[書評]『ギリシアの抒情詩人たち』
沓掛良彦 著
東洋の眼差しが描き出すギリシア抒情詩の世界
極上の一冊だ。これまで訪れたことのない場所に読者を連れ出し、そこから見える壮大な景色を堪能させ、詩がもつ潤いと詩を読む喜びを味わわせてくれるのだ。
『ギリシアの抒情詩人たち――竪琴の音にあわせ』(沓掛良彦 著 京都大学学術出版会)
『ギリシアの抒情詩人たち――竪琴の音にあわせ』(沓掛良彦 著 京都大学学術出版会) 定価:本体5200円+税
拡大『ギリシアの抒情詩人たち――竪琴の音にあわせ』(沓掛良彦 著 京都大学学術出版会) 定価:本体5200円+税
著者は、若き日にはロシア文学を学んでプーシキンやレールモントフを愛で、その後フランス近代文学に転じてバルザックやボードレールを読み込み、詩人西脇順三郎の作品に触れたことを機に地中海世界、なかでもギリシア古典の抒情詩の世界に深入りするようになった。ただ、経歴はここにとどまらない。さらにその後、これも長らく親しんだ日本の和歌や漢詩、中国古典詩に耽溺するようになり、いわゆる「東洋回帰」を果たして現在に至る。
このような文学遍歴のある著者が、学術書としてではなく、あくまで「東洋の一読書人」という立場から、ギリシア抒情詩人たちの相貌を描き出したのが、本書である。
この「東洋の一読書人」という立場が、鍵だ。この立場にはヨーロッパ文学だけでなく、中国の古典詩、日本の古典和歌を総体として眺めわたした、幅広く奥深い視野が踏まえられている。外国文学の専門家、あるいは特定の地域の専門家が、自らの専門領域と日本文学・日本文化を比較しながら論じ、ある視点を差し出すというアプローチはしばしば見られよう。それら1つひとつが貴重であるのは言うまでもないが、こうしたアプローチから、読者は悲しいかな、専門分野間の連関・つながりに思いを致すことがなかなかできない。
翻って、上に述べたような幅と奥行きを兼ね備えた本書のアプローチは、文学的・歴史的・比較文化的にいっそう得難いものだ。これまでの研究生活でロシア語、フランス語、ラテン語、英語、ドイツ語、イタリア語等の文献を渉猟し、東西の古典詩に馴染み、そこからギリシア抒情詩を読み返すという著者ならではの構えが、詩や文学ひいては文化全般に対して、通常困難と思える方向から読者が接近することをも可能にするのだ。冒頭記したように、読者が「訪れたことのない場所に連れ出され」るゆえんである。
さて、中心に据えられるギリシア抒情詩だが、現代日本人にとって馴染みやすい世界とは、やはり言えまい。仮にギリシア神話やホメロスの叙事詩に親しんだことのある読書人であっても、だ。それは主に以下の2つの理由により、ギリシア抒情詩の翻訳が絶望的に難しい作業であることと関係しているようだ。
「詩人の脳髄に湧き出る詩の言葉と音楽とが、一体化して形を成したもの」が、ギリシア抒情詩であることが1つ。つまり竪琴によるメロディと(加えて舞踊とも)分かちがたく結びついた詩そのものの姿はどうやっても現代に復元不可能なのである(とはいえ、本書でも他書でも、著者による訳詩に触れることはできる)。もう1つは、ギリシア抒情詩がもつ「公共性、社会性」である。ポリスの祝祭において、うたう詩人個人とそれを享受する市民とが場を共有することで成り立つのがギリシア抒情詩であり、「孤独なモノローグ」ではないのだ。こうした点からギリシア抒情詩は、(典拠を尊重し修辞過多とさえ言える)ラテン詩とも、ボードレールからマラルメに至る象徴派を中心とするフランス近代詩とも、大きく異なる性質をもつ。
このようなギリシア抒情詩の「父」とされ、「最初の抒情詩人」と呼ばれたのが、アルキロコスである。紀元前7世紀前半を生きた人だ。紀元前7世紀というと、孔子も釈迦も生まれておらず、『万葉集』成立の1400年近く前だ。そんな時代に「覚醒し確立した個の意識に明確な詩的形象を与えて、個の表出である抒情詩の時代を切り開いた」のがアルキロコスで、彼は「一代の反逆児」として「直截、雄勁で生気に満ち、溌溂とした」詩を残した。
続いてアルカイオス、サッポー、アナクレオン、シモニデス、ピンダロス……とギリシア抒情詩を代表する詩人の作品と生涯とがほぼ時代順に紹介されていくのだが、作品を吟味・評価する著者の書きぶりこそ、最大の読ませどころだろう。
たとえば、酒の詩で知られるアルカイオスの作品は、似た遍歴をもつ杜甫の生き方や曹操、李白の詩句と重ねられ評価される。またアルカイオスが優れた作品を残した「政治詩」というジャンルは、往古より政治との関わりが深い中国では受け入れられるかもしれないが、「『万葉集』以来ひたすら詩に抒情的なものを求めるわが国の読者」には「もっともなじみにくい」ものだ、とする。詩に何が求められるのかが文化によって違うことが、具体作を通して示されるのだ。
