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ヒロ2015年07月25日 10:00もう一つの「失われた20年」、近代史を必須科目に
安保関連法案を巡る熱い戦いを見ていて岸首相がアメリカとの安保を締結した60年安保と思わず比較してしまいました。(と言っても私はまだ生まれていませんのであくまでもその後、見聞きしたベースですが。)60年安保は終戦からわずか15年後ですから戦争経験者が国民の主流であり、多くの方が高いインパクトの体験を通じて熱い運動と繋がっていったのでしょう。
国会周辺を埋め尽くすデモ隊や羽田に到着したハガティ大統領報道官を取り囲む人々から救出するために米軍のヘリが駆け付けたというとんでもないレベルの熱さがありました。
今日の安保に対する賛成論、反対論が当時と比べ今一つ迫力が欠けるのは戦後70年もたち、経験者がマイノリティであることが一つあるでしょう。またアメリカとの安保を通じて、金儲けための安全コストは無料というイメージが長く続きすぎたこともあるでしょう。街中には街宣車が「戦争法案反対」と走り回り、駅前にはマイクを片手に反対運動をする姿も見かけましたが、なぜかピンと来ないのは反対派もいきなり「戦争法案」という三段飛びのような話を切り口とするからでしょうか。
安倍首相がテレビ出演して理解を深めようと努力もされていましたが、首相の顔つきも堅かった気がします。日曜日の夜の視聴者はもっとバラエティに富んだ人々なのですからあんな応戦型の国会のやり取りのようではない方が良かった気がします。視聴率低下で悩むフジにしては頑張った企画でしたがちょっと残念な気もしました。
ところで赤坂真理氏が「東京プリズン」という長編小説で各種賞を受賞しています。この小説の骨子は主人公の女子高校生がアメリカのメイン州で天皇の戦争責任についてディベートさせられるという内容です。しかもディベートいう名の一種の裁判で主人公は天皇有罪側に立て、という先生からの指示に苦しむというストーリーなのですが、全篇共通したトーンは「自分は東京裁判なんてほとんど知らない。戦争責任なんてわからないし、日本の憲法はアメリカが作ったということをアメリカ人の学友から教わり驚愕した」という点でしょうか?
私はこの本をイライラしながら読んだのですが、途中からこれが現代の典型的日本人ではないか、と思い返しました。私を含め、戦争を知らない世代は何時の間にか世界トップレベルとなった経済大国の傘で一流っぽく振る舞い、幸福で喧嘩なんか知らない時代を何十年も享受しているのだろうと思います。
日本は安全をアメリカにお願いし、防衛のための戦闘機などの出費はとてつもなく高いモノでも購入することで安全費用の一部を負担しているようなものでしょう。でも国民はそんなことは知るすべもないし、興味もありません。
戦争を知らず、高度成長期や成熟経済期を通じてうまいもの、高品質のモノ、ITガジェットで悦びを享受している我々世代に必要なのは過去をもっと真剣に勉強することでしょう。戦後70年なら祖父母から当時の話を聞くことも可能です。上述の「東京プリズン」では主人公が「学校では習わなかった近代史」に後悔するシーンがところどころ出てきます。海外の若者は学校で勉強していても当の日本人は知らないわけです。当然、あの時何が起きたか、という話がでても反論一つ出来ないようにしたのは日本の教育そのものでした。
一般的に「失われた20年」とはバブル崩壊後の日本のことを指しますが、私達の本当の失われた日本とは昭和20年までの20年間を戦後教育から抹消して記憶喪失にさせたことではないでしょうか?
私は奇異な性格なので必死に当時のことを紐解きました。今でも継続的に関連の書は読み続けています。しかし一定の理解をするのに時間がかかったのは焦点をどこに合わせるのか分からなかったからでしょう。天皇か政府か軍部なのか、はたまた海軍と陸軍もずいぶんの差があり、誰が主導権を持っていたのか教えてもらわないとさっぱりわからないのがこの失われた20年の最大の特徴であります。
近代史の理解は今だから必要でしょう。安保関連法案の本質的意味合いを理解したうえで賛成反対を唱えている人がどれだけいるのでしょうか?それを考えるとまずはその20年を徹底的に洗い直し、国民がもう一度考え、学生は勉強し、そこから議論しなければいけないのかもしれません。
今日はこのぐらいにしておきましょう。http://blogos.com/article/124576/
国民の中には、アメリカとともに 血も流す必要を 認めているのでは?
