左利きの人は他の人よりも才能があるのだろうか? 我々の研究は、それは数学には当てはまるかもしれないと示唆している
才能の具備と左利きであることに関連があるという通説には長い歴史がある。レオナルド・ダ・ヴィンチは左利きだった。マーク・トウェイン、モーツァルト、マリー・キュリー、ニコラ・テスラ、アリストテレスもそうだった。それは今日も変わらない。バラク・オバマ元米国大統領は、ビジネスリーダーであるビル・ゲイツ氏やサッカーのライオネル・メッシ選手同様、左利きだ。
しかし、左利きの方が天才になる可能性がある、というのは本当だろうか? 利き手と数学的能力に関する我々の新たな研究を含め、最新の証拠を見ていこう。
全人口の10%から13.5%は右利きではない、と推定されている。それらの人々のうち、両手とも同じように快適に使うことができる人々もいるが、大多数は左利きだ。
利き手がどちらの手であるか、ということは、脳機能の発現であり、そのため認知に関連している。左利きの人々は、おしなべて空間的推論や物体の心的表象を回転させる能力などのプロセスに特化した右脳半球がより発達している。
main
脳梁 Life Science Databases(LSDB)/wikipedia, CC BY-SA
また、左利きの人の場合は、2つの脳半球を結ぶ神経細胞の束である脳梁がより大きくなる傾向がある。これは、左利きの人の中には、2つの脳半球の間の連結性がより高く、さらに優れた情報処理を有する人たちが存在することを示唆している。しかしながら、その理由は不明である。ある理論では、右利きの人用に設計された世界に住むことは左利きの人に両手を使用するよう強制している可能性があり、それによって脳半球間の接続性が向上するとの主張がある。このことから、自ら両手を使用するよう自分自身を訓練することにより、私たちの誰もが脳半球間の接続性を向上させることができるという可能性も見えてくる。
利き手に関するこのような特性が、左利きの人がある種の職業や芸術分野で優位性を示すように思われている理由かもしれない。この特性は、例えば、ミュージシャン、創造的なアーティスト、建築家、チェスプレイヤーの間で特に多い。言うまでもなく、これらすべての活動において効率的な情報処理能力と優れた空間能力が不可欠だ。
◆利き手と数学の関係
では、左利きであることと数学スキルとの関連はどうか? 意外にも、数学において利き手が持つ役割は長い間、関心の対象であった。30年以上前に、とある独創的な研究が、左利きであることは数学的な早熟を予測し得る因子である、と主張した。この研究では、数学的な才能を有する学生の中での左利きの人の割合は、一般的な左利きの人の割合よりもはるかに大きいことが分かった。
しかし、最近、左利きであることが優れた知的能力の予測因子であるという考え方に異議が唱えられている。中には、左利きであることは認知能力の有意性と関連はなく、一般的な認知機能、つまるところ学業成績にも有害な影響すら及ぼしうる、とも主張している学者もいる。
例えば、ある研究では、左利きの子どもたちは、一連の発達度の測定において、発達がわずかに不十分であることが示された。そして最近の考察の中には、知的障害を持つ人々の中での左利きの人の割合が少し多いようだ、と報告するものがある。また別の大規模な研究では、5歳から14歳の子供たちをサンプリングしてみると、数学的能力が低下している子供たちは左利きの人たちの中により多いことがわかった、とも言われている。
◆慎重に考案された実験
興味深いことに、これら過去の研究は、他の多くの研究と同様に、どのように利き手が測定され、そして被験者はどのように分類されたかという手法においてお互いに大きく異なっていた。中には、単に利き手はどちらなのかを被験者に通り一遍に質問するだけの研究もあった。そして最も重要なことは、単純な計算から複雑な問題を解決するための高度な数学的手法に至るまで、被験者が駆使した数学的能力を測定する方法が異なっていたことだ。実験的手法が用いた手法の不整合が原因となり、観察・導入された結果がまちまちなものになってしまったといえる。
より信頼性の高い結果を得るため、私たちは2,300人を超える生徒たち(小学生と高校生)を含む全体的な一連の実験を行うことにした。これらの実験には、種類と難易度が異なる数学的な設問を用意した。
