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長谷川豊2015年04月28日 12:40議員たちに最低レベルの試験を科せ!
僕が司会を務めるTOKYO MXの「バラいろダンディ」。
情報トークバラエティー番組として完全な「独自路線」を突き進んでいるが、それをけん引しているのが各曜日に配置された「自由すぎる」コメンテーター陣の発言だ。
何より、「9(く)レイジーだぜ!」を標ぼうに掲げるMX。
キー局では絶対に出来ないであろう「言論の自由」をこれでもか、とばかりに濫用する。ちなみに、昨日1日のニュースをトップ10形式で振り返るコーナーでは、ネパールの地震には1秒も触れないまま、第1位のニュースが
「ちゃぶ台をひっくり返して始まる風俗があった」
だった。なんでも、ふしだらな格好をした女性がちゃぶ台の前を歩き、客の男性はちゃぶ台をひっくり返す。「そんなふしだらな娘に育てた覚えはないわ!」
そこからプレイスタート
と言う、心底どうでもいいニュースが昨日の1位だった。司会者としてある意味鍛えられている。
で、そんな番組なのでコメンテーター陣も極めて自由闊達な議論を展開するのだが、時として、その自由さが「おぉ、なるほど…」とうならせる議論を産むときがある。特に、昨日の統一地方選後半戦のニュースに対する議論は秀逸だったので、ここで紹介したい。
番組では「統一地方選から見る候補者・当選者たちの質の低下」について議論がなされた。
確かに。これは新聞各紙でも問題視されているケースも少なくなく、中には「ミスコンのようだ」と揶揄する論調まである始末だ。それに対して一橋大学卒で人気漫画「だめんずうぉーかー」の作者でもある倉田真由美さんが
「私の知人の話なんだけれど、『俺、会社をリストラされちゃったよ、もう区議にでもなろうかな~』と言っていた」
というエピソードを披露。逆に言うと、それだけ誰でも候補になれるし、あまりにも質が低下しているという現状を嘆いたのだが、それに対して武井壮さんが指摘したコメントに、スタジオみんなが唸った。
武井壮さんは現在テレビに出ずっぱりで、「百獣の王」として面白いコメントも多数しているのだが、本来、大学では法学部を卒業し、アメリカ留学も経て英語はペラペラだったりする相当に頭のいい方だ。あまりそういう部分をひけらかす人ではないが。で、その武井さんが指摘したのが次の点である。
「自分は選挙に出る候補者には…国家試験ってことでなくてもいいのだけれど…何らかの試験的なフィルターをかけるべきだと思うのです」
まとめるとこういうことだ。
人が人を裁く裁判においては、裁判官であっても弁護士であっても検察官であっても、難関な国家試験を突破し、その後研修を繰り返し、それこそ血のにじむような苦労を経て、資格を得る。
でも、それは当然だ。人が人を裁く『法』を管理するのだから、苦労して当然である、と。
しかし、政治家に何故それがないのか?政治家は法どころではない、超巨額な『予算』を預かり、そもそも『法』を作り上げる権力すら保持する(立法府)。人を動かし、国を動かす絶大な権力を持つ、そんな政治家たちには…
最低レベルの国家試験などのフィルターがあってもしかるべきなのではないか?
という疑問を呈したのだ。
それは確かにその通りだ。統一地方選の結果を見るまでもないし、これは地方議員だけではない。国会議員も同じで、「顔が可愛い」というだけで公認候補となり、当選。様々な問題に対して何の知識も持たないまま初登院する議員も少なくない。
おとうちゃま、おじいちゃまが議員さんだった、というだけで口を開けたまま当選し、そのまま年間3000万円以上の議員歳費をもらい続けるバカ2世議員は僕の知る限り、国会内に3分の1はいる。
人のため!
と懸命に訴えたところで、地盤も看板もなければ当選なんてしない。賢明で、能力があり、最低限の常識のある人間は、日本では政治家などにはなりはしない。保障がなさ数ぎるからだ。普通の人は就職し、会社に勤めるなり、自分で起業する方が圧倒的に有利だし、何よりも生活も安定する。
つまり、日本では、「一般的な常識がなく」「ちょっと変な方向に突っ走ってる人」以外は政治家などは目指さないという土壌が、少なからず出来上がっていることは事実なのだ(もちろん、そうでない素晴らしい政治家も少数ではあるがいることは押さえておく)。
そして、今回の統一地方選でもわかったように、「立候補」を「誰でも出来る」状態にしてしまっているために、地方などでは議員定数に立候補者数が追い付いておらず、事実上の無投票再選となっている地域も多数存在している。
そういう人間のために税金を払って、議員をしてもらうメリットなどあるのだろうか?
