょうか。
かつて産業革命のときには機械に仕事が奪われた人たちが機械を打ち壊すということがありました。あのときは肉体労働でしたが、いまは頭脳労働の一部がコンピュータに取って変わられようとしています。道具であるコンピュータの進歩は本来喜ばしいことであり、
人間の幸福の実現に貢献しているはずですが、その一方で人間の従来の仕事あるいは生きがいの範囲を狭めているという側面もあります。人間は、人間だからこそできること、人間にしかできないこと、にシフトしていくことになると思われます。たとえば新しいものを発見する、発明するなどといった創造性を発揮することはまだまだ人間の方が得意のはずです。
今回の将棋ソフトの勝利をきっかけに、これからますます賢くなっていくであろうコンピュータあるいはロボットとどう付き合っていくかをみなさんに考えていただきたいと思います。すぐに答えが出るものではありませんし、人工知能の研究者だけで答えが出せるものでもありません。しかしいまから自分自身の問題として準備をしておく必要があります。賢くなったコンピュータをうまく使ってさらに住みやすい社会を実現していくのはわれわれ人間にかかっているのです。http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/157084.html
再生核研究所声明198(2015.1.14) 計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて
まず、簡単な例として、割り算、除算の考えを振り返ろう:
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるか(除けるか)と考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数の商は50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。
ところで、 除算を引き算の繰り返しで計算する方法は、除算の有効な計算法がなかったので、実際は日本ばかりではなく、中世ヨーロッパでも計算は引き算の繰り返しで計算していたばかりか、現在でも計算機で計算する方法になっていると言う(吉田洋一;零の発見、岩波新書、34-43)。
計算機は、上記のように 割り算を引き算の繰り返しで、計算して、何回引けるかで商を計算すると言う。 計算機には、予想や感情、勘が働かないから、機械的に行う必要があり、このような手順、アルゴリズムが必要であると考えられる。 これは計算機の本質的な原理ではないだろうか。
そこで、人間は、ここでどのように行うであろうか。 100/2 の場合は、2掛ける何とかで100に近いものでと考え 大抵50は簡単に求まるのでは? 3/2も 3の半分で1.5くらいは直ぐに出るが、 2掛ける1で2、 余り1で、 次は10割る2で 5そこで、1.5と直ぐに求まるのではないだろうか。
人間は筆算で割り算を行うとき、上記で何回引けるかとは 発想せず、何回を掛け算で、感覚的に何倍入っているか、何倍引けるか、と考えるだろう。この人間の発想は教育によるものか、割り算に対して、逆演算の掛け算の学習効果を活かすように 相当にひとりでに学習するのかは極めて面白い点ではないだろうか。この発想には掛け算についての相当な経験と勘を有していなければ、有効ではない。
この簡単な計算の方法の中に、人間の考え方と計算機の扱いの本質的な違いが現れていると考える。 人間の方法には、逆の考え、すなわち積の考えや、勘、経験、感情が働いて、作業を進める点である。 計算機には柔軟な対応はできず、機械的にアルゴリズムを実行する他はない。 しかしながら、 計算機が使われた、あるいは用意された情報などを蓄積して、どんどんその意味における経験を豊かにして、求める作業を効率化しているのは 広く見られる。 その進め方は、対象、問題によっていろいろなアルゴリズムで 具体的には 複雑であるが、しかし、自動的に確定するように、機械的に定まるようになっていると考えられる ― 厳密に言うと そうではない考えもできる、すなわち、ランダムないわゆる 乱数を用いるアルゴリズムなどはそうとは言えない面もある ― グーグル検索など時間と共に変化しているが、自動的に進むシステムが構築されていると考えられる。 それで、蓄積される情報量が人間の器、能力を超えて、計算機は 人間を遥かに超え、凌ぐデータを扱うことが可能である事から、そのような学習能力は、人間のある能力を凌ぐ可能性が高まって来ている。 将棋や碁などで プロの棋士を凌ぐほどになっているのは、良い例ではないだろうか。もちろん、この観点からも、いろいろな状況に対応するアルゴリズムの開発は、計算機の進化において 大きな人類の課題になるだろう。
他方、例えば、幼児の言葉の学習過程は 神秘的とも言えるもので、個々の単語やその意味を1つずつ学習するよりは 全体的に感覚的に自動的にさえ学習しているようで、学習効果が生命の活動のように柔軟に総合的に進むのが 人間の才能の特徴ではないだろうか。
さらに、いくら情報やデータを集めても、 人間が持っている創造性は 計算機には無理のように見える。 創造性や新しい考えは 無意識から突然湧いてくる場合が多く、 創造性は計算機には無理ではないだろうか。 そのことを意識したわけではないが、人間の尊厳さを 創造性に 纏めている:
再生核研究所声明181(2014.11.25) 人類の素晴らしさ ― 7つの視点
そこでも触れているが、信仰や芸術、感情などは生命に結び付く高度な存在で、科学も計算機もいまだ立ち入ることができない世界として、生命に対する尊厳さを確認したい。
しかしながら、他方、人間の驚くべき 愚かさにも自戒して置きたい:
発想の転換、考え方の変更が難しいということである。発想の転換が 天動説を地動説に変えるのが難しかった世界史の事件のように、また、非ユークリッド幾何学を受け入れるのが大変だったように、実は極めて難しい状況がある。人間が如何に予断と偏見に満ち、思い込んだら変えられない性(さが) が深いことを 絶えず心しておく必要がある: 例えば、ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるという烙印のもとで、世界史上でも人類は囚われていたことを述べていると考えられる。世界史の盲点であったと言えるのではないだろうか。 ある時代からの 未来人は 人類が 愚かな争いを続けていた事と同じように、人類の愚かさの象徴 と記録するだろう。 数学では、加、減、そして、積は 何時でも自由にできた、しかしながら、ゼロで割れないという、例外が除法には存在したが、ゼロ除算の簡潔な導入によって、例外なく除算もできるという、例外のない美しい世界が実現できた(再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ― 7つの視点)。そこで、この弱点を克服する心得を次のように纏めている:
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
以 上
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