2017年7月18日火曜日

追悼、マリアム・ミルザハニ──女性初のフィールズ賞数学者の軌跡を振り返る

追悼、マリアム・ミルザハニ──女性初のフィールズ賞数学者の軌跡を振り返る

「数学界のノーベル賞」と呼ばれる「フィールズ賞」を女性として初めて授賞した数学者、マリアム・ミルザハニが2017年7月15日に亡くなった。「天才少女」と呼ばれたミルザハニは、いかに数学者の道を歩んでいったのか──。『WIRED』日本版が2014年に掲載した記事とともに、その軌跡を振り返る。
8歳のマリアム・ミルザハニは、才能あふれる少女が壮大な夢を成し遂げる物語を自分自身に語りかけていた。毎晩眠りにつくころ、物語の主人公は市長になったり世界中を旅したりといった壮大な夢を実現するのだった。
現在、スタンフォード大学の数学の教授である37歳のミルザハニは、いまも頭のなかで物語を描いている。その主人公は変わらず高い志を抱いているが、対象は以前と違って、双曲面、モジュライ空間、力学系だ。
数学の研究は、ある意味、小説を書く行為に似ていると彼女は言う。「さまざまな登場人物がいて、彼らについて徐々に理解を深めることができます。物語が進展したころ、ふとある登場人物のことを改めて見てみると、当初抱いていた印象とはまったく違う側面をもっていることに気付くのです」。
イラン人数学者である彼女は、いつでも自分の描く登場人物を追い続けていた。その物語の展開には数年を要することもある。
小柄ながら負けず嫌いなミルザハニは、彼女の専門分野において最難関の問題に不屈の精神で取り組み続けたことで、周囲の数学者から高い評価を得ている。「こと数学に関しては、彼女は大胆な志を抱いている」。彼女の博士課程の指導教官だったハーバード大学のカーティス・マクマレンは言う。
低い声と穏やかなグレイブルーの瞳は、ミルザハニのもつ平静な自信を表している。彼女は自身の業績を謙遜する。ある研究課題に対する自身の業績について問われれば、彼女は笑って、言葉少なになり「正直に言って、そう大きな功績などこれまで残したことはないと思ってます」と言う。今年の2月に、数学界最高の権威をもつフィールズ賞の受賞者に選ばれたことを告げるEメールが届いたときには、Eメールを送信したアカウントがハッキングされたと思ったと言うほどだ。そのフィールズ賞は、8月13日に韓国ソウルで開催された国際数学者会議で彼女に授与された
一方、周囲の数学者はミルザハニの業績について褒めちぎる。「双曲線」幾何学の成立する面上の円を数える方法に関する博士論文は「実に見事だ」と、現在はシカゴ大学の数学研究者であり、ミルザハニと共同研究をしてきたアレックス・エスキンは言う。「教科書に掲載される類いの数学界の発見だと、すぐに分かるような内容だよ」。
ミルザハニの最近の業績のひとつは、ビリヤード台に関連する抽象的な面の力学に関する研究で、エスキンと共同で取り組んだ歴史に残る研究だ。その内容は、競争の激しい数学界において「10年に一度しか出てこないレベルの定理だろう」とシカゴ大学の数学研究者であるベンソン・ファーブは言う。

