次の人類を支える新たな科学は、この男が創り出す:長沼伸一郎(物理学者)
2017年2月13日に発売となった『WIRED』日本版VOL.27「科学特集」において、「Exit Science その向こうにある科学」というテーマのもと、持論を語ってくれた物理学者の長沼伸一郎。そのインタヴューを行った石川善樹(予防医学者)が、誌面とは異なるアングルから、長沼伸一郎という異能の物理学者に宿された思想の本質に迫った。
直観的に理解してこそ、真に分かったといえる
これからご紹介するのは、長沼伸一郎という、恐るべき鬼才である。おそらく理系読者ならお世話になった方も多いと思うが、代表作である『物理数学の直観的方法』は、長沼の次のような想いで書き上げられたものだ。
「大数学者オイラーは、証明で分かるようでは本物でないと述べています。直観的に理解してこそ、真に分かったといえるのだと。しかし、近代の物理は難しくなりすぎてしまい、みんな消化できなくなっています。証明を追いかけるだけで精いっぱい、というのが偽らざる現状でしょう。そこでわたしは、専門的すぎず、かといって単純化しすぎない、中間レヴェルの本を書くことで、直観的な理解を促せるのではないかと考えたのです」
その言葉通り、若干26歳で書き上げた『物理数学の直観的方法』は、発売するやたちまち各大学の生協で売り上げ第1位を記録する。その後、30年近くにわたってロングセラーとなっているのは、この本がある意味「No.1にしてOnly one」だという証左でもあろう。
さて、若くして不朽の名著を書き上げた長沼は、その後「在野の研究者」として静かに時を重ねた。むろん大学に残って研究を続けることもできただろうが、あえてそうしなかった理由について、長沼は次のように述べている。
「学問の最先端を追うことに労力を注ぐよりも、そもそも科学とはこれまで何だったのか、これから科学はどこに向かうべきなのか、じっくり考えたかったのです。きっと学問の人も、そうやって科学と時代の橋渡しをした人に対して、むげにはしないだろうとも思っていました」
本記事は、そんな長沼の30年に及ぶ、静かな思索を紹介するものである。2017年1月16日、長沼の自宅で行われたインタヴューは、下記に挙げた「3つの問い」を中心に進められた。
1)ニュートン以来、科学とは何だったのか?
2)そこにはどのようなバイアスが働いていたのか?
3)これから科学はどこに向かうべきか?
2)そこにはどのようなバイアスが働いていたのか?
3)これから科学はどこに向かうべきか?
もしわたしがこのような問いを投げかけられたら、口をあんぐり開けて、「…難しい問いですね」とお茶を濁すことしかできないだろう。しかし長沼は、このあまりに無茶な問いに対して、A4の紙2枚にびっしりと書き込まれたメモを準備して待っていてくれた。
それでは、早速始めよう。まず最初にみていくのは、長沼の人生の転機となった、「3体問題」との出合いである。
3体問題との出合い
まだ長沼が高校生だったころ、科学の未来は輝いて見えたという。
「惑星の軌道パターンを示したケプラーの法則、そのような天体力学の問題を微分方程式というアイデアで解いたニュートン。もうワクワクしましたね。いまから振り返れば、『世界は分割すれば理解できる』という考え方に興奮していたのだと思います」
いうまでもなく、「ものごとを分解して再構築する」という考え方は、デカルトが『方法序説』で発表して以来、400年近く続いてきた科学の伝統である。
しかし、長沼はこの考え方に対して、かすかな違和感も覚えていたという。
「確かに、2体問題まではそれで解けます。たとえば、互いに引力を及ぼしあう2つの惑星があったとき、それらの惑星がどのような動きをするのか、ニュートンの微分方程式から予測することが出来ます[筆者注:ちなみに2つの惑星は、楕円、放物線、双曲線のいずれかの軌道を描く]。しかし、天体が3つになった瞬間に、話は変わってくるのです」
長沼が指摘しているのは、有名な「3体問題」とよばれる難問だ。たとえば、「太陽、地球、月という3つの星は、今後どのような軌道を描くか?」という単純な問いですら、実は現代科学をもってしても解くことができない。
「たった3つでもうダメとは、一体どういうことだろうか? ましてや、社会を構成する要素はもっと多くあるというのに!?」
