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シェアーズカフェ・オンライン2015年07月09日 05:00「出産シーン放映は子供のいない人への配慮が欠けている」発言の裏にあるもの - 朝生容子
森三中の大島美幸さんが撮影した自らの出産シーンをTV番組で放映することについて批判が集まったことが報道されました。主な批判の声は「出産まで芸にするのは気持ち悪い」「産みたくても子供を産めない多くの女性に対して何も配慮がない」といったものとのこと。
私は不妊治療をしたものの、子供が授からなかった人間です。友人、知人の子供の写真を見て、心穏やかでないことは確かにあります。しか「配慮がない」とまでは感じません。それで心が乱されるのであれば見なければよい話であって、相手を批判するのは筋違いな気がします。
一方で、こうしたやっかみのような意見がなぜ出てきたのかということにも興味をひかれました。背景には、他人への嫉妬を助長させてしまう現代の社会構造があるのではないでしょうか。
■「子なし」も「子あり」もお互いをやっかむ
「子あり」と「子なし」女性の関係について、2015年4月20日発売の週刊誌『AERA』で興味深い特集が組まれていました。『子どもがいないとダメですか?』と題されたこの特集、『いまの日本には、“子どもを持たない”ことが肩身の狭さにつながる、「子なしハラスメント」とも言える空気が広がっている』といった指摘をしています。
育児休暇制度が整備され、以前に比べると出産しても働き続けるのが主流となりつつある今日、子供を持たないで働いていると「なぜ?」「子供はかわいいよ」と一方的に子供を持つことが良いとする価値観を押し付けられることへの抵抗を訴える声も掲載されていました。
一方で、子供のいる人たちも、子供がいない人にやっかみを感じることもあるようです。筆者は、結婚しているものの子供を持たないまま、20年以上企業で働いていました。ある日、子育てのために仕事を辞めた学生時代の友人に、「恵まれているわね、好きなことができて」「子供がいると勝手はできないのよ」と言われたことがあります。かちんと来ると同時に、心底驚いたことを強烈に記憶しています。
毎晩、夜遅くまで仕事に追われ、電車で帰られたら御の字という生活。社内の調整にあけくれ、お客様の要望に右往左往する日々。そんな私の状況が「恵まれている」?こんなに苦労している私の仕事が「勝手」?私から見たら、子供を育てながらも趣味を楽しんでいる彼女こそ、「恵まれている」と思え、「別に勝手しているわけじゃないわよ。あなたのような生活が『恵まれている』というのでは?」とつっけんどんに返事をしてしまいました。学生時代に仲良くおしゃべりしていた友人でも、子供の有無でこんなに考え方に差ができてしまうのかと愕然としたものです。
いま振り返ると、彼女も子育てしている中で悩むことも多く、なかなか解消する場を見つけられずに悩んでいたのではないかと思います。家庭の外で仕事をしていることが彼女には「本来ならすべき家庭のことを放棄して自由にやっている」ように思えたのでしょう。
■「やっかみ」を助長しやすい現代社会
ここで見えるのは、お互いの状況を思いやることができない余裕のなさです。当時の私たちは、それぞれが仕事や育児に追い立てられせっぱつまった状況にあり、相手の状況を思いやる余裕を持てずにお互いの主張をぶつけ合っていました。
加えて、「こうあるべき」と社会的規範から生まれる理想と現実とのギャップが、自分自身を追いつめていました。結婚したら子供を持ち、妻として家事もきちんとこなさなくてはならないという理想に対し、私の場合、仕事に手を抜かない一方で家庭のことはおざなりになっていました。そのことにどこか後ろめたさを抱いており、友人の「勝手している」という言葉にその気持ちを指摘されたような気がして思わず反論してしまったのです。
最近では、SNSを通じて、友人の「リア充」ぶりをいやでも目にしてしまうことで、ますます自分の現実と理想像のギャップに悩むことが増えているように思えます。昔は通勤時間には考え事をしていたのに、今はスマートフォンや携帯をのぞいて、巷の情報を収集してしまう。そこで飛び込んできた友人の充実した生活ぶりに、ますます焦りを募らせる…。
そうした焦りは容易に他人へのやっかみにつながっていきます。子供のいる女性、いない女性に限った話ではありません。誰にでも起こりうることです。また別に非難されることでもありません。人間の心理として自然なことであると私は思います。
ネットは、そうしたやっかみの声も必要以上に増幅して伝えます。大島さんの番組への「子供のいない人への配慮がない」という意見も、ネットのない時代なら、自分の周囲の親しい人の間で言われていただけだったのに、ネットに乗った瞬間、拡声器にのったように拡がります。そしてそれがさらに批判を呼びます。
■やっかみの増幅サイクルから脱するには
やっかみと批判の増幅のサイクルから自分を守るには、ネット環境から距離を置き、情報の洪水から離れることが手っ取り早い方法です。できれば、ふだん生活している場所から物理的に離れることをお勧めします。日常から距離を置くと自分自身も客観視しやすくなるからです。
自分を見つめなおし、自分のやっかみがどこから生まれてくるか見つめることで、本当は何を求めているかに気づきます。自分がいま取り組むべきことが明らかになれば、他の人と比べて焦りを感じることも少なくなります。他者の状況を考える余裕も生まれてくるでしょう。
私たちはネットの恩恵を受けると同時に、マイナスの影響も多大に受けています。情報洪水や技術革新から無縁でいることは難しい今日、自分たちで身を守る術を見つけていきたいものです。http://blogos.com/article/121467/
この文 全体に対して感じることは、個の確立、 人は人、 自分は自分、 あまり他の人を参考にしても、比較したりしない、それぞれに自由で、立場を尊重するでは如何でしょうか?
再生核研究所声明 69(2011/09/27) 単細胞人間 ― 単細胞的思考
(背景: 2011/09/22 宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)
単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。
まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。
相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。
次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。
上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。
1) 絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2) その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3) みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4) 特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5) 世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6) 一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7) くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8) ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。
これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。
なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
以 上
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