比較可能性を確保するため、すべての実験において私たちはエディンバラ・インベントリという同一のアンケートを用い、被験者の利き手を評価した。この評価は、字を書いたり、絵を描いたり、物を投げたり、髪をブラッシングしたりするときに被験者たちがどちらの手をより多く使うかを尋ねるものだ。これは、被験者たちが右手と左手をどの程度の割合で多用するかの評価であり、左利きなのか右利きなのかの分類を行うものというよりも、スケーリング評価と言えるべきものだ。この具体的な機能によって、信頼性がさらに高く強力な統計モデルを構築することができた。
Frontiers誌で公開された結果は、与えられた一連のデータに数学の関数を関連付ける設問などの難しい問題解決能力を要する設問では、左利きの人の成績が他を上回ることを示している。この結果パターンは、青年期の男性で特に顕著だった。対照的に、単純な算術演算のようなそれほど難しくない設問では、左利きと右利きの成績の間に違いはなかった。私たちはまた、この実験で実施されている利き手評価のアンケートの項目全部で、常に右手を使うと回答した「極端に右利きの人たち」の存在を認め、一般的な右利き、もしくは左利きの人たちよりもすべての実験において彼らの成績が不振であったことも発見した。
少なくとも小学校や高校時代は、概して左利きの人たちは数学的な課題を解決するときに強みを持っていると言える。また、極端に右利きであることは、数学にとって不利になることがあると考えられる。ここで得られた知見をまとめると、脳半球の間の連結性の指標として、利き手がどちらの手であるか、ということは、認知にある程度の影響を及ぼすことを示す。
とはいえ、利き手は単に脳機能の間接的な表現であるに過ぎない。例えば、右の脳半球がより発達した人たちのうち、左利きの人はその3分の1に過ぎない。だから、右利きの人の多くは、左利きの人と同様な脳の構造を持つ。だから、利き手がどちらの手であるか、ということを天才になり得る兆候として捉える場合も、認知障害の指標として考える場合も、私たちはその解釈に対して常に慎重でなければならないのである。
This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by ka28310 via Conyac
しかし、左利きの方が天才になる可能性がある、というのは本当だろうか? 利き手と数学的能力に関する我々の新たな研究を含め、最新の証拠を見ていこう。
全人口の10%から13.5%は右利きではない、と推定されている。それらの人々のうち、両手とも同じように快適に使うことができる人々もいるが、大多数は左利きだ。
利き手がどちらの手であるか、ということは、脳機能の発現であり、そのため認知に関連している。左利きの人々は、おしなべて空間的推論や物体の心的表象を回転させる能力などのプロセスに特化した右脳半球がより発達している。
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脳梁 Life Science Databases(LSDB)/wikipedia, CC BY-SA
また、左利きの人の場合は、2つの脳半球を結ぶ神経細胞の束である脳梁がより大きくなる傾向がある。これは、左利きの人の中には、2つの脳半球の間の連結性がより高く、さらに優れた情報処理を有する人たちが存在することを示唆している。しかしながら、その理由は不明である。ある理論では、右利きの人用に設計された世界に住むことは左利きの人に両手を使用するよう強制している可能性があり、それによって脳半球間の接続性が向上するとの主張がある。このことから、自ら両手を使用するよう自分自身を訓練することにより、私たちの誰もが脳半球間の接続性を向上させることができるという可能性も見えてくる。
利き手に関するこのような特性が、左利きの人がある種の職業や芸術分野で優位性を示すように思われている理由かもしれない。この特性は、例えば、ミュージシャン、創造的なアーティスト、建築家、チェスプレイヤーの間で特に多い。言うまでもなく、これらすべての活動において効率的な情報処理能力と優れた空間能力が不可欠だ。
◆利き手と数学の関係
