障害という経験
「障害」とは、それを抱えて生きる本人にとって最も見通しがわるく、その実感を容易にもてないものである。それなのに、そうした人の多くは、自分が障害をもつということに、社会や他者からの対応や言葉によって無理やり気づかされてしまうところがある。
それによって彼らが生きる不自由のなかった世界に、半ば暴力的に気づきと否定と負荷とがもたらされる。障害という経験は、当人のあずかり知らぬところからいつでも遅れてやってくる。その意味では、一次障害がすっぽりと抜け落ちた二次障害としてでしか障害は成立しないのかもしれない。
重度脳性麻痺を患う小児患者の中には、言葉を発することはもちろん、首が座ることも、物を視線で追いかけることも困難な人たちがいる。それを外から見て、障害だというのは、健常の世界に安住する傍観者の粗野な物言いにすぎない。この人たちは、誰にとっての障害者だというのか。
そもそも彼らには、障害のない状態、障害をそれとして比較する基準がない。彼らは、彼らの世界の中でただひたすら一生懸命、生を継続している。そこには障害という経験も、言葉も、思考もない。しっかりと生を刻んでいることを示す、彼らの細やかで固有な生の多彩さがあるだけである(注1)。
何が障害であることを決めるのか?
たとえば私たち人類は、ビタミンCを体内で生成できない。そのせいで数世紀前の大航海時代には、ビタミンC欠乏症(壊血病)が起こり、多くの船乗りが航海中に死亡した(注2)。
犬も猫も自前でビタミンCを合成できるのに、人間はそのための遺伝子を欠損している。だからといって私たち現代人は、それを障害だとはいわないし、そういわれてもピンとこない。スーパーには大量の果物が並び、サプリメントがいつでも手に入るため、現代社会ではビタミンC欠乏症はほとんど起こらないからだ。
障害をもつということは、社会や環境の変化、そこで生きる人々の注意の向き先と切り離せない複合的な出来事である。客観的に認定可能な事実と決めつけられないものがそこには多分に含まれている。
ここで伝えられるべき、見過ごされてならないこととは、「障害をもっていると社会や他人から認定されることと、その人がどのような世界を生きているのかは、全く対応していない」ということだ。
本人には障害の実感がないのに、それを外部から明示的にであれ、非明示的にであれ、「障害だ」と伝えられることほど、本人を混乱させるものはない。この落差が、障害という経験に対する他者の、社会の、家族の、医療従事者のかかわりを極めて困難にしている。
リハビリテーションと生の深さ
私はこれまで、現代哲学のひとつである「現象学」というメソッドを用いながら、リハビリテーション医療の現場で働くセラピスト(理学療法士、作業療法士、言語聴覚士)の人たちといっしょに、多くの患者さんが抱える問題にアプローチしてきた(注3)。
現象学というのは、ドイツの哲学者、E.フッサールが開発した、「気づいたときにはすでに成立し(変容し、解体し)ている主体と世界の間に広がる経験の層を解明する」ための哲学である。それは、自然科学や他の学問がいまだ特定できていない経験の発見を行うための技法でもある。
病院やリハビリテーションの訓練室で出会う人々は、脳に損傷を負った方、骨折した方、脳性麻痺の方、発達障害といわれる方というように、何らかの形で「障害」という経験に触れざるをえず、かつ、自分(身体)と世界との関係性をもう一度、あるいは最初から、立ち上げていかざるをえない状況にある。
たとえば、脳梗塞によって左半身に強い麻痺が出ている70代のお婆さんがいる。その方に目を閉じてもらい、自分の左手がどこにあるかを尋ねてみると、お婆さんは、「え、左手?」、「ああ、冷蔵庫に忘れてきた」とあっけらかんに言う。
麻痺のある身体は、いつでも自由に動いてくれる身体とはかけ離れた実感を伴っていることがしばしばある。
こうした場面で、セラピストが「お婆ちゃん、何いっているの。左手はここにあるでしょ」といって、左手をさすってあげるような対応が、ごく一般的な選択なのだと思われる。
しかしそうした対応は、お婆さんの発言を否定し、おかしな思考を修正しようとする強い意志を含むものでもある。
確かに、物体としての左手はそこにあるし、日常的判断としては正しいのかもしれない。とはいえ、そのような発言の中に、お婆さんの経験の深みが隠されている可能性も否定できないのだ。
そこで一体どのような身体の実感が、お婆さんにそのような発言をさせているのかを、注意深く自問するという別の選択肢が浮かんでくる。その場合、どこから、何から、考えればよいのか。
真夜中、自分の腕を枕にして寝ていて急に目覚める経験をしたことがあるだろうか。何かおかしなことが自分の身に起きていて、ぎょっとする経験である。左手に力が入らない。暗闇の中で自分の手に触れると、ぶよっとした脂肪状の塊が体にくっついていて、気持ちが悪い。このとき、目を閉じて左手がどこにあるかを探ってみると、全く分からないのである。手があるという感触がごそっと抜け落ちている。