まだ高校1年生だった長沼の心をかすめた違和感は、その後大学に進むとどうしようもなく大きくなっていく。
「大学の問題は、そもそも解けないものが多いことに気が付きました。それまでのわたしは、どちらかというと、数学がもつ神秘的な力を信じていたようなところがありました。しかし、数学を勉強していくなかで、どうやら3体問題のようなことが、ほかにも色々あるんじゃないかと疑問に思えてきたのです」
長沼の中で、これまで築き上げてきた「概念」が瓦解した瞬間だった。
人はどのように現実を見るのか、という問いに対して、社会学者のタルコット・パーソンズは「概念」を用いて次のように説明している。
「概念とはサーチライトのようなもので、わたしたちが事実と呼ぶものは、概念によって切り取られた現実の一部なのです。サーチライトが変わることで、いままで見えなかった暗闇が輝き、あたらしい事実が見いだされるのです」
わたしたち凡人は、自らが見聞きした「事実」に魅了され、それを照らし出している「概念」の存在には気が付きにくいものである。しかし長沼は、じっと自分と向き合い、どのようなサーチライトでものごとを見ていたのか自覚するようになっていった。
「ひとことでいえば、部分の総和が、全体に一致すると思っていたのです」
つまり長沼は、デカルト以来の伝統である「分解して再構築すれば、世界は理解できる」という考え方の裏には、そのような概念が隠れていることに気が付いたのだった。
「もしそうでないとしたら、一体世界をどのように見ればいいのだろうか?」
長沼の中で芽生えたこの問いは、どうしようもなく膨らんでいき、自分の中で納得のいくアイデアが得られたのは、25歳のときだったという。
作用マトリックスという概念
さて、「3体問題」に端を発し、世の中には解けない問題が山積みであることに気が付いた長沼は、次のような大胆なアイデアを探り始めた。
「世界が分解可能でないとしたら、世界はどのように表現できるだろうか?」
結論から述べると、それは次のような式になると長沼は考えた。
〔x (t)〕= [A]N〔x0〕
…といわれても、「は!?」と思われる読者がほとんどだと思うので、少しだけ補足をさせてほしい。
まず、〈x0〉とは、この世界の最初期の状態である。そして〈x (t)〉とは、時点〈t〉における世界の状態である。
そして、上記の式の最大のポイントは、〈A〉である。長沼が「作用マトリックス」と呼ぶもので、専門的な説明を省略して、ものすごく単純にいえば、〈A〉を1回かければ、世界は未来へ1歩進むという意味である。
ここまでを理解したうえで、改めて上記式を見ると、最初期の状態から〈A〉を〈N〉回ほどかけると、時点〈t〉における世界になるといっているのだ。つまり、世界の変化をあらわす全ての要素が、〈A〉の中に含まれていると考えていただきたい。
念のため申し上げておくが、ここまでの説明に少しでも疑問を抱いたら、ぜひ長沼の『物理数学の直観的方法』の63ページに及ぶ「やや長めの後記」を読んでいただきたい。個人的な感想で恐縮だが、科学史に残る傑作だと思う。ここまでのシンプルさと説得力でもって、世界の本質に直観的に迫っている著作を、わたしはほかに知らない。
さて、いよいよ本題をみていくが、世界の変化をあらわす全ての要素を含んだ作用マトリックス〈A〉は、その中身をよくよく見てみると、次のような姿をしている。
…またしても、「は!?」と思われた読者がほとんどだと思うが、詳細は長沼の名著『物理数学の直観的方法』に譲るとして、とにかくここでは、誤解を覚悟でシンプルに説明していくことにする。
そもそも、世界の変化をあらわす全ての要素がつまった〈A〉は、数学的には「行列」というもので定義されており、その中身は上図に示した通り、「経済」や「軍事」などのさまざまな「小行列」から構成されている。とはいえ、いきなり「小行列」といわれてもさっぱり意味が不明だと思うので、とりあえずは何かしらの分野に特化した、「ちっちゃい〈A〉」だと思っていただければよい。
さて、ここまでで、ようやく準備が整った。あらためて振り返ると、なぜ作用マトリックス〈A〉の議論をしているのかというと、デカルト以来の「分解して再構築すれば、世界は理解できる」という概念に対して疑念が生じたからだった。先に結論から言うと、「分解して再構築しちゃったら、それはもう元の世界とは違う」ことが長沼のなかで納得がいったのだ。
何故だろうか?
