2017年2月3日金曜日

狙われたPPAP、「商標ビジネス」は許されるのか? - 河本秀介

狙われたPPAP、「商標ビジネス」は許されるのか? - 河本秀介
 
 昨年、ピコ太郎さんの楽曲、「ペンパイナッポーアッポーペン」略して「PPAP」が動画配信サイトをきっかけに大きくブレイクしました。キャッチーなサウンドやインパクトのある衣装、馬鹿馬鹿しくもなぜかひきつけられる不思議な魅力があり、ついつい真似して歌った人も多いのではないでしょうか。もちろん、私もその一人です。
 さて先日、「PPAP」や、「ペンパイナッポーアッポーペン」などの文字を、ピコ太郎さんや契約会社のエイベックス社とは全く無関係な会社が商標出願しているということが分かり、話題となりました。
 この会社は、マスコミの取材に対して、「エイベックス社に対して、ライセンス許諾を受けた上で事業展開するよう警告書を発している」と発言しているようです。
 ピコ太郎さんやエイベックス社は、今後「PPAP」を歌えなくなったり、CDやグッズを販売できなくなったりしてしまうのでしょうか。

「ブランドを守る」ための商標制度

 最初に、商標制度について、簡単に説明します。
「商標」とは「商品やサービスを示すものとして使われる文字や図形など」のことです。商品・サービスあるいは会社やお店の名前やロゴマークといったものが「商標」に含まれます。
 ある種類の商品やサービスについて、ある商標を使っている人は、その商標を自分の権利として特許庁に登録することによって、指定された種類の商品やサービスに関しては「自分だけが使うことができる」(専有する)権利が生まれます。
 例えばあるメーカーが、果物のキャラクターをつかった文房具に、「パイナポーペン」という商品名をつけて販売して大ヒットしたとします(ピコ太郎さんが「PPAP」をヒットさせなかった世界の話と考えてください)。
 その場合、メーカーが「文房具類」を示す商標として「パイナポーペン」という文字を登録した場合、ライバル社が「文房具類」に関して「パイナポーペン」やそれに似た言葉を使うことはできなくなります。
 また、ライバル社が「パイナポーペン」と似たような言葉を使った商品を販売した場合、商標権を持ったメーカーは、ライバル社に対して「類似した商標を文房具の名前に使ってはならない」(商標の使用差し止め)と求めることができます。
 では、なぜこのような制度が存在するのでしょうか。
 ある企業が自社製品にある商品名やロゴなどを自社の商標として使っている場合に、ライバル企業がそっくりの商品名やロゴを使って同じようなビジネスを始めたとすると、自社と他社の製品が区別できなくなってしまいます。
 そのような混同が生じることで自社製品の信用が損なわれたり、あるいは消費者が混乱したりすることは、産業全体にとっても好ましくありません。そこで商標法は、自分の商品やサービスの名前やロゴなどを「商標」として登録した場合に、「他人に使わせない」という権利を与えて保護することにしたものです。
 ざっくりと言ってしまえば「ブランドを守る」ことで「産業全体の発展を促す」ことが商標制度の目的だといえます。

商標登録が認められる条件は?

 さて、例の会社は特許庁に対して、「PPAP」「PEN・PINEAPPLE・APPLE・PEN」「ペンパイナッポーアッポーペン」などの単語を、幅広い商品やサービスを示す商標として出願しているようです。ただし、現時点ではまだ出願の段階で商標登録はされていません。
 一方で、現時点で例の会社は、特に「PPAP」などの単語を使った商品やサービスを展開しているわけではなく、はっきりとした予定もなさそうです。
 さらに、商標を出願したのは「PPAP」の動画が発表された後のことのようです。このように一見して無関係な会社が、他人のヒット曲のタイトルやフレーズについて商標出願した場合、それが認められて商標として登録されるということは考えられるのでしょうか。
 実は、商標出願がされた場合であっても、商標法に定める一定の要件を満たさない場合には商標として登録されません。
 一例として、普通名称やありふれた名称を普通に使われる方法で使うような場合、それらを商標として出願したとしても、商標登録を受けることはできないとされています。「果物」の商標として「アップル」や「パイナップル」という単語を出願したとしても、それらは普通名称を普通に使っているに過ぎないので、商標登録を受けることはできないでしょう。
 もっとも、今回の場合、「ペンパイナッポーアッポーペン」や「PPAP」は少なくとも普通名称やありふれた名前だとは言えなさそうです。
 しかし、その場合であっても他人のブランドを横取りするような形での商標登録は認められていません。なぜなら商標法の目的は「ブランドを守る」というところにあるからです。
 まず、商標登録は「自己の業務に係る商品又は役務について使用をする」場合に認められますので、全く自社で提供していない、あるいはその予定もない商品やサービスに関する出願は却下される可能性があります。
 また、出願した商標を何らかの商品やサービスに使っている場合であったとしても、他人が自分の商品やサービスを示すものとして国内外で既に使っている(あるいは類似する)商標を、不正な目的で使うために出願するような場合には、やはり商標登録の要件を満たさず、登録されません。

