2017年2月27日月曜日

人工知能と人間の決定的な違いは何か?

人工知能と人間の決定的な違いは何か?

◾️人工知能は人間を超えるとの信念

脳の解明が進み、人工知能の能力が拡大していけば、人間を超える存在となる、というシナリオがある(かなり広範に流布している)。日本ではそのまま賛同する人は少数派だと思うが(そう私が思っているだけなのかもしれないが)、欧米での議論を時々見ていると、時期は別として、そのようになることを信じきっている人が意外なほど多いことに驚く。それは何も、人工知能の明るい未来を語り、シンギュラリティを好意的に唱導する人ばかりではなく、逆に、人工知能により人類が滅びる恐れがあると語る人たち(ホーキング、ビル・ゲイツ、イーロン・マスク等)の暗黙の前提にこそ、ゆくゆくは人間を超える存在になるという信念があるように思える。

◾️人間と動物/人工知能の違いは?

この問題は、議論の前提を合わせるのが結構厄介で、そもそも『人間を超える』という概念自体が曖昧だ。現代のコンピュータはもちろん、簡単な計算機でさえ、すでにとっくに人間(人間の能力)を超えている。だが、もちろんここでは、計算能力とか記憶力といったような要素が議論の対象となっているわけではないことは明らかだ。
では、人間が人間であって、それを少なくとも今のレベルの人工知能や機械、あるいは動物を隔てているものは何なのか。ロボットや動物は身体的な能力という点では、人間の能力を上回るものはいくらでもある。だから、身体能力も該当しない。記憶力も、論理計算能力も、身体能力も違う。感情も動物にもある。となると常識として普通に考え付くのは、理性、そしてそれを可能ならしめている言語、ということになろう。この辺りは、古代ギリシアの哲学者、アリストテレスまでさかのぼれる人間の常識でもある。アリストテレスは、『人間の理性・魂は他の動物とは全然違ったものであり、その別物のあらわれは言語である』と考えた。そして、これは動物を人工知能と置き換えても該当する違いでもある。

◾️人間と動物/人工知能は繋がっている?

だが、ここで当然のように考えられる反論がある。進化論で有名なダーウィンは『種の起源』『人間の由来』で、種は下等動物から高等動物が連続的につながっていて、猿は人間につながって(連なって)いるから、人間の言語と動物の発する叫び声には、本質的な相違があるのではなく、『程度の差』だと主張した。したがって、ダーウィンの説によれば、時間がどれほどかかるかは別として、猿は時間が経つと人間の言語や理性を獲得するということになる。
これは、人工知能に関して、現代の、特に欧米に多い言説と非常によく似ている。『人工知能と人間の差は本質的な相違ではなく、程度の差であり、時間がかかれば人間に追いついて、言語であれ理性であれ獲得する』という信念がそれである。こうしてみると、ダーウィンの進化論の思想がこれらの言説の背景にあると考えられる。ダーウィンの結論が先にあるから、この問題をこれ以上自分自身で徹底的に考え抜くという姿勢があまり見られない。だが、本当にそれでいいのだろうか。
(ダーウィンは若い頃には、当時世界で一番未開の地の人間と言われ、人間より類人猿に近いと考えていた、少なくともイギリス人との間に何千年か何万年かの差があると考えていたフェゴ人が、ロンドンに連れてこられるとわずか数年で英語を喋り、刺繍を器用にこなす等、文化的に数万年の差であるものが、なぜわずか数年で追いつくことができるのか、非常に不思議な感じを抱いていたという。この『感じ』は『進化論』には反映されなかったようだ。)