せめて、最低レベルの常識や時事問題にまつわる知識は必要なのではないか?昨日の僕の番組における武井壮さんの問題提起は的を射ており、全面的に同意できるものだった。東京限定の番組でもあるし、地方の方は見ていないはずなので、こうして僕のブログ上でシェアしたい。皆さんはどう思っただろうか?http://blogos.com/article/111058/
これは、難しいのでは? それよりも選挙法は選ぶ文化を高める必要が?
再生核研究所声明228(2015.5.3)選挙制度の在り様についての具体的で簡単な提案 ― 選挙期間の延長を
地方選挙が行われた。地方選挙は選挙期間が7日間で、
(注: 選挙運動は,公示日(告示日)に立候補届が受理された時から選挙が行われる日の前日まですることができる。
1. 参議院選挙及び知事選挙が17日間。
2. 政令指定都市の市長選挙が14日間。
3. 衆議院選挙が12日間。
4. 都道府県議会選挙及び政令指定都市議会選挙が9日間。
5. 政令指定都市以外の市議会選挙及び市長選挙が7日間。
6. 町村議会選挙及び町村長選挙が5日間。)
始めから慌ただしく、お願いします、頑張りますの 連呼で 恰も名前を売り込むだけの運動に、第3者の人には思われる。立候補者の人物像、政策、政治姿勢など殆ど分からず、多くは 地元の人だから、あるいは政党によって、言わば立候補者の人物像が分からずに 感じで投票しているのが実情ではないだろうか。また、それらが、投票率の低さの原因ではないだろうか。選挙費用等は 関与したことがないので、 実情は分からないが、運動の様をみると結構大変な額ではないだろうか。民主主義の在り様について いろいろな面から、問題を意識している人は 世に多いのではないだろうか。
いわゆる選挙で選らばれる人は その組織において極めて重要であるという観点から、選挙における心得を次のように述べて来た:
再生核研究所声明 52(2011.3.22): 選挙における心得、留意事項
プロ野球やサッカーチームの監督が、極めて重要な役割を果たすように、いわゆる選挙で選らばれる人は その組織において極めて重要である。それは選挙で選ばれた人は、逆に何らかの権力、決定する権利を有することになるからである。 例えば、衆議院は国権の最高機関として首相を選出する権利を有するばかりではなく、国家の意志にかかわる重要事項を決定する重要な権限を有している。地方議会や知事や市長等々、何らかの大きな影響力と権限を有している。 そこで、そのような人物の選出において、適切な人物を選ぶ大事な視点について考察したい。 どのように心得て人物を選ぶかという、視点である。― 以下略
と述べ、具体的に詳しく留意すべきことを述べている。それらは要するに人物評価であるから、 そうは簡単でなく、適切に評価するのに 相当な時間を必要とするのは 当然である。この点、典型的な例として、アメリカの大統領選挙が想起される。複雑な方法で長い期間をかけて行われるのは、いろいろな視点から、慎重に、慎重に人物を選択するためであるとされている。
そこで、選挙制度の在り様の簡単で具体的な提案を行いたい。 選挙期間を3ヶ月間くらいに長く延長して、十分に時間をかけて全体の状況が理解できるようにするということである。選挙期間を長くすれば、選挙の在り様は相当に変わり、 連呼や単なる挨拶ではなく、より地味な深みのある選挙活動が行われるであろう。それはまた、政治への関心を広め、また深めるだろう。さらに人と人の交流を深める効果をもたらすだろう。実際、選挙期間が3ヶ月間の国に5年間滞在したが、何時選挙が行われたか、第3者には全然分からず、街は選挙に関して 平静そのものであった。沢山の立て看板や車による連呼などの虚しい選挙の様を変えられるのではないだろうか。 具体的な提案を行いたい。
以 上
再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)
世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。
相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。
以 上
再生核研究所声明 129 (2013.8.28):
美しい社会はどうしたら出来るか ― 世の中なぜ上手く行かないか
(2013.8.22 零時頃 新しい声明案が湧き、大いに気に成る。良い社会を築く問題点である。)
