数学上での0の発見は非常に奥が深いと数学の先生が言っていたんですがどうしてなんですか?
あと、0が長らく数字として認められてこなかったとも聞いたことがあります。0ってれっきとした数字ですよね?
あと、0が長らく数字として認められてこなかったとも聞いたことがあります。0ってれっきとした数字ですよね?
2010/9/415:17:17
それは、0が体験してきた波乱万丈な歴史にあります。同時に、数学の発展の歴史ともいえます。
私たちは、0~9までの数をほぼ対等に扱っていますよね?ですが、0は1~9までの数字と違い、長い間「一人前の数」とは認められなかったんです。それどころか、多くの古代文明は0という数さえ持っていませんでした。
数というのはそもそも、物の個数を数えるために生まれたものだと考えられています。しかし、「0個のりんご」とはいいませんよね。そう考えると、1から9までの数字と比べて0が確かに不思議な存在に思えてきませんか?
実際、0は長い間、「数」とはみなされてきませんでした。ここでいう「数」とは、「個数」という考えに縛られない概念で、足し算やかけ算といった演算の対象になるものを指します。「個数」にしばられると、「0個なんて意味がないから0は数ではない」という考え方におちいってしまいます。
0という概念はヨーロッパの人々を悩ませてきました。有名な数学者ブレーズ・パスカルでさえ「0から4を引いても0だ」と考えたといいます。0は何もない「無」だから何も引けないというわけですね。
0の割り算はもっと扱いずらいんです。例えば、1÷0=qとおいてみましょう。すると、1=q×0=0となり、「1が0と等しい」という奇妙奇天烈な結果になってしまいます。この1を他の数に置き換えても結果は同じなので、「すべての数は0に等しい」ということになってしまいます。これは明らかに矛盾ですね。
このように、0はある意味で、数学の合理性を崩壊させかねない力を秘めているといえます。このため、現代数学では0の割り算はやってはいけない禁止事項になっているんです。
0を使う最大の利点の一つは、少ない種類の記号で簡単に大きな数を表すことができる点です。例えば、漢字で数を表すとき、一~九に加えて、十、百、千、万・・・・といった具合に4桁ごとに新しい漢字を用います。しかし、0を使えば新たな記号を考え出さなくても、いくらでも大きな数を表すことが可能なんですね。どんな数でも0~9の十個の数字でことたりるんです。このような数の表記法は「位取り記数法」とよばれ、位に何もないことを表す0が非常に重要な役割を果たしています。
0を使った位取り記数法はマヤ文明やメソポタミア文明で使用されました。また、マヤには絵文字で数字を表す方法もあったようです。その場合、0は「下あごに手を添えた顔」などです。
画期的な記数法を編み出した両文明ですが、0はあくまで空位を表す「記号」としての意味しかなく、0を使った計算(0+aなど)は行われなかったようです。おそらく、古代文明では、計算にはそろばんなどの算盤や算木が使用され、数字は主に記録用としてだけ用いられたのだと考えられています。そのため、0は計算には使われず、「一人前の数」に成長できなかったんでしょう。
いくつかの文明で「位取りの記号」として利用された0でしたが、それは数字や単位がないことを示す記号の枠を超えることはありませんでした。0が一人前の「数」としてみなされたのは、インドが最初であるという説が有力です。0を一人前の数とみなすというのは、加減乗除などの演算の対象として0を見るということです。
数としての0の発見は、その後の数学の発展において非常に重要なんです。数としての0がないと、例えば、a^0=1といった計算や、(x-3)(x+2)=0→x=3、-2といった計算もできなくなってしまいます。
インドでのゼロ記号には黒丸の点が使われました。太陽の天球上での運動は1日当たり約1度(60分)ですが、季節によって若干の変動があります。それをインドの古文書では「60±a分」と表していますが、ちょうど60分の時期を「60-0」と表記しているんです。少なくとも、部分的には6世紀半ばの段階で、0が数であるという認識がインドにはあったということになります。
インドで数としての0が誕生できた理由として、インドでは位に1~9の数字がないことを示す記号としての「ゼロ」が存在したのに加えて、筆算がよく行われていたということが挙げられます。インドでの筆算は、板や皮の上にチョークで書いたり、砂や粉をまいて指や棒で書いたりして行われたようです。例えば、「15+23+40=78」という計算を筆算で行うときに、「5+3+0」と0の足し算を行う必要が出てきます。これが、0を数とみなすことにつながったと考えられます。
インドの誰が数としての0を発見したのかは謎に包まれています。しかし、この小さな一歩は人類にとって非常に大きな一歩だったといえるでしょう。
現在では、数学、科学はもちろん、日常生活にいたるまでゼロという概念はなくてはならない存在となっているんですね。
私たちは、0~9までの数をほぼ対等に扱っていますよね?ですが、0は1~9までの数字と違い、長い間「一人前の数」とは認められなかったんです。それどころか、多くの古代文明は0という数さえ持っていませんでした。
数というのはそもそも、物の個数を数えるために生まれたものだと考えられています。しかし、「0個のりんご」とはいいませんよね。そう考えると、1から9までの数字と比べて0が確かに不思議な存在に思えてきませんか?