◾️人間の本質的な違い

この欧米の言説に対する違和感は、私自身以前から抱いていたものだが、これをうまく言語化して、記事にすることができずにいた。だが、書庫をひっくり返していて、以前買い置きして読まずにいた本を再発見して、ここのところを非常にうまく説明しているように思える文章が載る著作に遭遇した。『知性としての精神―プラトンの現代的意義を探る』*1という著作である。これは6人の論者による編著だが、中でも、全体のまとめ役としての、上智大学名誉教授の渡部昇一氏の小論にはとても考えさせられる。
渡部氏は、人間の言語の特徴を考えると、それは動物のものとは質的に違うことは明らかとして、人間の言語の特徴として、大きく次の3つを上げている。
1. 人間の言語には文節がある
2. 人間の言語は意味と音の結びつき方が恣意的である
3. 人間の言語は、ボキャブラリーを無限に増やせる
そして、この3つの特徴を備えたものこそ人間の言語であり、動物との差は『程度の差』ではなく『本質の差』だという。
もう少し具体的に本書の渡部氏の言説に沿って、ご説明してみよう。
1. 人間の言語には文節がある
人間の言葉には文節がある、ということは必ず子音と母音に分けることができるが(そしてそれは言葉を無限に数を増やせる前提となっている)、動物はこれができない(オウムのような真似はあるが人間の言語とは違う)。動物の声は言語ではなくて信号であり、文節した音でもなければ言語でもない。
2. 人間の言葉は意味と音の結びつき方が恣意的である
人間の言葉は意味と言葉の結びつき方が恣意的で、ある音にある意味をつけなければならないという決まりはない。だが、動物は例えば犬が悲しいときに嬉しそうな鳴き声をしろと言ってもできない。動物の声は恣意的ではない。人間の場合、感嘆詞だけは例外で、その代わり、ローマ人などこれを『間投詞』と呼んで、『人間の言葉があるところに、間投詞だけはどうも言葉でないものが投げ込まれた感じである』ということを言っていたという。
3. 人間の言語は、ボキャブラリーを無限に増やせる
人間のボキャブラリー(語彙)は無限に増やせ、実際日本語に限っても毎年のように新語辞典が出る。世界の言語の数は説によって異なるが3000~6000語と言われており、そのそれぞれで同様に語彙が増え続けている。それに対して、犬の言葉は何千年経っても20語前後だろうし、どんどん語彙を増やした犬という例は聞いたことがない。
この3つの特徴を備えたものこそ、人間の言語であり、これは程度の差ではなく、『本質の差』というべきだ。そして、この特徴は人間の独特の理性があるからこそ成り立つものである。かつてはアリストテレスが洞察したごとく、バイブルが言うがごとく、そして、世界中の常識が言うがごとく、ある段階で人間と動物を程度でなく質的に画然と区別する『理性』というものが突如生じたとしか考えられないとする。
これを受けて、実践女子大学教授(本書執筆時点での役職)の松田義幸氏は、『言語という名の奇跡』*2を書いた、リチャード・ウィルソンを引用して、『本質的な差』について、さらに説明している。
動物にも人間と同じように感覚も本能も感情もある。不安、恐怖、疑念、勇気、臆病、復讐心、嫉妬、恥かしさ、つつましさ、軽蔑、ユーモア、驚異の念、好奇心などの感情がある。また、模倣、決意、記憶、想像、推論といった知的な能力もある。しかしこれらのさまざまな感情や能力(下位能力)に似たところがあっても、『統覚』というこれらの下位能力に一定の秩序を与え、物事を総合的に統合する知的能力、つまり理性は動物にはない。これは人間の一番の特徴である。そして、人間の言語はこの理性から生まれたものである。人間はこの理性と言語を使って、原初の宇宙にもまた百年後の未来にも自由に思いを寄せることができる。また部屋にいながらにして、マスメディアを通して、世界でいまなにが起きているかを知ることができる。
『言語という名の奇跡』より
では、その本質的な差がどのようにして生まれたかという疑問については、今回は述べることはしないし、短い説明では到底それは成し得ないが、現実に明らかに『統覚』『理性』『人間に特徴的な言語』が人間にしかないものとして存在することは疑い得ず、しかも、動物であれ人工知能であれ、漸進的な変化により到達できる種類のものではないことは認めていかざるをえないと私には思える。もしかするとこれは現時点では少数意見なのかもしれないが、だからといって解けない疑問を前に、やすやすと思考停止しているようでは、現代世界の最大級の難問に真摯に立ち向かっているとは言えないと思う。

◾️人間たる本質を喪失しつつある現代人

ちなみに、『統覚』が人間を人間たらしめている本質だとすれば、もう一つどうしても考えておくべき問題がある。昨今の情報過多の時代においては、人間の注意(アテンション)の争奪戦が起きていて、MAXでも24時間しかない人間の注意可能時間を、広告宣伝、ニュース、SNSの友人の情報等、ありとあらゆる情報が争奪しようと争っている。しかも、昨今では特に、人は不正確な情報、あるいは早すぎて咀嚼/理解が及ばない情報によって振り回されるようになってきている。何を買うか決めるのも人間が決めるというより、アマゾンのレコメンドが決めている。あるいはSNSの友人の口コミによって決めている。