それは、「行列」の基本的な演算から簡単に導かれるのだが、とはいえ「行列なんてもう忘れてしまった or 知らない」という方がほとんどだと思うので、結論だけ述べておくと、「一般には、部分の〈N〉乗を足し合わせても、全体の〈N〉乗に一致しない」からだ。
ちなみに、念のため述べておくが、ここまでの議論は、決して机上の空論などではなく、極めて厳密な論考を極限まで単純化したものであることに留意いただきたい。繰り返しで恐縮だが、詳しくは長沼の『物理数学の直観的方法』を読んでいただきたいが、改めて要点のみ述べておくと、以下のようになる。
「この世界は、分解して再構築できるほど、単純じゃない」
そういってしまうと、「そりゃそうだよ!」という声が聞こえてきそうであるが、なんとなくわたしたちが考えていることを、厳密に数学で証明したのが長沼の大きな功績である。
これからの科学はどこに向かうべきか?
少し混乱したかもしれないので、ここで改めてわたしたちが立てた問いを振り返っておこう。
1)ニュートン以来、科学とは何だったのか?
2)そこにはどのようなバイアスが働いていたのか?
3)これから科学はどこに向かうべきか?
2)そこにはどのようなバイアスが働いていたのか?
3)これから科学はどこに向かうべきか?
まず最初の問いに対しては、「ニュートン以来、科学とは分解して、再構築することだった」と長沼は指摘する。そして2つ目の問いに対しては、「部分の総和が全体に一致する」という概念が、目に見えぬバイアスとして働いていたことを長沼は喝破した。
上記を踏まえて、いよいよ3つ目の問いに移ることにしよう。長沼によれば、これからの科学が向かうべき方向は、2つしかないという。
1つは「高速制御」である。つまり、これまで通り、部分に分解し、それらを高速で制御するという方向である。長沼が例としてあげたのが、近年発達が著しい生物学である。まだ若い学問である生物学は、3体問題のような困難にぶつかっていないので、「部分に分けて高速で制御すれば何とかなると思い込んでいる」分野だと指摘する。しかし、そのような対処療法的なやり方では、副作用が膨らんでいくだけという結末を迎える可能性が高いという。
確かにそうかもしれないと、長沼の話を聞いて思った。実際、わたしの専門である予防医学の世界では、「よかれと思って予防したら、新たな問題が発生した」なんてことがざらにあるからだ。たとえば、体に悪影響を及ぼす活性酸素を取り除けば、人は健康になるはずだとわたしたちは思い込んできた。そして実際にビタミンEで活性酸素を取り除いた結果、なんとがんになる人が増えてしまったのだ。というのも、これはあとに分かったのだが、確かに活性酸素は体に害を及ぼすが、一方で一部のがんを除去するという働きもしているのだった。
長沼の言葉を借りて、なぜこのようなことが起こるかを説明すると、「作用マトリックスAの中で、それぞれの小行列が相互作用しあう」からだ。そのため、部分を取り出して高速制御しても、相互作用を考慮しない限り、それは新たな問題を創り出すだけになる。
その一方で、科学が向かうべきもう一つの方向性は、「世界が分解可能でないとして、科学そのものを再設計する」という道だ。そのために必要となるのは、デカルト以来400年近く信じられてきた「概念」の呪縛を解き放つことだ。
具体的には、そもそもわたしたちがなにかを「理解する」仕方を変えることが必要になると、長沼は指摘する。言うまでもなく、これまでのわたしたちにとって理解とは、「分解して再構築する」ことだった。そうではない理解の仕方が、長沼がもっとも得意とする「直観」という方法である。
長沼は、難しくなりすぎた物理学を理解するために、「直観」というやり方を導入したが、結果としてそれは、その後の研究人生を支える強力なツールになっていった。インタヴューの終わりで、長沼は次のように述べてくれた。
「人間にとってもっとも難しいのは、新しい思考パターン・思考様式を手に入れることです。わたしは、理系と文系を等分に視野に入れながら、経済は経済、環境は環境、というように分解して考えるのではなく、全体として問題に向かっていきたいのです」
そのために必要となるのが、分解して再構築するという「論理」ではなく、全体をパッと把握する「直観」である。ところで、これまでに何度も出てきたキーワードであるが、そもそも「直観」とは何であろうか?
