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ビデオニュース・ドットコム2015年06月20日 19:59なぜ違憲の安保法制に党内から異論が出ないのか
村上誠一郎氏(自民党衆議院議員)
マル激トーク・オン・ディマンド 第741回
どうも自民党の様子がおかしい。
もちろん自民党には結党当時から自主憲法の制定を主張する、いわゆる「タカ派」の人々も大勢いた。旧民主党の流れをくむ政治家たちだ。しかし、その一方で、かつての自民党では、党のタカ派色が前面に出過ぎるようになると、いわゆる保守本流と呼ばれる穏健派の政治家たちを中心に極端な右派路線に対する異論が巻き起こり、党はある種の自浄作用を発揮して、極端な路線は修正されてきた。その絶妙なバランスこそが、有権者が安心して自民党に政権を託してきた理由であり、正に自民党が国民政党であり続けてきた最大の理由でもあった。
ところが、2012年に民主党から政権を奪い返してからの自民党は、武器輸出三原則の緩和、NSCの設置、特定秘密保護法、そして集団的自衛権の行使を可能にする安保政策の転換と、過去のどの政権もが為し得なかった右寄りの重要政策を矢継ぎ早に打ち出し、実際にそれを数の論理で実現してきた。
政治に決断力や実行力があること自体は決して悪いことではない。しかし、一連の政策の多くは、戦後の日本が培ってきたかけがえのない国際的な評価や、我々日本人の多くが国是として大切に守ってきた価値を根底から覆すようなものを多く含んでおり、慎重にも慎重を尽くす必要があるものばかりだった。それを一内閣がいとも簡単に転換することのリスクは計り知れないほど大きい。
にもかかわらず、自民党内からこうした一連の政策転換に対する異論は愚か、懸念を表す声さえ、ほとんど聞こえてこないのはなぜだろうか。
現在、自民党にあって、政府が推進する政策に唯一といってもいい反対の声を公然とあげている村上誠一郎衆院議員は、個人レベルでは安倍政権の方向性を批判したり懸念を表明する議員は多いが、それを公然と口にする人が自分以外は誰もいなくなってしまったことを嘆く。
村上氏は現在、安倍政権が進める安保法制にも明確に反対し、国会の採決では党議拘束を外すよう求めている。実は村上氏は特定秘密保護法に対しても公然と反対の意を表していた党内で唯一の政治家だった。誰も異論を挟めなくなってしまった現在の自民党にあって、村上氏は絶滅危惧種といっても過言ではない、恐らく唯一の「政権にもの申す」勇気のある政治家なのだ。
その村上氏は日本が集団的自衛権を行使することは明らかに日本国憲法に違反し、それを他国に対する攻撃によって日本の存立が脅かされるような「存立危機事態」に限って認めようという無理な理屈をつけて憲法の解釈を変更することなど言語道断だという。衆院の憲法調査会に参考人として呼ばれた重鎮の憲法学者がこぞって安保法制は憲法違反だと指摘したことからも明らかなように、存立危機事態などというのは絵空事であり、「あくまでも集団的自衛権を行使したいのであれば、安倍首相は憲法解釈の変更ではなく、憲法改正を目指すべきである」と村上氏は真正面から政権批判を展開している。その主張は明瞭明晰な正論としか言いようがないものだ。
しかし、にもかかわらず村上氏以外に自民党内から集団的自衛権を含む安保法制への批判は全くといっていいほど聞こえてこない。むしろ国会の場で安保法制が違憲であると指摘した憲法学者らを批判したり揶揄するような発言が、本来執行部の暴走を諫めなければならない立場にあるはずの党の長老の口から、大っぴらに飛び出してくる始末だ。なぜ自民党から真っ当な批判の声が上がらないのだろうか。
その原因として村上氏は選挙制度や政党助成金などで、党執行部の権限が強大化してことが指摘する。
小選挙区比例代表並立制の導入によって、選挙区では各候補にとって党の公認を得ることが議員にとって死活問題となる一方で、比例名簿の順位を決める権限も党の執行部に握られるようになり、党の方針に逆らうことが難しくなった。また、民主党に政権を奪われた2009年の総選挙で大敗を喫した現在の自民党には、当選1回、2回の議員が圧倒的に多く、選挙地盤も弱い彼らには公然と執行部を批判する勇気を期待するのは酷な面もあるだろう。
とは言え、このまま自民党は右路線を突っ走っていくことになるのだろうか。
村上氏は現在自分は孤軍奮闘の状態にあり、自分の力だけで自民党を変えることは容易ではないが、有権者の多くが現在の自民党の路線の危うさに気がつけば、自民党内部からも声を上げる人が出てくるだろうとの見通しを語る。
安保法制については、現在国会で野党の追及が行われているが、数を握る与党がその気になれば、いつでも法案を通すことは可能なのが、議員内閣制の現実だ。本当に党内がその考えで一致しているのであればそれもやむを得ないが、実際は多くの異論がありながら、執行部による報復を恐れて誰も声を上げられないというような状態が、民主主義の健全な形であるはずがない。
自民党はなぜこうも変質してしまったのか。そして、なぜ誰も異論を挟めない政党になってしまったのか。われわれ有権者はそのことをどう受け止めるべきなのか。自民党の変質とその背景などについて、安倍政権と党の執行部に公然と反旗を翻す自民党の村上誠一郎氏と、ジャーナリストの神保哲生と社会学者の宮台真司が議論した。http://blogos.com/article/117978/
安倍首相 選挙に勝ちすぎて、権力が強すぎ、 逆らえないような 雰囲気になっているのでは?
