2015年6月14日日曜日

集団的自衛権の行使は、憲法9条で否定されていない。

集団的自衛権の行使は、憲法9条で否定されていない。
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一、国際慣習法でも国連憲章でも、集団的自衛権は「固有の権利」と認められている。
二、憲法9条が否定しているのは、「国際紛争を解決する手段」としての戦争であって、自衛戦争は否定されていない。最高裁も憲法9条について「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」としている。
三、ウェブスター見解やニカラグア事件判決は「自衛権の濫用を防ぐための国際慣習法上の制限」にすぎない。
四、「個別的又は集団的自衛の固有の権利」は国連憲章で初めてあらわれた概念である。これは国連(つまり軍事同盟としての「連合国」)とは別の枠組みの安全保障・共同防衛体制を安保理における五大国の拒否権の対象外とするためにそれまでの自衛権を確認的に「個別的又は集団的自衛の固有の権利」と再定義したものである。つまり、集団的自衛権とは自衛権に含まれる概念に過ぎない。
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-1389.html
「従って、国連憲章第51条の規定は従来の「自衛権」を拡張解釈したものでもなく、それとは別に新しい権利を創設したものでもないことになる。」(色摩力夫)
結論)
国際法上「固有の権利」とされている集団的自衛権の行使が日本国憲法で明示的に否定されていない以上、憲法9条の正しい解釈は「個別的自衛権はもちろん、集団的自衛権も行使可能である」となる。
Q)どこか間違っていますか?
以下、参考)
日本国憲法9条
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
国連憲章第51条〔自衛権〕
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。(以下省略)

砂川事件最高裁判決(1959年12月)
『(憲法9条について)わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。』
http://tamutamu2011.kuronowish.com/sunagawasaikousai.htm

第18講 憲法9条 総司令部案の真相 西修先生
http://sankei.jp.msn.com/life/news/131102/edc13110208500002-n1.htm
「マッカーサー・ノートにあった『自己の安全を保持するための手段としての戦争』の文言を削除したのは、それが非現実的だと考えたからです。」(ケーディス大佐)

【ウェブスター見解】
1841年にカロライン号事件(1837年)に関して、ウェブスター米国務長官がイギリス公使に宛てた書簡の中にあった見解。
① 必要性の原則:軍事的反撃が必要であるか
② 均衡性の原則:その反撃は相手の攻撃とつりあっているか
③ 即時性の原則:その反撃が即座のものであるか
という、3つの原則が自衛権の行使に制限を加えることとなった。

【ニカラグア事件判決】
集団的自衛権を国際慣習法上の固有の権利とした判決。
集団的自衛権の行使には、
・ 武力攻撃の直接犠牲国による、武力攻撃を受けた事実の宣言
・ 武力攻撃の直接の犠牲国による、他国への援助の要請
という条件が必要だと定められた。

「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」 報告書
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/anzenhosyou/houkokusho.pdf

集団的自衛権の行使はなぜ許されないのか/阪田雅裕(元内閣法制局長官)
http://www.chukai.ne.jp/~tottori9jo/etc/syudan.pdf

集団的自衛権とイラク戦争~孫崎享(ウケル)氏のトンデモぶり
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-1362.html

日本の憲法学者は護憲派だらけ~職を得るための護憲
http://nomorepropaganda.blog39.fc2.com/blog-entry-1366.html

milky_way0088の独善的回答拒否と”なぜ今ここで?的”逆質問
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1412255586...補足みなさん回答ありがとうございます。
teradatatuhiko
>政府見解の紹介は単なる補強に過ぎません。
防衛省HPの提示は「単なる補強」とおっしゃいますが、それは内閣法制局解釈に依拠したものです。その内閣法制局解釈を変更しましょう、という議論なんですから、持論の「補強」としての提示も全くナンセンスです。
およそ論理的思考力の欠如した方だとお見受けします。