恋と酒の詩で名高いアナクレオンの作品は、蘇軾(蘇東坡)が元稹・白居易を評価した言葉になぞらえて「軽にして俗」だと一刀両断される。飲酒詩については、ギリシア抒情詩は「『詩酒合一』の境地に達した中国の詩人たちとは、同日の談ではなくその落差はまことに大きい」とも。
さらに、プラトンほか多くの欧米の近代文学者に賛美され、長く「ギリシア最高の抒情詩人」とされてきたピンダロスの作品に対しても、評価は非常に厳しい。ピンダロスを手放しに誉めそやす欧米の学者たちには、「論者は東洋の古典詩を知って断定しているのか。杜甫、李白には遠く及ぶまい」と著者自身の見解を明言する。
ヘレニズム時代におけるギリシア抒情詩人の作品を、日本の『新古今和歌集』の作品と比較する視点もたいへんに興味深い。「学匠詩人」や、「本歌取り」という技法が生まれる必然性が理解されると同時に、日本国内でのみ流通してきた『新古今』評価に風穴を開けてもいる。
メレアグロスの恋愛詩を紹介するくだりでは、欧米の研究者による解釈が「近代詩における恋愛詩の観念」に縛られていると警鐘を鳴らす箇所があり、これにも目を開かされる。東西の詩一篇一篇を見つめる、慈愛に満ちた眼差しが根底にあるからこその評価だろう。
ギリシア抒情詩の世界を逍遙する枯骨閑人(漢詩・狂詩作者としての著者の号)先生の足取りは、やさしく軽やかでありつつも、重いのだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
極上の一冊だ。これまで訪れたことのない場所に読者を連れ出し、そこから見える壮大な景色を堪能させ、詩がもつ潤いと詩を読む喜びを味わわせてくれるのだ。
『ギリシアの抒情詩人たち――竪琴の音にあわせ』(沓掛良彦 著 京都大学学術出版会)
『ギリシアの抒情詩人たち――竪琴の音にあわせ』(沓掛良彦 著 京都大学学術出版会) 定価:本体5200円+税
拡大『ギリシアの抒情詩人たち――竪琴の音にあわせ』(沓掛良彦 著 京都大学学術出版会) 定価:本体5200円+税
著者は、若き日にはロシア文学を学んでプーシキンやレールモントフを愛で、その後フランス近代文学に転じてバルザックやボードレールを読み込み、詩人西脇順三郎の作品に触れたことを機に地中海世界、なかでもギリシア古典の抒情詩の世界に深入りするようになった。ただ、経歴はここにとどまらない。さらにその後、これも長らく親しんだ日本の和歌や漢詩、中国古典詩に耽溺するようになり、いわゆる「東洋回帰」を果たして現在に至る。
このような文学遍歴のある著者が、学術書としてではなく、あくまで「東洋の一読書人」という立場から、ギリシア抒情詩人たちの相貌を描き出したのが、本書である。
この「東洋の一読書人」という立場が、鍵だ。この立場にはヨーロッパ文学だけでなく、中国の古典詩、日本の古典和歌を総体として眺めわたした、幅広く奥深い視野が踏まえられている。外国文学の専門家、あるいは特定の地域の専門家が、自らの専門領域と日本文学・日本文化を比較しながら論じ、ある視点を差し出すというアプローチはしばしば見られよう。それら1つひとつが貴重であるのは言うまでもないが、こうしたアプローチから、読者は悲しいかな、専門分野間の連関・つながりに思いを致すことがなかなかできない。
翻って、上に述べたような幅と奥行きを兼ね備えた本書のアプローチは、文学的・歴史的・比較文化的にいっそう得難いものだ。これまでの研究生活でロシア語、フランス語、ラテン語、英語、ドイツ語、イタリア語等の文献を渉猟し、東西の古典詩に馴染み、そこからギリシア抒情詩を読み返すという著者ならではの構えが、詩や文学ひいては文化全般に対して、通常困難と思える方向から読者が接近することをも可能にするのだ。冒頭記したように、読者が「訪れたことのない場所に連れ出され」るゆえんである。
さて、中心に据えられるギリシア抒情詩だが、現代日本人にとって馴染みやすい世界とは、やはり言えまい。仮にギリシア神話やホメロスの叙事詩に親しんだことのある読書人であっても、だ。それは主に以下の2つの理由により、ギリシア抒情詩の翻訳が絶望的に難しい作業であることと関係しているようだ。
