2017年2月2日木曜日

公的年金、米インフラに投資 首脳会談で提案へ 政府、雇用創出へ包括策

公的年金、米インフラに投資 首脳会談で提案へ
政府、雇用創出へ包括策

 
政府が10日に米ワシントンで開く日米首脳会談で提案する経済協力の原案が1日、明らかになった。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)が米国のインフラ事業に投資することなどを通じ、米で数十万人の雇用創出につなげる。対米投資などで米成長に貢献できる考えを伝え、トランプ政権との関係強化につなげる。
 日米で通商政策や経済協力を話し合う閣僚級協議を新たに立ち上げることも検討する。日本側は麻生太郎副総理・…http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS01H5E_R00C17A2MM8000/

再生核研究所声明298(2016.05.20) 根無し草

ある存念が湧いて、言葉が先に自然に湧いたのであるが、言葉を元に少し述べて置きたい。
先ず言葉の意味を確認して置こう:ねなしぐさ【根無し草】の意味 - goo国語辞書
ねなし‐ぐさ【根無し草】
1地中に根を張らず、水に浮いている草。浮き草。
2浮き草のように漂って定まらない物事や、確かなよりどころのない生活のたとえ。「行方も知らぬ―の旅」

世間では上記2のような意味、基礎がしっかりしないでフラフラした存在で、大地にしっかり根をはった大木の逆の言わば弱い、悪い意味で表現されるのではないだろうか。また、根が無ければ、短命で儚い存在を示すと考えるのは自然ではないだろうか。
しかしながら 万物流転や世の無常の思想があるように 本質的には人間の存在も根無し草のような存在であるとしっかり捉えることが大事ではないだろうか。しかし、そのようにしっかりと存在を捉えている者は 人物であり、根無し草のような存在とは誰も思わないだろう。
批判的に根無し草を表現すれば、軽薄な存在であることも示しているのではないだろうか。人間性としては自己中心、短絡的で、軽薄、無責任な存在とも言える。
永遠性を求める人間の心は、本質的に神性を有しており、永遠的なものや哲学的に深い存在を希求しているのではないだろうか。考えの基礎があり、大局的な視野を持った、深い存在である。― 日常的な生活に追われ、マンネリ化した生活を送れば 人生の深い想いを求めるのは難しく、軽薄な存在に陥入り易いと言える。
根無し草の存在の逆を考えてみたい。
考え方の基礎と展開がしっかりしている。視野が広く、思索が深い。永続的に考えられる。
世界に対する認識がしっかりしている。このように考えると、根無し草の存在の逆は、哲学者的な存在や宗教家の存在よりは、世に言う、人物たる存在であると短く本質を表現できるのではないだろうか。
世の指導者、権力者、評価する者、上に立つ者 世の教師たち等、それらはそのような意味で人物たる人物であって欲しいものである。
公金を私用したり、仲間の利益で動いたり、仲間意識で評価する者は 根無し草のような無責任で、短期的な視野を持った浅ましい存在ではないだろうか。

以 上

再生核研究所声明299 (2016.05.21) いろいろ ちぐはぐな社会

人間社会は機械や計算機の世界のように きちんと行く道理は 生命現象としても有り得ず、いろいろ矛盾した多様で複雑な形相を本質的に持っているものであると考えるべきである:

再生核研究所声明284(2015.2.9) 世は矛盾の中に存在する、 混沌と言える。

あまりにきちんとしていれば、社会は逆に窮屈になり、息苦しいものになるだろう。戦時や独裁者国家などによく現れていると言える。もし、法でも、道徳律、習慣でさえ程よく幅をもち、反社会的と評されるものでさえ、存在して娑婆の面白みと言える面が有るのではないだろうか。それらは多様性のある豊かな社会の大事な要素ではないだろうか。
しかしながら、本末転倒、あべこべが行き過ぎるとこれもまた、おかしな社会になってしまう。そこで、行き過ぎた ちぐはぐな存在に見える、感じられることに言及して、省察、有り様について 注意を換気させたい。
最近の例だと高齢者に3万円を 苦しい財政状況の中で、ばらまいているが、国家はもっともっと、資金援助、充実させる配布先はないのであろうか? 誠に奇妙な政策と言える。多くは退職者の年齢であろうが、現役の若者たちは将来の生活の設計、やり繰りで苦労されているのではないだろうか。大学の予算不足なども大いに心を痛められる。
憲法改正の考えや軍事費の増大もこの観点では奇妙に見える。日本が自ら緊張関係を生み出して、軍拡競争を煽っているように見える。国防と安全を考えるは国家の基本であるが、新しい国防観による、平和の建設に対して、時代遅れの思考で対応を考えているように見える。今後の平和と安全の有り様を軍事費増大ではなく 異なった方向での対応を思考すべきではないだろうか。軍事、平和の問題は 創造的に先取の精神で取り組むべきことが 世界史の教えるところである。
人を適材、適所に配置するは 社会の有り様、活力を維持する基本であるが、それらの基になる、教育全般、大学入試、大学教育、就職の有り様、評価の有り様など相当にちぐはぐで、上手く人事が行っていないようなことはないだろうか。いわゆる職業選択におけるミスマッチの問題である。人材を発掘できない状況、活用できない状況など大いに気になる。例えば、公務員は人気があって、優遇される状況があるように感じられるが、公務員は公僕であり、多くは決まった安定した仕事が多いことに鑑み、優秀な人材を生きた社会で生かすような大勢は大事ではないだろうか。もちろん、国家や組織で大事な役割を果たす職種で優秀な人材の登用は古来重要である。公僕の精神を忘れて公務員が社会の優雅な人たちの層を今やなしてはいないだろうか。政治家の選択も民主主義の政治の中で、上手く機能せず、日本の政治家はEUなどの諸国に比べて少しお粗末な政治家が多いように感じられる。公や国家のことより、政争、利害対立に明け暮れている様が見えないだろうか。
研究、教育、人事、評価なども大学法人化後、特に相当に混乱していて、日本の将来には危惧の念を抱かざるを得ない。行き過ぎた過重な受験競争、成果や評価に縛られ汲々とした教育と研究の場、意図的に作られた雑用の多さ、教育と研究の乖離、形ばかりの成果にとらわれ過ぎて真に研究に値しないような小さな研究課題に細分化する傾向が進んでいるのではないだろうか。軍事と同様、研究は創造性ある新規、開拓の精神が最も重視されるべきところ、確立した分野の末梢の研究課題が重視されるような風潮はないだろうか。あらゆる研究の初期の状況を省みたい。
日本のテレビ曲の、ドラマ制作力、音楽、芸術、スポーツ関係の充実ぶりは素晴らしいものと高く評価されるが、ニュース、政治などの番組は相当に質が落ちている面はないだろうか。マスコミ、新聞などの国際評価が驚く程低いことに大いに注意しておきたい。個人の犯罪や問題など騒ぎすぎで、質を落としているような面はないだろうか。民間テレビ局などでは、科学、工科系の番組は極端に弱く、如何にも文系、芸能関係、スポーツ関係者のもののように偏っているように見える。

この声明は題名からして、世相に対する印象のような形になってしまった。

以 上

再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間

人間とは何ものかによって 作られた存在 であり、気づいてみたら生まれていた、存在していた。夢中で生きていたら、それらはみな言わば作られた存在として、基本的なありようは定められていたといえる。気づく以前は本能原理の基で、多くは環境に左右され、環境に合ったように多くの動物のように 生きているといえる。
作ったものに意思があるとすれば、それはちょうど作ったものの意思に従って生きているだけであるともいえる。― この観点では、人間の自由意思の存在さえ疑わしくなる。自由意志の存在しないところでは是非は 問えず、全ては神域に属することになる。
人間は生物であり、動物であり、生物や動物の本能、生きること、種の繁栄を求め、そして、人間存在の原理、感動することを求め、真智への愛などが人間の基本である。
男女の愛、家族愛、真理の追究、好奇心、新規なものに興味を抱く、愛国心や名誉心、褒められたいなどの基本的な欲求も 作ったものの意図 を想像すれば、極めて当然で、人間の本性が顕にみえてくるだろう。そのような意味では、人間すらロボットや多くの動物、子供たちのようにみえてくる。
そのような意味では、善人も悪人も 分けた意味では 本質的には存在せず、みな本質的には同じような存在であるといえよう。たまたま悪い条件、環境で育ち、歪められた精神を有して、誰でも願う基本的な欲求が満たされず、自己中心的に行動してしまう状況に追い込まれてしまっているといえる。
多くの独裁者や権力者が 自分の生命、家族を守るためなど、極めて基本的なものを守るために、異常に権力を志向して おかしい状況に追い込まれてしまっている様を本質的にみることができるだろう。裕福なものや高官達も本質的には同じようではないだろうか。基本的なこと、基本的なところを守るために過剰に発想(行動)してしまい、おかしな状況に追い込まれている様を多くみることが出来るだろう。― 庶民から見れば、おかしな異常感覚にみえる状況は世に多いのではないだろうか。
そのような視点からみえてくる人間とは、いじらしい人間である。作ったものの定められた原理に忠実に従い、行き過ぎた存在、そのような意味で、いじらしい人間として、共感、共鳴、理解できれば、俗にいう悪い人も許せる大きな心を持てるのではないだろうか。広い視野と慈しみのような心を 同じ運命を共有している者として持てるのではないだろうか。
世の悪の素とは、身勝手になってしまい、自己中心に考えてしまうことではないだろうか。
それは余裕が無い状況ともいえる。そのような意味では、 良い社会を作る原理は 次に述べられている 公正の原則にあるといえる:

再生核研究所声明1(2007.1.27): 良い社会を作るには。

作られた人間、いじらしい人間といえば、生命の基本定理、生きて存在しなければ始まらない、いつまでも存在していたい、生きていたい という原理に人間は縛られていて、この原理から、解放されず、いつまでも縛られている、哀しい人間のことである。次も参照:

再生核研究所声明301(2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か

哀しくとも、浅ましい存在ではなくて、賢明で爽やかな存在になりたい。
以 上


再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)

世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:

平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました. 
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか. 
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか. 
3) それはみんなに受け入れられるか.  
4) それは安定的に実現可能か. 
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる. 
(再生核研究所声明1)。

相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。

以 上

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