長沼によればそれは、「ひらめき」に近いもので、音楽家が自然とメロディが浮かんでくるのに近い状態だという。その話を聞いてわたしが思ったのは、「ポルノとは何か?」という議論に対して、アメリカの連邦最高裁判所の裁判官ポッター・スチュアートが述べた次の言葉である。
「ポルノは、みれば分かる」
これはまさに「直観」をあらわしており、ポルノを要素に分解するのではなく、「ひらめき」として捉えようじゃないかという視点である。少し話がそれたが、とにかく「直観的な理解」とは、部分ではなく、全体として「ひらめき」に近い感覚で理解されるものだと長沼は述べる。
さらに長沼は次のように述べる。
「これからの科学が、『分解』だけではなく、『直観』という道も進むのなら、そもそも科学者に求められる役割が変わってきます。ふたたび音楽を例に用いると、これまでの科学者はピアノやヴァイオリンなど、それぞれの楽器を極めてきたようなものです。しかし、音楽の世界には、『指揮者』がいて、全体を直観的に把握しながらハーモニーを生み出しています。同じように、これからの科学者には、学問を全体として捉える『指揮者』が必要になるでしょう」
まさに、この学問の『指揮者』という役割こそ、長沼自身が30年という歳月をかけて取り組んできたことでもある。別の言い方をすれば、あらゆる学問を俯瞰的にとらえる、「メタ学問」の重要性を長沼は鋭く指摘しているといえよう。これは学問とビジネスとの対比で考えると、その重要性が分かりやすくなるかもしれない。
別の言い方をすれば、あらゆる学問を俯瞰的にとらえる、「メタ学問」の重要性を長沼は鋭く指摘しているといえよう。これは学問とビジネスとの対比で考えると、その重要性が分かりやすくなるかもしれない。
たとえば、学問の世界では、新人は「知識」の創出が求められる。これはビジネスの世界では「利益」に相当するだろう。しかし次の段階では、学者は新しい「研究分野」を切り拓くことが求められる。ビジネスでいえば、「新規事業」の創出にあたるだろう。
もちろん、ここまでいければもう十分立派だが、非常に限られた一部の学者は、新たな「学問体系」を築き上げることに乗り出す。いうまでもなく、新しい学問体系は、無数の研究分野や知識を必然的に生み出すことになる。これはビジネスでいうと、「新規産業」を創りだすことに相当するだろう。
しかし、長沼の視座はさらに高い。さまざまな学問体系を生み出すような「メタ学問」を目指していると言える。ビジネスでいえば、いくつもの産業を創出するような「メタ産業」を志しているようなものである。
視座があがれば、視野は広がる。結果として、当然カヴァーすべき学問は指数関数的に増えていく。ある意味、長沼にとってこれまでの30年間は、「メタ学問」を志すための修業期間だったといえるかもしれない。
そして、長沼の静かな思索は、次々と芽を出し始めている。たとえば、最近長沼は、将来の学徒が複数の分野を一個の頭脳に入れる際の手助けとするために、『経済数学の直観的方法(マクロ経済編、確率・統計編))』を発表し、まさに「理系と文系を等分に視野に入れる」試みを示している。
「経済学を学ぶのは、正直大変だった」
と長沼自身は述べていたが、極めて面白い著作となっているので、ぜひ『物理数学の直観的方法』とあわせて読んでいただきたい。
インタヴューの最後に、長沼の1日はどのようなものなのか、さりげなく訊いてみた。
「…考えて過ごしていますね。まあ、歩きながら考えていることが多いですかね。そうしたなかで思いついたことを、あとで本や論文を読んで確認したり参考にしたりしています」
まるで中世の哲学者のような生き方だが、同じ研究者としてわたしは心底うらやましく思った。もちろん、視座や志の高さは、長沼の足元にも及ばない。しかし長沼のように、長く信じられてきた「概念」を疑い、次の人類を支える新たな科学を創り出すんだという気概だけは、これからも強くもって生きていきたい。そう思わされたインタビューであった。
「長沼伸一郎という男が、日本にはいた」
いつかそのことが、日本人の誇りに思えるような日が来ると、わたしは信じている。
石川善樹|YOSHIKI ISHIKAWA
予防医学研究者、Campus for H共同創業者。「人がよりよく生きるとは何か」を研究し、最新かつ最善の健康情報を提供。著祖に『友だちの数で寿命はきまる』〈マガジンハウス〉、『疲れない脳をつくる生活習慣―働く人のためのマインドフルネス講座』〈プレジデント社〉など多数。http://wired.jp/2017/02/13/shinichiro-naganuma/
予防医学研究者、Campus for H共同創業者。「人がよりよく生きるとは何か」を研究し、最新かつ最善の健康情報を提供。著祖に『友だちの数で寿命はきまる』〈マガジンハウス〉、『疲れない脳をつくる生活習慣―働く人のためのマインドフルネス講座』〈プレジデント社〉など多数。http://wired.jp/2017/02/13/shinichiro-naganuma/
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明325(2016.10.14)
ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における初歩的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の初歩的な部分の期待される変更は かつて無かった事である。ユークリッドの考えた空間と解析幾何学などで述べられる我々の空間は実は違っていた。いわゆる非ユークリッド空間とも違う空間が現れた。不思議な飛び、ワープ現象が起きている世界である。ゼロと無限の不思議な関係を述べている。これが我々の空間であると考えられる。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、ゼロ除算の教育、研究は日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の協力、参加をお願いしたい。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。数学はより美しく、完全であった。さらに、数学の奥深い世界を示している。ゼロ除算を含む体の構造、山田体が確立している。その考えは、殆ど当たり前の従来の演算の修正であるが、分数における考え方に新規で重要、面白い、概念がある。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童・生徒たちにも歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。応用する。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直交座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象、接線などの新しい性質、解析幾何学との美しい関係と調和。すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること。行列式と破壊現象の美しい関係など。三角関数や初等関数でも考え方を修正、補充する。直線とは、そもそも、従来の直線に原点を加えたもので、平行線の公理は実は成り立たず、我々の世界は、ユークリッド空間でも、いわゆる非ユークリッド幾何学でもない、新しい空間である。原点は、あらゆる直線の中心になっている。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の発展の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し ― ゼロ除算算法、広範な応用を展開する。最も顕著な例は、tan 90度 の値がゼロであることで、いろいろ幾何学的な説明は、我々の空間の認識を変えるのに教育的で楽しい題材である。特に微分係数が正や負の無限大に収束(発散)する時、微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法で統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。新しい、関数の素性が見えてくる。
複素解析学において 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点自身では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学的な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円に関する鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考え方の修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上における大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。これはアリストテレスの世界の連続性の概念を変えるもので強力な不連続性を示している。 ― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響があり、さらに哲学、宗教、文化への大きな影響がある。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、数学者ばかりではなく、人類の名誉にも関わることである。実際、ゼロ除算の歴史は 止むことのない闘争の歴史とともに人類の恥ずべき人類の愚かさの象徴となるだろう。世間ではゼロ除算について不適切な情報が溢れていて 今尚奇怪で抽象的な議論によって混乱していると言える。― 美しい世界が拓けているのに、誰がそれを閉ざそうと、隠したいと、無視したいと考えられるだろうか。我々は間違いを含む、不適切な数学を教えていると言える: ― 再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判 ―。
地動説のように真実は、実体は既に明らかである。 ― 研究と研究成果の活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。 研究課題は基礎的で関与する分野は広い、いろいろな方の研究・教育活動への参加を求めたい。素人でも数学の研究に参加できる新しい初歩的な数学を沢山含んでいる。ゼロ除算は発展中の世界史上の事件、問題であると言える。
以 上
追記:
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf DOI:10.12732/ijam.v27i2.9.