再生核研究所は 今の世の中 おかしいのではないか として、美しい社会を築くにはどうしたら良いかと考察し、始めに再生核研究所声明1で 次のように述べている:
(最近の世相として、不景気・政界・財界・官界・大学の不振、教育の混迷、さらにニューヨークのテロ事件、アフガン紛争、パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。
一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。
現在、社会の規範が混乱し、不透明になっているように思うが、公正の原則を確認して、行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり、多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか。)
そこで、上記 閃きにしたがって逆の立場から、考察、補充して置きたい。
まず、大きな権力と影響を与える政治家の立場から、考察しよう。
政治家は地位を得るのに汲々として、公正な行為がとれない本質的な問題を抱えているのが、民主主義の制度ではないだろうか。絶えず、地位が侵される立場であるから、まずは、自己の立場、権力の維持、したがって自分と仲間の視点を重視せざるを得ないのは、深刻な 当然の、本質的な問題である。古くは論功賞、ご恩と奉公はそれらの基礎である。民主主義には選挙過程と政治家の地位保存で膨大な労力を費やし、公正の原則や在るべき政策以前で終わってしまうような状況が有るのではないだろうか。安定した王政や貴族政、世襲制の方が良いという面が多いのではないだろうか。将来の大きな問題として提起しておきたい。次も参照: 再生核研究所声明 33:民主主義と衆愚政治
権力者が、在るべき社会の在りようを無視して、狭い意味での自己の利益を優先させる事である。明治初期には 国家の指導者たちが、相当に公や国家を論じて、義を重んじ 常に公を心にした高い志が 日本国の輝かしい時代を築いた原動力ではなかったかと評価、追想される。
それは政治家ばかりではなく、大学や学会などその他至る所でも 公の地位を利用して、自己の都合の良いように行うのは 世界的に見られる恥ずべき現象である。公の立場と個人的な利益の混同は 常に批判して、何時も人格の高潔さに思いを致すべきである。
政治的な面は、お金と権力に結び付き易いから、政治性に興味を抱く者、政治家などでは、始めから いわゆる野心家がいて、自己の利益追求を考えている者が多い現実に注目して 新しい制度の在りようの検討とともに大いに警戒すべきである(再生核研究所声明 52: 政治家や組織の代表者の選出における留意事項)参照。
公正と正義となれば、それらを守らせるのが、裁判官、検事などの役割で 国家の基本であるから、それらに圧力を掛けたり、また圧力に屈していると見られるようでは 共に卑劣、言語同断 それこそ、昔の武士道では切腹者である。公正な真実の報道を魂とし、社会正義を志すマスコミ関係者も同じように聖職者であり、同じような厳しさが求められるのは 当然である。
日本では、大事な、政治家、司法関係者、マスコミ関係者、多くの権力者たちが上記、公の立場をないがしろにして、自己の利益を図ったり、あるいは圧力に屈しているように見えるのが、当初に述べているおかしな社会にならしめている 元凶ではないだろうか。そこで、再び公正の原則を確認して、公の立場に従って行動できるように、行動させるようにお互いに自戒して行くように心掛けたい。それが帰するところ、美しい社会の実現の第1歩、基礎であると考える。
そこで、モラルの面で、いわゆる社会の上層部、指導者たちが高い学歴を有しているのは 普通であるが、いわゆる中国の科挙制度が おかしな、厳しい試験制度を永く続けたため、その制度の弊害で良き人材が現れず、中国が衰退の道を歩んだとの説もあるが、日本でも知識偏重で 人物たる教育の面が疎かになっているようなことはないか と大いに気に成る。それは 頭ばかりが大きくて 心が貧しいと表現されるだろう。
以 上
追記: 稲村和夫氏 などを 全国紙の論説主幹などに登用できる文化力が日本に有れば、日本は どんなに素晴らしい国になるだろう。人材の登用がおかしいのでは? 2013.8.24.10:45
再生核研究所声明84(2012.4.20)
国会審議における心得 - 討論、議論、批判における心得
国の最高機関である国会審議の様を見ていると、見るに堪えないような状況が有るので、意見表明し、また、世情における討論、議論、批判の在りようについても、自戒の念を込めて省察しておきたい。