「詩人の脳髄に湧き出る詩の言葉と音楽とが、一体化して形を成したもの」が、ギリシア抒情詩であることが1つ。つまり竪琴によるメロディと(加えて舞踊とも)分かちがたく結びついた詩そのものの姿はどうやっても現代に復元不可能なのである(とはいえ、本書でも他書でも、著者による訳詩に触れることはできる)。もう1つは、ギリシア抒情詩がもつ「公共性、社会性」である。ポリスの祝祭において、うたう詩人個人とそれを享受する市民とが場を共有することで成り立つのがギリシア抒情詩であり、「孤独なモノローグ」ではないのだ。こうした点からギリシア抒情詩は、(典拠を尊重し修辞過多とさえ言える)ラテン詩とも、ボードレールからマラルメに至る象徴派を中心とするフランス近代詩とも、大きく異なる性質をもつ。
このようなギリシア抒情詩の「父」とされ、「最初の抒情詩人」と呼ばれたのが、アルキロコスである。紀元前7世紀前半を生きた人だ。紀元前7世紀というと、孔子も釈迦も生まれておらず、『万葉集』成立の1400年近く前だ。そんな時代に「覚醒し確立した個の意識に明確な詩的形象を与えて、個の表出である抒情詩の時代を切り開いた」のがアルキロコスで、彼は「一代の反逆児」として「直截、雄勁で生気に満ち、溌溂とした」詩を残した。
続いてアルカイオス、サッポー、アナクレオン、シモニデス、ピンダロス……とギリシア抒情詩を代表する詩人の作品と生涯とがほぼ時代順に紹介されていくのだが、作品を吟味・評価する著者の書きぶりこそ、最大の読ませどころだろう。
たとえば、酒の詩で知られるアルカイオスの作品は、似た遍歴をもつ杜甫の生き方や曹操、李白の詩句と重ねられ評価される。またアルカイオスが優れた作品を残した「政治詩」というジャンルは、往古より政治との関わりが深い中国では受け入れられるかもしれないが、「『万葉集』以来ひたすら詩に抒情的なものを求めるわが国の読者」には「もっともなじみにくい」ものだ、とする。詩に何が求められるのかが文化によって違うことが、具体作を通して示されるのだ。
恋と酒の詩で名高いアナクレオンの作品は、蘇軾(蘇東坡)が元稹・白居易を評価した言葉になぞらえて「軽にして俗」だと一刀両断される。飲酒詩については、ギリシア抒情詩は「『詩酒合一』の境地に達した中国の詩人たちとは、同日の談ではなくその落差はまことに大きい」とも。
さらに、プラトンほか多くの欧米の近代文学者に賛美され、長く「ギリシア最高の抒情詩人」とされてきたピンダロスの作品に対しても、評価は非常に厳しい。ピンダロスを手放しに誉めそやす欧米の学者たちには、「論者は東洋の古典詩を知って断定しているのか。杜甫、李白には遠く及ぶまい」と著者自身の見解を明言する。
ヘレニズム時代におけるギリシア抒情詩人の作品を、日本の『新古今和歌集』の作品と比較する視点もたいへんに興味深い。「学匠詩人」や、「本歌取り」という技法が生まれる必然性が理解されると同時に、日本国内でのみ流通してきた『新古今』評価に風穴を開けてもいる。
メレアグロスの恋愛詩を紹介するくだりでは、欧米の研究者による解釈が「近代詩における恋愛詩の観念」に縛られていると警鐘を鳴らす箇所があり、これにも目を開かされる。東西の詩一篇一篇を見つめる、慈愛に満ちた眼差しが根底にあるからこその評価だろう。
ギリシア抒情詩の世界を逍遙する枯骨閑人(漢詩・狂詩作者としての著者の号)先生の足取りは、やさしく軽やかでありつつも、重いのだ。
*ここで紹介した本は、三省堂書店神保町本店4階で展示・販売しています。
*「神保町の匠」のバックナンバーはこちらで。
とても興味深く読みました:ゼロ除算の発見は4周年を超えました:
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の注意を換気したい。― この文脈では稀なる日本人数学者 関孝和の業績が世界の数学に活かせなかったことは 誠に残念に思われる。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。山田体の導入。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童に歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直角座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し、広範な応用を展開する。特に微分係数が正や負の無限大の時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。
