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名月論2015年07月26日 07:52在宅医療の不思議
私は脳外科医なのですが、在宅医療にもかかわることがあります。
在宅医療というのは、
いわば外来診療+αのことを病院に通うのが困難な患者さんのために、
医師が患者さんの自宅や施設を訪問するような形で行うものです。
軽自動車で、患者さんのところを一軒ずつ回るような感じになります。
具体的にどんな感じかというと、
たとえば一人一軒ずつであれば、午前中の半日で5-6か所を回ります。
集団で一か所で10人近くみるようなこともありますが、
複数箇所を車で回るとなると、
やはり5-6軒が限界です。
診療自体には実はそれほど時間はかかりません。
それもそのはず、普通の外来診療にしたって、
特にかわったことがなければ、再診の場合は5分もかからないのが普通だと思います。
3分診療という言葉がありますが、
実際に継続内服薬の処方だけのようなときは、
3分どころか1分で診療が終わることだってあります。
在宅で回る場合は、
聴診や検温、血圧、血中酸素飽和度の測定など、
一通りのVital signの検査も行いますので、
やはり、患者さんの状態にとくに変わりがない場合であっても、
少しお話をしたりするのも含めて5-10分ほどです。
そうすると、複数の箇所に回る場合は、
実はほとんどの時間は移動時間だったりするんですね。
30分以上かけて車で向かって、
実際に診察自体は5分、というようなことがざらです。
なんだか、
車で移動することが一番大変だったりします。
もちろん、
それでも病院に通えない患者さんのために必要な医療であることは間違いありませんし、
とくに変わりない状態であっても、
定期的に僕らが通う事によって患者さんが安心するのであれば、何よりとは思います。
でも、いくつか不可解な点もあります。
これは診療報酬の話になるのですが、
つい昨年、在宅医療の診療報酬が下げられたのが話題になりました。
これまでは月に2回訪問するということで、
一人あたり管理料として46000円の収入になり、
また訪問ごとに特定施設などでは4000円の診療報酬を得ていました。
ところが、昨年の改訂で、
同じ建物内で複数の患者さんを診る場合には、
管理料についても訪問料についても、
診療報酬が半減以下となりました。
まあ、
月に2回訪問で、管理料46000円+訪問料8000円というのは、
いささか高すぎたのかもしれませんが、
改訂で随分と下がったことが事実です。
その後に月に1回までは同一建物でも訪問料が下がらないなどと緩和されたようですが、
昨年から厳しくなったことは事実でしょう。
このあおりを受けて、
収入確保のために、ややおかしなことが起きています。
本当であれば、
同じ建物内に複数の患者さんがいれば、
同じ日にまとめて診た方が効率がいいに決まっています。
これは、毎回車で通うコストも手間についてもです。
でも、同じ日に同じ建物で月に2回以上、複数診てしまうと、
訪問料が下がるということで、
いっぺんに診れるところを、
あえて日を変えて別々の日に診たりしているのです。
これは患者さんのため、というのではなく、
医院側の収益のためということです。
同じ日に同じ施設に2人以上の患者さんがいたとしても、
医師が2人いれば、別々に回ったりもします。
なんだか、
医療費を抑制するために、国がおこなった改訂と、
その抜け穴を探そうとする在宅医療機関側の、せめぎ合いですよね。
結果として、現場の移動にかかわる手間は増え、
診療に関する所以外での労力が増えてしまっています。
確かに在宅診療がもうけ過ぎていたということはあるとおもうのですが、
それを改訂するにしても、
もうちょっと賢い方法がなかったのかな?
と思ってしまいますよね。
結局下げたあとに緩和策も出しているわけですし。。。
なんだか、
国立競技場の件もそうですが、
日本の省庁のつくる制度というのは、現実にそくしていないというか、
改訂をしたときに、実際に医療機関が収益を維持するために、どのように動くか?
ということを全く考えていないような気がしてなりません。
なんだかなぁ、
といつもいつも思ってしまいます。
もし、何か同じようなことを思った人や、
在宅に関わっている方がいたら、ご意見お待ちしています。http://blogos.com/article/124666/
確かに規定などを作る際、総合的な検討の関係者を交えてきちんと作る、策定すべきですね。
再生核研究所声明 47(2011.02.08): 肯定死
(2011年1月5日 9時10分、 浅草に近づき、電車の窓外の空を見たときに電光のように閃いた考えです。 新しい声明の案がひとりでに、わきました。 全構想は瞬時にできていましたが、それを検討し、成文化したものです。 題名は肯定死、という 現代では問題のある思想です。人間の終末に対する新しい考え方です。これは社会的影響が大きいと考えられるので、全文は 当分、公表を差し控えたい。)
そもそも人生とは何か、これを内からみれば、人生とは、個人の考え、知り、感じ、予感し、想像する、すなわち、知覚する全体であり、それらが良いと感じられれば、それだけ良い人生であると言える(声明12: 人生における基本定理)。 しかしながら、我々はまず、個々の人間を越えて、存在し、生き続けていく、 元祖生命体の考え (声明36) をしっかりととらえ、 生命の基本定理 (声明42) - 生きて存在しなければ、 何も始まらない - 元祖生命体の生存に心がける、 最も大事なこと(声明13)に思いを致すべきである。しかしながら、個々の人間は、遺伝子の乗り物のように滅びていくのが、事実であり、それはあらゆる生物の運命であると考えられる。 しからば、その人間の終末は如何にあるべきか。 それはちょうどあらゆる生物の終末のように、意識の存在の有る無しに関わらず、生物個体の生命として、人事を尽くして、少しでも生命を長引かせると考える、伝統的な考えは それなりの固有な意義を有するものであると考える。 否定するものではない。(以下 当分非公開)
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