実際、0は長い間、「数」とはみなされてきませんでした。ここでいう「数」とは、「個数」という考えに縛られない概念で、足し算やかけ算といった演算の対象になるものを指します。「個数」にしばられると、「0個なんて意味がないから0は数ではない」という考え方におちいってしまいます。
0という概念はヨーロッパの人々を悩ませてきました。有名な数学者ブレーズ・パスカルでさえ「0から4を引いても0だ」と考えたといいます。0は何もない「無」だから何も引けないというわけですね。
0の割り算はもっと扱いずらいんです。例えば、1÷0=qとおいてみましょう。すると、1=q×0=0となり、「1が0と等しい」という奇妙奇天烈な結果になってしまいます。この1を他の数に置き換えても結果は同じなので、「すべての数は0に等しい」ということになってしまいます。これは明らかに矛盾ですね。
このように、0はある意味で、数学の合理性を崩壊させかねない力を秘めているといえます。このため、現代数学では0の割り算はやってはいけない禁止事項になっているんです。
0を使う最大の利点の一つは、少ない種類の記号で簡単に大きな数を表すことができる点です。例えば、漢字で数を表すとき、一~九に加えて、十、百、千、万・・・・といった具合に4桁ごとに新しい漢字を用います。しかし、0を使えば新たな記号を考え出さなくても、いくらでも大きな数を表すことが可能なんですね。どんな数でも0~9の十個の数字でことたりるんです。このような数の表記法は「位取り記数法」とよばれ、位に何もないことを表す0が非常に重要な役割を果たしています。
0を使った位取り記数法はマヤ文明やメソポタミア文明で使用されました。また、マヤには絵文字で数字を表す方法もあったようです。その場合、0は「下あごに手を添えた顔」などです。
画期的な記数法を編み出した両文明ですが、0はあくまで空位を表す「記号」としての意味しかなく、0を使った計算(0+aなど)は行われなかったようです。おそらく、古代文明では、計算にはそろばんなどの算盤や算木が使用され、数字は主に記録用としてだけ用いられたのだと考えられています。そのため、0は計算には使われず、「一人前の数」に成長できなかったんでしょう。
いくつかの文明で「位取りの記号」として利用された0でしたが、それは数字や単位がないことを示す記号の枠を超えることはありませんでした。0が一人前の「数」としてみなされたのは、インドが最初であるという説が有力です。0を一人前の数とみなすというのは、加減乗除などの演算の対象として0を見るということです。
数としての0の発見は、その後の数学の発展において非常に重要なんです。数としての0がないと、例えば、a^0=1といった計算や、(x-3)(x+2)=0→x=3、-2といった計算もできなくなってしまいます。
インドでのゼロ記号には黒丸の点が使われました。太陽の天球上での運動は1日当たり約1度(60分)ですが、季節によって若干の変動があります。それをインドの古文書では「60±a分」と表していますが、ちょうど60分の時期を「60-0」と表記しているんです。少なくとも、部分的には6世紀半ばの段階で、0が数であるという認識がインドにはあったということになります。
インドで数としての0が誕生できた理由として、インドでは位に1~9の数字がないことを示す記号としての「ゼロ」が存在したのに加えて、筆算がよく行われていたということが挙げられます。インドでの筆算は、板や皮の上にチョークで書いたり、砂や粉をまいて指や棒で書いたりして行われたようです。例えば、「15+23+40=78」という計算を筆算で行うときに、「5+3+0」と0の足し算を行う必要が出てきます。これが、0を数とみなすことにつながったと考えられます。
インドの誰が数としての0を発見したのかは謎に包まれています。しかし、この小さな一歩は人類にとって非常に大きな一歩だったといえるでしょう。
現在では、数学、科学はもちろん、日常生活にいたるまでゼロという概念はなくてはならない存在となっているんですね。
sedrft1さん
2010/9/423:06:49