再生核研究所声明242(2015.7.24)参議院の良識と自立性によって安保法案をほうむれ
今朝は奇妙にも、変なことを夢、夢現に考えが湧いて目を覚ました。たわいものない考えかも知れないが、いわばひとりでに啓示として思いが湧いたので、表現して置きたい。 当然、次の文脈で考えが湧いたものである:
(再生核研究所声明241(2015.7.23)不幸な日本の政治状況 ―文化力の弱体さを露呈
再生核研究所は より良い社会を築くには政治が重要であるとして、時折々に素人として政治状況に対する見解を表明してきた。しかるに最近 安倍政権で 憲法を逸出するのではないかとの疑念の下、安全保障関連法案は
安保法案 衆院本会議で可決(NHKニュース):
7月16日 15時01分
今の国会の最大の焦点となっている、集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法案は、衆議院本会議で採決が行われ、自民・公明両党と次世代の党などの賛成多数で可決されて、参議院に送られました。仮に参議院で採決が行われない場合でも、自民・公明両党は、いわゆる「60日ルール」を使って衆議院で再可決することも可能で、安全保障関連法案は今の国会で成立する公算が大きくなりました。
の通り 成立の見通しである。
再生核研究所の志向する日本の国家の在るべき姿は、現在の平和憲法の精神に近く、安倍政権が進めている基本的な方向とは 相当に違うものであることは、従来述べてきた通りである。そこで、再生核研究所の考える視点から、日本の文化力の弱さを指摘して、国民の奮起を促したい。続く)
まず、参議院について、ウィキペディアで確認して置こう:
日本国憲法下で衆議院とともに国会を構成している一院(日本国憲法第42条)。旧憲法下の貴族院とは異なり全国民を代表する選挙された議員で組織される(日本国憲法第43条第1項)。参議院の名称は、8世紀の大宝令制定直後に追加された令外官の参議に由来する。
一般の両院制の意義と同様、衆議院とは異なるプロセスで選挙や審議を行い、多元的な国民の意思を反映することが期待される[2]。
参議院議員の任期は6年で、衆議院議員の任期(4年)より長い。また、衆議院はたいてい任期途中で解散となるため、実質的な任期の差はさらに広がる。解散がされる衆議院と異なり参議院には任期途中での解散がなく、改選の方法も衆議院のような全員改選ではなく、参議院では3年ごとの半数改選が行われる。内閣不信任決議は衆議院のみの権限であるが、参議院の権限は決して無視できないものであるため、内閣は常に両院を意識する必要がある。確かに、内閣総理大臣の指名、予算の議決、条約の承認については衆議院に絶対的な優越があるが、法律案の議決については相対的な優越しかなく、憲法改正案の議決に関しては完全な対等である。しかも、憲法ではなく法律にもとづく国会の議決に関して対等の例が数多くある(国会同意人事等)。そのため特に衆議院の多数会派と参議院の多数会派が一致していないときには政権運営に大きな影響を及ぼすことがある。
参議院については衆議院と全く同じ意思を示すと「カーボンコピー」と揶揄され、衆議院と正反対の意思を示すと「決められない政治」と言われる難しい存在であるという指摘がある[3]。
貴族院を前身とする参議院には玉座がある。また、衆議院にも「御所席」と称せられる玉座が置かれている。
そこで、参議院は良識の府として、衆議院に従属した院ではなくて、国家の在るべき姿を長期的な視点から、世俗からも超越した院として、憲法違反の色彩の強い、しかも国是の大幅な変更をもたらす安保関連法案を廃案にして、良識の院の存在を内外に示す絶好の機会として考えられるのではないだろうか。 参議院議員は 党に拘束された存在ではなくて、良心に従って行動できる存在で在って欲しい。 そのために長期の身分の保証があるものと考えたい。参議院議員は高貴な存在であれ。参議院議員各位のご検討を提案したい。
以上
再生核研究所声明241(2015.7.23)不幸な日本の政治状況 ―文化力の弱体さを露呈