この手の痺れ(しびれ)というありふれた経験を手がかりに、腕がないのに、その腕の冷たさだけがくっきりと残っている場面をイメージしてみる。「存在しない手の冷たさ」とはどのようなものか、どう体験すればいいのか。さらにその場合、自分の左手はどこにあるといえばいいのか。
もしかすると、あのお婆さんの発言は、自分の身体に伴う実感を、かなり正確に言い当てようとしていた可能性がある。
麻痺という経験をもっていない人が、そうした経験をもつ人に近づくためには、安易に理解した気になってはいけない。何度も問いを自分の中で繰り広げながら、その人の固有な経験が浮かび上がるポイントまで近づいていく、待つ姿勢が必要となる。
優れたセラピストの先生の臨床を見ていると、待つことがとてもうまいことが分かる。自分の言葉で患者さんの経験を埋めてしまうことがない。周囲の人には何をしているのかよく分からないのに、患者さんとときに笑い合いながら、ときに真剣に治療訓練が行われ、最終的に患者さんの表情も身体も生き生きとしてくる。そして現実に、身体の動きが、本人の発話が変わる。
だからこそ、あの先生じゃなければリハビリ訓練はもう受けたくないという指名争いまで生じてしまう。全く同じ治療訓練のメニューを行っていても、身体の変化に大きな差が出てしまうのが、今のリハビリテーション医療の現状のひとつである。
これだけはいえることがある。心身を回復するリハビリテーションは、今も誤解は絶えないが、根性や努力物語ではない。絶対にちがう。痛ければ、苦しければ、我慢をすれば、治療が進むということは、神経科学がここまで進んだ現代においてはありえないことである(注4)。
その代わりに一番難しい問題となるのは、治療者が、その患者さんが生きている身体を、その身体でかかわる世界の輪郭を浮き彫りにしながら、その人にとって最適な、場合によっては次善の選択肢が何であるのかを、患者さんとともに見つけ出していくことである。http://blogos.com/article/210463/
大変興味深く読みました:
再生核研究所声明 4 (2007/03/17):競争社会から個性を活かせる社会に:
現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。
その理由は:
1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。
2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。
3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。
4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。
5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。
6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。
7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。
8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。
国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
以 上
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
【仏国ブログ】日本のいじめ「単一民族社会が生み出した副産物か」
【台湾ブログ】素晴らしい日本、でもいじめなどの厳しい問題もあり
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
国の借金1024兆円=国民1人当たり802万円―11年度末見込み
日本の財政を考える より
http://www.zaisei.mof.go.jp/
http://www.zaisei.mof.go.jp/
全国都道府県の借金時計 より
http://www.geocities.jp/mkqdj167/map.htm
http://www.geocities.jp/mkqdj167/map.htm
日本の借金時計 (数字はうそをつかない)より
http://www.geocities.jp/mkqdj167/japan.htm
http://www.geocities.jp/mkqdj167/japan.htm
新政策機構「チームニッポン」 より http://www.team-nippon.com/
日本経済が破綻するまで動きつづけるリアルタイム財政赤字カウンタより
http://ueno.cool.ne.jp/gakuten/network/fin.html
http://ueno.cool.ne.jp/gakuten/network/fin.html
リアルタイム財政赤字カウンターより
GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
格好良すぎるぞ。升田幸三!
