地動説はなぜ迫害されたのか
キリスト教は、なぜかつて地動説を否定して、天動説を支持していたのだろうか。たんに聖書に書かれている記述と矛盾するからだけなのか。キリスト教が母権宗教を否定する父権宗教である点に注目して、考えよう。
1. キリスト教は地動説を否定していた
ガリレオ・ガリレイが、天動説を斥け、地動説を支持したかどで、宗教裁判にかけられ、異端誓絶を強要された後、「それでも地球は動いている」と呟いたという逸話は、宗教が科学を完全には屈服させることができないことを象徴するエピソードとして有名である。
このエピソードは、しかしながら、よく考えてみると眉唾物である。もしも「それでも地球は動いている」という呟きが周囲に聞こえたなら、異端審問がやり直しになるはずだし、もしも周囲に聞こえないような小さな声で呟いていたのなら、このようなエピソードが後世に伝わるはずはない。
ガリレオが本当に「それでも地球は動いている」と呟いたかどうかは別としても、彼が、1633年に宗教裁判にかけられたことは史実であり、もし異端誓絶を拒んだならば、33年前にローマで火あぶりになったジョルダノ・ブルーノと同じ運命をたどったであろうことも確かである。
だが、意外なことに、ガリレオに先立って、地動説を提唱したコペルニクスの『天球回転論』は、コペルニクスの死後、1543年に何の検閲も受けることなく出版され、自由に読まれていた。これは、16世紀に、ローマ・カトリック教会が、325年のニケーア公会議で採用したユリウス暦と現実の季節とのずれを問題視するようになり、正確な暦法を新たに制定するために、天文学者たちの自由な研究を奨励しなければならなかったからである。ローマ・カトリック教会は、決して地動説を容認していたわけではなく、コペルニクスの地動説も、実在性のない数学的仮説、計算を簡単にするための道具的便法として許可していたまでである。
地動説を宗教的な立場から最初に批判したのは、宗教改革の旗手、マルティン・ルターだった。ルターは、『天球回転論』が出版される4年前、地動説の噂を聞き、
このばか者は天文学全体をひっくり返そうとしている。ヨシュアが留まれと言ったのは、太陽に対してであって、地球に対してではない。
Der Narr will die Ganze Kunst Astronomie umkehren! Aber wie die Heilige Schrift anzeigt, so hiess Josua die Sonne stillstehen und nicht das Erdreich.
[Martin Luthers sämtliche Schriften herausgegeben von Joh.Georg Walch, Bd.22: Colloquia oder Tischreden, S. 2260]
と地動説の提唱者を批判した。プロテスタンティズムは、『聖書』を文字通りに解釈する原理主義だから、『聖書』の記述と矛盾する新説に対しては厳しかったのだ。ローマ・カトリック教会も、1582年に、現在まで使われることになるグレゴリウス暦を制定すると、次第に天文学の保護者から抑圧者へと変貌を遂げることになる。
2. 地動説と矛盾する聖書の記述
では、地動説は、『聖書』のどのような記述と矛盾するのだろうか。そして、それはどのような宗教的問題を孕んでいるのだろうか。『聖書』には、「太陽が昇る」とか「太陽が沈む」という表現が出てくる(詩篇,19:6;伝道の書,1:5)が、こうした表現は、地動説を信じている現在の我々も便宜上使っている表現であり、かつ特別に宗教的な含蓄があるわけでもないので、問題はない。問題となるのは、以下の二つである。
2.1. 大地の安定
まず、『聖書』には、神の支配のおかげで大地が安定し、不動となったと述べている箇所(詩篇,93:1;96:10;104:5;歴代志上,16:30)がある。私は、[論文編:男社会はいかにして成立したのか]で、ユダヤ-キリスト教を、初めて女性原理を完全に克服した男性原理の宗教と位置付けたが、この説明は、『聖書』の天動説を説明する上でも有効である。『聖書』は、父なる天の動きにより、母なる大地がおとなしく動かなくなったことを示唆している。確かに、天動説的な宇宙観では、男の象徴である太陽が、女の象徴である大地の上を勝ち誇って凱旋しているようにも見える。
2.2. 神の意志による太陽の停止
『聖書』には、さらに、神の意志で太陽が静止したり、逆行したりすることが語られている箇所(ヨシュア記,10:12-13;列王記下,20:11)がある。特にヨシュア記の以下の箇所は、ルターが指摘して以来、天動説の根拠とされてきた。
אָ֣ז יְדַבֵּ֤ר יְהֹושֻׁעַ֙ לַֽיהוָ֔ה בְּיֹ֗ום תֵּ֤ת יְהוָה֙ אֶת־ הָ֣אֱמֹרִ֔י לִפְנֵ֖י בְּנֵ֣י יִשְׂרָאֵ֑ל וַיֹּ֣אמֶר לְעֵינֵ֣י יִשְׂרָאֵ֗ל מֶשׁ בְּגִבְעֹ֣ון דֹּ֔ום וְיָרֵ֖חַ בְּעֵ֥מֶק אַיָּלֹֽון׃