>『個別的自衛権』と【集団的自衛権】は使用条件の違いから異なる権利が明白で、

>その条文が示す内容は明らかに【日本が第三国の立場で外国の個別的自衛権の行使に参加すること】を禁じている。

「明白」とか「明らかに」とかおっしゃることが私の疑問なのですが、おおむねそのような修飾語をやたらと使う人に限って論拠に乏しい論者だというのはよく見られる現象です。

まぁ、それはよいとして、字数制限があるので端的に質問します。

Q)
それまでの「固有の権利」自衛権とは別の「固有の権利」集団的自衛権が国連憲章第51条で生まれたのだ、とお考えですか?
簡潔にお答えください。

追記事項があればy1892a_2にて追記します。http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14128506259

本当に防衛ならば、生物の固有な権利として、自衛権が生じるのは当たり前、問題は、自衛、自衛と言って侵略する事実では?
防衛、防衛と先を進めれば 軍拡競争に入って、猿より劣る、人種になってしまう。


再生核研究所声明183(2014.11.27) 野生動物と人間

まず、野生の動物、 生物の素晴らしさ をきちんと捉えたい。どのような生物でも この厳しい自然環境の中で、何億年に亘って生きてきた事実を重く受け止め、その意味で畏敬の念を以て、生物を捉えたい。このことは、生物の生存が安定していて、神域に属するほどの素晴らしさと捉えたい。自然とともにある 高度に調和した世界である。
我が家でも、 燕は毎年訪れ、猿の集団も時々出没する。しかし、それらの生態は逞しく続いている。 蛇が燕の巣を襲い、全滅させられる場合もしばしばであるが、襲う蛇も賢明で驚嘆すべき本能を持っているが、襲われる燕もある種の余裕を以て、棲息を続けている 誠に切なくも逞しさを感じる。忍耐強い蛇にもある種のいとおしさと、愛着の念を感じさせられる。猿の家族も逞しく、器用に柿や栗の実を採って元気よく山に姿を消していく。誠に愛すべき家族たちである。 冬など沢の奥などに潜んで、寒さと飢えを忍んで居るのではないだろうか? 雪の日などどうして居るだろうか。逞しさゆえに 意外に幸せな時かも知れない。
そこで、人間に近い猿の生態を参考にして、人間の生態を考えてみよう。 結論は、人間の生態の本質は、猿とほとんど変わらないという視点である。
考えてみよう。 人間は何をやっているのか。多くの人は社会の一員として働き、収入を得て暮らしを立てる ― 猿は食料を自然の中から,採る。 そして、家庭を以て、家庭生活を楽しむ。 猿も全く同様、家族が十分食料を採れれば相当に満足では。 人間も衣、食、住、が整い、生活の基盤が整えば、相当に満足では。 現在では 猿ができていること、家庭を持ち、衣、食、住が整い、健全に生きられる子供たちに囲まれていれば、既に相当に良い生活のレベルと言えるのではないだろうか。 余裕ができれば、果たして、人間は何をやっているのか? テレビを見、映画、音楽など楽しいことをしているが、果たして、それらが、どのような意味があり、猿よりどれほど優れているのかと自問したい。
美味しいものを頂き、楽しんで、良い家庭を営めば 人生はそれで良いように見える。
多くの人の人生は、猿の生態とほとんど本質は変わらず、往々にして、猿の生態より劣っているようにさえ見える。人間が猿よりどのようなところで優れ(再生核研究所声明181: 人類の素晴らしさ ― 7つの視点)、どのようなところで、猿より劣っているのかと自問したい。
動物である人間が 動物的な本能を満たしたいのは分かる。それでは、その先、人間として生きるということはどのようなことかと 自問したい。 そして、それらは、如何にして、どのような価値があるのかと問いたい。
以 上


再生核研究所声明 69(2011/09/27)  単細胞人間 ― 単細胞的思考

(背景: 2011/09/22 宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)

単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。

まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。

相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。

次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。

上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。

1) 絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2) その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3) みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4) 特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5) 世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6) 一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7) くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8) ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。

これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。

なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上

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