2018年3月28日水曜日

数学偏差値99を記録、東大医学部生が語る数学の魅力

数学偏差値99を記録、東大医学部生が語る数学の魅力

文系の科目や日常生活を送る中でも、数学で身につけたものが大いに役立つ。現役東大医学部生が自らの体験を通じて伝える。
 

論理的思考力を鍛えられる数学



 数学で学べるのは発想力と論証力です。

 そして、数学は宗教も性別も国籍も関係なく世界共通です。

 国語のような文系の勉強でも数学を通して学んだことは役に立っています。

 文系の法律の勉強でさえも問題提起、規範分析、解釈、当てはめ、という論理力を駆使した運用をしているのです。経済は数学を利用しますし、心理学は実験して確率を使っています。数学の対極が文系教科ではないのです。

 日常会話においても、論理のおかしな会話や論理の飛躍で誤解が生じます。数学で習う基本の欠如が原因で話が終わらない、結論までいかない、無駄な論争だった、となってしまいます。

 よくあるのは条件と命題の間違い、必要条件と十分条件の間違い、「ある」「すべて」の間違い、です。

 たとえば、すべての男性が高身長か低身長、高学歴低学歴に分かれるとして「高身長高学歴」の否定は、「低身長低学歴」ではありません。反対と否定は別ですから間違ってはいけません。

(1)高身長高学歴
(2)高身長低学歴
(3)低身長高学歴
(4)低身長低学歴
の4種類ありますので(1)の否定は(2)、(3)、(4)すべてです。

 さらに否定として女性も加わります。

 普段「条件」と言うとき、それは必要十分条件のことを言っています。しかし必要条件と十分条件を混同しているとおかしな意味になります。

栃おとめはいちごです。…○
いちごは栃おとめです。…×

 「任意」「適当」をきちんと使う癖は、数学で自然に身につく力です。

 ある~、すべての~、は日本語だといちいち言わないことも多いので、間違いがあってもそのまま会話が進んでしまいます。

 最近気になったのは「データがない、調査していない」→「わからない」であるべきところで、「悪い結果の報告はありません」→「安全です」と変換する恐ろしい話を聞いたことがあります。

 テレビに出ているコメンテーターでも、こういうことがあったので聞く側が気をつけないといけません。

本当に頭がいい人の勉強法(葛西 祐美 著/二見書房)より「東大推薦入試の仕組み」「大学入学にかかる費用と日程について」https://resemom.jp/article/2018/03/28/43753.html
 
とても興味深く読みました:ゼロ除算の発見は日本
 
再生核研究所声明 423(2018.3.28):  余裕を持つことの重要性
最近の大学の在りよう、研究者の在りようについて このようなことで大丈夫かと考えることがある。忙しすぎて、研究するような 雰囲気にないように感じられる。一つにはいろいろな業務に追われている現実、評価の世相で研究成果を、教育評価を気にして肝心な研究や教育に身が入らない。 研究・教育は肝心の実ではなくて空しい表面的な作り事になっているようである。このような作り事は空しく少し時間が経てば空虚な空しい結果に帰するだろう。もちろん、大学も、研究も教育もいろいろ有っての社会であるから、一概には言えないが法人化後の日本の大学、教育・研究の在り様は酷いものではないだろうか。どのようにこれらの状況を表現すれば良いだろうか。
精神や心、魂の無い、大学、教育・研究と表現されるのではないだろうか。
大学は何をするところか、教育・研究とは何かの問を忘れて、ただ惰性で夢中で悪しき方向に走っている様を見ることが出来る。余裕が無くて、教育・研究が そもそもできるだろうかと問うべきである。
人間とは何か、人生の意義を問うことなく、夢中で走っている世相は 世界史上における恥かしい時代と記録されるだろう。盲目的集団の様は、ゼロ除算の発見と反響を見れば、歴然に見えるようになるだろう。 真実、真理の追究の精神さえ、忘れている状況と言える。
余裕を持つことの重要性については、 次のように述べてきたが、結構、貴重であると考える:
再生核研究所声明 274(2016.01.0): 間をとることの重要性、余裕を持とう
ここで述べたいことは、次に相当表れているので先ず、要点を復習したい:
再生核研究所声明234(2015.6.16)西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 雅について
まず、雅の語を確認して置こう: 雅(みやび、まさ〔名乗り〕)とは、上品で優雅なこと。宮廷風・都会風であること。風采の立派なこと。動詞形は「みやぶ」。(ウィキペディア)
本では、弓の名人、源重実が 西行(義清)に雅の意味を説明している。 大事な言葉を引用しよう(その辺の精読を勧めたい):