みなさんおっしゃっているように、「見えないものを数として認める」という発想は数学にとって大きな前進になったと思います。
これにより、マイナスのような負の数を始め虚数も数として認めようという柔軟な発想ができるようになったためだと思います。
今では虚数がなくなってしまったら現代の数学は破綻してしまうほど虚数は重要な数になっています。それもそもそも0を数として認めようと言う発想がなかったら不可能なことであったはずであり、古代インドを始め古代文明が発見したゼロの概念と言うのは非常に重要な歴史的発見と言えるのではないでしょうか。
これにより、マイナスのような負の数を始め虚数も数として認めようという柔軟な発想ができるようになったためだと思います。
今では虚数がなくなってしまったら現代の数学は破綻してしまうほど虚数は重要な数になっています。それもそもそも0を数として認めようと言う発想がなかったら不可能なことであったはずであり、古代インドを始め古代文明が発見したゼロの概念と言うのは非常に重要な歴史的発見と言えるのではないでしょうか。
2010/9/421:37:45
目には見えない”無”を探せたのは、次へとつづく道を歩き始めたことだから、奥が深いと先生が言ったんだと思います。
0は数字です。インド人が発見しました。
0は数字です。インド人が発見しました。
編集あり2010/9/418:20:47
人間ってのは「なにもない」というものが「存在する」ということを認めるのが中々出来ないようになってるってことです。
ないものはないんだから、それが有ると考えて議論するだなんて、まるで矛盾のようではありませんか。
最初、数字と言うのは自然数のみを指していました。次は正の有理数が数字として受けいられて、その次に正の実数が、それから0、負数の発見という流れだったと思います。正、という条件が付くとそれだけで実例が世の中にいくらでもあるので、実に想像しやすいのです。しかし0、負数というのは想像の世界にしかない(実際の現象と対応させるのが非常に難しい)ので中々発見されなかったわけです。
これはまさに「抽象化」の難しさを示す好例だと思います。
また、ギリシャで発展した数学は基本的にユークリッド幾何学に根差したものであって、実体のないものを議論するようなものではありませんでした。だから負の数といったものもありませんでしたし、そんなものは想像上のモノだとして批判されたのです。
あと、除法について矛盾…というか厄介なことが起こるというのは大きいと思います。
0除算は定義出来ませんが、数学者の中にはそれをよしとしない人も多くいたわけです。
ないものはないんだから、それが有ると考えて議論するだなんて、まるで矛盾のようではありませんか。
最初、数字と言うのは自然数のみを指していました。次は正の有理数が数字として受けいられて、その次に正の実数が、それから0、負数の発見という流れだったと思います。正、という条件が付くとそれだけで実例が世の中にいくらでもあるので、実に想像しやすいのです。しかし0、負数というのは想像の世界にしかない(実際の現象と対応させるのが非常に難しい)ので中々発見されなかったわけです。
これはまさに「抽象化」の難しさを示す好例だと思います。
また、ギリシャで発展した数学は基本的にユークリッド幾何学に根差したものであって、実体のないものを議論するようなものではありませんでした。だから負の数といったものもありませんでしたし、そんなものは想像上のモノだとして批判されたのです。
あと、除法について矛盾…というか厄介なことが起こるというのは大きいと思います。
0除算は定義出来ませんが、数学者の中にはそれをよしとしない人も多くいたわけです。
0除算の定義がきちんと発見できました:
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告
http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html
再生核研究所声明368(2017.5.19)ゼロ除算の意義、本質
