2017年7月14日金曜日

AIで急速に進化を遂げる医療、患者の負担が激減 

AIで急速に進化を遂げる医療、患者の負担が激減 

MRIの準備を進める医師。スウェーデン・ストックホルムの病院で。(c)AFP/JONATHAN NACKSTRAND 〔AFPBB News〕
 今日は未来予測の話をしてみましょう。早晩こんな技術ができるという話です。
 1999年に東京大学に着任して18年、大学での戦略担当、またTLO(大学の技術移転)の役員として技術評価委員などを務めてきましたが、そういう現場からのご紹介です。
 例えば、病院に行きます。CTスキャンとかMRI装置の中に横たわり「全身断層撮影」をしてもらいます。
 頭の先から足の先までスキャンされ、「大根の輪切り」のように得られたあなたの全身データをAIがチェックします。
 AIは膨大な臨床データの画像診断結果を自己学習しており、かなりの確率で見落とすことがありません。
 これに、血液検査や超音波エコーと、心電図などほかの診断をすべて統合して「デジタルヒューマン」としてコンピューターの中に「あなた」自身の内臓を含めた全身が再現され、現時点で発生し得る病気の種、それらのリスクなどがすべて計算されて明示される。
こういう技術は、時期的な早い遅いは正確には分かりませんが、少なくとも2030年頃までにはかなりの範囲で確立されることになるでしょう。
 こうなると、保険なども変わります。現時点では「医師の診断書」の提出で済まされていることが、善くも悪しくももっと厳密になり、融通は利かなくなるでしょう。
 病気の人には、2017年時点でもすでに臨床治療のビッグデータから、様々な治療法とその治癒率などを知らせることができます。
 それらを告知したうえで、患者自身や家族が治療法を納得して選択していく、インフォームド・コンセントが21世紀に入って急速に普及しました。こうした状況もAIと医療センサー、データ処理技術の進展で大きく変わる可能性があります。