まず、国の最高機関である国会は、国の在りようを決定する 国の最高機関であるから、国会審議、討論は 国家の在りようという視点を原点にして 行われるべきである。 ところが、政党政治では、批判のための批判、相手を攻撃して、政権を奪いとるのが 国会の場 と勘違いしているようにさえ見える有様である。 ひどい場合には いろいろ調べてきて、大臣や首相を国会の場で辱め 喜んでいる、得意がっている風潮さえ見うけられる。自分を売り込む場である、宣伝の場であると考えているようにも見える。 恥ずべきことである。膨大な国費をかけて、国の重要な公の場を 卑小な題材で、自己宣伝の場と考えられては、国民は堪えられないであろう。ところが、そのような浅ましい情景を喜んでいる大衆がいることも、また派手に、軽薄にも報じているマスコミの精神も情けない。
国益大事、国家のためには の精神 を徹底させ、そのような卑小なことを問題にせず、自ら選出した日本国の最高責任者を軽々しく批判せず、首相を助け、日本国を良くするために 首相、大臣たちに知恵を与えて、国家に貢献すべきである。よって、礼を弁え、国のために知恵を出し、日本国を代表する立場の首相、内閣を支えるべきである。 特に、自ら選出した日本国の最高責任者、首相は、日本国の国益を背負っている大事な存在であるから、首相に対しては アメリカ大統領など外国の元首以上の処遇で当たるべきである(再生核研究所声明73: 日本国首相の役割 参照)。
簡潔に纏めておこう:
1) 自己や、政党の立場ではなくて、国家のための議論を行う。
2) 批判ではなく、具体的に問題点を明らかにして、建設的な在り様を提案する。国に知恵を与える視点を重視する。
3) 国の最高機関の構成員であることを自覚して、何時も国のためには、世界のためには の視点をもち、各論的な問題にとらわれない態度を保つように心がける。
世情における、討論、議論、批判における問題点を 次のように注意したい:
1)賛成派と反対派に分けたような色分けを行い、議論の背景や立場を無視して、一方的に あたかも敵、味方のように 有無も言わさず相手を批判するような傾向が有って、実りある議論になっていない状況が広く見られる。これを是正する。
2)上記国会審議と同様、良い国、良い社会を作るには どうしたらよいかの原点をしっかりと確認して、議論、討論、意見表明を、是是非非の立場、公正の原則の立場 から 行うべきである。
3)近年みられるのは、在るべき考えではなくて、利害関係で 特定の方向性を定めてキャンペーンを張っているような場面が多く、そのような立場は世に多いから、それはそれと理解して、対応して、自由な議論によって、実りある討論ができる相手か否かを見破らなければ、深入りの議論は 空しい議論に陥るであろう。
4) この観点において、第3者の立場の意見 を大いに参考,重視すべきである。
5) 特に批判する場合には、具体的な点を明確にして、きちんと理由を付けて、建設的な提案をするように心がけたい。
大局的には 視野が狭く、一面的、局所的、単細胞的な批判が多く 文化レベルの低さ、野蛮性を反映していると言える(再生核研究所声明 69:単細胞人間 ― 単細胞的思考)。
討論、議論、批判は 多様な視点、在りようの意見を出し合って、より良い在りようを探り、視野を広め、文化を向上させ、より良い人生、社会を営めるようにするのが基本である。そのためには、真実を尊重、真理を追究し、良い意見を積極的に取り上げ、より良い社会を作るには どうしたらよいかの根本精神から、活かし またこのような精神を常に確認することが肝要である。折角のインターネットの世界、汚い、低級な罵りで汚したくはない。 進化した未来人の書く、世界史に耐えられるにしたい(再生核研究所声明83: 再生核研究所声明とは 何か; 再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判
)。
そのためには、それらは、争いではなく、相手を論破したり、論戦で勝つなどの 卑小な精神を克服して、お互いに高め合って、人生、社会を楽しいものにしていきたいとの存念を擁くこと が大事である。
以 上
日本の政党は「腐敗している」80%(独NGO調査)
ウイキペディアより:
マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。
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