ゼロ除算の本質、意義について、既に述べているが、参照すると良くまとめられているので、初めに復習して、新しい視点を入れたい。
再生核研究所声明359(2017.3.20) ゼロ除算とは何か ― 本質、意義
ゼロ除算の理解を進めるために ゼロ除算とは何か の題名で、簡潔に表現して置きたい。 構想と情念、想いが湧いてきたためである。
基本的な関数y=1/x を考える。 これは直角双曲線関数で、原点以外は勿論、値、関数が定義されている。問題はこの関数が、x=0 で どうなっているかである。結論は、この関数の原点での値を ゼロと定義する ということである。 定義するのである。定義であるから勝手であり、従来の定義や理論に反しない限り、定義は勝手であると言える。原点での値を明確に定義した理論はないから、この定義は良いと考えられる。それを、y=1/0=0 と記述する。ゼロ除算は不可能であるという、数学の永い定説に従って、1/0 の表記は学術書、教科書にもないから、1/0=0 の記法は 形式不変の原理、原則 にも反しないと言える。― 多くの数学者は注意深いから、1/0=\infty の表記を避けてきたが、想像上では x が 0 に近づいたとき、限りなく 絶対値が大きくなるので、複素解析学では、表現1/0=\infty は避けても、1/0=\infty と考えている事は多い。(無限大の記号がない時代、アーベルなどもそのような記号を用いていて、オイラーは1/0=\inftyと述べ、それは間違いであると指摘されてきた。 しかしながら、無限大とは何か、数かとの疑問は 続いている。)。ここが大事な論点である。近づいていった極限値がそこでの値であろうと考えるのは、極めて自然な発想であるが、現代では、不連続性の概念 が十分確立されていて、極限値がそこでの値と違う例は、既にありふれている。― アリストテレスは 連続性の世界観をもち、特にアリストテレスの影響を深く受けている欧米の方は、この強力な不連続性を中々受け入れられないようである。無限にいくと考えられてきたのが突然、ゼロになるという定義になるからである。 しかしながら、関数y=1/xのグラフを書いて見れば、原点は双曲線のグラフの中心の点であり、美しい点で、この定義は魅力的に見えてくるだろう。
定義したことには、それに至るいろいろな考察、経過、動機、理由がある。― 分数、割り算の意味、意義、一意性問題、代数的な意味づけなどであるが、それらは既に数学的に確立しているので、ここでは触れない。
すると、定義したからには、それがどのような意味が存在して、世の中に、数学にどのような影響があるかが、問題になる。これについて、現在、初等数学の学部レベルの数学をゼロ除算の定義に従って、眺めると、ゼロ除算、すなわち、 分母がゼロになる場合が表現上現れる広範な場合に 新しい現象が発見され、ゼロ除算が関係する広範な場合に大きな影響が出て、数学は美しく統一的に補充,完全化されることが分かった。それらは現在、380件以上のメモにまとめられている。しかしながら、世界観の変更は特に重要であると考えられる:
複素解析学で無限遠点は その意味で1/0=0で、複素数0で表されること、アリストテレスの連続性の概念に反し、ユークリッド空間とも異なる新しい空間が 現れている。直線のコンパクト化の理想点は原点で、全ての直線が原点を含むと、超古典的な結果に反する。更に、ゼロと無限の関係が明らかにされてきた。
ゼロ除算は、現代数学の初等部分の相当な変革を要求していると考えられる。
以 上
ゼロ除算の代数的な意義は、山田体の概念で体にゼロ除算を含む構造の入れ方、一般に体にゼロ除算の概念が入れられるが、代数的な発展については 専門外で、触れられない。ただ、計算機科学でゼロ除算と代数的な構造について相当議論している研究者がいる。
ゼロ除算の解析学的な意義は、従来孤立特異点での研究とは、孤立点での近傍での研究であり、正確に述べれば 孤立特異点そのものでの研究はなされていないと考えられる。