もっと広い圧力が利いているようにも感じられる。
再生核研究所声明239(2015.6.23)自由な立場の人の意見、発想の尊重を
もちろん人は自分が大事で、個人はまわりの環境に気を使うものである。環境とは所属する組織や職場、交流関係やまわりの地域である。よく在るとは 環境と個人が上手い状態に調和していることであるから、個人の存在は極めて、環境の影響を強く受けるものである。このことは 自由というものが 実はそう簡単ではなく、実際は意見表明や 行動も環境の影響を強く受けているという事実である。多くの場合、その人の背景、環境を、考えれば、意見表明がどうしてそのようなものであるかを、推し量れるだろう。
意見表明と言えば、政策の表明が 社会に大きな影響を与えるという意味で重要である。大事な方針になればなるほど、政治家個人の意見は 党の方針や政策の基本に縛られるのは当然であり、党の方針が定めれば、多くは相当に個人の意見は表明できない立場になってしまう。最高権力者の決定は 殆どは各級機関の決定による形式的な裁可の形をとらざるを 得ない。組織として、社会として当然である。
ここで述べたい主旨は、人は環境の影響を強く受けていて、個人の意見の表明は難しく、多くの意見がどのように環境の影響を受けているか、背景に思いを巡らすことが大事だということである。
このことは、個人の自由な意見表明が難しく、縛られており、多くの真実、あるべき意見、考えが各級の組織に縛られていて、必ずしも適切な在り様が 顕にならず、おかしな世相を形作る危険性があるということである。少数政党政治で政党政治が進めば、意見や考え方は限られ、縛られ、多くの意見が活かされず、多く人々の意思を反映できず、支持政党なし、政治に無関心な層を増大させるのではないだろうか。この辺の在り様が民主主義の難しさの本質的な点ではないだろうか。
上記で、組織の意見は組織の利益を反映させるものであるから、世に在るべき在り様があるとすれば、それを公正に判断できる者は、内容の利害に直接関与しないいわば、自由な立場の意見を重視するのが大事ではないだろうか。世に多くの評価委員や審査委員を、直接決定結果の利害に関与するような立場の者から除くは 相当に当たり前の常識ではないだろうか。しかしながら、社会では、その辺の常識が崩れていることは 実は多いのではないだろうか。特に政治的な社会では顕著ではないだろうか。重要な人事で 人事権を有している者が自己の立場を有利にする立場で行なうは 相当に普遍的である本質的な面もある。学術界でも、芸術界、スポーツ界、いろいろなサークルでも自分たちの仲間の利益を自然に考えてしまうのは、高度化、細分化、孤立化の傾向の結果として自然なものである。そこで、そのような影響を受けない、第3者的な自由な立場の意見などの参照は大事ではないだろうか。公の立場や公正な立場を考えて行なうのは 場合によるが相当に無理な要求ではないだろうか。 そこで, 仲間や自分たちの利害を考えて判断する弊害が出る。声明の題名の主旨は、自由人の意見の尊重で 内容によって、公正な立場を取れる人の意見の尊重、人の活用を考えるということである。
ここで自由人の意味について、素人の意見という視点も大事ではないだろうか。専門馬鹿という表現が有るように 専門家は 狭い専門的な世界に入り込み、孤立化し、視野の狭い、独善的で、おかしな判断になる面もあるので、いわば素人の意見を参考にするのは良いことではないだろうか。素人とは、自由人であるとも言える。 ― いわゆる裁判員制度は、制度の善し悪しは問題としても、基本精神としては そのような大事な発想から出ていると考えられる。
日本のマスコミの信頼がゆらぎ、言論界の人の意見が おかしいのではないだろうか という、疑念の空気は相当に強いと言える。それらは、何か見えない圧力が利いていて、自由な意見では 既にないのではないか、という疑念に満ちた世相の増大ではないだろうか。多くが利益や圧力で動いているのではないかという 疑念を感じさせられる世相ではないだろうか。 マスコミや言論界が多様な意見を紹介して、適切な判断ができるように絶えず、努力するのは当たり前であるが、多様な意見を 自由な立場の意見か、特定の利害に縛られた意見かを良く、見極めて対処するのが大事ではないだろうか。
少し、複雑な内容になったが、この声明の主旨は表現されているのではないだろうか。
以上
再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)
世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。
相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。