複素解析学においては 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円の鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考えの修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上に置ける大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響が期待される。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、人類の名誉にも関わることである。ゼロ除算の発見は 日本の世界に置ける顕著な貢献として世界史に記録されるだろう。研究と活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。
以 上
追記:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra & Matrix Theory, 6, 51-58.
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdfDOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
再生核研究所声明316(2016.08.19) ゼロ除算における誤解
(2016年8月16日夜,風呂で、ゼロ除算の理解の遅れについて 理由を纏める考えが独りでに湧いた。)
6歳の道脇愛羽さんたち親娘が3週間くらいで ゼロ除算は自明であるとの理解を示したのに、近い人や指導的な数学者たちが1年や2年を経過してもスッキリ理解できない状況は 世にも稀なる事件であると考えられる。ゼロ除算の理解を進めるために その原因について、掘り下げて纏めて置きたい。
まず、結果を聞いて、とても信じられないと発想する人は極めて多い。割り算の意味を自然に拡張すると1/0=0/0=z/0 となる、関数y=1/xの原点における値がゼロであると結果を表現するのであるが、これらは信じられない、このような結果はダメだと始めから拒否する理由である。
先ずは、ゼロでは割れない、割ったことがない、は全ての人の経験で、ゼロの記録Brahmagupta(598– 668?) 以来の定説である。しかも、ゼロ除算について天才、オイラーの1/0を無限大とする間違いや、不可能性についてはライプニッツ、ハルナックなどの言明があり、厳格な近代数学において確立した定説である。さらに、ゼロ除算についてはアインシュタインが最も深く受け止めていたと言える:(George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} :Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.)。
一様に思われるのは、割り算は掛け算の逆であり、直ぐに不可能性が証明されてしまうことである。ところが、上記道脇親娘は 割り算と掛け算は別であり、割り算は、等分の考えから、掛け算ではなく、引き算の繰り返し、除算で定義されるという、考えで、このような発想から良き理解に達したと言える。
ゼロで割ったためしがないので、ゼロ除算は興味も、関心もないと言明される人も多い。
また、割り算の(分数の)拡張として得られた。この意味は結構難しく、何と、1/0=0/0=z/0 の正確な意味は分からないというのが 真実である。論文ではこの辺の記述は大事なので、注意して書いているが 真面目に論文を読む者は多いとは言えないないから、とんでもない誤解をして、矛盾だと言ってきている。1/0=0/0=z/0 らが、普通の分数のように掛け算に結びつけると矛盾は直ぐに得られてしまう。したがって、定義された経緯、意味を正確に理解するのが 大事である。数学では、定義をしっかりさせる事は基本である。― ゼロ除算について、情熱をかけて研究している者で、ゼロ除算の定義をしっかりさせないで混乱している者が多い。
