2017年2月24日金曜日

Love Forever:草間彌生の素顔

Love Forever:草間彌生の素顔

前衛芸術家、草間彌生の過去最大級の個展「草間彌生 わが永遠の魂」が2月22日から東京・六本木の国立新美術館で開催される。80歳を越えても第2の黄金期を迎えた活躍を見せる彼女の初期の絵画から、水玉や網目模様で知られる現在に至るまでの創作活動の全体像を発表する。
©YAYOI KUSAMA
草間 彌生KUSAMA Yayoi 
前衛芸術家、小説家。1929年長野県松本市生まれ。幼少より水玉と網目を用いた幻想的な絵画を制作。1957年単身渡米、前衛芸術家としての地位を築く。1973年活動拠点を東京に移す。1993年ヴェネチア・ビエンナーレで日本代表として日本館初の個展。1998~99年にかけて回顧展がニューヨーク近代美術館等を巡回。2009年「わが永遠の魂」シリーズ制作開始。2011年テート・モダン、ポンピドゥ・センターなどを回顧展が巡回。2016年文化勲章受章。

◆苦難の道を歩んだ天才

昨年、草間彌生は日本のアーティストに与えられる最高の栄誉である文化勲章を受章した。草間は長野県松本市の名門の家に生まれ、若くして画家としての才能を認められ、ニューヨーク時代にはネット・ペインティングのシリーズなどで脚光を浴び、90年代以降はヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展、ニューヨーク近代美術館、ロンドンのテート・モダンから今春の国立新美術館(東京・六本木)に至るまで、世界各地の主要な国際展や美術館で相次いで回顧展が開催されてきた。外形的に見ればまさに順風満帆の天才アーティストと思われてしまうかもしれないが、実際には彼女の人生は順境であるどころか、幼い頃から精神的な病理に苦しめられ、また周囲の無理解や偏見とも戦わなければならないという、壮絶なるいばらの道を歩むことを強いられてきたのである。しかしその苦難に満ちた道のりこそが、愛による世界の救済を願う彼女のアーティストとしての大いなる思想をもたらし、誰の心にも深い感銘を与えることになったとも言い得るのではなかろうか。
私が彼女に最初に出会った(というか見た)のは、米国からの帰国後の1976年、銀座の小さな画廊で開かれた小品のコラージュ展であった。小柄な彼女は片隅の椅子にちょこんと座っていたような記憶があるが、こちらは無名の若者であるし、またパプニングなどを繰り広げたニューヨークのスキャンダルの女王という噂を耳にしてもいたので、話し掛ける勇気もないままに画廊を出てしまった。しかし作品から受けた衝撃はあまりにも大きかったと言わなければならない。画面がたたえるポエジーの深さ、戦慄(せんりつ)的といってもよい官能性に、妙な先入見は一挙に吹き飛んでしまったのである。
その後、ほどなくして私は美術館に勤めることになったが、キュレーターとして常に念頭にあったのは、この法外な天才を国際的に再評価させなければならない、それもいわゆるアウトサイダーとしてではなくPost-war Artの展開における中軸的な存在として位置付けなければならないという、傍目には滑稽(こっけい)なくらいの使命感であった。彼女のユニークな資質を評価する人は当時にあっても少なくはなかったが、それはもっぱらinterestingな(興味深い)異端としての才能に向けられていたからだ。
幸いにしていま、草間はgreat (偉大)でありsublime(卓越した)でもあるアーティストとして広く認められるようになっている。それは80歳を越えてからの制作が衰えを知らないどころか、第2の黄金期ともいうべき展開を見せているからだが、それと同時に彼女が久しく掲げて続けてきたLove foreverというメッセージが、不寛容なイデオロギーが蔓延する時代にあってより真摯な意味を帯びて伝わってくるからでもあろう。

