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竹内健2015年01月05日 18:45日本の大学が生き残る道。アメリカの大学をコピーできないし、コピーする必要も無い。
年末年始は今野浩先生の“工学部ヒラノ教授シリーズ”を読みました。ビジネスと工学の境界で仕事をされていること、スタンフォード大学と東大の学科の大先輩であること、中大の理工学部の教員としても大先輩であることと、今野先生とは共通点がたくさんあるのに、読むのが遅すぎたくらいです。
今野先生はアメリカで学び博士号を取られただけでなく、アメリカのビジネススクールで教えられていたこともあります。
その今野先生が書かれている日本とアメリカの大学の比較は、教えられるところがたくさんありました。
いま、日本の大学は文科省指導の下、改革されようとしています。日本の大学はアメリカの大学のやり方をコピーしただけでは機能するはずもなく、かといってこのままでは良くないのも明らかで、今野先生の本には深く考えさせられました。
「工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行」によると、スタンフォードやハーバード、イェール、プリンストンのようなトップ大学では自己資金は一兆円以上。日本で最もお金がある大学の自己資金はその十分の一以下。
スタンフォード大学が100周年記念で集めた寄付金は1500億円、東大が100周年記念で集めた寄付金は40億円。
寄付金の差は税制の違いとよく言われますが、他にもカラクリもあるでしょうね。
アメリカの私立大学はいわゆるAO入試もやっていて、多様な経験をエッセーに書かせます。
私のスタンフォードの同級生は子供が生まれた時から、大学に寄付をしていました。18年後、子供が大きくなって入学試験を受ける時に有利になるからだそうです。本当に有利かどうかは知りませんが、こういった事情もあるでしょう。
私の同級生のように、「親のおなかの中に授かった時にはスタンフォード大学内に住んでいて、スタンフォード大学病院で生まれ、以後ずっと大学に寄付を続けている」とエッセーに書けば、確かに多少は入試に有利になりそうです。
本に書かれていた一部(182ページ)を引用すると、
「アメリカが世界に誇る産業である”大学”のキャンパスに足を踏み入れるたびに、ヒラノ教授はアンビバレントな気持ちになる。とてもかなうはずがないという絶望。日本の大学(工学部)は、貧しい割には良く頑張っているという感慨。そして、自分がかつてこの素晴らしいコミュニティの一員として過ごした、という誇らしい気持ちが交錯するのである。政治家や官僚たちは、日米大学の資金格差を知っているはずである(知らなければ怠慢である)。それにも拘わらず政府は、大学に対する投資を減らしているのである。」
この複雑な気持ちというのは、私も共感するところです。
スタンフォードで学んだ誇りと、日米の環境のあまりにもの差の絶望感、でも劣悪な環境でも頑張っているという意地。
世界の一流の大学だからこそ、そこに来ると得である、とお金も人も集まるのでしょうね。お金も人も集まるから、更に金も人も集まるという、好循環。
大学はいわばアメリカの基幹産業で、好循環で強いものが益々強くなる世界。グローバル***とか、卓越した***などと、名前だけは凄い制度が日本でもできまていますが、日本の大学にちょっとしたお金を入れただけでは駄目でしょう。
財政難で日本の大学に投資できるお金は益々減る一方で、このまま何も変わらなければ、ジリ貧というのも間違いない。
私も日本の大学全体への処方箋など持ち合わせていませんが、少なくとも工学部を考えると、日本の社会、産業を強みとする部分に貢献して行く研究・教育を強化する方向にもう少し変わった方が良いと感じています。
アメリカの大学とは比べ物にならないくらい日本の大学はインフラは貧弱ですが、人はそれなりのレベルでしょう。それが活かされていないのは、もったいない。
何が将来役に立つかわからない、目先のことばかりで良いのか、という側面も確かにありますが、今までの大学は社会の問題やニーズからかけ離れていたのかもしれません。
論文も大切ですが、より直接的に社会に貢献することが求められているのではないでしょうか。
例えば私はフラッシュメモリやSSDといった新しい半導体メモリを使ったコンピュータシステムの研究をしています。
このような高速、低電力、小型なメモリがコンピュータアーキテクチャ、ITシステム全体に変革をもたらすと期待されています。
「(初夢)2025年にペタバイトのデータを記憶・処理する1cmサイズのキュービックデータセンターを実現する」
こうした技術の編曲点を予感して、韓国やアメリカ、台湾では革新的なハードウエアを活かすためのソフトやコンピュータ・アーキテクチャの研究が非常に盛んになっています。
しかし、残念ながら日本の大学でやっている人はとても少ない。
フラッシュメモリは日本で生まれた技術で、いわばお家芸です。ハードの産業は強いのに、ハードウエアに留まっていてはとてももったいない。
大学の研究としては「流行にとらわれない」ことも大切ですが、「機を見るに敏である」ことももう少しあっても良いと感じています。
最後にもう一つ、今野先生は金融工学がご専門なので、ビジネススクールやウォールストリートとも深く関係されていて、行き過ぎた金儲け至上主義についてもこの本で書かれています。
「工学部ヒラノ教授のアメリカ武者修行」の200ページから引用です。
「ウォール街の住民は何をしたのか。彼らは“Gread is good(強欲は善)”の合言葉を口に、“私の利益は私の物、私の損失はあなたの物”とばかり、強欲の限りを尽くしたのである。金融工学の入り口を勉強した彼らは、専門家の警告を無視して、格付け不能なCDSやCDOなどの金融商品を売りまくって、リーマン・ショックを引き起こしたのである。この事件のあと、ハーバード・ビジネス・スクールは、自分たちの教育方針が間違ったことを率直に認め、これから先二度とこのような事件が起こらないように、教育方針を改めると宣言した。そしてこのことを世界にアピールするため、サンデル教授の白熱授業を、その証拠物件として世界に売り込んだのである(とヒラノ教授は考えている)。さすがは、クレバーで抜け目がないハーバードである。」
特に最後の一文は笑ってしまいました。さすがと言うか、到底、日本の大学、日本人では太刀打ちできないし、真似する必要もないと思います。
重ねて言いますが、日本の産業、社会には世界レベルで強い部分はたくさんありますし、日本の大学も貧しい割には頑張っているのではないでしょうか。
ただ、両者の距離が遠く、活かしきれていないのはもったいないことです。
日本の強みを活かすための大学、という側面で、日本の大学のあり方を考えてはいかがでしょうか。http://blogos.com/article/102845/
大学の在りよう、教育の有り様も 国柄や伝統がありますので、それらを考えならが、改善していくのが大事では?
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1) 教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2) あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3) 勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4) 優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5) ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6) 簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7) 大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8) 大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
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