主がアモリ人をイスラエルの人々に渡された日、ヨシュアはイスラエルの人々の見ている前で主をたたえて言った「日よとどまれ、ギブオンの上に。月よとどまれ、アヤロンの谷に」。
וַיִּדֹּ֨ם הַשֶּׁ֜מֶשׁ וְיָרֵ֣חַ עָמָ֗ד עַד־ יִקֹּ֥ם גֹּוי֙ אֹֽיְבָ֔יו הֲלֹא־ הִ֥יא כְתוּבָ֖ה עַל־ סֵ֣פֶר הַיָּשָׁ֑ר וַיַּעֲמֹ֤ד הַשֶּׁ֙מֶשׁ֙ בַּחֲצִ֣י הַשָּׁמַ֔יִם וְלֹא־ אָ֥ץ לָבֹ֖וא כְּיֹ֥ום תָּמִֽים׃
日はとどまり、月は動きをやめた。民が敵を打ち破るまで。『ヤシャルの書』にこう記されているように、日はまる一日、中天にとどまり、急いで傾こうとしなかった。
וְלֹ֨א הָיָ֜ה כַּיֹּ֤ום הַהוּא֙ לְפָנָ֣יו וְאַחֲרָ֔יו לִשְׁמֹ֥עַ יְהוָ֖ה בְּקֹ֣ול אִ֑ישׁ כִּ֣י יְהוָ֔ה נִלְחָ֖ם לְיִשְׂרָאֵֽל׃ פ
主がこの日のように人の訴えを聞き届けられたことは、後にも先にもなかった。主はイスラエルのために戦われたのである。
[聖書, ヨシュア記,10:12-14]
もし、太陽がもともと動いていないのなら、太陽に「とどまれ」ということは無意味になる。ガリレオは、この時太陽が止めた動きは自転だったという新解釈を出しているが、太陽が自転を止めたからといって、地球や月が公転運動を停止する必然性はない。イスラエル人とアモリ人との戦いにおいて起きたこの奇跡をどう解釈するかに関しては、古来議論が絶えないが、ここでも、聖書の、文字通りの意味ではなくて、象徴的意味を読み取ることにしよう。
一般に、太陽が男性原理、大地が女性原理を象徴するのに対して、月は両性具有の性質を持つ。インノケンティウス3世は、教皇権と皇帝権を太陽と月の関係に喩えているが、これは、世俗の権力者である皇帝を、教皇と一般民衆との中間に位置付けるためである。引用した箇所では、月は太陽に準じる扱いを受けている。太陽も月も光を発するが、光は、男性原理に属する。戦いが終わるまで、太陽と月が没しなかった、すなわち男性原理である光がイスラエル人を見捨てなかったことを描写することで、男神ヤハウェの御加護があったことが表現されている。
3. なぜこれらの矛盾は許容できないのか
以上、地動説に反する聖書の記述の象徴的意味を解読した。これらの箇所に限らず、ユダヤ-キリスト教は、女性崇拝の宗教との戦いを通じて広がった歴史を持つので、『聖書』には、男性原理と女性原理との対立が、隠れた主題として頻出する。そして、この対立を理解していれば、なぜキリスト教が地動説を危険視したかが見えてくる。以下、2.1. と2.2. に関して、分析してみよう。
3.1. なぜ大地は安定しなければならないのか
まず、2.1. についてだが、神の支配のおかげで大地が不動となっているのだとするならば、大地が動き出すことは、神の支配が衰えることを意味する。キリスト教の聖職者たちは、地球が動くということは、すでに征服しておとなしくなっていたはずの女性原理の不穏な動きと受け取ったのである。
第一次ガリレオ裁判における訴訟指揮の最高責任者だったベルラルミーノ枢機卿は、「太陽の不動性と大地の可動性についての仮説が体裁をうまく取り繕うのを証明することと、大地の運動の真実性を立証することと同じでは決してない。私は第一の点の方は証明できると信じる。しかし、第二の点が証明できるかどうかは疑問に思う。だからこういう疑わしい場合は、人はこれまで教皇様方によって解釈されてきた『聖書』の意味を捨ててはならない」 [ガリレオ,豊田 利幸:世界の名著 26 ガリレオ, p.124]と言っているが、これはどういうことなのだろうか。
コペルニクスの『天球回転論』の出版を許可したときもそうであるが、キリスト教の聖職者たちは、地球が実際に動いていると言ってはいけないが、地球が動くことが理論的に可能だと主張することには問題がないと考えていた。これはたんなる妥協ではない。もしも、大地がもともと動きようがないとするのなら、大地が安定しているのは、神の支配のおかげではないことになる。大地の可動性は、神の偉大さを認識するためにはむしろ必要だったのである。
3.2. なぜ地球が太陽を動かしてはいけないのか
次に2.2. についてだが、もしも、太陽の日周運動が、地球の自転によって起こるのだとするならば、昼と夜を交代させているのは、天ではなくて、大地ということになる。つまり、地動説を肯定することは、光の現前と不在を支配する権力が父なる天から母なる大地へと委譲されることを容認することになるわけで、キリスト教のような男性宗教としては、このような権力の自己否定を認めるわけにはいかない。
4. 男性原理としての火
キリスト教の異端者の裁判は、魔女裁判とは種類を異にしていたにもかかわらず、両者は、有罪者を火あぶりにするという共通点を持っていた。中世のヨーロッパには、死刑には、絞首刑、斬首刑、四つ裂きの刑、車刑、杭打ちの刑、溺殺の刑、釜ゆでの刑など、いろいろな種類があったにもかかわらず、なぜ、魔女と異端者に対しては、火刑だったのか。