では、左利きであることと数学スキルとの関連はどうか? 意外にも、数学において利き手が持つ役割は長い間、関心の対象であった。30年以上前に、とある独創的な研究が、左利きであることは数学的な早熟を予測し得る因子である、と主張した。この研究では、数学的な才能を有する学生の中での左利きの人の割合は、一般的な左利きの人の割合よりもはるかに大きいことが分かった。
しかし、最近、左利きであることが優れた知的能力の予測因子であるという考え方に異議が唱えられている。中には、左利きであることは認知能力の有意性と関連はなく、一般的な認知機能、つまるところ学業成績にも有害な影響すら及ぼしうる、とも主張している学者もいる。
例えば、ある研究では、左利きの子どもたちは、一連の発達度の測定において、発達がわずかに不十分であることが示された。そして最近の考察の中には、知的障害を持つ人々の中での左利きの人の割合が少し多いようだ、と報告するものがある。また別の大規模な研究では、5歳から14歳の子供たちをサンプリングしてみると、数学的能力が低下している子供たちは左利きの人たちの中により多いことがわかった、とも言われている。
◆慎重に考案された実験
興味深いことに、これら過去の研究は、他の多くの研究と同様に、どのように利き手が測定され、そして被験者はどのように分類されたかという手法においてお互いに大きく異なっていた。中には、単に利き手はどちらなのかを被験者に通り一遍に質問するだけの研究もあった。そして最も重要なことは、単純な計算から複雑な問題を解決するための高度な数学的手法に至るまで、被験者が駆使した数学的能力を測定する方法が異なっていたことだ。実験的手法が用いた手法の不整合が原因となり、観察・導入された結果がまちまちなものになってしまったといえる。
より信頼性の高い結果を得るため、私たちは2,300人を超える生徒たち(小学生と高校生)を含む全体的な一連の実験を行うことにした。これらの実験には、種類と難易度が異なる数学的な設問を用意した。
比較可能性を確保するため、すべての実験において私たちはエディンバラ・インベントリという同一のアンケートを用い、被験者の利き手を評価した。この評価は、字を書いたり、絵を描いたり、物を投げたり、髪をブラッシングしたりするときに被験者たちがどちらの手をより多く使うかを尋ねるものだ。これは、被験者たちが右手と左手をどの程度の割合で多用するかの評価であり、左利きなのか右利きなのかの分類を行うものというよりも、スケーリング評価と言えるべきものだ。この具体的な機能によって、信頼性がさらに高く強力な統計モデルを構築することができた。
Frontiers誌で公開された結果は、与えられた一連のデータに数学の関数を関連付ける設問などの難しい問題解決能力を要する設問では、左利きの人の成績が他を上回ることを示している。この結果パターンは、青年期の男性で特に顕著だった。対照的に、単純な算術演算のようなそれほど難しくない設問では、左利きと右利きの成績の間に違いはなかった。私たちはまた、この実験で実施されている利き手評価のアンケートの項目全部で、常に右手を使うと回答した「極端に右利きの人たち」の存在を認め、一般的な右利き、もしくは左利きの人たちよりもすべての実験において彼らの成績が不振であったことも発見した。
少なくとも小学校や高校時代は、概して左利きの人たちは数学的な課題を解決するときに強みを持っていると言える。また、極端に右利きであることは、数学にとって不利になることがあると考えられる。ここで得られた知見をまとめると、脳半球の間の連結性の指標として、利き手がどちらの手であるか、ということは、認知にある程度の影響を及ぼすことを示す。
とはいえ、利き手は単に脳機能の間接的な表現であるに過ぎない。例えば、右の脳半球がより発達した人たちのうち、左利きの人はその3分の1に過ぎない。だから、右利きの人の多くは、左利きの人と同様な脳の構造を持つ。だから、利き手がどちらの手であるか、ということを天才になり得る兆候として捉える場合も、認知障害の指標として考える場合も、私たちはその解釈に対して常に慎重でなければならないのである。
This article was originally published on The Conversation. Read the original article.