格好良すぎるぞ。升田幸三!
再生核研究所声明 69(2011/09/27) 単細胞人間 ― 単細胞的思考
(背景: 2011/09/22 宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)
単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。
まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。
相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。
次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。
上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。
1)絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2)その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3)みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4)特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5)世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6)一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7)くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8)ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。
これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。
なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
以 上
再生核研究所声明 115(2013.4.26):
枯れ木も山の賑わい ― 現状と存在に理由あり
(2013.4.19.08:30 8時、宿舎を出る前に 新しい声明の題材が閃く, quatanion analysis を論じて興奮していた翌朝)
(枯れ木も山の賑わい: つまらないものでも、無いよりはましであるということ。また、役に立たない者でも、いないよりはいたほうがましだということのたとえ。)
この声明は一見何にもならない、無駄なようなものでも、意外に存在価値があるなどの所見を表現しょうとするものである。極論をすれば、何でも存在するものは それなりに価値が有るということ、存在する現状は それなりの原因が有って存在するということである。 現状を肯定、 まずは尊重すべきものではないだろうか。
悪も、不正義も、暗闇も それなりの理由が有って、存在しているということである。― ボストン・マラソンにおいて 卑劣なテロ事件が起きて、罪なき人を 無差別に巻き込むなど 理解できないのが 世の常識であろうから、その動機と真相、経過を徹底的に調べるべきである。― ここで、オバマ大統領が ビンラディン氏を裁判もかけずに しかも家族の前で公然と虐殺した事件を想い出し、家族の心情は 如何なるものであったかと 想いを巡らすのは当然である ― 公正の原則(再生核研究所声明1: 良い社会を作るには)(再生核研究所声明 61:ビンラディン氏殺害 ― アメリカの名誉と大義を傷つけた オバマ大統領)。
声明
再生核研究所声明 71: 菅 暗黒政権 を総括する
で、菅元首相の 貢献ある盟友 と 党の公約に対する 明確な背信行為を批判して来たが、それとて、菅氏にとってみれば、苦労の末、とうとう首相になれた 何とか権力を維持したい、また、首相になったら、国の状況はとてもやっていける状況ではなかったなどと、それなりの理由が有るのは当然である。しかし、菅氏と野田氏の上記背信行為が 嫌な感情を国民に与えてしまい、どのように弁明しても もはや信頼回復は 難しいのではないだろうか。 実際には そんなには悪意のあるものでは ないのではないだろうか。 残念である。世の中とはそのようなものではないだろうか。明智光秀にも、吉良上野介にも相手の身になれば、それなりのやもう得ない事情が有ったのではないだろうか。
組織には いわば、組織の落ちこぼれ組に属するような人がいるものである。ところがそのような人が 組織にいろいろ重要な役割をしているのは 世に多い。逆に、一様な組織こそ、偏り、変な方向に気づかずに走っている場合が世に多い。 このようなことは、多様性の重視、広い視点と幅を持たせることの重要性を示していると言えるだろう。
ニートなどと批判する世相、弱い者、貧しい者、悪者を厭う気持ちが世に有ると考えられるが、 逆にそれらの存在が人間社会を偉大な存在にして、いろいろな役割を果たしていることを積極的に発見して行きたい。優秀な人たち、美しい人たちだけでは社会は構成できず、 多様な人が居て、良い社会ができるのではないだろうか。全体的なバランスが 大事ではないだろうか。
いわば、負の部分にも価値を見つけ出し、大きな視野を持って、寛容な社会を志向したい。 白、黒ではなく、敵、味方ではなく、相手にもそれなりの立場があるという、広い見方である。
人生についても言える。 大事な時に、重病を患い、入院生活をやむなくされたが、それが反って、違った視点を与え 幅を持たせ、人生や、専門、仕事の上でも大いに良い影響を与えたことは 良く見られる現象である。ポルトガルでは 同性婚が法律で認められているが、これは出来るだけ、自由を尊重し、多様な在り様、世界を志向しようという意味で、その精神を高く評価したい。 独断と偏見で 単細胞的思考(再生核研究所声明 69:単細胞人間 ― 単細胞的思考)に陥らないように注意したい、
以 上
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