なぜならば、特異点では、ゼロ分のとなり、分子がゼロの場合には ロピタルの定理や微分法の概念で 極限値で考えてきたが、ゼロ除算は、一般に分子がゼロでない場合にも意味を与え、極限値でなくて、特異点で 何時でも有限確定値を指定できる ― ゼロ除算算法。初めて、特異点そのものの世界に立ち入ったと言える。従来は孤立特異点を除いた世界で 数学を考えてきたと言える。その意味でゼロ除算は 全く新しい数学、世界であると言える。典型的な結果は tan(\pi/2) =0で、y軸の勾配がゼロであることである。
ゼロ除算の幾何学的な意義は、ユークリッド空間のアレクサンドロフの1点コンパクト化に、アリストテレスの連続性の概念でない、強力な不連続性が現れたことで、全く新しい空間の構造が現れ、幾何学の無限遠点に関係する部分に全く新規な世界が現れたことである。所謂無限遠点が数値ゼロで、表現される。
さらに、およそ無限量と考えられたものが、実は、数値ゼロで表現されるという新しい現象が発見された。tan(\pi/2) =0の意味を幾何学的に考えると、そのことを表している。これはいろいろな恒等式に新しい要素を、性質を顕にしている。ゼロが、不可能性を表現したり、基準を表すなど、ゼロの意義についても新しい概念が現れている。
以 上
再生核研究所声明365(2017.5.12)目も眩むほど素晴らしい研究課題 ― ゼロ除算
(2017.5.11.4:45 頃 目を覚ましたら、突然表題とその構想が情念として湧いてきたので、そのまま 書き留めて置きたい。)
そもそもゼロ除算とは、ゼロで割る問題であるが、ゼロの発見者、算術の確立者が既に 当時、0/0=0としていたにも関わらず(Brahmagupta (598 - 668 ?). defined as $0/0=0$ in Brāhmasphuṭasiddhānta (628))、1300年以上もそれは間違いであるとして、現在に至っている。最近の知見によれば、それは 実は当たり前で、現代数学の初歩的な部分における大きな欠落で、現代数学の初歩部分は相当な修正、補充が要求されている。問題は、無限の彼方に対する概念が 無限と考えられていたのが 実はゼロであったとなり、ユークリッド幾何学の欠落部分が存在し、強力な不連続性が現れて、アリストテレスの世界観に反する世界が現れてきたことである。超古典的結果の修正、補完、新しい世界の出現である。
初等数学は 無限の概念や勾配が関係する部分で大きな変更が必要であり、2次曲線論ですら 修正が要求される。多くの物理学や数理科学に現れる公式において 分母がゼロのところで、新しい知見を探す、考えることができる。
ところで、数学とは何だろうかと問い、その中で、良い結果とは、
基本的であること、
美しいこと、
世の中に良い影響を与えること、
上記の観点で、想い出されるのは、ピタゴラスの定理、アインシュタインの公式、ニュートンの万有引力の公式や運動の法則、少し、高級であるが 神秘律 オイラーの公式 などである。
この観点で ゼロ除算の公式
1/0=0/0=z/0=0
を掲げれば、その初歩的な意味とともに 神秘的に深い意味 を知って、慄然とするのではないだろうか。それゆえにゼロ除算の研究は 世界史的な事件であり、世界観に大きな影響を与える。ゼロ除算は初等部分から 神秘律に至る雄大な研究分野であると言える。
探そうゼロ除算、究めようゼロ除算の意義。神の意思を追求しよう。
ゼロ除算は、中学生からはおろか、小学生にも分かって 楽しめる数学である。実際、道脇愛羽さん(当時6歳)は、ゼロ除算の発見後3週間くらいで、ゼロ除算は当たり前と理由を付けて、述べていた。他方、多くの大学教授は 1年を遥かに越えても、理解できず、誤解を繰り返している面白い数学である。世界の教科書、学術書は大きく変更されると考えられる。多くの人に理解され、影響を与える研究課題は、世に稀であると言える。
以 上
再生核研究所声明255 (2015.11.3) 神は、平均値として関数値を認識する
(2015.10.30.07:40
朝食後 散歩中突然考えが閃いて、懸案の問題が解決した:
どうして、ゼロ除算では、ローラン展開の正則部の値が 極の値になるのか?