「PPAP」は横取りされるのか?

 例の会社を見ますと、少なくとも現時点で「PPAP」などを使った商品やサービスを展開している様子はありません。よって「自己の業務に係る商品又は役務について使用をするものではない」と判断され、出願が却下される可能性はありそうです。
 また仮に、後から何らかの商品やサービスについて「PPAP」などを使い始めたとしても、同社が出願した時点で、ピコ太郎さんの動画が既に流行していたのであれば「PPAP」などの単語は「ピコ太郎さんやエイベックス社の商標として広く認識されていた」といえそうです。
 例の会社はエイベックス社などに対して、商標登録を受ける前に「ライセンス許諾を受けるように」などと警告書を発したとされていますが、もし、「商標を買取らせよう」「ライセンス料を取ろう」などの目的だけのために商標出願しているのだとすると、それは商標法の「ブランドを守る」という趣旨・目的にそぐわないものです。他人のブランドを利用して利益を得ようとするためだけに商標出願しているのであれば、「不正の目的あり」といえそうです。
 不正な目的の出願だとされた場合も商標出願が却下され、登録されないということになります。

万が一、商標登録されたとしても

 万が一、例の会社による出願が認められ「PPAP」などが商標として登録された場合はどうでしょうか。
 まず、ピコ太郎さん側は先に述べた登録要件を満たさないとして「商標登録は無効だ」と主張することが考えられます。
 さらに、無効を主張しないとしても、ピコ太郎さん側が、第三者が登録した商標について出願前から同一または類似の商標を使っており、かつ、出願時点で商標がピコ太郎さんのものとして世の中に広く知れ渡っていたといえるような場合、ピコ太郎さん側には引き続きその商標を使用し続ける権利(先使用権)があるとされています。
 もし、第三者による出願時点でピコ太郎さんの動画が爆発的に再生されて既に大流行していたのであれば、「出願時点で広く知れ渡っていた」として、先使用権が認められる可能性があります。
 以上、あくまで報道されている範囲からの分析ではありますが、例の会社の商標出願が認められる可能性は低いと思われます。
 また、仮に商標登録がされたとしても、登録が無効だと主張したり、先使用権を主張することにより、「PPAP」を使い続けることができる可能性もあります。
 結論としては、今後、ピコ太郎さんが「PPAP」を自由に歌えなくなるということにはならないのではないか、と推測しています。

「商標ビジネス」は許されるべきでない

 実は、例の会社は、今回の他にも、自社が提供する商品やサービスとは無関係と思われる商標出願を大量に行っており、以前から問題視されていました。
 残念ながら、商標出願そのものを止めることは難しく、一旦出願されてしまった以上、特許庁としても登録の可否を審査しなければなりません。たとえ一見するとおかしな出願であっても、制度上は「出願があった」ということを公表する必要があります。
 特許庁としても、一部の出願者が自己に無関係と思われる商標を大量に出願している状況には困惑しており、ウェブサイトを通じて、仮に自社の商標について無関係な業者からの出願があったとしても、「商標登録を断念する等の対応をされることのないようご注意ください」と呼びかけています。
 商標制度は、本来は「自己のブランドを守る」ことで「産業を発展させる」ためにあります。
 本来、その商標を使ったビジネスをしていない(またその予定もない)者が、商標登録したうえで、本来その商標を使ったビジネスをしている会社などから利益を引き出そうとする行為は、商標制度の趣旨・目的から外れたものといえます。
 そのような「商標ビジネス」は、産業全体に混乱をもたらすものでしかなく、許されるべきではないでしょう。http://blogos.com/article/208526/