Translated by ka28310 via Conyac
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明343(2017.1.10)オイラーとアインシュタイン
世界史に大きな影響を与えた人物と業績について
再生核研究所声明314(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ニュートンとダーウィンについて
再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学
再生核研究所声明339(2016.12.26)インドの偉大な文化遺産、ゼロ及び算術の発見と仏教
で 触れてきたが、興味深いとして 続けて欲しいとの希望が寄せられた。そこで、ここでは、数学界と物理学界の巨人 オイラーとアインシュタインについて触れたい。
オイラーが膨大な基本的な業績を残され、まるでモーツァルトのように 次から次へと数学を発展させたのは驚嘆すべきことであるが、ここでは典型的で、顕著な結果であるいわゆるオイラーの公式 e^{\pi i} = -1 を挙げたい。これについては相当深く纏められた記録があるので参照して欲しい(
)。この公式は最も基本的な数、-1,\pi, e,i の簡潔な関係を確立しており、複素解析や数学そのものの骨格の中枢の関係を与えているので、世界史への甚大なる影響は歴然である ― オイラーの公式 (e ^{ix} = cos x + isin x) を一般化として紹介できます。 そのとき、数と角の大きさの単位の関係で、神は角度を数で測っていることに気付く。左辺の x は数で、右辺の x は角度を表している。それらが矛盾なく意味を持つためには角は、角の 単位は数の単位でなければならない。これは角の単位を 60 進法や 10 進法などと勝手に決められないことを述べている。ラジアンなどの用語は不要であることが分かる。これが神様方式による角の単位です。角の単位が数ですから、そして、数とは複素数ですから、複素数 の三角関数が考えられます。cos i も明確な意味を持ちます。このとき、たとえば、純虚数の 角の余弦関数が電線をぶらりとたらした時に描かれる、けんすい線として、実際に物理的に 意味のある美しい関数を表現します。そこで、複素関数として意味のある雄大な複素解析学 の世界が広がることになる。そしてそれらは、数学そのものの基本的な世界を構成すること になる。自然の背後には、神の設計図と神の意思が隠されていますから、神様の気持ちを理解し、 また神に近付くためにも、数学の研究は避けられないとなると思います。数学は神学そのものであると私は考える。オイラーの公式の魅力は千年や万年考えても飽きることはなく、数学は美しいとつぶやき続けられる。― 特にオイラーの公式は、言わば神秘的な数、虚数i、―1, e、\pi などの明確な意味を与えた意義は 凄いこととであると驚嘆させられる。
次に アインシュタインであるが、いわゆる相対性理論として、物理学界の最高峰に存在するが、アインシュタインの公式 E=mc^2 は素人でもびっくりする 簡潔で深い結果である。何と物質はエネルギーと等式で結ばれるという。このような公式の発見は人類の名誉に関わる基本的な結果と考えられる。アインシュタインが、時間、空間、物質、エネルギー、光速の基本的な関係を確立し、現代物理学の基礎を確立している。
ところで、上記巨人に共通する面白い話題が存在する。 オイラーがゼロ除算を記録に残し 1/0=\infty と記録し、広く間違いとして指摘されている。 他方、 アインシュタインは次のように述べている:
Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} (
Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970).
今でも、この先を、特に特殊相対性理論との関係で 0/0=1 であると頑強に主張したり、想像上の数と考えたり、ゼロ除算についていろいろな説が存在して、混乱が続いている。
しかしながら、ゼロ除算については、決定的な結果を得た と公表している。すなわち、分数、割り算は自然に一意に拡張されて、 1/0=0/0=z/0=0 である。無限遠点は 実はゼロで表される:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Announcement 326: The division by zero z/0=0/0=0 - its impact to human beings through education and research
以 上
再生核研究所声明347(2017.1.17) 真実を語って処刑された者