以 上
再生核研究所声明 129 (2013.8.28):
美しい社会はどうしたら出来るか ― 世の中なぜ上手く行かないか
(2013.8.22 零時頃 新しい声明案が湧き、大いに気に成る。良い社会を築く問題点である。)
再生核研究所は 今の世の中 おかしいのではないか として、美しい社会を築くにはどうしたら良いかと考察し、始めに再生核研究所声明1で 次のように述べている:
(最近の世相として、不景気・政界・財界・官界・大学の不振、教育の混迷、さらにニューヨークのテロ事件、アフガン紛争、パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。
一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。
現在、社会の規範が混乱し、不透明になっているように思うが、公正の原則を確認して、行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり、多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか。)
そこで、上記 閃きにしたがって逆の立場から、考察、補充して置きたい。
まず、大きな権力と影響を与える政治家の立場から、考察しよう。
政治家は地位を得るのに汲々として、公正な行為がとれない本質的な問題を抱えているのが、民主主義の制度ではないだろうか。絶えず、地位が侵される立場であるから、まずは、自己の立場、権力の維持、したがって自分と仲間の視点を重視せざるを得ないのは、深刻な 当然の、本質的な問題である。古くは論功賞、ご恩と奉公はそれらの基礎である。民主主義には選挙過程と政治家の地位保存で膨大な労力を費やし、公正の原則や在るべき政策以前で終わってしまうような状況が有るのではないだろうか。安定した王政や貴族政、世襲制の方が良いという面が多いのではないだろうか。将来の大きな問題として提起しておきたい。次も参照: 再生核研究所声明 33:民主主義と衆愚政治
権力者が、在るべき社会の在りようを無視して、狭い意味での自己の利益を優先させる事である。明治初期には 国家の指導者たちが、相当に公や国家を論じて、義を重んじ 常に公を心にした高い志が 日本国の輝かしい時代を築いた原動力ではなかったかと評価、追想される。
それは政治家ばかりではなく、大学や学会などその他至る所でも 公の地位を利用して、自己の都合の良いように行うのは 世界的に見られる恥ずべき現象である。公の立場と個人的な利益の混同は 常に批判して、何時も人格の高潔さに思いを致すべきである。
政治的な面は、お金と権力に結び付き易いから、政治性に興味を抱く者、政治家などでは、始めから いわゆる野心家がいて、自己の利益追求を考えている者が多い現実に注目して 新しい制度の在りようの検討とともに大いに警戒すべきである(再生核研究所声明 52: 政治家や組織の代表者の選出における留意事項)参照。
公正と正義となれば、それらを守らせるのが、裁判官、検事などの役割で 国家の基本であるから、それらに圧力を掛けたり、また圧力に屈していると見られるようでは 共に卑劣、言語同断 それこそ、昔の武士道では切腹者である。公正な真実の報道を魂とし、社会正義を志すマスコミ関係者も同じように聖職者であり、同じような厳しさが求められるのは 当然である。
日本では、大事な、政治家、司法関係者、マスコミ関係者、多くの権力者たちが上記、公の立場をないがしろにして、自己の利益を図ったり、あるいは圧力に屈しているように見えるのが、当初に述べているおかしな社会にならしめている 元凶ではないだろうか。そこで、再び公正の原則を確認して、公の立場に従って行動できるように、行動させるようにお互いに自戒して行くように心掛けたい。それが帰するところ、美しい社会の実現の第1歩、基礎であると考える。
そこで、モラルの面で、いわゆる社会の上層部、指導者たちが高い学歴を有しているのは 普通であるが、いわゆる中国の科挙制度が おかしな、厳しい試験制度を永く続けたため、その制度の弊害で良き人材が現れず、中国が衰退の道を歩んだとの説もあるが、日本でも知識偏重で 人物たる教育の面が疎かになっているようなことはないか と大いに気に成る。それは 頭ばかりが大きくて 心が貧しいと表現されるだろう。
以 上
追記: 稲村和夫氏 などを 全国紙の論説主幹などに登用できる文化力が日本に有れば、日本は どんなに素晴らしい国になるだろう。人材の登用がおかしいのでは? 2013.8.24.10:45
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