テヘランでの子ども時代

テヘランで過ごした子ども時代、ミルザハニは数学者になりたいとはまったく考えていなかった。当時の彼女の主な関心は、あらゆる本を読みつくすことだった。マリー・キュリーやヘレン・ケラーといった有名な女性の人生を描いたテレビ番組も観たし、フィンセント・ファン・ゴッホについて書かれた『Lust for Life』も読んだ。こうした物語の影響で、彼女は人生でなにか大きなことを成し遂げたいと漠然と考えるようになった。そう、例えば小説家になるなど、だ。
小さいころのミルザハニは、小説を書いたり読んだりすることを好む少女だった。当時は数学にそれほどの関心は寄せていなかった。Courtesy of Maryam Mirzakhani
ミルザハニが小学校を卒業するころ、ちょうどイラン・イラク戦争が終結を迎えようとしており、同時にやる気のある学生に対するチャンスが開かれはじめていた。彼女は試験を受け、テヘランのFarzanegan中学校に通う権利を手にした。優秀な才能開発国家機構が運営している学校だ。
「わたしは恵まれた世代だと思います」と彼女は言う。「ティーンエイジャーになったころには、多くのことがそれ以前よりもずっと安定していましたから」。
新しい学校に入学して最初の週、生涯の友人となるロヤ・ベヘシュティーに出会う。ベヘシュティーは現在、セントルイスのワシントン大学で数学の教授を務めている。
彼女たちは、学校近くの人であふれる商店街に並ぶ本屋によく足を運んだ。立ち読みは許されていなかったため、2人は適当に選んだ本を買った。「いま思えば、変なことですよね」ミルザハニは言う。「でも当時は、本がとても安かったんです。なので、わたしたちはすぐに買っていました」。
残念なことに、ミルザハニは中学校に入学した年、数学で良い成績を残すことができなかった。数学の教師は、彼女が特に才能をもっているとは考えず、それは彼女の自信喪失にもつながった。その年頃は「他人から自分がどのように見られているかがとても重要でした」と、ミルザハニは言う。「わたしは数学に対する関心を失ってしまいました」。
だが翌年になると、彼女はより熱心な教師に出会い、成績も劇的に向上した。「2年目からは、彼女は学内のスターだったわ」とベヘシュティーは言う。
ミルザハニは、Farzanegan女子高校に進む。そこで彼女とベヘシュティーは、高校生を対象に毎年開催されているプログラミングの大会、国際情報オリンピックに出場する高校生を選出するための国内大会に参加しないかと打診された。ミルザハニとベヘシュティーは、数日かけて問題に取り組み、6問中3問の問題をなんとか解いた。その大会では、生徒は試験を3時間以内に終わらせなければならなかったが、ミルザハニはとにかく、目の前の問題に取り組むことに興奮していた。
同様の大会で自分たちの能力を試すチャンスをもっと開拓したくなった2人は、校長のもとを訪れ、自分たちの高校と同レベルの男子校で教えられているような、数学の問題解決に関する授業をつくってほしいと懇願する。
「校長先生は、意志のとても強い人でした」ミルザハニは当時を振り返る。「わたししたちが心から強く望んでいることであれば、それを実現してくれる人でした」。イランの国際数学オリンピックチームが女子生徒を出場させた前例がないという事実も、校長の行動を止めることはなかったとミルザハニは言う。
「校長先生はとても前向きで楽観的に物事を考える人で、『あなたなら、できる。初めての事例になるだろうけど』と言ってくれました。このことは、わたしの人生にかなり大きな影響を与えました」

1994年、ミルザハニが17歳のころ、彼女とベヘシュティーは、イランの数学オリンピックチームに選ばれる。そして、数学オリンピックの試験で高い得点を記録し金メダルを獲得した。翌年、彼女は再出場し、満点を記録する。自分の可能性を広げられる大会に出場したことで、ミルザハニは、数学を深く愛するようになった。「いくらかの根気と努力を費やすことが、数学の美しさに触れるためには必要です」と彼女は言う。
現在に至っても、フランスのパリ・ディドゥロ大学のアントン・ゾリチいわく、ミルザハニは「自分の周囲で起きている数学のすべてに完全に夢中になっている17歳の少女のような印象」を与えると言う。