しかもSNSでどの友人の情報を見るかはSNSのアルゴリズムによって決められている。その元になっているのは過去の自分の行動履歴だ。人間の顕在意識の下位にアルゴリズムが形成したある種の意識層があって、人間の統覚を麻痺させ、人間の行動の真の源泉となりつつあるようにさえ思える。これは、かなり重要な問題で、人間が人間たる本質を喪失しつつあるとさえ言えるのではないか。少なくともその事実に気づき、人間理性の本来の働きを取り戻すことが人間の非常に大きな課題となっているように思えてくる。ただし、これは今回述べようとした内容のさらにその次の課題になるので、今回はそれを指摘したところで、止めておこうと思う。
 
*1:
  • 作者: 渡部昇一,高橋巌,須賀由紀子,稲垣良典,F.A.ヤンソン,松田義幸,F.A. Janssen
  • 出版社/メーカー: PHPエディターズグループ
  • 発売日: 2000/06
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*2:
 
ゼロ除算(1÷0:0÷0)はどうでしょうか:
 
再生核研究所声明91(2012.5.20):  創造性についての一考察

そもそも創造とは 人類が知らなかったこと、できなかったこと、考えなかったことを、新たに発見し、できなかったことを可能にし、考えることで、生命作用の多くの部分が創造活動であると言える。創造性の意味については 添付の文献を参照。
例えば、数学界では、微積分の発見とか、日々発表される論文の中の定理などは 顕著な創造活動の結果であるが、芸術作品、文学作品、科学における発見、工業における発明、技術など、広範囲に及び人間の知的活動の殆どに及んでいると言えるだろう。しかしながら、最大の創造とは 出産、育児にあるとも言える。
創造とは 世界史を拡大することである と定義したい。 世界史とは 人類の得た、感じ、知り、想像するすべての情報の総体である。人間存在の原理とは、生存に心がけ、知り、求め、何でも究めようということであるから、豊かな創造性とはまさしく、良く生きることに他ならない。人間として良く生きるこということは、生命の輝きとしての 豊かな創造活動にあると言っても良い。
創造活動の蓄積である、もろもろの科学の進歩が 人間を解放して、世界を拡大し、人間存在の意義を高めていると考えられる。
この声明の趣旨は、如何にして、創造性を高めるか について、省察することである。特に、大事な創造性の観点から、日本の教育の在りようが 改善されるべきではないか という観点に思いを致すことにある。

1)創造性は情念、感情の中から生命作用として湧いてくるものであるから、感情や情操が大事ではないだろうか。この観点から、日本の教育が 知識偏重、枠に はめすぎではないだろうか。

2)学術界では 大学院学生や研究者が日々それぞれの分野で研究活動を行っている。そこには流れや、流派のようなものがあって どんどん先へと研究を進めている。 ここで、

a)確立した研究分野の細分、先と 共に 新しい研究の芽 を育てるように絶えず配慮したい、多様性自由性を尊重したい。
b)真の独創性には、 ゆとりと時間が 必要であるから、成果主義のような成果を追うような環境は、齷齪したような状況は 良くないのではないだろうか。 大学の法人化後の、成果主義、任期制の導入等で大事な若い研究者が、 じっくりと研究を行なえる環境を壊しているのではないか と危惧している。
c) 重要な発見が、 偶然性、 間違い、新奇な現象、にあることに鑑み、 そのような機会を広く展開し、そのような現象を見逃さない態度に留意したい。
d) 特に日本など、 後進国に見られる 顕著な例が、 良い研究や発見が、評価できず、折角の重要な発見を活かせない状況は、 基本的に現在でも変わらない実情がある。 良い研究とは何かが分からずに、先進国に伺いを立てているのが現実ではないだろうか。 これは哲学の軽薄さ、基礎の欠落から来ているのではないだろうか。 良いものとは何かと 絶えず問うべきである。
e) 特に、創造では 新奇な現象、新しい概念、考え方が 大事であることを強調して置きたい。 それらの基礎は、生物繁茂の原理でもある、多様性にある
f)  特に、価値の創造、すなわち、価値あるのものとは何かの、新しい考え方、 評価の創造性、すなわち、優れているとは何かの考え方の 創造性を 重視して行きたい。
3) 生命活動の発現としての 創造の基は 幼年期、若い時期における人生観の 構成に関していて、小・中・高などの教育の在りようは 大事ではないだろうか。 その大事な人間形成時に 知識偏重の教育は、良くないのではないだろうか。日本の学校教育は 創造性の観点からも 基本的な問題を抱えていると考える(再生核研究所声明 76:教育における心得 ― 教育原理)。