次に関数y=1/xの原点における値がゼロである は 実は定義であるが、それについて、面白い見解は世に多い。アリストテレス(Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)の世界観の強い影響である。ゼロ除算の歴史を詳しく調べている研究者の意見では、ゼロ除算を初めて考えたのはアリストテレスで真空、ゼロの比を考え、それは考えられないとしているという。ゼロ除算の不可能性を述べ、アリストテレスは 真空、ゼロと無限の存在を嫌い、物理的な世界は連続であると考えたという。西欧では アリストテレスの影響は大きく、聖書にも反映し、ゼロ除算ばかりではなく、ゼロ自身も受け入れるのに1000年以上もかかったという、歴史解説書がある。ゼロ除算について、始めから国際的に議論しているが、ゼロ除算について異様な様子の背景にはこのようなところにあると考えられる。関数y=1/xの原点における値が無限に行くと考えるのは自然であるが、それがx=0で突然ゼロであるという、強力な不連続性が、感覚的に受け入れられない状況である。解析学における基本概念は 極限の概念であり、連続性の概念である。ゼロ除算は新規な現象であり、なかなか受け入れられない。
ゼロ除算について初期から交流、意見を交わしてきた20年来の友人との交流から、極めて基本的な誤解がある事が、2年半を越えて判明した。勿論、繰り返して述べてきたことである。ゼロ除算の運用、応用についての注意である。
具体例で注意したい。例えば簡単な関数 y=x/(x -1) において x=1 の値は 形式的にそれを代入して 1/0=0 と考えがちであるが、そのような考えは良くなく、y = 1 + 1/(x -1) からx=1 の値は1であると考える。関数にゼロ除算を適用するときは注意が必要で、ゼロ除算算法に従う必要があるということである。分子がゼロでなくて、分母がゼロである場合でも意味のある広い世界が現れてきた。現在、ゼロ除算算法は広い分野で意味のある算法を提起しているが、詳しい解説はここでは述べないことにしたい。注意だけを指摘して置きたい。
ゼロ除算は アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。と述べ、大きな数学の改革を提案している:
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
以 上
再生核研究所声明 411(2018.02.02): ゼロ除算発見4周年を迎えて
ゼロ除算100/0=0を発見して、4周年を迎える。 相当夢中でひたすらに その真相を求めてきたが、一応の全貌が見渡せ、その基礎と展開、相当先も展望できる状況になった。論文や日本数学会、全体講演者として招待された大きな国際会議などでも発表、著書原案154ページも纏め(http://okmr.yamatoblog.net/)基礎はしっかりと確立していると考える。数学の基礎はすっかり当たり前で、具体例は700件を超え、初等数学全般への影響は思いもよらない程に甚大であると考える: 空間、初等幾何学は ユークリッド以来の基本的な変更で、無限の彼方や無限が絡む数学は全般的な修正が求められる。何とユークリッドの平行線の公理は成り立たず、すべての直線は原点を通るというが我々の数学、世界であった。y軸の勾配はゼロであり、\tan(\pi/2) =0 である。 初等数学全般の修正が求められている。
数学は、人間を超えたしっかりとした論理で組み立てられており、数学が確立しているのに今でもおかしな議論が世に横行し、世の常識が間違っているにも拘わらず、論文発表や研究がおかしな方向で行われているのは 誠に奇妙な現象であると言える。ゼロ除算から見ると数学は相当おかしく、年々間違った数学やおかしな数学が教育されている現状を思うと、研究者として良心の呵責さえ覚える。
複素解析学では、無限遠点はゼロで表されること、円の中心の鏡像は無限遠点では なくて中心自身であること、ローラン展開は孤立特異点で意味のある、有限確定値を取ることなど、基本的な間違いが存在する。微分方程式などは欠陥だらけで、誠に恥ずかしい教科書であふれていると言える。 超古典的な高木貞治氏の解析概論にも確かな欠陥が出てきた。勾配や曲率、ローラン展開、コーシーの平均値定理さえ進化できる。
ゼロ除算の歴史は、数学界の避けられない世界史上の汚点に成るばかりか、人類の愚かさの典型的な事実として、世界史上に記録されるだろう。この自覚によって、人類は大きく進化できるのではないだろうか。
そこで、我々は、これらの認知、真相の究明によって、数学界の汚点を解消、世界の文化への貢献を期待したい。
ゼロ除算の真相を明らかにして、基礎数学全般の修正を行い、ここから、人類への教育を進め、世界に貢献することを願っている。
ゼロ除算の発展には 世界史がかかっており、数学界の、社会への対応をも 世界史は見ていると感じられる。 恥の上塗りは世に多いが、数学界がそのような汚点を繰り返さないように願っている。