その理由は、ジェンダーの対立を考えれば、明らかである。火は、光と同様に太陽の属性であり、男性原理に属する。したがって、魔女や異端者を火刑で焼き尽くすことは、男性原理で女性原理を抹殺する象徴的なセレモニーなのだ。
הִשָּׁמְר֣וּ לָכֶ֗ם פֶּֽן־ תִּשְׁכְּחוּ֙ אֶת־ בְּרִ֤ית יְהוָה֙ אֱלֹ֣הֵיכֶ֔ם אֲשֶׁ֥ר כָּרַ֖ת עִמָּכֶ֑ם וַעֲשִׂיתֶ֨ם לָכֶ֥ם פֶּ֙סֶל֙ תְּמ֣וּנַת כֹּ֔ל אֲשֶׁ֥ר צִוְּךָ֖ יְהוָ֥ה אֱלֹהֶֽיךָ׃
あなたたちは注意して、あなたたちの神、主があなたたちと結ばれた契約を忘れず、あなたの神、主が禁じられたいかなる形の像も造らぬようにしなさい。
כִּ֚י יְהוָ֣ה אֱלֹהֶ֔יךָ אֵ֥שׁ אֹכְלָ֖ה ה֑וּא אֵ֖ל קַנָּֽא׃ פ
あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである。
[聖書, 申命記,04:23-24]
もちろん、無知の暗闇をキリスト教の真理の光で啓蒙するという意味も込められている。イギリスでは、18世紀の末まで、火刑が、女性の犯罪者一般を死刑にするときに使われたという事実は、火刑が、ジェンダー・コンシャスな刑罰であったことを物語っている。
ちなみに江戸時代初期の日本では、キリシタンが逆に火刑に処せられたが、これは、ナショナリスティックな動機に基づくもので、そこにはジェンダーの対立はない。キリシタン弾圧は、神国日本を外国の侵略から守るという大義名分で行われたので、太陽神の末裔である天皇を象徴する火が、処刑の際に使われたと考えることができる。
5. 魔女と地動説の接点
話をヨーロッパに戻そう。魔女が、サバト(悪魔との宴会)に参加するのは夜、特に深夜である。光が男性原理に属するのに対して、闇は女性原理に属するからだ。天は大地に対して男性の領域だが、天の中でも、昼と夜という形で、男性原理と女性原理の対立が反復されている。サバトは夜明けを告げる鶏の鳴き声で終わるのだから、魔女を火あぶりによって抹殺することは、日の出とともに、悪魔や魔女が消えていく現象の再現と見ることができる。
もし天動説が正しいのなら、父なる天は自らの意志で太陽を昇らせ、悪魔と魔女を消し去ることができることになる。だが、もし地動説が正しいのなら、母なる大地は、自らの意志で太陽を消し去ることができることになる。
太陽が姿を消すと、それまで太陽の光(キリスト教の真理)のおかげで見えなかった、ギリシャ神話やローマ神話に登場する異教徒の神の名がつけられた惑星が現れ、サバトのダンスのような不規則な軌道を描きながら、闇夜を跋扈する。太陽が規則正しい軌道を描く秩序の象徴であるのに対して、惑星は、その名の通り迷える星で、無秩序の象徴である。太陽が昇れば、闇夜は消えるが、それは母なる大地の意志で姿を消すのであって、父なる天の意志によるのではない。これは、父権的宗教の聖職者にとっては、母権的宗教の許しがたい越権行為である。だから、キリスト教の聖職者たちは、自らの意志で魔女と地動説の提唱者を火あぶりにしなければならない。
魔女裁判も異端審問もともにスケープゴート現象である。人間と自然の対立関係は、人間の内部で、男と女の対立関係として反復される。だから、女は人間と自然の境界上に位置する両義的存在として表象される。他方、異端者も、キリスト教徒と異教徒との境界上の両義的存在である。魔女や女性原理の崇拝者たちは、二つの意味で、境界上の両義的存在であり、キリスト教に基づく男社会の支配が危機に瀕したときに、システムのエントロピーを縮減するために、スケープゴートとして排除される運命にある。
異端の中には、女性崇拝者でないものもいたが、キリスト教が成立した当初は、異教徒のほとんどは地母神崇拝者だったから、異端者は、女性原理の崇拝者として、一括して迫害された。実は、地動説も、もともとは男性原理の崇拝から生まれたのだが、キリスト教は、自分たちの基準で、女性原理の崇拝と誤解してしまった。
6. 宇宙の中心は争点ではない
英語では、地動説のことを「太陽中心説(the heliocentric theory)」、天動説のことを「地球中心説(the geocentric theory)」と呼んでいる。しかし、地動説と太陽中心説、あるいは天動説と地球中心説は、概念的に同じではない。例えば、地球は宇宙の中心にあって自転していると考えるならば、その説は、地動説にして地球中心説ということになる。概念的に同じではない二つの説を混同したことが誤解の始まりである。
最初に地動説を唱えたのは、ピタゴラス派のピロラオス(紀元前5世紀頃)で、その理論は地動説でありながら、地球中心説でも太陽中心説でもなかった。後に現れたピタゴラス派のヒケタスやエクパントスなどは、地球を宇宙の中心とする地動説を唱えた。太陽中心説と地動説という組み合わせを選んだのは、サモアのアリスタルコス(紀元前310-230年頃)で、彼は、地球の自転と公転を主張するなど、その結論はきわめて近代的だった。