弓を射るとき、型があり、それから外れると、いかに矢が的を射ぬいても、それは雅の匂いを失う、的に当たるより、むしろ雅であるが大事、雅であることは、この世に花を楽しむ心である、余裕があったとき初めてこの世を楽しもうとする気持ちになる。この楽しもうとする心が雅なのだ、矢を射ること そのことが、好きな人、当たれば嬉しいが、当たらなくても好きな人 そういう人こそが 留まる人、つまり雅である人だ。―― しかしながら、雅とは拘らない、自由に楽しむ姿勢であるから、生や死に拘ることは既に 雅の心に反しているのであるから、相当に高い悟りを表していると言える。――  ガツガツしないで ゆったりと楽しむ心超然とした心持ち、それが雅と表現できるだろう。留まる心 だという。―― 世相で言えば、平安時代の貴族の生活は 雅すぎで、現代の世相は ガツガツしすぎているとは言えないだろうか。世相に落ち着きをとり戻したい。
現代の世相は 何か急かされているような状況はないだろうか、それゆえに 自分の世界や、家庭、生活に追われて視野が狭く、相手や他の世界をしっかり観る余裕が無くなっているような状況はないだろうか。もちろん、活動は生命の躍動の原理であるが、活動を質の高いものにするには、明に対して暗、間を静をきちんと配慮するのが大事ではないだろうか。日本では、お茶の時間です、という良い習慣がある、大事にしたい。
ところで解析的な解とは、厳密解であり、一切の誤差を許さない、それに対して誤差を許す解、近似解を求めるチコノフ正則化法は神秘力を有し、そこからゼロ除算1/0=0を発見したが、解の誤差を許容することによって、良い近似解の構成を格段に簡明にする、哲学的な意義がある。これは何事余裕をもって考えようである。具体的な心得として、社会には何事期限や締め切りがあるものであるが、それらの期限以前に余裕をもって済ませてしまおうという、心得である。期限が迫れば、何かの事情で いろいろ期限のことで余計な気遣いがひとりでに湧いてきて、精神衛生上も 良くない状態に追い込まれるだろう。 もちろん、期限を守れないのは、世の約束、秩序の根幹に抵触することであるから、厳禁であることは 当然である。
急がされた生活、仕事について、先ず、精選無駄なこと余計なことを排除して、余裕を持つ態度が大事ではないだろうか。精選良いものを少なく、選択するは、省エネの原理であり、間をとる、作る原理ではないだろうか。絶えず、心の整理、整頓に心がけることが 大事ではないだろうか。― ここで最も大事なことは 余計な想像をしないこと気にしないことである。永遠の意味や宇宙回帰説:
再生核研究所声明262(2015.12.09): 宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観
再生核研究所声明 264 (2015.12.23): 永遠とは何か ― 永遠から
などは、人生そのものに 余裕を与える 心持ちの原理になるだろう。それらは、人生の目標などが 未来にあるのではなくて、現在にあることを述べている。一歩踏み込めば、ものごとの結果、成果などは 大して意味はなく、活動している過程に意義があること知ることである。
以 上