ハーバード時代

数学オリンピックで金メダルを獲得しても、数学の研究における成功が約束されているわけではないと、先述したハーバード大学のマクマレンは言う。「こうしたコンテストでは、すでに誰かが巧妙な解決法をもっている問題を入念につくりあげている。だが、研究においては、問題に対して解が存在するとは限らない」。しかし数学オリンピックの高得点取得者の大半と違い、ミルザハニは「自らのビジョンを描く能力をもっている」と、彼は言う。
両親とともにイランのイスファハンを訪れた際のミルザハニ。Courtesy of Maryam Mirzakhani
1999年に、テヘランのシャリフ工科大学で数学の学士号を取得したあと、ミルザハニはハーバード大学の大学院に進み、マクマレンの講義を受講しはじめる。当初、彼女は彼の話す内容についてあまり理解できなかったと言うが、そのテーマ、双曲線幾何学の美しさに魅了される。彼女はマクマレンの研究室に通い始め、彼を質問攻めにし、夢中でペルシャ語でメモをとった。
「彼女はある意味、斬新な想像力をもっていた」。自身、1998年のフィールズ賞受賞者であるマクマレンは、こう振り返る。「頭のなかで、自分の予測に基づいた想像図を描いていた。そして、研究室にやってきて、その図について説明するんだ。説明が終わると、彼女はわたしに向かって『これで合っていますよね?』と聞く。わたしはいつも、彼女がわたしのことを理解者だと感じてくれていることを誇らしく思ったよ」。

ミルザハニは、双曲面に取り憑かれるようになる。
ドーナツ型のある表面上に開いた、ざっくり言えば鞍のようなかたちをつくっている穴。この双曲線ドーナツは、通常の空間ではつくることはできない。それらはあくまで、抽象的な概念上のもので、ある方程式にもとづいて距離と角度が計算されている場合においてのみ観察できる。その方程式のもとでは、面上に存在する想像上の生き物が「鞍」を形成する。
多数の穴の空いたドーナツには、無限に多くのパータンで双曲線構造が存在しうることがわかっている。大きな穴のあるドーナツから、狭い穴のもの、また両者を組み合わせたものまで。こうした双曲面が1世紀半前に発見されて以来、このテーマは幾何学における中心の研究対象のひとつとなり、数学やさらには物理の分野においても多くの関連分野をもつ。
だが、ミルザハニが大学院に入った時点では、そうした面に関する基本的な問題のいくつかに対して、解がまだ見出されていなかった。そのひとつが、ある双曲面における直線もしくは「測地線」に関するものだった。曲がった空間においても「直線」という概念は存在し、それは単に2つの点を結ぶ最短な線である。双曲面においては、平面上の直線のように無限に長く伸びる測地線もあれば、球面上の大円のように閉じて円になる線もある。
ある双曲面において、閉じた測地線の数はその長さが大きくなるにつれて指数関数的に増えていく。こうした測地線の多くは、始点と終点が結ばれる前に何度も交差する場合が多いが、わずかな割合が“シンプルな”測地線と呼ばれ、線上で交わることがない。そうしたシンプルな測地線は、「その構造と全体の面の幾何学を紐解く上で重要なもの」である。