もちろん、古代ギリシャには、地球中心の天動説を唱える哲学者もいた。最終的に、中世ヨーロッパにおいて定説の地位を得ることができたのは、プトレマイオスがまとめあげた地球中心の天動説で、その理論は、アリストテレスの宇宙論のような単純な同心天球説とは異なり、周転円を導入して惑星の見かけ上の不規則な動きを説明するなど、天動説としては完成度が高かった。
一般に、古代ギリシャの哲学者は、実験や観察を軽視する傾向にあるが、天文学に関しても然りであって、彼らの天文学的理論は、科学的仮説というよりも、哲学的あるいは宗教的なコスモロジーとしての色彩が強かった。私は、[論文編:男社会はいかにして成立したのか]で、古代ギリシャの哲学をユダヤ-キリスト教とともに、女性原理を克服した男性原理として位置付けたが、ギリシャで最初に、かつ最も純粋に男性原理を打ち出した哲学者、プラトンは太陽が宇宙の中心だと考えていた。
プラトンは、純粋に非物質的な(つまり非女性的な)イデアを真実在とみなした最初の哲学者であり、彼のイデア論は、きわめて男性崇拝的である。有名な洞窟の比喩や太陽の比喩からわかるように、プラトンは、太陽を究極のイデアである善の象徴としていた。だから、彼が、太陽を宇宙の中心に位置付けても、不思議ではない。このように、同じ男性原理に基づいていても、太陽中心主義が帰結することもあれば、天動説が帰結することもある。
しばしば、科学史の本などは、天動説から地動説へのパラダイム・シフトを脱人間中心主義として特徴付け、ローマ・カトリック教会が地動説を迫害したのは、地球中心主義を放棄したくなかったからだと解説している。だが、このおなじみの解説には首を傾げざるをえない。インノケンティウス3世が喩えるように、太陽が教皇だとするならば、太陽中心主義は教皇中心主義という、ローマ・カトリック教会にとっては都合の良いコスモロジーになるので、迫害する必要はなくなる。
1620年に、教皇庁図書検閲聖省は、コペルニクスの『天球回転論』に何箇所かの訂正を命じている。検閲聖省は、第5章の宇宙の中心について述べた箇所に対しては、「地球が宇宙の真中にあると考えようが、真中から外れたところにあると考えようが、どうでもよい」と訂正させているのに対して、「地球の運動の真理性について公然と取り扱い、その静止を証明する古の伝統的諸論拠を破壊している」第8章に対しては、章全体が抹殺の対象となりうると書いている[コペルニクス・天球回転論, p.74-75]。ローマの教皇庁が、太陽中心説と地動説のどちらに目くじらを立てていたかは明白である。
7. 自然に対するロゴスの優位
『聖書』は、地球が宇宙の中心であるとは主張していない。これまで見てきたように、『聖書』との整合性で問題になったことは、大地が動いて、太陽が静止することなのだ。太陽中心説が迫害されるのは、それが地動説にかかわる限りにおいてなのであって、太陽中心説自体は、第一次的な迫害のターゲットではなかった。
それにしても、キリスト教の聖職者たちは、どうしてこうも『聖書』の一字一句にまで拘泥したのだろうか、と読者は不思議に思うかもしれない。ガリレオも、クリスティーナ大公妃宛の手紙の中で「神は『聖書』の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現したまう(né meno eccelentemente ci si scuopre Iddio negli effetti di natura che ne’ sacri detti delle Scritture)」[A madama Cristina di Lorena granduchessa di Toscana]と言って、地動説への理解を求めている。
しかし、私たちはここで、『ヨハネ福音書』の冒頭にある「はじめに言葉ありき」という命題を思い起こさなければならない。男性原理は、自然ではなくて言葉(ロゴス)に優位を置く。「はじめに自然ありき」と考えるガリレオは、キリスト教の聖職者からすれば、《自然=女》を崇拝する、許せない異端だったのだ。
読書案内
コペルニクスの地動説に関しては、この本が詳しい。原書以外に、教皇庁図書検閲聖省の検定意見などの翻訳もあり、解説も詳しい。
書名 コペルニクス・天球回転論
媒体 単行本
著者 高橋 憲一
出版社と出版時期 みすず書房, 1993/12
科学史研究で著名なトーマス・クーンの著作には、『科学革命の構造』よりも具体的な、こんな研究がある。
書名 コペルニクス革命―科学思想史序説
媒体 文庫
著者 常石 敬一,トーマス クーン
出版社と出版時期 講談社, 1989/06
私たちは、1851年のフーコーの振り子の実験から地球が自転していることを、1838年のベッセルによる年周視差の発見から地球が公転していることを知っている。しかし、コペルニクスやガリレオの時代には、これらの地動説の根拠は知られていなかった。コペルニクスは、天動説だと、火星天球と太陽天球が交差することになる不都合を回避するために地動説を提唱し、そして、ガリレオがその地動説を支持した根拠は潮の干満だった。どちらも地動説の根拠としては間違っている。パラダイム転換は、決して合理的に行われるわけではない。http://www.systemicsarchive.com/ja/a/copernicus.html