再生核研究所声明 422(2018.3.27): 数学界の歴史的な恥と恥の上塗り ー ゼロ除算の見落とし と 固定観念
ゼロ除算発見4周年を契機に、結構内外の意見を広く求め、日本数学会2018.3.18(東大駒場)でも真正面から問題を明らかにした。関係分科会にメーリングリストを用いて、3月15日群馬大学での公開の研究集会を案内し、論理の展開、認識の適否を検証する形で、予告し問題点を明らかにして研究集会と学会に望んだ。
案内は結構刺激的なものであったと見られよう:
メーリング登録者各位(2018.2.14):
下記のように研究会を企画して頂けることになりましたので、ご案内します。ゼロ除算は別格慎重に研究を進めていますが、次のように表明している認識、その是非などを検証したいと思っています。何でもご意見など頂ければ誠に幸いです:
複素解析学では、無限遠点はゼロで表されること、円の中心の鏡像は無限遠点ではなくて中心自身であること、ローラン展開は孤立特異点で意味のある、有限確定値を取ることなど、基本的な間違いが存在する。微分方程式などは欠陥だらけで、誠に恥ずかしい教科書であふれていると言える。 超古典的な高木貞治氏の解析概論も確かな欠陥が出てきた。勾配や曲率、ローラン展開などに、コーシーの平均値定理さえ進化できる。
しかしながら、奥村博氏の影響を受けて、現在のところユークリッド幾何学への影響が大きいと言えます。我々の空間の認識はアリストテレス、ユークリッド以来の変更が求められている。
敬 具
メーリング登録者各位(2018.3.6):
下記のように研究集会を企画して頂けることになりましたので、ご案内(要旨付)します。ゼロ除算の研究は別格慎重に研究を進めていますが、次のように表明している認識、その是非などを検証したい。何でもご意見など頂ければ誠に幸いです。また、興味、関心を抱いて頂けそうな方に転送などして頂ければ幸いです。
どうぞ宜しくお願いします。 敬具
第1回 ゼロ除算研究集会のご案内
下記のように研究集会を開催しますので、ご案内致します。
日時: 2018.3.15(木曜日).11:00 - 15:00
場所: 群馬大学大学院 理工学府
概要: 始めにゼロ除算の全体について、齋藤三郎群馬大学名誉教授から30分くらい 総合的な報告を受けて、その後、討論を重視する形で進める。昼食を挟んで、討論し、最後に 今後の研究活動について検討する。
参加希望者は、開場の準備、プログラムの検討上 下記にメールにて、届けて下さい:
尚、ゼロ除算の研究状況は、
数学基礎学力研究会 サイトで解説が続けられています:http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
また、ohttp://okmr.yamatoblog.net/ に 関連情報があります。
(後援:数学基礎学力研究会、NejiLaw、再生核研究) 
 第1回ゼロ除算研究集会基調講演要旨
(日時:2018.3.15(木曜日) 11:00 - 15:00 場所群馬大学大学院 理工学府)
ゼロで割る問題 例えば100/0の意味、 ゼロ除算は インドで628年ゼロの発見以来の問題として、神秘的な歴史を辿って来ていて、最近でも大論文がおかしな感じで発表されている。ゼロ除算は 物理的には アリストテレスが 最初に不可能であると述べていると専門家が論じていて、それ以来物理学上での問題意識は強く、アインシュタインの人生最大の関心事であったという。ゼロ除算は数学的には 不可能であるとされ、数学的ではなく、物理学上の問題とゼロ除算が計算機障害を起こすことから、論理的な回避を目指して、今なお研究が盛んに進められている。
しかるに、我々は約4年前に全く、自然で簡単な 数学的に完全である と考えるゼロ除算を発見して現在、全体の様子が明かに成って来た。そこで、ゼロ除算を歴史的に振り返り、我々の発見した新しい数学を紹介したい。
まず、歴史、結果と、結果の意義と意味、を簡潔に 誰にでも分かるように解説したい。
簡単な結果が、アリストテレス、ユークリッド以来の 我々の空間の認識を変える、実は新しい世界を拓いていること。それらを実証するための 具体例を沢山挙げる。我々の空間の認識は 2000年以上 適切ではなく、したがって 初等数学全般に欠陥があることを 沢山の具体例で示す。
ゼロ除算は新しい世界を拓いており、この分野の研究を進め、世界史に貢献する意志を持ちたい。
尚、ゼロおよび算術の確立者 Brahmagupta (598 -668 ?) は1300年以上も前に、0/0=0 と定義していたのに、世界史は それは間違いであるとしてきた、数学界と世界史の恥を反省して、世界史の進化を図りたい。
以 上
これらの意図はイギリスからの著書出版計画が急速に進み、内容が現代数学の初歩の欠陥を広く指摘し、現在の教科書、学術書の変更を求めているので、慎重に、慎重に対応したいということであった。上記サイトで述べられている要点をまず復習して置きたい。
ゼロ除算 0 / 0 = 0 は 算術の創始者、ゼロの発見者 Brahmagupta (598 -668 ?) によって定義されていたにも関わらず、それは間違いであるとして1300年を超えて続いており、さらに、新たな説、論文が出版されている実におかしな状況にある。しかるに我々は ゼロ除算は既に当たり前であるとして、沢山の証拠を掲げて解説、説得を続けているが、理解は着実に進んでいるにも関わらず、理解は深くはなく、遅々として夜明け前のぼんやりしているような時代であると言える。数学者は、真実に忠実でなければならないのに、数学の研究では、論理には、感情や私情、予断、思い込みを入れてはならないのに、それが、数学の精神であるはずなのに かえって、数学者が予断と偏見、私情に囚われている状況が皮肉にも良く見える。 それは、ゼロ除算の理解が、素人の方の方が理解しやすい状況に現れている。 ― 数学は 絶対的に 厳格な論理でできているはずであるから、基礎が揺るぐはずがないとの信仰、信念を有しているためであろう。しかしながら、人間精神の開放と自由を求めて、非ユークリッド幾何学の出現から、人は大いに学ぶべきではないだろうか。 絶えず、人は何でも疑い、 我は存在しているか と 問うべきである。 ― 人間存在の意義は 真智への愛にある。
ゼロ除算の歴史は、数学界の避けられない世界史上の汚点に成るばかりか、人類の愚かさの典型的な事実として、世界史上に記録されるだろう。この自覚によって、人類は大きく進化できるのではないだろうか。 ― 汝自らを知れ、というソクラテスの言葉は何を意味するだろうか。
そこで、我々は、これらの認知、真相の究明によって、数学界の汚点を解消、世界の文化への貢献を期待したい。
ゼロ除算の真相を明らかにして、基礎数学全般の修正を行い、ここから、人類への教育を進め、世界に貢献することを願っている。
ゼロ除算の進展には 世界史がかかっており、数学界の、社会への対応をも 世界史は見ていると感じられる。 恥の上塗りは世に多いが、数学界がそのような汚点を繰り返さないように願っている。
ゼロ除算は 不可能であるとの言明によって数学的には問題は永く封印されてしまった。 しかし、考えて見れば奇妙な事であった。アインシュタインや多くの物理学者が本質的な問題として考察を続けていたばかりか、ゼロ除算回避を意図して、計算機関係者や数学愛好者がともに真摯に追求してきたが、奇妙な議論を世界的に行っていた。 約20名くらいの海外の関係者と交流してきたが、少年期からあるいは何十年も空しい努力をしてきた者がいる。膨大な空しい努力に数学者の責任の感情が湧いて来る。そればかりか、数学全般の欠陥と我々の空間の認識がユークリッド以来おかしい様は、既に歴然であり、世の数学、世界観は天動説のように基本的な間違いが存在する。
そもそも数学は、不可能性に挑戦して、次々と概念を発展させ、可能ならしめてきた輝かしい歴史を有するが、ゼロ除算は盲点として、世界史に汚点を残してきてしまったと言える。いくら何でも算術の確立者の定義を無視して1300年を越えてそれを間違いであるとしてきた事実は、あまりにも酷い歴史として反省させられる。
ゼロ除算は、発見されてまだ4年、今後大きな発展が行われて、現代初等数学の形相は相当に変化して、ゼロ除算発見は世界史上の画期的な事件として記録されるだろう。その歴史の大義を受けて、世界の数学界は 面目一新を図り、数学界の信頼を回復すべきである。
以 上