再生核研究所は より良い社会を築くには政治が重要であるとして、時折々に素人として政治状況に対する見解を表明してきた。しかるに最近 安倍政権で 憲法を逸出するのではないかとの疑念の下、安全保障関連法案は
安保法案 衆院本会議で可決(NHKニュース):
7月16日 15時01分
今の国会の最大の焦点となっている、集団的自衛権の行使を可能にすることなどを盛り込んだ安全保障関連法案は、衆議院本会議で採決が行われ、自民・公明両党と次世代の党などの賛成多数で可決されて、参議院に送られました。仮に参議院で採決が行われない場合でも、自民・公明両党は、いわゆる「60日ルール」を使って衆議院で再可決することも可能で、安全保障関連法案は今の国会で成立する公算が大きくなりました。
の通り 成立の見通しである。
再生核研究所の志向する日本の国家の在るべき姿は、現在の平和憲法の精神に近く、安倍政権が進めている基本的な方向とは 相当に違うものであることは、従来述べてきた通りである。そこで、再生核研究所の考える視点から、日本の文化力の弱さを指摘して、国民の奮起を促したい。
まず、再生核研究所の立場は、素人的、自由な立場による、自由な意見表明であり、特定の考えにとらわれることを嫌う精神である。この立場からも、安倍政権の進めていることはよく理解できるところで、それを、アメリカとの関係を一層蜜にして、超大国アメリカの傘の中で日本の繁栄を志向しようとする姿勢であると考えられる。他の大きな考え方として平和憲法の精神で、日米関係を重視するものの、より自立した、アジアに根付いた日本国を目指すという考え方を 再生核研究所は志向している(再生核研究所声明 46: 日本国の1つの国家像、あるべき姿について)。
本声明の主旨は、現在、安倍政権が強く、野党の力が失われ、いわば政権の暴走の状況に至ったと判断して、どうしてこのような事態を迎えたかという、判断を表明し、 日本国の政治面における文化の弱体の様を明らかにして、弱点の克服を期待したいということを述べることである。
野党の弱体化は 政権交代を実現させた、いわゆる小沢氏への検察、マスコミの政治介入の帰結であると判断している(再生核研究所声明 23: 秘書の逮捕、起訴事件における検察庁の対応と公正の原則; 再生核研究所声明 30: 検察庁の暴走と民主主義の危機 - 広い視点)。安倍政権の目指す国家像と対立する国家像を明確に掲げた小沢氏への政治介入は 現在の野党の力を著しく弱体化させ、健全な頼るべき野党として、共産党の躍進を前回の衆議院総選挙で齎した。それゆえに、小沢氏の衰退が、現状を齎すであろうことは十分に予知されたことであり、今更に安倍政権を批判しているのは、相当にピンボケの論調、世相に見える。小沢氏への政治介入、圧力を跳ね返せなかった日本の政治面における文化の低さは、マスコミのレベルの低さとして、国際的な悪評になっているのは 世界的な評価ではないだろうか。小沢氏や鳩山氏のいない民主党など、信頼できず、亡霊のような政党と、小沢氏を一貫して支持してきた多くの国民は考えているのではないだろうか。また、我が国の文化の低さに嘆かざるを得ない(再生核研究所声明87(2012.4.26): 小沢氏の裁判問題 ― 司法界とマスコミ界に断罪を)。しかしながら、何とかして野党の復活、再建を図ることは、大いに大事ではないだろうか。日本では未だ、自立心さえ持てないようである。世界的にも 永い歴史と高い文化を持つ国として おかしいのではないだろうか(再生核研究所声明 123 (2013.8.18): 日本国の自立を求めて ー なぜ自立を求めるか -それは、 日本の固有の美しい文化を維持、発展させるためである)。
以上
再生核研究所声明239(2015.6.23)自由な立場の人の意見、発想の尊重を
もちろん人は自分が大事で、個人はまわりの環境に気を使うものである。環境とは所属する組織や職場、交流関係やまわりの地域である。よく在るとは 環境と個人が上手い状態に調和していることであるから、個人の存在は極めて、環境の影響を強く受けるものである。このことは 自由というものが 実はそう簡単ではなく、実際は意見表明や 行動も環境の影響を強く受けているという事実である。多くの場合、その人の背景、環境を、考えれば、意見表明がどうしてそのようなものであるかを、推し量れるだろう。