再生核研究所声明199(2015.1.15) 世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える ― ゼロ除算100/0=0,0/0=0
ゼロ除算は 西暦628年インドでゼロが文献に記録されて以来、問題とされてきた。ゼロ除算とは、ゼロで割ることを考えることである。これは数学の基本である、四則演算、加法、減法、乗法、除法において、除法以外は何時でも自由にできるのに、除法の場合だけ、ゼロで割ることができないという理由で、さらに物理法則を表す多くの公式にゼロ除算が自然に現れていることもあって、世界各地で、今でも絶えず、問題にされていると考えられる。― 小学生でも どうしてゼロで割れないのかと毎年、いろいろな教室で問われ続いているのではないだろうか.
これについては、近代数学が確立された以後でも、何百年を越えて 永い間の定説として、ゼロ除算は 不可能であり、ゼロで割ってはいけないことは、初等教育から、中等、高校、大学そして学術界、すなわち、世界の全ての文献と理解はそうなっている。変えることのできない不変的な法則のように理解されていると考えられる。
しかるに2014年2月2日 ゼロ除算は、可能であり、ゼロで割ればゼロであることが、偶然発見された。その後の経過、背景や意味付け等を纏めてきた:
再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8) 知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
再生核研究所声明176(2014.8.9) ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
Announcement 179 (2014.8.25): Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
Announcement 185 : The importance of the division by zero $z/0=0$
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明190(2014.12.24)
再生核研究所からの贈り物 ― ゼロ除算100/0=0, 0/0=0
夜明け、新世界、再生核研究所 年頭声明
― 再生核研究所声明193(2015.1.1)―
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
ところが、気づいてみると、ゼロ除算は当たり前なのに、数学者たちが勝手に、割り算は掛け算の逆と思い込み、ゼロ除算は不可能であると 絶対的な真理であるかのように 烙印を押して、世界の人々も盲信してきた。それで、物理学者が そのために基本的な公式における曖昧さに困ってきた事情は ニュートンの万有引力の法則にさえ見られる。
さらに、誠に奇妙なことには、除算はその言葉が表すように、掛算とは無関係に考えられ、日本ばかりではなく西欧でも中世から除算は引き算の繰り返しで計算されてきた、古い、永い伝統がある。その考え方から、ゼロ除算は自明であると道脇裕氏と道脇愛羽さん6歳が(四則演算を学習して間もないときに)理解を示した ― ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であり、ゼロで割ればゼロであるは数学的な真実であると言える(声明194)。数学、物理、文化への影響も甚大であると考えられる。
数学者は 数学の自由な精神で 好きなことで、考えられることは何でも考え、不可能を可能にし、分からないことを究め、真智を求めるのが 数学者の精神である。非ユークリッド幾何学の出現で 絶対は変わり得ることを学び、いろいろな考え方があることを学んできたはずである。そのような観点から ゼロ除算の解明の遅れは 奇妙な歴史的な事件である と言えるのではないだろうか。
これは、数学を超えた、真実であり、ゼロ除算は不可能であるとの 世の理解は間違っている と言える。そこで、真実を世界に広めて、人類の歴史を進化させるべきであると考える。特に声明176と声明185を参照。ゼロ除算は 堪らなく楽しい 新世界 を拓いていると考える。
以 上
1+0=1 1ー0=0 1×0=0 では、1/0・・・・・・・・・幾つでしょうか。
0??? 本当に大丈夫ですか・・・・・0×0=1で矛盾になりませんか・・・・
ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・
7歳の少女が、当たり前であると言っているゼロ除算を 多くの大学教授が、信じられない結果と言っているのは、まことに奇妙な事件と言えるのではないでしょうか。
割り算を掛け算の逆だと定義した人は、誰でしょう???