まず歴史的な事実を挙げたい。Pythagoras、紀元前582年 - 紀元前496年)は、ピタゴラスの定理などで知られる、古代ギリシアの数学者、哲学者。彼の数学や輪廻転生についての思想はプラトンにも大きな影響を与えた。「サモスの賢人」、「クロトンの哲学者」とも呼ばれた(ウィキペディア)。辺の長さ1の正方形の対角線の長さが ル-ト2であることがピタゴラスの定理から導かれることを知っていたが、それが整数の比で表せないこと(無理数であること)を発見した弟子Hippasusを 無理数の世界観が受け入れられないとして、その事実を隠したばかりか、その事実を封じるために弟子を殺してしまったという。
また、ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。彼の死を前例に考え、轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われる(ウィキペディア)。
さらに、新しい幾何学の発見で冷遇された歴史的な事件が想起される:
非ユークリッド幾何学の成立
ニコライ・イワノビッチ・ロバチェフスキーは「幾何学の新原理並びに平行線の完全な理論」(1829年)において、「虚幾何学」と名付けられた幾何学を構成して見せた。これは、鋭角仮定を含む幾何学であった。
ボーヤイ・ヤーノシュは父・ボーヤイ・ファルカシュの研究を引き継いで、1832年、「空間論」を出版した。「空間論」では、平行線公準を仮定した幾何学(Σ)、および平行線公準の否定を仮定した幾何学(S)を論じた。更に、1835年「ユークリッド第 11 公準を証明または反駁することの不可能性の証明」において、Σ と S のどちらが現実に成立するかは、如何なる論理的推論によっても決定されないと証明した(ウィキペディア)。
知っていて、科学的な真実は人間が否定できない事実として、刑を逃れるために妥協したガリレオ、世情を騒がせたくない、自分の心をそれ故に乱したくない として、非ユークリッド幾何学について 相当な研究を進めていたのに 生前中に公表をしなかった数学界の巨人 ガウスの処世を心に留めたい。
ピタゴラス派の対応、宗教裁判における処刑、それらは、真実よりも権威や囚われた考えに固執していたとして、誠に残念な在り様であると言える。非ユークリッド幾何学の出現に対する風潮についても2000年間の定説を覆す事件だったので、容易には理解されず、真摯に新しい考えの検討すらしなかったように見える。
真実を、真理を求めるべき、数学者、研究者、宗教家のこのような態度は相当根本的におかしいと言わざるを得ない。実際、人生の意義は帰するところ、真智への愛にあるのではないだろうか。本当のこと、世の中のことを知りたいという愛である。顕著な在り様が研究者や求道者、芸術家達ではないだろうか。そのような人たちの過ちを省みて自戒したい: 具体的には、
1) 新しい事実、現象、考え、それらは尊重されるべきこと。多様性の尊重。
2) 従来の考えや伝統に拘らない、いろいろな考え、見方があると柔軟に考える。
3) もちろん、自分たちの説に拘ったりして、新しい考え方を排除する態度は恥ずべきことである。どんどん新しい世界を拓いていくのが人生の基本的な在り様であると心得る。
4) もちろん、自分たちの流派や組織の利益を考えて新規な考えや理論を冷遇するのは真智を愛する人間の恥である。
5) 巨人、ニュートンとライプニッツの微積分の発見の先取争いに見られるような過度の競争意識や自己主張は、浅はかな人物に当たるとみなされる。真智への愛に帰するべきである。
数学や科学などは 明確に直接個々の人間にはよらず、事実として、人間を離れて存在している。従って無理数も非ユークリッド幾何学も、地球が動いている事も、人間に無関係で そうである事実は変わらない。その意味で、多数決や権威で結果を決めようとしてはならず、どれが真実であるかの観点が決定的に大事である。誰かではなく、真実はどうか、事実はどうかと真摯に、真理を追求していきたい。
人間が、人間として生きる究極のことは、真智への愛、真実を知りたい、世の中を知りたい、神の意思を知りたいということであると考える。 このような観点で、上記世界史の事件は、人類の恥として、このようなことを繰り返さないように自戒していきたい(再生核研究所声明 41(2010/06/10): 世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
以 上
再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告
ゼロ除算については、既に相当な世界を拓いていると考えるが、世の理解を求めている状況下で、理解と評価、反響にも関心がある:
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響があり、さらに哲学、宗教、文化への大きな影響がある。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、数学者ばかりではなく、人類の名誉にも関わることである。実際、ゼロ除算の歴史は 止むことのない闘争の歴史とともに人類の恥ずべき人類の愚かさの象徴となるだろう。世間ではゼロ除算について不適切な情報が溢れていて 今尚奇怪で抽象的な議論によって混乱していると言える。― 美しい世界が拓けているのに、誰がそれを閉ざそうと、隠したいと、無視したいと考えられるだろうか。我々は間違いを含む、不適切な数学を教えていると言える: ― 再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判 ―。