再生核研究所声明 421(2018.3.26): 東京大学の在りようについての危惧
もちろん、このような発想は、不遜でありおこがましいとも言える。しかしながら、そのように発想するならば 再生核研究所声明そのものも 大いにそのような類と見なせよう。 真実のため、より良い世の在りようを求めて 自由に所見を述べているものである。今回、幼き頃より別格の才能を有する人の東京大学入学と 春の日本数学会(駒場)に出席して思い湧いた存念を述べて置きたい。これは東京大学に入学され、進んでいく人に ある愛を込めて言及したい。
兼ねてより特殊な才能もつ者の教育について関心を抱いてきた:
再生核研究所声明 9 (2007/09/01): 天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明 60  (2011.05.07) : 非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
まず、危惧されることは、あまりにも受験のいわば特訓に 長期間束縛されて、精神の、心身の発達に悪い影響がないかということである。聞くところによれば、優秀な者は東大の入試など簡単で 問題にならない、どのような入試でも簡単に抜けられ、気にすることはないというような意見がある。しかしながら、そうであろうか。入試が長期間同じような制度で行われてきたこともあって、入試には相当に専門的な特訓が 要求され、相当な荷重になっているのではないだろうか。いわゆる名門大学への入学者が特殊な高校卒業者に限られている傾向はそのような事情を示していると考えられる。優秀な者が高校2年生くらいで既に合格のレベルに達していて、宙ぶらりんな空回りの勉強をさせられていたという不満を抱きながら、入試の課題で疲れて新鮮な 心弾むみずみずしい精神を歪めている現実がうかがえる。― 学校は 暇で退屈だったとは才能ある者の間でよく聞く話しである。
合格して、学部、大学院などに進めば、秀才達の間の競争も激しくなり、研究職に付くような場合、先の長さと厳しさに 振り返っても 重苦しい気持ちにさせられる。入学祝いの気持ちよりも先の長さ、厳しさを感じてしまう。特に優秀な者を 型にはまった長い学習期間として縛ってしまう状況は 上記天才教育の観点からも大いに危惧される。最近、30年前に予想していた問題を解いたと言ってきた数学者がいるが、何と33歳で北京大学の教授になっていたこと知って、唖然とさせられた。永い学習期間は才能を殺してしまい、才能を活かせない状況を齎すのではないだろうか。どんどん才能を伸ばす体制を日本でも作れないものであろうかと考える。
現実には、入試は避けられず、当然としても、あまりに過熱にならないように、学生時代に 型にはまった勉強のやりすぎ に陥らないように その様な配慮が全体的に大事ではないだろうか。相当に自由を尊重することは 創造性をはぐくむ基礎ではないだろうか。  
学生さんは、いたずらに競争などの意識を持ち過ぎず、自分をしっかりと捉え、自我の確立や人生や世界への思いを 深めて頂きたい。小学校の恩師の言葉を贈って、栄えある大学への入学を祝したい:
喜び生きる人生の勝利者たれ。
実は、人生は とてつもなく永いとも言えるものである。人生は簡単ではない。
思えば、この声明の心は、東京大学は 天才青年や日本の秀才たちの才能を活かせるだろうかという思いにある。日本の教育体制は 大丈夫だろうか。変な教育に陥ってはいないだろうか?
以 上