加(+)・減(-)・乗(×)・除(÷) 除法(じょほう、英: division)とは、乗法の逆演算・・・・間違いの元 乗(×)は、加(+) 除(÷)は、減(-)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411588849/a37209195?sort=1&fr=chie_my_notice_canso
再生核研究所声明200(2015.1.16) ゼロ除算と複素解析の現状 ―佐藤超関数論との関係が鍵か?
正確に次のように公開して複素解析とゼロ除算の研究を開始した:
特異点解明の歩み100/0=0,0/0=0 関係者:
複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界です。しかしながら、1/0=0 は 動かせない真実です。それで、勇気をもって進まざるを得ない:― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― 再生核研究所声明148.
私には 無理かと思いますが、世の秀才の方々に 挑戦して頂きたい。空論に付き合うのはまっぴらだ と考える方も多いかと思いますが、面白いと考えられる方で、楽しく交流できれば幸いです。宜しくお願い致します。 添付 物語を続けたい。敬具 齋藤三郎
2014.4.1.11:10
上記で、予想された難問、 解析関数は、孤立特異点で確定値をとる、が 自分でも予想しない形で解決でき、ある種の実体を捉えていると考えたのであるが、この結果自体、世のすべての教科書の内容を変える事件であるばかりではなく、確立されている無限遠点の概念に 新しい解釈を与えるもので、1次変換の美しい性質が、ゼロ除算の導入によって、任意の1次変換は 全複素平面を全複素平面に1対1 onto に写すという美しい性質に変わるが、 極である1点において不連続性が現れ、ゼロ除算は、無限を 数から排除する数学になっている。
6月、帰国後、気に成っていた、金子晃先生の 30年以上前に購入した超函数入門の本に 極めて面白い記述があり、佐藤超関数とゼロ除算の面白い関係が出てきた。さらに 特異積分におけるアダマールの有限部分や、コーシーの主値積分は、弾性体やクラック、破壊理論など広い世界で、自然現象を記述するのに用いられているが、面白いのは 積分が、もともと有限部分と発散部分に分けられ、 極限は 無限たす、有限量の形になっていて、積分は 実は、普通の積分ではなく、そこに現れる有限量を便宜的に表わしている。ところが、その有限量が実は、 ゼロ除算にいう、 解析関数の孤立特異点での 確定値に成っていることが分かった。これはゼロ除算の結果が、広く、自然現象を記述していることを示している。
現在まで、添付21ページの論文原稿について 慎重に総合的に検討してきた。
そこで、問題の核心、ゼロ除算の発展の基礎は、次の論点に有るように感じられてきた:
We can find many applicable examples, for example, as a typical example in A. Kaneko (\cite{kaneko}, page 11) in the theory of hyperfunction theory: for non-integers $\lambda$, we have
\begin{equation}
x_+^{\lambda} = \left[ \frac{-(-z)^{\lambda}}{2i \sin \pi \lambda}\right] =\frac{1}{2i \sin \pi \lambda}\{(-x + i0)^{\lambda}- (-x - i0)^{\lambda}\}
\end{equation}
where the left hand side is a Sato hyperfunction and the middle term is the representative analytic function whose meaning is given by the last term. For an integer $n$, Kaneko derived that
\begin{equation}
x_+^{n} = \left[- \frac{z^n}{2\pi i} \log (-z) \right],
\end{equation}
where $\log$ is a principal value: $ \{ - \pi < \arg z < +\pi \}$. Kaneko stated there that by taking a finite part of the Laurent expansion, the formula is derived.
Indeed, we have the expansion, for around $ n$, integer
$$
\frac{-(-z)^{\lambda}}{2i \sin \pi \lambda}
$$
\begin{equation}
= \frac{- z^n}{2\pi i} \frac{1}{\lambda -n} - \frac{z^n}{2\pi i} \log (-z )
- \left( \frac{\log^2 (-z) z^n}{2\pi i\cdot 2!} + \frac{\pi z^n}{2i\cdot 3!}
\right)(\lambda - n) + ...
\end{equation}
(\cite{kaneko}, page 220).
By our Theorem 2, however, we can derive this result (4.3) from the Laurant expansion (4.4), immediately.