地動説のように真実は、実体は既に明らかである。 ― 研究と研究成果の活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。 研究課題は基礎的で関与する分野は広い、いろいろな方の研究・教育活動への参加を求めたい。素人でも数学の研究に参加できる新しい初歩的な数学を沢山含んでいる。ゼロ除算は発展中の世界史上の事件、問題であると言える (再生核研究所声明325(2016.10.14) ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて)
そのような折り、ISAAC マカオ国際会議では、招待、全体講演を行い、ゼロ除算について、触れ、 論文も発表したものの(Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and Applications -Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China. (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 177) Sep. 2016 305pp.(Springer) )
今回頭記の200名を超える大きな国際会議で、ゼロ除算と微分方程式について真正面からゼロ除算の成果を発表することができた。
ゼロ除算には、世界史と世界観がかかっているとの認識で、この国際会議を記念すべきものとするようにとの密かな望みを抱いて出席した。そこで、簡単に印象など記録として纏めて置きたい。
まずは、3日目 正規の晩餐会が開かれる恵まれた日に 最初に全体講演を行った。主催者の学生が多数出席されたり、軍の専属カメラマンが講演模様を沢山写真に収めていた。図版を用意し、大事な点はOHPで講演中図示していた。用意した原稿は良く見えるように配慮したので、全貌の理解は得られたものと考えられる。 結びには次のように述べ、示した。宣言文の性格を持たせるとの意思表示である:
{\bf The division by zero is uniquely and reasonably determined as $$1/0=0/0=z/0=0$$ in the natural extensions of fractions. \\
We have to change our basic ideas for our space and world.\\
We have to change our textbooks and scientific books on the division by zero.\\
Thank you for your attention.}
講演に対して、アラブ首長国の教授が、現代数学を破壊するので、全て認められないとの発言があった。後で、送迎中のバスの中で、とんちんかんな誤解をしている教授がいることが分かった。過去にも経験済みであるが、相当に二人共 感情的に見えた ― それはとんでもないという感じである。閉会式に参加者を代表して謝辞を述べられたギリシャの教授が、画期的な発見で、今回の国際会議の最大の話題であったと述べられたが、要点について話したところ、要点の全てについて深い理解をしていることが確認された。さらにゼロ除算の著書出版の具体的な計画を進めたいという、時宜を得た計画が相談の上、出来た。
そこで、講演原稿と図版を出席者たちにメールし、助言と意見を広く求めている。理解できないと述べられた人にも 要求に応じて送っているが、現在までのところ連絡、返答がない。
主催者から、50カ国以上から200名以上の出席者があったと述べられたが、そのような国際会議で、招待、全体講演を行うことができたのは 凄く記念すべきこととして、出版される会議録、論文集の出版に最善をつくし、交流ができた人々との交流を積極的に進めていきたい。尚、正規の日本人参加者は8名であった。
ゼロの発見国インドからは6名参加していたので、1300年も前に0/0=0が四則演算の創始者によって主張されていた事実を重要視してその状況を説明し、特に対話を深め、創始者に関する情報の収集についての協力をお願いした。ゼロ除算について理解した、分かったと繰り返し述べていたが、どうも感情が伴わず、心もとない感じであった。若いカナダの女性に印象を伺ったところ、沢山の具体例を挙げられたので、認めざるを得ない、内容や意義より驚きの感じで、それが講演に対する全体的な反響の状況を表していると考えられる。
歴史は未来によって作られる。今回の国際会議の意義は 今後の研究の進展で左右されるものと考える。しかしながら十分な記録は既に残されていると考えている。
以 上
再生核研究所声明368(2017.5.19)ゼロ除算の意義、本質
ゼロ除算の本質、意義について、既に述べているが、参照すると良くまとめられているので、初めに復習して、新しい視点を入れたい。
再生核研究所声明359(2017.3.20) ゼロ除算とは何か ― 本質、意義