◆みんなのアバンギャルド

しかし先に述べたようにこの豊かなる愛のメッセージは、彼女が幼き日から抱えざるを得なかった特異なオブセッション(強迫観念)と深く関わっている。彼女はしばしば花柄の模様が空間を埋め尽くし、自らもその中に消滅させられてしまうというような幻覚に襲われたのだが、すでに小学校の頃のドローイングにも登場してくるネット/ドットのパターンは、その恐怖のイメージを描くことによって逆に心的な負荷を解消しようとする、本能的な芸術療法であったのかもしれない。ニューヨーク時代の絵画の無数の網目が連なる“単純にして複雑な”大画面は、見方次第では幼少期以来の空間恐怖的なオブセッションの産物でもあったのだ。しかしそのオール・オヴァー(※1)な絵画空間のありようが、実のところダイナミックなストロークを際立たせたアクション・ペインングから禁欲的なミニマリズムへと向かうニューヨーク・スクール(※2)の転換点をなしたという事実は、草間が単に自らの殻に閉じこもった異端ではなく、むしろ歴史を推進させる弁証法的な力学の正当なる体現者であったことを証していよう。
ニューヨークでの草間は絵画に並行してペニス状のクッションで覆われた家具やボードなどのソフト・スカルプチャーをも制作していた。日常生活の中のオブジェがそのまま流用されている点ではポップアートの嚆矢(こうし)とも見なし得るシリーズだが、不穏な性的イメージで埋め尽くされていることは、やはり彼女ならではの心的オブセッションを強く印象づけずにはおかない。
草間の制作は確かに心理的な抑圧からの解放を願う行為ではあるが、彼女の真の偉大さは、その願いが自己と世界との同時的な救済の祈りへと昇華し得ているところにあるに違いない。ニューヨークでの反戦ハプニングを見ても分かるように、草間はいかに孤立しているように見えようとも、社会とは断絶したアウトサイダーではなく、愛のメッセージを掲げ続けてきた“みんなのアヴァンギャルド”なのである。

◆ミューズ降誕:神秘の制作プロセス

さて今年3月で88歳になる草間彌生は、尋常ではない集中力をもっていまだかつてないほどの旺盛な制作活動に取り組んでいる。近作の絵画の特色としては、従来のようなオール・オヴァーではない画面構成が見られるようになったこと、具象的なイメージが登場してきたこと、また「わが永遠の魂」と題されたシリーズの大胆な色彩感覚は、ネット・ペインティングのモノクロームの世界とは対極的なものであって、むしろコロリスト(※3)としての卓越した資質をうかがわせていることなどが挙げられよう。さらにいえば自画像とおぼしき顔や帽子やメガネ、カップ、ハンドバッグといったアンチーム(※4)なイメージが頻出し、新たなポップ的感覚が生じていること、筆遣いにおいてドローイング的な方法とタブローの方法とが一体化していることなども注目されてよい。
アトリエでの草間を見ていて、驚かされることがある。彼女の制作には試行錯誤が一切見られないのである。彼女は習作や下絵を必要とせず、逡巡することなく一挙に直接に作品を完成させる。一見恣意的に見えなくもない手の動きが、そのまま宇宙の摂理ともいうべき必然性に結び付いていくという神秘的なプロセスがそこにあるといってもよい。
あるテレビのインタビューで、新たなキャンバスに向かう彼女が「これから何を描かれるのですか」と尋ねられ、「私の手に聞いてください」と答えていたのを聞いたことがある。一見、シュールレアスム的なオートマチスム(※5)を思わせもなくない言葉だが、しかし彼女は何ら表現を偶然性に委ねようとしているわけではない。たしかに事前の構想は一切ないままに制作に取りかかるのだが、絵筆がキャンバスに触れた瞬間に草間にはビジョンが明確に見えており、筆の運びが滞ることはない。次々と意表を突くような新たなイメージが繰り出されていく光景は、そう、誰の目にも“ミューズが降りてくる”という言葉を思い起こさせずにはおくまい。

◆愛らしく不穏な草間の世界

草間の近作にはどこかユーモラスでもある童画のような無垢な世界と霊的な異界とが交互に立ち現れてくる。そうした両義性は彫刻作品にもいえることで、たとえば巨大な花々のシリーズではシャングリラの園のようなファンタジーと肉厚の食虫花を思わせるディアボリック(※6)な感触とが共存している。草間自身、悪魔は私の敵であり、戦友でもあると述べているが、この天才の創造の深淵には容易には解明できない謎が、まだまだ潜んでいるに違いない。愛らしくもまた不穏な草間の世界に私たちはこれからも魅せられ続けることになるだろう。
(※1)オール・オヴァー:絵画空間の中に一定の中心を持たせないで、全体性や単一性、均質性を保ちながら、絵画からイリュージョンを廃して、平面性を重視する構造の作品
(※2)ニューヨーク・スクール:1950年代および1960年代のニューヨーク市で活動していた詩人、画家、ダンサー、およびミュージシャンの非公式のグループ
(※3)コロリスト:絵画を構成する要素のうちで、線、素描、形態、奥行き、遠近法などよりも、色彩を重視して絵画制作を行なう画家のこと
(※4)アンチーム:フランス語(intie)くつろいでいるさま。親しいさま。
(※5)オートマチスム:「自動筆記」「自動記述」
(※6)ディアボリック:仏語(diabolique)”悪魔のような
<展覧会情報>
「草間彌生 わが永遠の魂」展 2017年2月22日(水)~5月22日(月)
公式サイト:http://kusama2017.jp/
■会場
国立新美術館 企画展示室1E【東京・六本木】
〒106-8558 東京都港区六本木7-22-2