以 上

添付:

www.choicetheory.jp/about/about4.html
創造性とは、既に知っている整理された行動と求めているものが得られないときに、新たなアイデアを生み出すために、脳が情報を再整理している状態のことであり、どんな人にも備わっている能力です。
例えば、いつも乗っている電車がトラブルで止まっている時、私たちは「どうしたら目的地に着くだろう?」「どのルートなら間に合うだろう?」と新しい行動を考えます。こうした脳の働きが創造性です。
www.japancreativity.jp/juyou.html
創造の定義 


1.創造性研究者たちの「創造の定義」
 創造性を考える以上、「創造」とは何かを定義しておく必要がある。私は「日本創造学会」会員の方々に1983年に「創造とは何か」のアンケートを出し、83人の方々から回答を得た。ここに、現在も会員の方々の定義をピックアップすると、次のようになる。
【創造とは何か】*掲載は出典記載の順/所属は2002年度名簿より
●伊賀丈洋
「人間の思考状態には受動(感性)と能動(破壊と創造)があり、創造とは能動状態での思索または行動である」
●伊東俊太郎(麗澤大学)
「創造とは、問題を解決する、素材の新しい組み合わせ、新しい理論への変換を可能にする新たな視点の発見である」
●大鹿 譲(福井工業大学)
「人類が神の意志によって地球上で覇を称えるに至った原因たる活動で、同時に人類の滅亡の原因となる活動」
●恩田 彰(東洋大学)
「異質の情報や物を今までにはない仕方で結合することにより、新しい価値あるものをつくりだす過程である」
●岩渕幸雄(情報知識学会)
「創造とは、戦略的発想の原動力である」
●江川 朗(総合経営研究所)
「創造とは、きわめて異質の発想を実現した社会的成果。発想とは諸情報の変形、加工、組合わせによる異質の意味化」
●江崎通彦(朝日大学大学院)
「今よりすぐあとの世界(未来)に夢を実現する」
●金子達也(日立製作所)
「独創とは尽力経歴なり。わがいま尽力経歴にあらざれば、一法一物も現成することなし。経歴することなし」
●川喜田二郎(㈱川喜田研究所)
「なすに値する切実なものごとを、おのれの主体性と責任において、創意工夫を凝らして達成すること」
●國藤 進(北陸先端科学技術大学院大学)
「ある主体にとって既知のことがらを組合わせ、その主体にとって、ある観点からみて有用な未知のことがらを構築すること」
●小島英徳(智無庵コミュニケーションセンター)
「今のやり方を否定しながら、一歩づつ成果をあげる。そのためには、今のやり方に全生命をぶっつけてゆくこと」
●関 博剛((有)若草ホーム産業)
「意識と下意識を含めての全情報を、目的に志向して、機能的に統合運用し、一つの文化を生み出す全人格的所作」
●高橋 浩(現代能力開発研究所)
「質的な変革としてとらえたい。ものなら機能・構造の変革、社会ならしくみやしきたり・やり方の変革など」
●戸田忠良(戸田技術士事務所)
「従来自他の記憶にはなかったシステム、形、物、方法、機構などを新たに考案し表現すること」
●西 勝(明治学院大学)
「平凡に新しいことがら、ものが生まれること。消滅をも含め、全生物に喜ばれ、できれば定義不要にまで自然と」
●比嘉佑典(東洋大学)
「創造とは、個人の中に、事物の中にある古い結びつきを解体し、新しい結びつきにつくりかえることである」
●久田 成
「創造とは、脳梁経由の人間の大脳の左右両半球の情報交換を基幹とした新しい文化を生み出す行為のことである」
●檜山哲男
「創造とは、自己を忘ずる熱中の坩堝の中で、左脳と右脳が調和した瞬間に生まれる閃きである」
●星野 匡(㈱プランネット)
「何らかの価値を有する、新しいアイデア・思想、その表現、あるいは表現としての事物を、意図的に生み出すこと」
●村上幸雄(栄養化学研究所)
「最高の創造は自己創造=自己表現である。これが栄養で大きく影響される可能性についての科学的研究が必要」
●師岡孝次(東海大学)
「現実を理想に近づける活動をいう。対象は"もの"でもシステムでもよい」
●渡辺俊男(余暇開発センター)
「新しい神経回路を開発することによって、未来性に有益な理論をつくりだすことである」
2.私の創造の定義
 これらの方々の定義づけを参考にして、私は「創造」を次のように定義した。「創造とは、人が異質な情報群を組み合わせ統合して問題を解決し、社会あるいは個人レベルで、新しい価値を生むこと」である。この内容と創造性の研究領域を重ねると、以下のようになる。
■創造の定義
定義
領域
(創造的人間/発達)
問題
(問題定義/問題意識)
異質な情報群を組み合わせ
(情報処理/創造思考)
統合して解決
(解決手順/創造技法)
社会あるいは個人レベルで
(創造性教育/天才論)
しい価値を生むこと
(評価法/価値論)