そして、一般に関数値とは何か 想いを巡らしていた。
解決は、驚く程 自分の愚かさを示していると呆れる。 解は 神は、平均値として関数値を認識すると纏められる。実際、解析関数の場合、上記孤立特異点での関数値は、正則の時と全く同じく コ-シーの積分表示で表されている。 解析関数ではコ-シーの積分表示で定義すれば、それは平均値になっており、この意味で考えれば、解析関数は孤立特異点でも 関数値は 拡張されることになる ― 原稿には書いてあるが、認識していなかった。
連続関数などでも関数値の定義は そのまま成り立つ。平均値が定義されない場合には、いろいろな意味での平均値を考えれば良いとなる。解析関数の場合の微分値も同じように重み付き平均値の意味で、統一的に定義でき、拡張される。 いわゆるくりこみ理論で無限値(部)を避けて有限値を捉える操作は、この一般的な原理で捉えられるのではないだろうか。2015.10.30.08:25)
上記のようにメモを取ったのであるが、基本的な概念、関数値とは何かと問うたのである。関数値とは、関数の値のことで、数に数を対応させるとき、その対応を与えるのが関数でよく f 等で表され x 座標の点 x をy 座標の点 yに対応させるのが関数 y = f(x) で、放物線を表す2次関数 y=x^2, 直角双曲線を表す分数関数 y=1/x 等が典型的な例である。ここでは 関数の値 f(x) とは何かと問うたものである。結論を端的に表現するために、関数y=1/xの原点x=0における値を問題にしよう。 このグラフを思い出して、多くの人は困惑するだろう。なぜならば、x が正の方からゼロに近づけば 正の無限に発散し、xが負の方からゼロに近づけば負の無限大に発散するからである。最近発見されたゼロ除算、ゼロで割ることは、その関数値をゼロと解釈すれば良いという簡単なことを言っていて、ゼロ除算はそれを定義とすれば、ゼロ除算は 現代数学の中で未知の世界を拓くと述べてきた。しかし、これは誰でも直感するように、値ゼロは、 原点の周りの値の平均値であることを知り、この定義は自然なものであると 発見初期から認識されてきた。ところが、他方、極めて具体的な解析関数 W = e^{1/z} = 1 + 1/z + 1/2!z^2 + 1/3!z^3 +……. の点 z=0 における値がゼロ除算の結果1であるという結果に接して、人は驚嘆したものと考えられる。複素解析学では、無限位数の極、無限遠点の値を取ると考えられてきたからである。しかしながら、上記の考え、平均値で考えれば、値1をとることが 明確に分かる。実際、原点のコーシー積分表示をこの関数に適用すれば、値1が出てくることが簡単に分かる。そもそも、コーシー積分表示とは 関数の積分路上(簡単に点の周りの円周上での、 小さな円の取り方によらずに定まる)で平均値を取っていることに気づけば良い。
そこで、一般に関数値とは、考えている点の周りの平均値で定義するという原理を考える。
解析関数では 平均値が上手く定義できるから、孤立特異点で、逆に平均値で定義して、関数を拡張できる。しかし、解析的に延長されているとは言えないことに注意して置きたい。 連続関数などは 平均値が定義できるので、関数値の概念は 今までの関数値と同じ意味を有する。関数族では 平均値が上手く定義できない場合もあるが、そのような場合には、平均値のいろいろな考え方によって、関数値の意味が異なると考えよう。この先に、各論の問題が派生する。
以 上
Reality of the Division by Zero $z/0=0$
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