ソーシャルメディアとマスメディアが混ざっていく「メディアの液状化」が起きている
SNSをやめる人が続出? なぜTwitterは面白くなくなったのか
2015年06月02日 10時00分更新
文● 高橋幸治、西牧/ASCII,jp
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かつての大学の教え子であるASCII.jp編集部の西牧氏から「最近、ソーシャルメディアに対して漠然とした、得も言われぬ違和感がある」というメールをもらい、ではその原因を考えてみましょうということでこの連載が始まった。
しかし、この「漠然とした、得も言われぬ」というところがかなりミソで、実は私も「それはね、こういうことが原因です」と即座に答えられるわけではない。
ただ、TwitterやFacebook、Flicker、YouTubeといったSNSが登場して今年でほぼ10年ということもあり、黎明期の理想像と現在の状況とのズレや、同時に進行しているインターネットを震源としたメディアの地殻変動、そしてわれわれを取り巻く情報環境の量的/質的な変容を考察してみると、何らかの手掛かりがつかめるかもしれないという気はする。
そもそも西牧氏の言う「違和感」は、おそらく、ある種の「残念感」と、一抹の「嫌悪感」を含んでいるように思う。つまり、(私自身もこのところよく耳にする)「Twitterが面白くなくなった……」的な感覚である。確かにそうなのかもしれない。私自身もそう感じるているうちの一人だ。では、多くの人たちはいったい何にガッカリしているのか?
ソーシャルメディアの使われ方が変わったのかもしれない
まずは西牧氏が抱いている違和感を見ていただきたい。以下はもらったメールの要約だ。
最近「Look Up」という動画を改めて観た。「スマホを捨てて、顔を上げよう」というメッセージを伝えるものだ。
こちらは日本語の翻訳が付いたもの。元の動画は2014年4月にアップされ、現在までで5000万回以上再生されている
改めて観るとメッセージがとても身近なものに思える。動画のように、ソーシャルメディアをはじめとした、スマホから見られる情報に違和感を覚え始めていたからだ。
最近FacebookやTwitterを見る回数が、利用し始めのころより確実に減った。当初は、友人や手の届かない有名人と会話などができ「つながっている」という印象があった。
ところが今は極端に幸せそうな様子や、炎上気味のネガティブな投稿がTLに並ぶようになり、おもしろさを見いだせなくなってきている。また周囲の友人たちも同じように思っているのか、SNSをやめた、という人が増え始めている。
もしかしたら、つながっている、と思っていたSNSが別の役割になり、ソーシャルメディアそのものに違和感を持っている人が増え始めているのではないか。
こうした違和感の正体を教えてほしい。以前「Look Up」をウェブマガジンで紹介したとき、「ソーシャルメディアが秘めている可能性を、我々は本当にうまく引き出すことができているのか?」と書いていたが、そういったことと関係があるのかを知りたい。
高橋さんがウェブメディアで取り上げたのは2014年5月のことhttp://ascii.jp/elem/000/001/010/1010607/
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
あらゆる生物の最も基本的な本能は、外部から取り入れるという、食の本能である。生きている顕著な営みであると言える。 この基本的な本能から、人間の基本的な要素を分析、考察し、人生の基本を理解したい。
認識できる人間は 自己の生命が求めていることを、欲求や欲望、求める、欲しいという感覚で自覚するが、求める、欲しいの 最も基本的なものは、空腹を満たし、食べたいという、欲求である。もちろん、苦痛からの解放など、生存を脅かす状況からの解放は当然である。
このことから 既に、人間が有限の存在であることを知る。食欲といえども食を無限に頂くことはできず、どんな好物でも やがて、飽きるだろう。有限のものを取り入れている存在であると言える。何を頂くか、何を頂きたいかは、我々の生命が何を要求しているかの 要求の自然な表現として現れていると考えられる。基本的には 好きなものを好きなだけ頂くのが 健康にも良いと考えられよう。 その原理は多様な食から、変化を持たせて、適度に頂くが基本ではないだろうか。すなわち、多様性の原理とそれを実現させる 飽きるという重要な感覚がある。 飽きるという感覚が無ければ、食に偏りを生じ、複雑な生命活動を維持するのに支障が生じるだろう。
この声明の趣旨は、ちょうど食欲の状況のように、外部からの情報を取り入れて 豊かな精神活動を展開しようという観点に思いを至らしむことにある:
1) 我々は有限のものしか受け入れられない、制限があること
2) 我々の生命が 心が何を求めているかを 注意深く絶えず、己が心に尋ねること;
生きたい、死にたくない、良く暮らしたい、それらを越えて、生きるということは どのようなことか、自らに問うて行きたい。
3) 何事集中しすぎると飽きてくるので、間を考え、適度に変化を持たせること
4) 生命作用は複雑な存在だから、幅広い世界、情報に接するように配慮すること
5) 年齢、健康状態、環境などに影響をうけること
6) 慣れる、習慣、学習効果などにも配慮すること。
近年、インターネットの普及で、名曲や名画、映画の名場面など繰り返し、繰り返し楽しむことができる時代を迎えている。また、知識や情報が幾らでも入り、友人、知人、友達など幾らでも増やせる自由な時代を迎えている。それゆえに逆に、自己の世界をきちんと整理、制御して、取捨選択をきちんとして行かないと、いたずらに情報に振り回されて、適切でない食生活が健康を害するように、我々の精神を害することになるだろう。大いに気を付け、配慮して行きたい。
食も、飽きるものと、飽きないで、基本的に続けられるものが在ることにも注目したい。確かに定食など永く続けていても 適当な間隔で頂けば、飽きないで永続できるものがある。水やエネルギー源などは 基本的に必要であり、精神活動でも適度な刺激、変化、発見など、同様に基本的に心がけなければならないものが有り、また、いくら続けても、求道、芸術や研究活動などの創造活動のように 続けられる分野 が有ることに注目したい。
したがって、そのような永続するものを しっかりと受け止めて、適当に揺らぎを取り入れた生き方が、人生を豊かにする秘訣であると言えるだろう。
個人にはそれぞれの才に器が有り、生命作用は内部から、湧いている。教育の原理は その生命作用を補助することにある。 日本の公教育の現状は 個人の食欲を弁えず、一方的に強制して与えすぎで、消化不良と分裂、混乱させ、不健康な人間を大量育成している状況が有るのではないかと危惧している。これは、2500年も前に 中国古代で、既に注意されている事実である(再生核研究所声明2:教育方法では、学生の過誤を未発のうちに防止することを予という。学生の学習状況に応じて、ちょうど好い時に教えることを時という。学生の(受容能力の)程度を越えぬようにして授業することを孫(順当)という。 学生が互いに注意して言行を善美にしてゆくように指導すること、これを摩(磨)という。 これらの四事は、教育の効果を大きくする善法である。)。
美しいものをみたい、聞きたい、義に生きたい、人生の意味を知りたい、真相を知りたい、世の法則を知りたい、道を究めたい などなどは、食欲と同様、我々の生命が求めているのである。 実際、我が生命は 何を求めているのか と 絶えず、自らに問うべきである。 これは 人生の基本定理 を内から表したものである(再生核研究所声明 12:人生、世界の存在していることの意味について)。
以 上
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