再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
                                            
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア

お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 722011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 2012.2.10):  政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。

以 上


再生核研究所声明 126 (2013.8.25): お金の問題 ― 貨幣について ― 如何に使うか、支出について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏めたので、多くの人の関心を抱く、収入 のまえに 支出 について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に使うかである。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、使うは道理であり、お金を好きなように使うということがまず、第一の原則である。しかしながら、世には、お金が入って仕方がない、大金持ちになって惨めな人生を送った人は 実に多いことが直ぐに分るだろう。実際、好きなように生きるは、生きるということはどのようなことか と同じように、実はそう簡単でないとも言える。
純粋な数学の研究者たちは、若いころは お金に関心を持たず、自由な時間こそ、尊いと評価している人が多いのではないだろうか。家族をもって、家族のためや、子供の為にお金が必要だと気づくのが多いのではないだろうか。再生核研究所声明36を参照。
自分達の生活と将来の為に特にお金を大事にしたいは、まず、第1歩である。それは社会に迷惑をかけないで 自立して生きることであるから、尊いとも言える。後は、多様性の原理で余裕のあるお金を如何に使うかであるが、それは、個々の価値観に依るのは当然である。そこで、支出で 悩ましい事例を挙げて、世の問題として、提起して置きたい
1)  多くの国に行くと、物乞いに会うが、どうしたら良いか - 困っている人は助けたい心情が湧くが、きりがない状況が起きる。また、そこで、与えれば、逆に頼り、何時まで経っても 物乞いを無くすることが、できないだろう。
2)  これは世に多く有る、募金や献金もそのような面を有して、場合、場合によって悩まされる。募金など、あちこちにあってきりがない状況であり、何時も割り切れない気持ちを残すだろう。
3)  政治献金などは より大きな世界であるが、自己の生活と効果を考えると同じような問題を感じるのでは。さらに特定組織の応援となると、どうしても不満を有して、全面的な支持は 殆どできないのではないだろうか。
4)  いわゆる援助では、多くの場合、その時、援助に成っても それが自立を妨げ、永く尾を引く問題を抱えているのではないだろうか。
5)  お坊さんの托鉢については、中々理解しにくいところがある。インドでは鐘を鳴らして、家々を回っている習慣が有るが、大抵何らの施しを与えているようである。イタリアでは若い女性が正座して、物乞いしていて、奇妙に見えた。パリでは読書しながら、他方で 献金を求めている様を見て、流石、文化都市のよう感じられた、修行僧への施しの1種と解釈すべきか? ところで、なぜ修行僧への施しをするのだろう。
6)  上記に対して、大道芸人、ライブ、演奏、教室などなど 一定のサービスを受けた場合には、そのような立場の人の生活を考えて、多めの献金が 良いのではないだろうか? もちろん、良い社会のための営みと判断される場合は 多めであるのは道理ではないだろうか。しかし、信号の合間を見て、窓ふきや芸当して物乞いをしているのは 有難迷惑に当たり、そのような押し付けは世に多い。
7)  いわゆるチップであるが 日本人にはなれない習慣で戸惑うが、土地の習慣が大事では。場違いに出すと嫌な気分を擁かれる場合もあるが 大抵は多めだと喜ばれるのは当然である。有難迷惑も多い。

言えることは、自我をしっかりさせて、再生核研究所声明1の公正の原則に即して、心が弾むように お金を楽しく 自由に使えば良いと言うことである。大金を得て、塔からばら撒いた人がいたが、それはこの声明1に背馳している反社会的な行為として批判されるのは当然である。一般には 余裕のある人は楽しく使って、社会に活かすように心すべきと考える。大事なもの 独り占めにしないで、分かち合い、共に楽しむような気持ちが大事と考える。金は天下の回り物 という諺は 良い心がけではないだろうか。