人の生きるは、真智への愛にある、すなわち、事実を知りたい、本当のことを知りたい、高級に言えば神の意志を知りたいということである。そこで、我々のゼロ除算についての考えは真実か否か、広く内外の関係者に意見を求めている。関係情報はどんどん公開している。
4周年、思えば、世の理解の遅れも反映して、大丈夫か、大丈夫かと自らに問い、ゼロ除算の発展よりも基礎に、基礎にと向かい、基礎固めに集中してきたと言える。それで、著書原案ができたことは、楽しく充実した時代であったと喜びに満ちて回想される。
以 上
List of division by zero:
\bibitem{os18}
H. Okumura and S. Saitoh,
Remarks for The Twin Circles of Archimedes in a Skewed Arbelos by H. Okumura and M. Watanabe, Forum Geometricorum.
Saburou Saitoh, Mysterious Properties of the Point at Infinity、
arXiv:1712.09467 [math.GM]
arXiv:1712.09467 [math.GM]
Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
The Descartes circles theorem and division by zero calculus. 2017.11.14
L. P. Castro and S. Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$, Int. J. Appl. Math. {\bf 27} (2014), no 2, pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
T. Matsuura and S. Saitoh,
Matrices and division by zero z/0=0,
Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory, 2016, 6, 51-58
Published Online June 2016 in SciRes. http://www.scirp.org/journal/alamt
\\ http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007.
T. Matsuura and S. Saitoh,
Division by zero calculus and singular integrals. (Submitted for publication).
T. Matsuura, H. Michiwaki and S. Saitoh,
$\log 0= \log \infty =0$ and applications. (Differential and Difference Equations with Applications. Springer Proceedings in Mathematics \& Statistics.)
H. Michiwaki, S. Saitoh and M.Yamada,
Reality of the division by zero $z/0=0$. IJAPM International J. of Applied Physics and Math. 6(2015), 1--8. http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
H. Michiwaki, H. Okumura and S. Saitoh,
Division by Zero $z/0 = 0$ in Euclidean Spaces,
International Journal of Mathematics and Computation, 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
H. Okumura, S. Saitoh and T. Matsuura, Relations of $0$ and $\infty$,
Journal of Technology and Social Science (JTSS), 1(2017), 70-77.