*156 Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and
Applications -Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China.
(Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 177) Sep. 2016 305 pp. (Springer)
Paper:Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Dear Prof. Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
With reference to above, The Editor-in-Chief IJMC (Prof. Haydar Akca) accepted the your paper after getting positive and supporting respond from the reviewer.
Now, we inform you that your paper is accepted for next issue of International Journal of Mathematics and Computation 9 Vol. 28; Issue 1, 2017),
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
再生核研究所声明331(2016.11.04)
提案 ― ゼロ除算の研究は、学部卒論や修士論文の題材に適切
(雨上がり 山間部の散歩で考えが湧いた。ゼロ除算の下記論文は、新しい数学の研究課題で、学部4年生の卒論ゼミの課題、修士論文の研究課題に適切である:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and Applications -Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China. (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 177) Sep. 2016 305 pp. (Springer)
Paper:Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Dear Prof. Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
With reference to above, The Editor-in-Chief IJMC (Prof. Haydar Akca) accepted the your paper after getting positive and supporting respond from the reviewer.
Now, we inform you that your paper is accepted for next issue of International Journal of Mathematics and Computation 9 Vol. 28; Issue 1, 2017),
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
簡単に理由を纏めて置きたい。
1) 基礎知識が学部3年生程度で十分で、基本的な結果を議論でき、新しい結果を導ける余地が十分に存在する。新規で、多くの人が興味を持つ課題で国際的にも広く交流できる。
2) 内容は、永い歴史を有する世界史の問題に関わり、空間の考え、勾配、微分、接線、連続性、無限など数学の基礎概念に関与している。相対性理論、ブラックホール、ビッグバン、計算機障害などにも関係している。
3) もともと歴史的な大問題で、ゼロ除算として永い歴史と文化に関わり、広い視点が発展中の生きた数学の中に持てる。
4) 論理には厳格性、精密性、創造性が要求され、数学の精神の涵養に適切である。予断と偏見、思い込みの深さなどについて人間を知ることが出来る。
5) 基礎数学の広範な修正構想に参画でき、物理学など広い研究課題への応用が展望でき、ゼロ除算算法のような新規で基礎数学の新しい手段を身に付けることが出来る。
6) 現在数学は高度化、細分化して、永い学習期間を経て創造的な仕事に取り掛かれるのが普通であるが、ゼロ除算の研究課題では初期段階から、新しい先端の研究に取り掛かれる基礎的な広い研究領域が存在する。ゼロ除算の研究課題は、世にも稀なる夢のある研究課題であると考えられる。― アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における初歩的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の初歩的な部分の期待される変更は かつて無かった事である。ユークリッドの考えた空間と解析幾何学などで述べられる我々の空間は実は違っていた。いわゆる非ユークリッド空間とも違う空間が現れた。不思議な飛び、ワープ現象が起きている世界である。ゼロと無限の不思議な関係を述べている。これが我々の空間であると考えられる(再生核研究所声明325(2016.10.14) ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて)。
偉大なる研究は 2段階の発展でなされる という考えによれば、ゼロ除算には何か画期的な発見が大いに期待できるのではないだろうか。 その意味では 天才や超秀才による本格的な研究が期待される。純粋数学として、新しい空間の意義、ワープ現象の解明が、さらには相対性理論との関係、ゼロ除算計算機障害問題の回避など、本質的で重要な問題が存在する。 他方、新しい空間について、ユークリッド幾何学の見直し、世のいろいろな現象におけるゼロ除算の発見など、数学愛好者の趣味の研究にも良いのではないだろうか。 ゼロ除算の研究課題は、理系の多くの人が驚いて楽しめる普遍的な課題で、論文は多くの人に愛される論文と考えられる。
以 上
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
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