上記ローラン展開で、\lambda に n を代入したのが ちょうど n に対する佐藤の超関数になっている。それは、ゼロ除算に言う、 孤立特異点における解析関数の極における確定値である。これはゼロ除算そのものと殆ど等価であるから、ローラン展開に \lambda = n を代入した意味を、上記の佐藤超関数の理論は述べているので 上記の結果を分析すれば、ゼロ除算のある本質を捉えることができるのではないかと考えられる。
佐藤超関数は 日本で生まれた、基本的な数学で 優秀な人材を有している。また、それだけ高級、高度化しているが、このような初歩的、基本的な問題に関係がある事が明らかになってきた。そこで、佐藤超関数論の専門家の方々の研究参加が望まれ、期待される。また、関係者の助言やご意見をお願いしたい。
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として示していることである。
以 上
7歳の少女が、当たり前であると言っているゼロ除算を 多くの大学教授が、信じられない結果と言っているのは、まことに奇妙な事件と言えるのではないでしょうか。
再生核研究所声明202(2015.2.2)ゼロ除算100/0=0,0/0=0誕生1周年記念声明 ― ゼロ除算の現状と期待
ゼロ除算の発見、経過、解説などについては、結構な文献に記録されてきた:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8) 知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
再生核研究所声明176(2014.8.9)ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
Announcement 179 (2014.8.25) Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
Announcement 185: The importance of the division by zero $z/0=0$
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明190(2014.12.24)
再生核研究所からの贈り物 ― ゼロ除算100/0=0, 0/0=0
夜明け、新世界、再生核研究所 年頭声明
― 再生核研究所声明193(2015.1.1 ―
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
再生核研究所声明199(2015.1.15)世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える ― ゼロ除算100/0=0,0/0=0
ゼロ除算100/0=0,0/0=0誕生1周年記念日に当たり、概観して共同研究者と共に夢を明るく 楽しく描きたい。まずは、ゼロ除算の意義を復習しておこう:
1)西暦628年インドでゼロが記録されて以来 ゼロで割るの問題 に 簡明で、決定的な解 ゼロで 何でも割れば ゼロ z/0=0 である をもたらしたこと。
2)ゼロ除算の導入で、四則演算 加減乗除において ゼロでは 割れない の例外から、例外なく四則演算が可能である という 美しい四則演算の構造が確立されたこと。
3)2千年以上前に ユークリッドによって確立した、平面の概念に対して、おおよそ200年前に 非ユークリッド幾何学が出現し、特に楕円型非ユークリッド幾何学ではユークリッド平面に対して、無限遠点の概念がうまれ、特に立体射影で、原点上に球をおけば、 原点ゼロが 南極に、無限遠点が 北極に対応する点として 複素解析学では 100年以上も定説とされてきた。それが、無限遠点は 数では、無限ではなくて、実はゼロが対応するという驚嘆すべき世界観をもたらした。
4)ゼロ除算は ニュートンの万有引力の法則における、2点間の距離がゼロの場合における新しい解釈、独楽(コマ)の中心における角速度の不連続性の解釈、衝突などの不連続性を説明する数学になっている。ゼロ除算は アインシュタインの理論でも重要な問題になっていたとされている。数多く存在する物理法則を記述する方程式にゼロ除算が現れているが、それらに新解釈を与える道が拓かれた。
5)複素解析学では、1次変換の美しい性質が、ゼロ除算の導入によって、任意の1次変換は 全複素平面を全複素平面に1対1 onto に写すという美しい性質に変わるが、 極である1点において不連続性が現れ、ゼロ除算は、無限を 数から排除する数学になっている。
6)ゼロ除算は、不可能であるという立場であったから、ゼロで割る事を 本質的に考えてこなかったので、ゼロ除算で、分母がゼロである場合も考えるという、未知の新世界、新数学、研究課題が出現した。
7)複素解析学への影響は 未知の分野で、専門家の分野になるが、解析関数の孤立特異点での性質について新しいことが導かれる。典型的な結果は、どんな解析関数の孤立特異点でも、解析関数は 孤立特異点で、有限な確定値をとる という定理 である。佐藤の超関数の理論などへの応用がある。
8)特異積分におけるアダマールの有限部分や、コーシーの主値積分は、弾性体やクラック、破壊理論など広い世界で、自然現象を記述するのに用いられている。面白いのは 積分が、もともと有限部分と発散部分に分けられ、 極限は 無限たす、有限量の形になっていて、積分は 実は、普通の積分ではなく、そこに現れる有限量を便宜的に表わしている。ところが、その有限量が実は、 ゼロ除算にいう、 解析関数の孤立特異点での 確定値に成っていること。いわゆる、主値に対する解釈を与えている。これはゼロ除算の結果が、広く、自然現象を記述していることを示している。
9)中学生や高校生にも十分理解できる基本的な結果をもたらした:
基本的な関数y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである;すなわち、 1/0=0 である。
10)既に述べてきたように 道脇方式は ゼロ除算の結果100/0=0, 0/0=0および分数の定義、割り算の定義に、小学生でも理解できる新しい概念を与えている。多くの教科書、学術書を変更させる大きな影響を与える。
11)ゼロ除算が可能であるか否かの議論について:
現在 インターネット上の情報でも 世間でも、ゼロ除算は 不可能であるとの情報が多い。それは、割り算は 掛け算の逆であるという、前提に議論しているからである。それは、そのような立場では、勿論 正しいことである。しかしながら、出来ないという議論では、できないから、更には考えられず、その議論は、不可能のゆえに 終わりになってしまう ― もはや 展開の道は閉ざされている。しかるに、ゼロ除算が 可能であるとの考え方は、それでは、どのような理論が 展開できるのかという未知の分野が望めて、大いに期待できる世界が拓かれる。
12)ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える。