デジタル手術シミュレーション

 この30〜40年ほどで「非侵襲」の医療技術、あるいは「低侵襲」の医療技術は大いに進展しました。日本はその1つの発祥の地でもあります。
 例えば「胃カメラ」これは文京区目白台にあった東京大学医学部付属分院で、オリンパスとの共同作業で誕生、世界に普及したものと聞いています。
 ちなみにこの「目白台」キャンパスは病院が本郷に統合された後、空き地状態になっていたキャンパスに私独りが残って、12年間にわたって大学の大切な土地を守ってきたという、ちょっとした思い出があり、校地の活用を期待しています。
 「胃カメラ」は鼻や喉から光ファイバーを消化管の中に入れて直接診察する、メスでお腹を切り開かなくても、体の中が診察できる画期的な「非侵襲」の医療技術として20世紀後半世界に広まります。
 同様の「内視鏡」技術が、最小限の穴を体に開ける「低侵襲」手術によって、大きく体を切り開かなくても身体深部の病気や疾病を外科的・複合的に治療できるようになりました。
 この方向はさらに進んで、昔のSF「ミクロの決死圏」のような技術が現実的に開発推進されています。
 ナノテクノロジーを活用して「医療ナノロボット」を開発、これは注射によって患部に届きますから「低侵襲」の度合いがさらに高まるでしょう。
 以前だったら、「おなかを開けてみないと分からない」などということが少なくありませんでした。
 あるいは、術式を決めて大手術となったものの、予想外に症状が悪く、結局手がつけられなかった。開腹部は縫合したけれど、手術そのものの負担が大きすぎて結果的に・・・。というようなこともありました。
 そういう、いわば不要のリスクがミニマムになることが期待できます。
 医療ナノロボットを例えば、深い患部にある比較的大きな進行性のガンに注射して、それらに効果的にガン細胞を退治してもらう。
 そのようなことも、先ほど触れた「デジタルヒューマン」としてのあなた自身のデータを使って、事前にシミュレーションすることができるでしょう。
 とはいえ、未来の医療でも難しい手術は残り、職人芸的な名医は以前として必要なはずです。そういう場合にも、事前の手術シミュレーション、術式をコンピューター上で可視化し、しっかりなぞるということが容易に可能になるはずです。
 この技術は役に立つはずです。と言うのも、手術はけっして1人で行うものばかりではありません。何人もの医師やパラメディカル(医療従事者からなるチーム)を率い、チーフの執刀医以下、多くのスタッフが患者さんの命を守ります。
 主治医の内科医と、外科手術を担当する外科のお医者さんは別の人ですし、それらをサポートする看護師も様々な人が入れ替わります。そういうスタッフにも、必要に応じて、手術の実際をシミュレーション情報を含めて共有することで、より万全なケアが可能になります。
 この手術シミュレーションそのものも、私たちが目視できる画像ができたら、AIに学習させておくことで、人間の医師ではできないケアが可能になります。
 つまり「事前のシミュレーション」と「現実の治癒」のリアルタイム比較です。
 私たち物理を学んだ者は、例えば素粒子や原子核実験など大規模な物理実験で、事前の詳細なシミュレーションを実施したうえで、貴重なビームのランタイムを分けてもらって、現実の系で実験、シミュレーションと比較する、ということを普通に行います。
 こういうことが、化学実験や込み入った物性物理、あるいは生物実験、基礎医学の実験では以前は十分できなかった。
 しかし、21世紀に入ってヒトゲノムが完全解読され、人間を構成する部品がどのような基本指示書によって指定されているか、人知が及ぶようになってから、
「下からの積み上げ」・・・遺伝情報として記されているコードと
「上からの掘り下げ」・・・患者さんが抱える病気臨床の実態
 と、いわばトンネルを両端から掘り進むように、基礎と臨床がつながる方向に、学術は日々進んでいます。
 この「トンネル」は単に両端だけから掘っているのではなく、
DNA段階の基礎生命科学
DNAが集まってできたアミノ酸レベルでの医療〜薬学
アミノ酸が集まってできるタンパクレベルでの医療〜薬学
タンパクが集まってできる膜などの生体機能部品レベルでの医療〜薬学
生体機能部品が集まってできる細胞レベルでの医療〜薬学
細胞が集まってできる臓器部位レベルでの医療〜薬学
部位が集まってできる臓器レベルでの医療〜薬学
臓器が集まってできる身体部位レベルでの・・・
 と、非常に多くのレベル、階層から成り立っていて、各々に多数の専門家がいて学会もあり、莫大な知的情報が毎年加速度的に生み出され、その総体を細部から見渡せる人はいまやほとんど存在しません。
 でも、こうした階層化された莫大な知識を、ディープ・ラーニングのようなニューラル・ネットワーク型の自己学習するコンピューターは、確実に学習することができます。
 今上に記した内容、夢のように思うかもしれませんが、1つとして「原理的な困難」がないよう注意して記してみました。
 このような様々なレベルでの学術知を、いちいち言葉を媒介とせず、生のデータを直接コンピューターが学んで知識化し、役立てていくプロジェクトを私たち東京大学のチームは「ベクトル知識構造化」と名づけました。
 元となっているのは、2000年から2006年にかけて推進した「知識構造化」プロジェクトで、このときは「ゲノム情報処理」の知識エンジンを用いて学術知識の構造化を進め、工学部長だった小宮山宏先生をリーダーに、私も第1段階から参加しました。こんな本も日経BP社から出しました。
 ここに記してるマクロの大問題は、地球環境問題からナノロボット、教育人材育成から技術経営まで、善くも悪しくも1つも根本的に解決できたものがありません。
 15年前の難病は、現在でも難病であり続けるし、15年前のグローバル環境問題は、米国ドナルド・トランプ政権になって対応が悪化した面もあると思います。
 でも、要素研究・要素技術については、驚くほど物事が進みました。ただ、それらが莫大すぎて、互いにつながっていません。
 もっと言えば、人間がぱっと見て理解できない数の列やメータの振れ、不規則に見えるパターンなど「ベクトル量」で表現されたデータが大半を占めるので、専門家以外はそれを読み取ることができない。すくなくとも難しかった。例えばCTやMRIの画像診断での読映のように・・・。
 2012年以降のAIは、そうしたベクトル量で得られる情報を、自己学習によるオート・クラスタ化で有用な知識情報化し(ミメシス化と言います)、私たちが活用できるシステムにインテグレートする「ベクトル知識情報化」が1つの鍵になる。そのように私たちのチームは考えています。
 昨日(7月11日)は前期最後の講義でしたので、こういう話を学生たちにして、半期の講義を中締めしました。教授業というのは、若い人を励まして、一緒に希望をもって進んでこそナンボのものだと私は思う、そういう気持ちで毎回登壇しています。
 「今、18、19歳の諸君が32、33歳になっているだろう2030年になっても、これらが完全に実現されてはいないだろう。でも原理的に可能な未踏の研究開発の方向性は、少なくともこうした範囲内にもたくさん存在している。希望を持って、夢をもって日々努力して、。価値ある成果を出してほしいと思う、エールを送ります」
 同じことを学生以外の若い世代、あるいは気持ちだけは若いつもりの私たち自身も含めて(?)お送りして、以下は次回にと思います。
筆者:伊東 乾