意見表明と言えば、政策の表明が 社会に大きな影響を与えるという意味で重要である。大事な方針になればなるほど、政治家個人の意見は 党の方針や政策の基本に縛られるのは当然であり、党の方針が定めれば、多くは相当に個人の意見は表明できない立場になってしまう。最高権力者の決定は 殆どは各級機関の決定による形式的な裁可の形をとらざるを 得ない。組織として、社会として当然である。
ここで述べたい主旨は、人は環境の影響を強く受けていて、個人の意見の表明は難しく、多くの意見がどのように環境の影響を受けているか、背景に思いを巡らすことが大事だということである。
このことは、個人の自由な意見表明が難しく、縛られており、多くの真実、あるべき意見、考えが各級の組織に縛られていて、必ずしも適切な在り様が 顕にならず、おかしな世相を形作る危険性があるということである。少数政党政治で政党政治が進めば、意見や考え方は限られ、縛られ、多くの意見が活かされず、多く人々の意思を反映できず、支持政党なし、政治に無関心な層を増大させるのではないだろうか。この辺の在り様が民主主義の難しさの本質的な点ではないだろうか。
上記で、組織の意見は組織の利益を反映させるものであるから、世に在るべき在り様があるとすれば、それを公正に判断できる者は、内容の利害に直接関与しないいわば、自由な立場の意見を重視するのが大事ではないだろうか。世に多くの評価委員や審査委員を、直接決定結果の利害に関与するような立場の者から除くは 相当に当たり前の常識ではないだろうか。しかしながら、社会では、その辺の常識が崩れていることは 実は多いのではないだろうか。特に政治的な社会では顕著ではないだろうか。重要な人事で 人事権を有している者が自己の立場を有利にする立場で行なうは 相当に普遍的である本質的な面もある。学術界でも、芸術界、スポーツ界、いろいろなサークルでも自分たちの仲間の利益を自然に考えてしまうのは、高度化、細分化、孤立化の傾向の結果として自然なものである。そこで、そのような影響を受けない、第3者的な自由な立場の意見などの参照は大事ではないだろうか。公の立場や公正な立場を考えて行なうのは 場合によるが相当に無理な要求ではないだろうか。 そこで, 仲間や自分たちの利害を考えて判断する弊害が出る。声明の題名の主旨は、自由人の意見の尊重で 内容によって、公正な立場を取れる人の意見の尊重、人の活用を考えるということである。
ここで自由人の意味について、素人の意見という視点も大事ではないだろうか。専門馬鹿という表現が有るように 専門家は 狭い専門的な世界に入り込み、孤立化し、視野の狭い、独善的で、おかしな判断になる面もあるので、いわば素人の意見を参考にするのは良いことではないだろうか。素人とは、自由人であるとも言える。 ― いわゆる裁判員制度は、制度の善し悪しは問題としても、基本精神としては そのような大事な発想から出ていると考えられる。
日本のマスコミの信頼がゆらぎ、言論界の人の意見が おかしいのではないだろうか という、疑念の空気は相当に強いと言える。それらは、何か見えない圧力が利いていて、自由な意見では 既にないのではないか、という疑念に満ちた世相の増大ではないだろうか。多くが利益や圧力で動いているのではないかという 疑念を感じさせられる世相ではないだろうか。 マスコミや言論界が多様な意見を紹介して、適切な判断ができるように絶えず、努力するのは当たり前であるが、多様な意見を 自由な立場の意見か、特定の利害に縛られた意見かを良く、見極めて対処するのが大事ではないだろうか。
少し、複雑な内容になったが、この声明の主旨は表現されているのではないだろうか。
以上
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