ゼロ除算の理解を進めるために ゼロ除算とは何か の題名で、簡潔に表現して置きたい。 構想と情念、想いが湧いてきたためである。
基本的な関数y=1/x を考える。 これは直角双曲線関数で、原点以外は勿論、値、関数が定義されている。問題はこの関数が、x=0 で どうなっているかである。結論は、この関数の原点での値を ゼロと定義する ということである。 定義するのである。定義であるから勝手であり、従来の定義や理論に反しない限り、定義は勝手であると言える。原点での値を明確に定義した理論はないから、この定義は良いと考えられる。それを、y=1/0=0 と記述する。ゼロ除算は不可能であるという、数学の永い定説に従って、1/0 の表記は学術書、教科書にもないから、1/0=0 の記法は 形式不変の原理、原則 にも反しないと言える。― 多くの数学者は注意深いから、1/0=\infty の表記を避けてきたが、想像上では x が 0 に近づいたとき、限りなく 絶対値が大きくなるので、複素解析学では、表現1/0=\infty は避けても、1/0=\infty と考えている事は多い。(無限大の記号がない時代、アーベルなどもそのような記号を用いていて、オイラーは1/0=\inftyと述べ、それは間違いであると指摘されてきた。 しかしながら、無限大とは何か、数かとの疑問は 続いている。)。ここが大事な論点である。近づいていった極限値がそこでの値であろうと考えるのは、極めて自然な発想であるが、現代では、不連続性の概念 が十分確立されていて、極限値がそこでの値と違う例は、既にありふれている。― アリストテレスは 連続性の世界観をもち、特にアリストテレスの影響を深く受けている欧米の方は、この強力な不連続性を中々受け入れられないようである。無限にいくと考えられてきたのが突然、ゼロになるという定義になるからである。 しかしながら、関数y=1/xのグラフを書いて見れば、原点は双曲線のグラフの中心の点であり、美しい点で、この定義は魅力的に見えてくるだろう。
定義したことには、それに至るいろいろな考察、経過、動機、理由がある。― 分数、割り算の意味、意義、一意性問題、代数的な意味づけなどであるが、それらは既に数学的に確立しているので、ここでは触れない。
すると、定義したからには、それがどのような意味が存在して、世の中に、数学にどのような影響があるかが、問題になる。これについて、現在、初等数学の学部レベルの数学をゼロ除算の定義に従って、眺めると、ゼロ除算、すなわち、 分母がゼロになる場合が表現上現れる広範な場合に 新しい現象が発見され、ゼロ除算が関係する広範な場合に大きな影響が出て、数学は美しく統一的に補充,完全化されることが分かった。それらは現在、380件以上のメモにまとめられている。しかしながら、世界観の変更は特に重要であると考えられる:
複素解析学で無限遠点は その意味で1/0=0で、複素数0で表されること、アリストテレスの連続性の概念に反し、ユークリッド空間とも異なる新しい空間が 現れている。直線のコンパクト化の理想点は原点で、全ての直線が原点を含むと、超古典的な結果に反する。更に、ゼロと無限の関係が明らかにされてきた。
ゼロ除算は、現代数学の初等部分の相当な変革を要求していると考えられる。
以 上
ゼロ除算の代数的な意義は、山田体の概念で体にゼロ除算を含む構造の入れ方、一般に体にゼロ除算の概念が入れられるが、代数的な発展については 専門外で、触れられない。ただ、計算機科学でゼロ除算と代数的な構造について相当議論している研究者がいる。
ゼロ除算の解析学的な意義は、従来孤立特異点での研究とは、孤立点での近傍での研究であり、正確に述べれば 孤立特異点そのものでの研究はなされていないと考えられる。
なぜならば、特異点では、ゼロ分のとなり、分子がゼロの場合には ロピタルの定理や微分法の概念で 極限値で考えてきたが、ゼロ除算は、一般に分子がゼロでない場合にも意味を与え、極限値でなくて、特異点で 何時でも有限確定値を指定できる ― ゼロ除算算法。初めて、特異点そのものの世界に立ち入ったと言える。従来は孤立特異点を除いた世界で 数学を考えてきたと言える。その意味でゼロ除算は 全く新しい数学、世界であると言える。典型的な結果は tan(\pi/2) =0で、y軸の勾配がゼロであることである。
ゼロ除算の幾何学的な意義は、ユークリッド空間のアレクサンドロフの1点コンパクト化に、アリストテレスの連続性の概念でない、強力な不連続性が現れたことで、全く新しい空間の構造が現れ、幾何学の無限遠点に関係する部分に全く新規な世界が現れたことである。所謂無限遠点が数値ゼロで、表現される。
さらに、およそ無限量と考えられたものが、実は、数値ゼロで表現されるという新しい現象が発見された。tan(\pi/2) =0の意味を幾何学的に考えると、そのことを表している。これはいろいろな恒等式に新しい要素を、性質を顕にしている。ゼロが、不可能性を表現したり、基準を表すなど、ゼロの意義についても新しい概念が現れている。
以 上
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