nippon.com
建畠 晢 TATEHATA Akira
京都府生まれ。早稲田大学文学部仏文学科卒業。詩人、美術評論家。専門は現代美術。「芸術新潮」編集者、国立国際美術館主任研究官を経て、2015年より多摩美術大学学長。2011年より京都市立芸術大学学長、埼玉県立近代美術館館長。コロンビア大学客員研究員(2000-2003年)、東京藝術大学客員教授(2008-2010年)。1993年、ヴェネチア・ビエンナーレ日本館コミッショナーとして草間彌生展を開催。2013年に詩集『死語のレッスン』で第21回萩原朔太郎賞を受賞。

写真:制作風景 ©YAYOI KUSAMA


とても興味深く読みました:

再生核研究所声明80(2012.03.20)  挑戦 とは 何か

(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。 
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。 
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。

以 上

再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日

2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf


再生核研究所声明3572017.2.17Brahmagupta の名誉回復と賞賛を求める。

再生核研究所声明 339で 次のように述べている:

世界史と人類の精神の基礎に想いを致したい。ピタゴラスは 万物は数で出来ている、表されるとして、数学の重要性を述べているが、数学は科学の基礎的な言語である。ユークリッド幾何学の大きな意味にも触れている(再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学)。しかしながら、数体系がなければ、空間も幾何学も厳密には 表現することもできないであろう。この数体系の基礎はブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)インド数学者天文学者によって、628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)の中で与えられ、ゼロの導入と共に四則演算が確立されていた。ゼロの導入、負の数の導入は数学の基礎中の基礎で、西欧世界がゼロの導入を永い間嫌っていた状況を見れば、これらは世界史上でも顕著な事実であると考えられる。最近ゼロ除算は、拡張された割り算、分数の意味で可能で、ゼロで割ればゼロであることが、その大きな影響とともに明らかにされてきた。しかしながら、 ブラーマグプタは その中で 0 ÷ 0 = 0 と定義していたが、奇妙にも1300年を越えて、現在に至っても 永く間違いであるとされている。現在でも0 ÷ 0について、幾つかの説が存在していて、現代数学でもそれは、定説として 不定であるとしている。最近の研究の成果で、ブラーマグプタの考えは 実は正しかった ということになる。 しかしながら、一般の ゼロ除算については触れられておらず、永い間の懸案の問題として、世界を賑わしてきた。現在でも議論されている。ゼロ除算の永い歴史と問題は、次のアインシュタインの言葉に象徴される:

Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics. George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist re-
marked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as the biggest blunder of his life [1] 1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

物理学や計算機科学で ゼロ除算は大事な課題であるにも関わらず、創始者の考えを無視し、割り算は 掛け算の逆との 貧しい発想で 間違いを1300年以上も、繰り返してきたのは 実に残念で、不名誉なことである。創始者は ゼロの深い意味、ゼロが 単純な算数・数学における意味を越えて、ゼロが基準を表す、不可能性を表現する、神が最も簡単なものを選択する、神の最小エネルギーの原理、すなわち、神もできれば横着したいなどの世界観を感じていて、0/0=0 を自明なもの と捉えていたものと考えられる。実際、巷で、ゼロ除算の結果や、適用例を語ると 結構な 素人の人々が 率直に理解されることが多い。
1300年間も 創始者の結果が間違いであるとする 世界史は修正されるべきである、間違いであるとの不名誉を回復、数学の基礎の基礎である算術の確立者として、世界史上でも高く評価されるべきである。 真智の愛、良心から、厚い想いが湧いてくる。

                               以 上

追記

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.scirp.org/journal/alamt
   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

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