再生核研究所声明 414(2018.2.14): 第1回ゼロ除算研究集会基調講演要旨
日時:2018.3.15(木曜日) 11:00  - 15:00 場所: 群馬大学大学院 理工学府
ゼロで割る問題 例えば100/0の意味、 ゼロ除算は インドで628年ゼロの発見以来の問題として、神秘的な歴史を辿って来ていて、最近でも大論文がおかしな感じで発表されている。ゼロ除算は 物理的には アリストテレスが 最初に不可能であると専門家が論じていて、それ以来物理学上での問題意識は強く、アインシュタインの人生最大の関心事であったという。ゼロ除算は数学的には 不可能であるとされ、数学的ではなく、物理学上の問題とゼロ除算が計算機障害を起こすことから、論理的な回避を目指して、今なお研究が盛んに進められている。
しかるに、我々は約4年前に全く、自然で簡単な 数学的に完全である と考えるゼロ除算を発見して現在、全体の様子が明かに成って来た。そこで、ゼロ除算を歴史的に振り返り、我々の発見した新しい数学を紹介したい。

まず、歴史、結果と、結果の意義と意味、を簡潔に 誰にでも分かるように解説したい。
簡単な結果が、アリストテレス、ユークリッド以来の 我々の空間の認識を変える、実は新しい世界を拓いていること。それらを実証するための 具体例を沢山挙げる。我々の空間の認識は 2000年以上 適切ではなく、したがって 初等数学全般に欠陥があることを 沢山の具体例で示す。
ゼロ除算は新しい世界を拓いており、この分野の研究を進め、世界史に貢献する意志を持ちたい。
尚、ゼロおよび算術の確立者 Brahmagupta (598 -668 ?) は1300年以上も前に、0/0=0 と定義していたのに、世界史は それは間違いであるとしてきた、数学界と世界史の恥を反省して、世界史の進化を図りたい。

以 上

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