ダビンチの「糸巻きの聖母」日本初公開へ
6月16日 5時17分
ダビンチの「糸巻きの聖母」日本初公開へ
ルネサンスを代表するイタリアの芸術家、レオナルド・ダビンチが描いた油彩画「糸巻きの聖母」が来年、ヨーロッパ以外では初めて東京で一般に公開されることになりました。
「糸巻きの聖母」は16世紀初めにレオナルド・ダビンチが描いた油彩画で、十字架を思わせる糸巻きの棒を手にした幼いイエスと、その姿を優しく見守る聖母マリアが描かれています。
現在、確認されているダビンチの油彩画の中でも保存状態がよく、描かれた当時の姿を残しているとされています。
この作品は2003年にスコットランドの城から盗み出され、推定3000万ポンド(当時の日本円でおよそ55億円)の絵画の盗難事件として世界的に大きく報道されました。
その4年後に無事見つかり、現在はスコットランド国立美術館に展示されています。
来年が日本とイタリアの国交樹立150周年に当たることなどから今回、特別に日本での公開が決まったということで、この作品がヨーロッパ以外で公開されるのは初めてです。
ダビンチの研究家でレオナルド・ダビンチ理想博物館のアレッサンドロ・ベッツォージ館長は、「この作品にはダビンチの芸術、哲学、科学がすべて集結している。これまで所蔵されている場所以外で公開されたことはほとんどなく極めて珍しい機会だ」と話しています。
「糸巻きの聖母」は来年1月16日から東京・墨田区の江戸東京博物館で開かれるダビンチの特別展で一般公開されることになっています。
「糸巻きの聖母」の魅力
「糸巻きの聖母」は同じ構図の油彩画が、ほかにも数多く残されていますが、2点がレオナルド・ダビンチの作品とされています。
このうち、日本での公開が決まったのはスコットランドのバクルー公爵家が所有する「糸巻きの聖母」で縦48.3センチ、横36.8センチの大きさです。
作品の背景は後に別の画家が描き足したとみられていますが、主題である聖母マリアと幼いイエスの姿はダビンチ自身が描いたもので、絵の具を薄く重ね塗りして深みを表現する「スフマート」という技法で描かれた聖母マリアの表情や、幼いイエスの体の躍動感などにダビンチの特徴が現れています。
また、手前に描かれた岩は地質学的に正確な描写がされていて、ダビンチの博物学者としてのこだわりが感じられます。
さらに構図にも象徴的な意味が込められていると考えられています。イエスが手にした「糸巻き」は糸を紡ぐための道具で、これはイエスが世界の運命を紡いでいくことを暗示しているとされています。また、幼いイエスを気遣うように差し伸べられた聖母マリアの右手は将来のイエスの受難を予感させる表現だと言われています。
現在、この作品を展示しているスコットランド国立美術館のエイダン・ウェストン=ルイス主任学芸員は「この絵に込められた象徴性と表現技法はラファエロのような同じルネサンスの偉大な画家にも大きな影響を与えた。細部まで科学的に描かれたこの作品は、自然を研究したレオナルド・ダビンチの芸術の特徴をよく示している」と話しています。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150616/k10010115631000.html
再生核研究所声明227(2015.5.2) 日本の仏教の在り様についての疑問、キリスト教との奇妙な違い
(これは 90歳のおばあさんが 散歩の折り 休んで行かないと椅子を用意してくれたとき、神の問題と人間の終末における仏教とキリスト教の違いを話し、意見が一致した点における 仏教の在り様についての問題提起である)
その時、神様は存在しますか と聞いたのであるが、きっぱりと にこやかに 存在すると言明されたのは印象深い。しかし、神についてさらには詳しくは聞かなかった。記憶は何でもどんどん薄れていくといっていた。しかしながら、次の神の概念は 諒として微笑みをもって受け入れられたと思う:
再生核研究所声明122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。
そのときは、マリア様と幼児キリストの代わりに、お母さんと懐かれている赤ちゃんの喩えで話した。本声明の趣旨を述べる背景として、次の文脈を参照したい:
再生核研究所声明221(2015.4.3) ある数学者の仏教解説
― (前略): このように素晴らしい仏教の世界を みると、日本の仏教界の現状については 返す がえすも 残念に思われることがある。
日本の仏教が、葬式や先祖さまの供養ばかりの存在に 感じられて、生きた生活や社会に十分活かされていないのではないであろうか。仏教はもともと、人を救い、社会に活かすべきものとして、発祥、発展したのではないだろうか。日常に起きる、心の悩みや社会の問題に 仏教が本質的に大きな役割を果たせる思想を持っているのは自明であり、社会に活かせない状況は、誠に残念であると言わざるを得ない。
カトリック教の熱心なヨーロッパの田舎街で5年間暮らしたが、そこでは日常的に 教会は活動していて、土曜日や日曜日、祭日など教会は人々で溢れ、街は沢山の教会を有し、祭司様は 街の尊敬と親愛、信頼を受けていて、代表的な国立大学の卒業式にも臨席される程である。教会が街の精神的な支柱、中枢になっていることが良く分かる。
人々は人生を肯定され、安心して魂を天に返され、その際、親族の嘆きはそうは深くはなく、淡々としており、間をとってから、親しい友人たちをレストランに招待して、心を切り替えているようであった。教会はいろいろな相談や悩みなどを議論するサロンのような機能さえ果たしていた。
本声明の趣旨を 簡潔に次のように表現したい: キリスト教では 終末 人が生きている内に天にかえる心構えをさとし、人は人生を肯定して安心して 逝かれるに対して、多くの仏教の場合は如何であろうか。死んだ後に お経をあげているのが現状ではないだろうか? 一番大事な時にいなくて、済んでから何かされているようではないだろうか? ― ここは、生きている人に、みなさんもこのようになると 実は生きている人に対してさとしているのであろうか。 先祖さまの供養も 同じような意味を持つとも考えられる。 仏教徒は ゆかしいからそうかも知れない。― 他方、多くの宗教の大きな意義が 死からの解放、自由 にあるのではないだろうか。お釈迦様は 死者を弔うために、先祖さまを供養するために いろいろ教えられたのではなくて、 人々を救うために努力されたのではないだろうか。
この観点、多くの仏教徒に 仏教の在り様について、検討して頂きたいと考える。 折角の素晴らしい宗教が、お釈迦様の精神 が活かされていないのではないかと、感じている。この観点は 上記90歳の素晴らしい おばあさんの気持ち と一致していると感じた。
日本の神道も 素晴らしいのに、上記のように活かされていない面が多いのではないだろうか。― もっとも、神道は 無言で 雰囲気で伝えようとしているようにもみえる。
以 上
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