次を参照:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として表していることである。
ゼロ除算は 既に数学的に確定され、その意義も既に明らかであると考えられるが、声明199にも述べられているように、ゼロ除算が不可能であるとの世の常識、学術書、数学は 数学者の勝手な解釈による歴史的な間違いに当たる ことをしっかりと理解させ、世の教育書、学術書の変更を求めていきたい。― 誰が、真実を知って、偽りを教え、言い続けられるだろうか。― 教育に於ける除算、乗算の演算の意味を 道脇方式で回復させ、新しい結果 ゼロ除算を世に知らしめ、世の常識とさせたい。それは ちょうど天動説が地動説に変わったように 世界史の確かな進化と言えるだろう。
ゼロ除算の研究の進展は、数学的には 佐藤超関数の理論からの展開、発展、 物理学的には ゼロ除算の物理法則の解釈や、衝突現象における山根の面白い解釈の究明 などに興味が持たれる。しかしながら、ゼロ除算の本質的な解明とは、Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の自然な現象として受け入れられることである。数学では、その強力な不連続性を自然なものとして説明され、解明されることが求められる。
以 上
ゼロ除算は、誰にもわかるが、みんな間違って理解している。
正しい結果は、驚嘆すべきもので、何でも0で割れば、0ということが最近発見された。
ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・
7歳の少女が、当たり前である(100/0=0、0/0=0)と言っているゼロ除算を 多くの大学教授が、信じられない結果と言っているのは、まことに奇妙な事件と言えるのではないでしょうか。
小学校以上で、最も知られている数学の結果は何でしょうか・・・
ゼロ除算(100/0=0、0/0=0)かピタゴラスの定理ではないでしょうか。
1+0=1 1ー0=0 1×0=0 では、1/0・・・・・・・・・幾つでしょうか。
0??? 本当に大丈夫ですか・・・・・0×0=1で矛盾になりませんか・・・・
割り算を掛け算の逆だと定義した人は、誰でしょう???
加(+)・減(-)・乗(×)・除(÷) 除法(じょほう、英: division)とは、乗法の逆演算・・・・間違いの元 乗(×)は、加(+) 除(÷)は、減(-)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1411588849/a37209195?sort=1&fr=chie_my_notice_canso
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku/%E5%A0%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%8F%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%84%E6%95%B0%E5%AD%A615.5.htm
何とゼロ除算は、可能になるだろうと April 12, 2011 に 公に 予想されていたことを 発見した。
多くの数学で できないが、できるようになってきた経緯から述べられたものである。
Dividing by Nothing
by Alberto Martinez
It is well known that you cannot divide a number by zero. Math teachers write, for example, 24 ÷ 0 = undefined.
After all, other operations that seemed impossible for centuries, such as subtracting a greater number from a lesser, or taking roots of negative numbers, are now common. In mathematics, sometimes the impossible becomes possible, often with good reason.
Posted April 12, 2011More Discoverhttps://notevenpast.org/dividing-nothing/
再生核研究所声明236(2015.6.18)ゼロ除算の自明さ、実現と無限遠点の空虚さ
(2015.6.14.07:40 頃、食後の散歩中、突然考えが、全体の構想が閃いたものである。)
2015年3月23日、明治大学における日本数学会講演方針(メモ:公開)の中で、次のように述べた: ゼロ除算の本質的な解明とは、Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、 強力な不連続性を universe の自然な現象として受け入れられることである。数学では、その強力な不連続性を自然なものとして説明され、解明されること が求められる。
そこで、上記、突然湧いた考え、内容は、ゼロ除算の理解を格段に進められると直観した。
半径1の原点に中心を持つ、円Cを考える。いま、簡単のために、正のx軸方向の直線を考える。 その時、 点x (0<x<1)の円Cに関する 鏡像 は y = 1/x に映る。この対応を考えよう。xが どんどん 小さくゼロに近づけば、対応する鏡像 yは どんどん大きくなって行くことが分かる。そこで、古典的な複素解析学では、x =0 に対応する鏡像として、極限の点が存在するものとして、無限遠点を考え、 原点の鏡像として 無限遠点を対応させている。 この意味で 1/0 = ∞、と表わされている。 この極限で捉える方法は解析学における基本的な考え方で、アーベルやオイラーもそのように考え、そのような記号を用いていたという。
しかしながら、このような極限の考え方は、適切ではないのではないだろうか。正の無限、どこまで行っても切りはなく、無限遠点など実在しているとは言えないのではないだろうか。これは、原点に対応する鏡像は x>1に存在しないことを示している。ところが、ゼロ除算は 1/0=0 であるから、ゼロの鏡像はゼロであると述べていることになる。実際、鏡像として、原点の鏡像は原点で、我々の世界で、そのように考えるのが妥当であると考えられよう。これは、ゼロ除算の強力な不連続性を幾何学的に実証していると考えられる。
ゼロ以上の数の世界で、ゼロに対応する鏡像y=1/xは存在しないので、仕方なく、神はゼロにゼロを対応させたという、神の意思が感じられるが、それが この世界における実態と合っているということを示しているのではないだろうか。
この説は、伝統ある複素解析学の考えから、鏡像と無限遠点の概念を変える歴史的な大きな意味を有するものと考える。
以 上
付記 下記図を参照:
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