興味深く読みました:

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観

ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、ゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、

関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が 原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。

経過などは 次を参照:

再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案

これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば

F = G mM/r^2。

rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係を捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、正と負、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:

[PDF]
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。

における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。

文献:

M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.

S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAM

以 上
 
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/

再生核研究所声明3702017.5.30) 細胞のような存在、個人 ― 生態系、環境
人間の存在について、個人の存在について、ふと思うことがある。人生とは結局 如何なるものであろうか。雄大な人間社会において、個人の存在はあまりにも小さく、それはまるで生体における細胞のような存在に感じられる。個人は知識、視野、思考の幅や深さにおいても貧しく 大きな社会で、ほんの一部しか見えず、感じられない。そこで、個人の世界、世界観は 周辺の環境に大きく左右され、雑草の中の一つの植物のようである。 思えば、生まれて生きてきた、心持ちなど みな周りの人々や得た情報、環境によって形成され、それは雑草のなかの一つの植物のようである。大事な就職、結婚など みなその折り折りに環境によって 相当に定められてきたのではないだろうか。― ふと思う、本質的には、個性はあっても 相当に人間は共通に作られていて、多くの違いは 生い立ちや環境で相当に定められてきたと言えるのではないだろうか。― このことは 人間は誰でも同じようで、環境、生い立ちでそうなっていると思えば、相手の立場に思いを致し、全面的否定や絶対的な正義をかざすことを躊躇させるだろう。最近の世相は、全面的な否定と独善的な姿勢が目立ち、是か非、白黒の判断が多いのではないだろうか。
人間の社会は 実際は、そうは単純ではなく、微妙なバランスの上に成り立っていることに気を付けたい。
典型的な実例は 開発と自然環境の保護である。山地を開拓して美しい街を作ろうとすれば、永く続いてきた自然環境を破壊することになる。豊かな食生活を営もうと魚をとりすぎれば、魚の保護が難しく、勝手に振る舞えば、やがて魚は絶滅しかねない。 このような例はいたるところに有って、我々の存在の基本的な在ようの問題に繋がるだろう。
― 原罪とは何か。
我々個人の存在は 大河の中の一滴のようであるから、大きな流れには逆らえず、 多くは運命づけられていることを認め、受け入れざるを得ない。そこで、謙虚さを持って周辺に気遣い、できるだけ、大きな視野に立って、内なる世界と外なる世界の中で 調和のとれた存在でありたいと考える。
放し飼いになっている猫や犬をみる。人間の生き様も猫や犬と本質的には同じではないかと感じられる。いや雑草たちとも人間の在りようは本質的に同じようで、草木たち、動物たちの存在の方が逆に完全であるように見える。結局、人生、動物や植物たちと同じようであった となるだろう。
犬がよく通りをぼんやりと眺めている。人間も本質的には、そのような存在ではないだろうか。この世に生をうけて、結局は、ぼんやりと過ぎ去っていくだろう。

以 上

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