ひとつの問いを解決するだけでも偉大だ

しかしながら、数学者はある特定の大きさの双曲面において、こうしたシンプルな閉じた測地線がいくつ存在するのかを特定することができなかった。閉じた測地線の円の中でも、シンプルなものは「ほぼ0パーセントの確率でしか起こらない奇跡」であるとファーブは言う。そのため、その数を正確に理解するのはとてつもなく難しかった。「ちょっとでも間違いをすれば、その存在を見逃してしまう」と彼は言う。
2004年に完成した博士論文において、ミルザハニはこの問いに対する解を示した。Lの長さのシンプルな測地線の数が、Lの長さと比例してどれだけ増えるかを導く方程式を考案したのだ。
その過程で、彼女はその他の2つの重要な研究課題の関連性を確立し、両方の問いに対する解を出した。ひとつは、いわゆる「モジュライ」空間と呼ばれる、ある面において存在可能な全ての双曲線構造の体積に関する問いだった。もうひとつは、プリンストン高等研究所の物理学者エドワード・ウィッテンが過去に提示した、弦理論に関連するモジュライ空間を位相幾何学を用いて測定する方法に関する予想を驚くべき方法で証明するものだ。
ウィッテンの予想を証明するのは非常に難しかったため、それを最初に証明した数学者であるパリ近郊のフランス高等科学研究所のマキシム・コンツェビッチは、その業績が理由のひとつとなり、1998年にフィールズ賞を受賞した。
両方の問題を解決することは「ひとつの問いを解決するだけでも大きな出来事であり、両者を結びつけたことはまた重大な出来事だ」とファーブは言う。ミルザハニはなんと、どちらもやってのけたのだ。
彼女の論文は、数学界のトップに位置する学術誌である『Annals of Mathematics』『Inventiones Mathematicae』『Journal of the American Mathematical Society』に掲載された。数学者の大半が、生涯一度もこのような偉業を成し遂げることはないとファーブは言う。「彼女はそれを博士論文でやり遂げたんだ」。



とても興味深く見ました:

再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日

2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf


再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告

http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html

1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html

再生核研究所声明80(2012.03.20)  挑戦 とは 何か

(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。 
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。 
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。

以 上

再生核研究所声明3702017.5.30) 細胞のような存在、個人 ― 生態系、環境
人間の存在について、個人の存在について、ふと思うことがある。人生とは結局 如何なるものであろうか。雄大な人間社会において、個人の存在はあまりにも小さく、それはまるで生体における細胞のような存在に感じられる。個人は知識、視野、思考の幅や深さにおいても貧しく 大きな社会で、ほんの一部しか見えず、感じられない。そこで、個人の世界、世界観は 周辺の環境に大きく左右され、雑草の中の一つの植物のようである。 思えば、生まれて生きてきた、心持ちなど みな周りの人々や得た情報、環境によって形成され、それは雑草のなかの一つの植物のようである。大事な就職、結婚など みなその折り折りに環境によって 相当に定められてきたのではないだろうか。― ふと思う、本質的には、個性はあっても 相当に人間は共通に作られていて、多くの違いは 生い立ちや環境で相当に定められてきたと言えるのではないだろうか。― このことは 人間は誰でも同じようで、環境、生い立ちでそうなっていると思えば、相手の立場に思いを致し、全面的否定や絶対的な正義をかざすことを躊躇させるだろう。最近の世相は、全面的な否定と独善的な姿勢が目立ち、是か非、白黒の判断が多いのではないだろうか。
人間の社会は 実際は、そうは単純ではなく、微妙なバランスの上に成り立っていることに気を付けたい。
典型的な実例は 開発と自然環境の保護である。山地を開拓して美しい街を作ろうとすれば、永く続いてきた自然環境を破壊することになる。豊かな食生活を営もうと魚をとりすぎれば、魚の保護が難しく、勝手に振る舞えば、やがて魚は絶滅しかねない。 このような例はいたるところに有って、我々の存在の基本的な在ようの問題に繋がるだろう。
― 原罪とは何か。
我々個人の存在は 大河の中の一滴のようであるから、大きな流れには逆らえず、 多くは運命づけられていることを認め、受け入れざるを得ない。そこで、謙虚さを持って周辺に気遣い、できるだけ、大きな視野に立って、内なる世界と外なる世界の中で 調和のとれた存在でありたいと考える。
放し飼いになっている猫や犬をみる。人間の生き様も猫や犬と本質的には同じではないかと感じられる。いや雑草たちとも人間の在りようは本質的に同じようで、草木たち、動物たちの存在の方が逆に完全であるように見える。結局、人生、動物や植物たちと同じようであった となるだろう。
犬がよく通りをぼんやりと眺めている。人間も本質的には、そのような存在ではないだろうか。この世に生をうけて、結局は、ぼんやりと過ぎ去っていくだろう。

以 上


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