以 上

再生核研究所声明 127 (2013.8.26): お金の問題 ― 貨幣について ― 収入について

(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)

上記で 声明125で 本質論を纏め、声明126で 支出を纏めたので、多くの人が関心を抱く、収入について考察して置こう。地獄の沙汰も金次第 という大事なお金 を如何に得るかという観点である。
あらゆる生物は 自分が好きなように生きたいは、道理であり、まず、自分の好きなように 声明1 公正の原則に背馳しない限り、大事なお金を得たいが道理であり、お金を好きなように得るということがまず、第一の原則である。このような意味で、好きな職業に、あるいは好きな仕事に就いて、ひとりでにお金が入ってくる者は 幸いであると言える。理想国家では どんどんそのような人が増えるのではないだろうか。それが、国の、社会の目標であるとも言える。
特に資本主義社会では 人間の自由な活動が大幅に許されているので お金を得る方法は分類さえできないほど多様であるということである。特にインターネット、情報産業の発展によりその多様性は格段に増加して、どんどん新しいビジネスの方法が開拓されているのが現実である。サービス業や創造活動によるビジネスもきりがないほどである。
されば、収入における問題点とは何だろうか? これは始めから大問題である。収入のある人は問題ないとも言えるので、収入のない者の立場にまず、思いを致そう。
日本国憲法は
日本国憲法 第25条は、日本国憲法第3章にあり、社会権のひとつである生存権と、国の社会的使命について規定している。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

と謳い、実際に最低生活を保証し、実際に施行しているから、実に素晴らしい社会の実現であると高く評価される。 この最低生活の保障について、実際に働いて給与を得ている者より、逆に、働かず、最低生活の保障の額の方が高い収入という、一見奇妙な逆転現象さえ起きて、社会問題になっている。
しかし、ここで、生存権として、人は基本的に同じように生きる権利が有り、同じように収入を得て生きられるようにするは、収入にあたっての一つの原則であると考える。 かつて、(教授、助教授、講師、助手の) 職種に関係なく 年齢給で支給していた大学が有ったが、それは流石に行き過ぎだろう。 しかし、身分によって あまりの差を付けることは この原則に抵触すると考える。 
最低生活の保障は 主に先進国における大量の失業者の増大と共に世界的な問題になっている。 収入のない失業者の問題である。 失業問題自身の対応については、 再生核研究所声明 42: 大失業時代 を参照。
次に注目すべきは 価値あるものを得たり、創造したり、作ったりしてもそれらだけからは、お金には変えられないという事実である。お金は作るわけにはいかず、それらの価値あるものを認めて頂いて、それで、お金に変える必要が有り、この時点が重要な観点ではないだろうか。この換金手順に、本質的な問題があり、そこに大きなビジネスの世界も展開していると言えよう。営業部門が製造部門以上に重要な役割を果たすことは 世に多い。
その点、投資、ギャンブル、為替の売買などは 直接的で、簡明な手順だが 元金の有無が問題であり、危険性も伴うだろう。
安定収入を得るには いわゆる固い職業に就くことであるが、冒険的に生きたい者は、ビジネスの開拓、ベンチャービジネスを志し、いわば持てる能力を思う存分に複雑な社会で活かしたいと考えるだろう。実際、成功して、大きな夢を実現している者は世に多い。活力ある社会を創造し、豊かな社会を築くために歓迎されているが、大きな視点からは、地球環境問題に抵触したり、社会性に反する形相を持つ面が強くなる可能性が高くなるので、大いに気を付けたい。
一応は以上で良いとしても 大きな問題が、抜けていることに気づくだろう。それは権力とお金を同時に得る方法である。古来から、公職に就くための人材登用の試験は 科挙制度のように現在も続いている公務員や高官への道である。国家の指導者たちであるから、一定の高級と権力を得るのは当然である。公正な裁判を可能にするために 判事などには、特別に相当な給与が 法律で保障されている。これらに類似する者として政治家が存在するが、これらは民主的な手順で、選挙で選出される訳であるから、それらの適否は 選出する国民の責任であり、原則的には、理想的な在りようであると評価される。

以 上

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