S. Pinelas and S. Saitoh,
Division by zero calculus and differential equations. (Differential and Difference Equations with Applications. Springer Proceedings in Mathematics \& Statistics).
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. {\bf 4} (2014), no. 2, 87--95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
S. Saitoh, A reproducing kernel theory with some general applications,
Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and Applications - Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China, Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, {\bf 177}(2016), 151-182. (Springer) .
2018.3.18.午前中 最後の講演: 日本数学会 東大駒場、函数方程式論分科会 講演書画カメラ用 原稿
The Japanese Mathematical Society, Annual Meeting at the University of Tokyo. 2018.3.18.
https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12361744016.html より
The Japanese Mathematical Society, Annual Meeting at the University of Tokyo. 2018.3.18.
https://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12361744016.html より
再生核研究所声明 421(2018.3.26): 東京大学の在りようについての危惧
もちろん、このような発想は、不遜でありおこがましいとも言える。しかしながら、そのように発想するならば 再生核研究所声明そのものも 大いにそのような類と見なせよう。 真実のため、より良い世の在りようを求めて 自由に所見を述べているものである。今回、幼き頃より別格の才能を有する人の東京大学入学と 春の日本数学会(駒場)に出席して思い湧いた存念を述べて置きたい。これは東京大学に入学され、進んでいく人に ある愛を込めて言及したい。
兼ねてより特殊な才能もつ者の教育について関心を抱いてきた:
再生核研究所声明 9 (2007/09/01): 天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明 60 (2011.05.07) : 非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
まず、危惧されることは、あまりにも受験のいわば特訓に 長期間束縛されて、精神の、心身の発達に悪い影響がないかということである。聞くところによれば、優秀な者は東大の入試など簡単で 問題にならない、どのような入試でも簡単に抜けられ、気にすることはないというような意見がある。しかしながら、そうであろうか。入試が長期間同じような制度で行われてきたこともあって、入試には相当に専門的な特訓が 要求され、相当な荷重になっているのではないだろうか。いわゆる名門大学への入学者が特殊な高校卒業者に限られている傾向はそのような事情を示していると考えられる。優秀な者が高校2年生くらいで既に合格のレベルに達していて、宙ぶらりんな空回りの勉強をさせられていたという不満を抱きながら、入試の課題で疲れて新鮮な 心弾むみずみずしい精神を歪めている現実がうかがえる。― 学校は 暇で退屈だったとは才能ある者の間でよく聞く話しである。
合格して、学部、大学院などに進めば、秀才達の間の競争も激しくなり、研究職に付くような場合、先の長さと厳しさに 振り返っても 重苦しい気持ちにさせられる。入学祝いの気持ちよりも先の長さ、厳しさを感じてしまう。特に優秀な者を 型にはまった長い学習期間として縛ってしまう状況は 上記天才教育の観点からも大いに危惧される。最近、30年前に予想していた問題を解いたと言ってきた数学者がいるが、何と33歳で北京大学の教授になっていたこと知って、唖然とさせられた。永い学習期間は才能を殺してしまい、才能を活かせない状況を齎すのではないだろうか。どんどん才能を伸ばす体制を日本でも作れないものであろうかと考える。
現実には、入試は避けられず、当然としても、あまりに過熱にならないように、学生時代に 型にはまった勉強のやりすぎ に陥らないように その様な配慮が全体的に大事ではないだろうか。相当に自由を尊重することは 創造性をはぐくむ基礎ではないだろうか。
学生さんは、いたずらに競争などの意識を持ち過ぎず、自分をしっかりと捉え、自我の確立や人生や世界への思いを 深めて頂きたい。小学校の恩師の言葉を贈って、栄えある大学への入学を祝したい:
喜び生きる人生の勝利者たれ。
実は、人生は とてつもなく永いとも言えるものである。人生は簡単ではない。
思えば、この声明の心は、東京大学は 天才青年や日本の秀才たちの才能を活かせるだろうかという思いにある。日本の教育体制は 大丈夫だろうか。変な教育に陥ってはいないだろうか?
以 上
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