(作成・高橋誠) 参照・「創造力事典」(日科技連出版社)
再生核研究所声明296(2016.05.06)   ゼロ除算の混乱

ゼロ除算の研究を進めているが、誠に奇妙な状況と言える。簡潔に焦点を述べておきたい。
ゼロ除算はゼロで割ることを考えることであるが、物理学的にはアリストテレス、ニュートン、アンシュタインの相当に深刻な問題として、問題にされてきた。他方、数学界では628年にインドで四則演算の算術の法則の確立、記録とともに永年問題とされてきたが、オイラー、アーベル、リーマン達による、不可能であるという考えと、極限値で考えて無限遠点とする定説が永く定着してきている。
ところが数学界の定説には満足せず、今尚熱い話題、問題として、議論されている。理由は、ゼロで割れないという例外がどうして存在するのかという、素朴な疑問とともに、積極的に、計算機がゼロ除算に出会うと混乱を起こす具体的な懸案問題を解消したいという明確な動機があること、他の動機としてはアインシュタインの相対性理論の上手い解釈を求めることである。これにはアインシュタインが直接言及しているように、ゼロ除算はブラックホールに関係していて、ブラックホールの解明を意図している面もある。偶然、アインシュタイン以後100年 実に面白い事件が起きていると言える。偶然、20年以上も考えて解明できたとの著書さえ出版された。― これは、初めから、間違いであると理由を付けて質問を送っているが、納得させる回答が無い。実名を上げず、具体的に 状況を客観的に述べたい。尚、ゼロ除算はリーマン仮説に密接に関係があるとの情報があるが 詳しいことは分からない。
1: ゼロ除算回避を目指して、新しい代数的な構造を研究しているグループ、相当な積み重ねのある理論を、体や環の構造で研究している。例えて言うと、ゼロ除算は沢山存在するという、考え方と言える。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
2:同じくゼロ除算回避を志向して 何と0/0 を想像上の数として導入し、正、負無限大とともに数として導入して、新しい数の体系と演算の法則を考え、展開している。相当なグループを作っているという。BBCでも報じられたが、数学界の評判は良くないようである。― そのような抽象的な理論は不要であると主張している。
3:最近、アインシュタインの理論の専門家達が アインシュタインの理論から、0/0=1, 1/0=無限 が出て、ゼロ除算は解決したと報告している。― しかし、これについては、論理的な間違いがあると具体的に指摘している。結果も我々の結果と違っている。
4:数学界の永い定説では、1/0 は不可能もしくは、極限の考え方で、無限遠点を対応させる. 0/0 は不定、解は何でも良いとなっている。― 数学に基本的な欠落があって、ゼロ除算を導入しなければ数学は不完全であると主張し、新しい世界観を提起している。
ここ2年間の研究で、ゼロ除算は 何時でもゼロz/0=0であるとして、 上記の全ての立場を否定して、新しい理論の建設を進めている。z/0 は 普通の分数ではなく、拡張された意味でと初期から説明しているが、今でも誤解していて、混乱している人は多い、これは真面目に論文を読まず、初めから、問題にしていない証拠であると言える。
上記、関係者たちと交流、討論しているが、中々理解されず、自分たちの建設している理論に固執しているさまがよく現れていて、数学なのに、心情の問題のように感じられる微妙で、奇妙な状況である。
我々のゼロ除算の理論的な簡潔な説明、それを裏付ける具体的な証拠に当たる結果を沢山提示しているが、中々理解されない状況である。
数学界でも永い間の定説で、初めから、問題にしない人は多い状況である。ゼロ除算は算数、ユークリッド幾何学、解析幾何学など、数学の基本に関わることなので、この問題を究明、明確にして頂きたいと要請している:

再生核研究所声明 277(2016.01.26):アインシュタインの数学不信 ― 数学の欠陥
再生核研究所声明 278(2016.01.27): 面白いゼロ除算の混乱と話題
再生核研究所声明279(2016.01.28) : ゼロ除算の意義
再生核研究所声明280(2016.01.29) : ゼロ除算の公認、認知を求める

我々のゼロ除算について8歳の少女が3週間くらいで、当たり前であると理解し、高校の先生たちも、簡単に理解されている数学、それを数学の専門家や、ゼロ除算の専門家が2年を超えても、誤解したり、受け入れられない状況は誠に奇妙で、アリストテレスの2000年を超える世の連続性についての固定した世界観や、上記天才数学者たちの足跡、数学界の定説に まるで全く嵌っている状況に感じられる。

以 上


考えてはいけないことが、考えられるようになった。
説明できないことが説明できることになった。
Matrices and Division by Zero z/0 = 0


再生核研究所声明287(2016.02.12) 
神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算

(最近 相当 ゼロ除算について幅広く歴史、状況について調べている。)
ゼロ除算とは ゼロで割ることを考えることである。ゼロがインドで628年に記録され、現代数学の四則演算ができていたが、そのとき、既にゼロで割ることか考えられていた。しかしながら、その後1300年を超えてずっと我々の研究成果以外解決には至っていないと言える。実に面白いのは、628年の時に、ゼロ除算は正解と判断される結果1/0=0が期待されていたということである。さらに、詳しく歴史を調べているC.B. Boyer氏の視点では、ゼロ除算を最初に考えたのはアリストテレスであると判断され、アリストテレスは ゼロ除算は不可能であると判断していたという。― 真空で比を考えること、ゼロで割ることはできない。アリストテレスの世界観は 2000年を超えて現代にも及び、我々の得たゼロ除算はアリストテレスの 世界は連続である に反しているので受け入れられないと 複数の数学者が言明されたり、情感でゼロ除算は受け入れられないという人は結構多い。
数学界では,オイラーが積極的に1/0 は無限であるという論文を書き、その誤りを論じた論文がある。アーベルも記号として、それを無限と表し、リーマンもその流れで無限遠点の概念を持ち、リーマン球面を考えている。これらの思想は現代でも踏襲され、超古典アルフォースの複素解析の本にもしっかりと受け継がれている。現代数学の世界の常識である。これらが畏れ多い天才たちの足跡である。こうなると、ゼロ除算は数学的に確定し、何びとと雖も疑うことのない、数学的真実であると考えるのは至極当然である。― ゼロ除算はそのような重い歴史で、数学界では見捨てられていた問題であると言える。
しかしながら、現在に至るも ゼロ除算は広い世界で話題になっている。 まず、顕著な研究者たちの議論を紹介したい:

論理、計算機科学、代数的な体の構造の問題(J. A. Bergstra, Y. Hirshfeld and J. V. Tucker)、
特殊相対性の理論とゼロ除算の関係(J. P. Barukcic and I. Barukcic)、
計算器がゼロ除算に会うと実害が起きることから、ゼロ除算回避の視点から、ゼロ除算の研究(T. S. Reis and James A.D.W. Anderson)。
またフランスでも、奇怪な抽象的な世界を建設している人たちがいるが、個人レベルでもいろいろ奇怪な議論をしている人があとを立たない。また、数学界の難問リーマン予想に関係しているという。

直接議論を行っているところであるが、ゼロ除算で大きな広い話題は 特殊相対性理論、一般相対性理論の関係である。実際、物理とゼロ除算の関係はアリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインの中心的な課題で、それはアインシュタインの次の意味深長な言葉で表現される:

Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1.    Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

数学では不可能である、あるいは無限遠点と確定していた数学、それでも話題が尽きなかったゼロ除算、それが予想外の偶然性から、思いがけない結果、ゼロ除算は一般化された除算,分数の意味で、何時でも唯一つに定まり、解は何時でもゼロであるという、美しい結果が発見された。いろいろ具体的な例を上げて、我々の世界に直接関係する数学で、結果は確定的であるとして、世界の公認を要請している:
再生核研究所声明280(2016.01.29)  ゼロ除算の公認、認知を求める
Announcement 282: The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday

数学基礎学力研究会のホームページ

以 上


何故ゼロ除算が不可能であったか理由

1 割り算を掛け算の逆と考えた事
2 極限で考えようとした事
3 教科書やあらゆる文献が、不可能であると書いてあるので、みんなそう思った。

Matrices and Division by Zero z/0 = 0

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