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西村博之2015年07月25日 06:44経営者が本を書くと、その会社は成長しない
若いころにどこかで聞いて、確認をしないままに年を経て、ようやく身の回りで起きて納得したことというのがちょこちょこあります。
その一つに「経営者が本を書くと、その会社は成長しない」ってのがあります。
若いころは、まだ、ほかの会社の成長というのを見ていなかったり、ほかの経営者がどういったことをしてるというのを知らなかったのですが、大人になってみると、この経営者はこんなことをしてるとか、この会社はこんなことをしてるってのが、なんとなく見えてきたりするんですね。
さてさて、生活や仕事をしていると様々な選択肢があるわけですが、コロンビア大学の教授が調べたところ、1日に平均的なアメリカ人が選択出来るのは70個ぐらいだそうです。
情報を入手して選択をするってのは、結構エネルギーがいるんですよね。
http://www.ted.com/talks/sheena_iyengar_choosing_what_to_choose/transcript?language=ja
そんなわけで、食事に行くときにメニューを見て食べ物を決めたりするわけですが、自分で払うときは、一番安いコースを見て、それで良さそうだったら、一番安いモノ、それが嫌だったら2番目を見るという感じで、選択肢を無意識に減らす生活をしているおいらです。
ちなみに、ほかの人に奢ってもらうときは、一番高いモノを頼んで大丈夫そうだったらそれを頼むという選び方をしているおいらです。
飲み物を頼むときは、飲んだことが無いモノがあったらそれを選ぶとかとか。
ちなみに、スティーブ・ジョブスがずっと同じ服を着てたとか、オバマ大統領がほぼ同じスーツばっかり着てるとかってのを聞いたことがある人もいると思いますが、アレも決断する回数を減らすためだそうですね。
http://www.vanityfair.com/news/2012/09/barack-obama-michael-lewis
んで、おいらは、選択肢を減らすってのは無意識にやってることなんですが、高校生のときに買った服を未だに着てたりするのは、服を買いに行くとか、服を選ぶというのがめんどくさいんですよね。。
ということで、いきなり結論になりますが、「本を書く」ってのは、「どこまで書くのか?」「どういう言葉で伝えるのか?」「誰に向けて書くのか?」とか、決めなきゃいけないことがすげー多かったりするのですよ。
例えば、おいらのこのページは、「ひろゆき日記」って名前ですけど、1年に数回しか書かないわけですよ。
200ページの書籍だったら、これの50倍とか書くわけですよね。
ってことで、相当のエネルギーを使ってしまうのと、本を書くことで得られる社会的な評価とかで、自己承認欲求とか満たされちゃったりして、元々は、仕事をすることで得られていた欲求やらが充足しちゃったりするんですよね。
ってなことがあるので、「経営者が本を書くと、その会社は成長しない」って結論を誰かが言っていて、それをおいらが思い出したという昨今だったりします。。
貧乏な人と金持ちで生活のストレスが違うって話がありますが、300円のパンを買うか買わないか?とか貧乏だと迷うんですよね。
金持ちだと欲しければ買うだけなので、迷ったりしない。
そんなわけで、金持ちのほうがストレス無く生活出来たりするわけです。
ちなみに、おいらは、「基本的に買い食いはしない」というルールを持ってるので、買わないという選択を迷わず選べるわけです。
#ということで、いかに物事を決めないで暮らすか、、という怠惰の勧めなんですが、
#迷わないためのルールを決めると、ストレスの少ない生活が出来ますよ。。と。http://blogos.com/article/124543/
型を決めるは 余計なことを気を使わない良いことでは?
それらが、習慣や文化の基礎では?
再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
本(ほん、英: book)は書物の一種であり、書籍・雑誌などの印刷・製本された出版物である。
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは, 視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上
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