2015年7月20日月曜日

記事 かさこ2015年07月14日 12:08このカレーが1300円!高い!まずい!へぼい!おもてなしなき地方空港が地方のイメージダウンに貢献

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かさこ2015年07月14日 12:08このカレーが1300円!高い!まずい!へぼい!おもてなしなき地方空港が地方のイメージダウンに貢献



このくそまずそうなカレーライスは、旭川空港のレストランで1300円するもの。30年前ならともかく、空港という既得権益を利用し、高い、まずい、へぼい料理を平然と出す、地方空港のレストランが、旭川空港に限った話ではなく、未だ多いことに唖然とする。

地方に旅行や出張してがっかりすることといえば、地方空港のレストランの値段の高さ、料理のまずさ、サービスの悪さだ。地方活性化だの地方創生だのと騒いでいるけど、だったら、地方空港に地元の名物料理を出す、選りすぐりの名店集めることをまずやれよと思う。

一昔前より地方空港のレストランのレベルは上がっていると思うし、北海道の新千歳空港のように、選りすぐりのラーメン店を集め、市内で食べるのと同じように、おいしくてそんなに高くない店をそろえる空港も増えてはいる。 

(新千歳空港のラーメン。うまい!)
しかし地方空港のレストランは総じてひどい。

出張で地方で行く場合、わざわざ宿泊しなくても、仕事だけして日帰りで帰れちゃうことが増えたが、そんな時に唯一の楽しみは地方の名物料理を楽しむことだ。

日中は仕事で忙しくて町で店に行く時間がなかった。ならばせめて帰りの飛行機に乗る前に、空港で名物料理でも食べて帰るかと思うビジネスマンも多いと思うのだが、そこでがっかりする人は多いのではないか。

「なにこれ?こんなんだったら東京で地方の名店に行った方がマシだよね」
「なにこのひどさ?だったら東京についてから食べるわ」

町への利便性が悪いという立地を悪用した、地方空港の殿様商売ともいうべきか、サービスは悪い、接客は悪い、値段は高い、味もたいしておいしくない、量も少ない、営業時間が短いなどなど、ろくでもないところもまだまだある。

地方空港に限った話ではないのだが、営業時間が短いのも問題。早朝の飛行機を利用すると空港の飲食店や売店がやっていない。いや客がそんなにいないならともかく、羽田空港はひどくってね、朝6時にならないと売店と飲食店がオープンしないもんだから、その前から多くの人が店前で並んでいる。 

(写真:朝6時の羽田空港。開店と同時に大行列)

この光景を何度見たことか。早朝便の利用者のこと考えて、20分ぐらい早めに営業することはできないのだろうか。

空港の飲食店のラストオーダーも異様に早い。最終便利用で空港ついて何か食べようと思っても、もうすでにほとんどの店が閉まっているのに度々遭遇する。空港利用者のことを考えて営業時間をもう少し長くできないのだろうか。

サービスや対応の悪さも空港はピカ一。先日、ある地方空港でレストランを利用した際、クレジットカードを出したら、「使えないから現金で」と店員。いやいや使えるでしょと何度も押し問答。結果、使えた。この店員がカード決済のやり方が、ちゃんとわからなかっただけだった。

わからないならわかる人呼べばいいのにさ、平然と使えないといってしまう素晴らしき根性。さすがは殿様営業の空港レストランの店員スタッフだけはある。

地方空港におもてなしの心がない。出張に行った帰りに、東京ではなかなか食べれない、とってもおいしい名物料理が食べられたら、その地方の印象はむちゃくちゃよくなるだろうし、「またこの料理、食べに来たいな」とか、「今度は家族を連れてくるか」とか思うわけです。

しかも、近年になって、地方の名だたる老舗や名物料理店が東京に支店を出するようになった。地方に行かなくても、地方で食べなくても、地方の名物料理が東京で食べられる。名物料理の味を知った東京人にとって、地方空港で出すまがいものの名物料理に、見向きもしなくなるのは当然だろう。

もちろん「空港のレストランは総じてまずい」というのは、今も多くの人にとって常識であり、「空港のレストランで食事をするおまえが悪い」というのは、最もなことだと思うのだが、出張とか旅行とかでもなかなか時間がなくて、市内で食べることができなかったり、余裕を見て空港に着いたので、空港で食事してから帰ろうという人も多いはず。そんな時にくそまずい料理をバカ高い値段で出すなんて、わざわざ地方の印象を悪くするようなものだ。

まったく地方空港のおもてなしにも力を入れず、地方が衰退しているからどうにかしろと、自分たちは何の努力もせずに金だけせびり、地方創生だのといって税金をネコババし、しょうもない一過性のことだけに金をばらまき、そんなんじゃ活性化するわけがないから、また何年か過ぎると、衰退しているから金をくれという、税金泥棒根性の地方。

まずはさ地方空港の食事レベルを上げることから、地方活性化に取り組んではどうか。目先の利益を得るために、空港という殿様立地にあぐらをかいて、高い、まずい料理を出していると、その地方に出かける人は少なくなるのではないだろうか。

空港は地方の玄関口。玄関口にわざわざまずくて高い料理を出してどうする?国内出張者だけでなく外国人観光客も多い地方空港。インバウンド消費バブルも地方空港の食事のレベルの低さで、わざわざ日本や地方のイメージダウンを促している。http://blogos.com/article/122481/


再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。

経過などは 次を参照:

再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案

これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM

以 上



再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/



再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと

世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。

国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。

特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。

この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。








ガロア ゼロ除算

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