聖闘士星矢 のパワーの源は、実は仏教的思想の中に秘められていた?
聖闘士星矢は30代以上の男性でしたら誰もが知る少年ア漫画・アニメです。決して今時ではない熱い主人公の星矢、彼がアテネとなった少女の聖闘士として対立する組織との戦いに身を投じる物語です。
西洋的な見た目に関わらず仏教用語が多く考え方は東洋的な 聖闘士星矢
舞台となるアテネの神殿もギリシャの実在の場所をモデルにしており、守護星座によるそれぞれのキャラクターの役割や武術、武装の割り当てもギリシャ神話の設定を元にしています。物語に登場する見た目では西洋的な設定になっていますが、その中でキャラクターの戦う力として使われている力の源『コスモ』の考え方や彼らの存在する世界の捉え方などは、多くの仏教用語が使われています。
深く考えれば考えるほど難しくなる聖闘士星矢の思想について考えてみます。
コスモと仏教用語の関係
このコスモについて物語後半の『冥界編』という部分で細かい設定が明らかになります。
作中にはコスモにはその強さの段階がありセブンセンシズ(未那識)と言われる目に見えない力の源、その強さの段階を持つものを聖闘士としています。更に次の段階のエイトセンシズ(阿頼耶識)と言われる段階に達していないと『冥界編』の敵の本拠地である冥界(死後の世界)で自由に行動する事ができないとされています。
仏教用語にも八識という、私たち人間の物事の捉え方や考え方についての段階があります。それぞれ①視覚である眼識(げんしき)、②聴覚の耳識(にしき)、③嗅覚の鼻識(びしき)、④味覚の舌識(ぜつしき)、⑤触覚にあたる身識(しんしき)の5つはいわゆる身近な五感です。その次の段階⑥意識(いしき)、これは自分の意識的な考え方になります。そして⑦未那識(まなしき)という潜在意識があり、普段自分では意識していない事を無意識的に考えている事とあります。
最後に⑧阿頼耶識(あらやしき)という①~⑤の五感と⑥の意識、⑦の潜在意識である未那識を生み出す土台とされています。
これらを私たち自身の心と生活する社会との関わりで考えますと、①の眼識が最も社会の外側を捉えています。視覚は自分から数100~1000m先を認識していますが、⑤の触覚は体に触れたもの、つまり0mの認識になります。
更に五感を超えた⑥の意識は自分の考えであるため自分の中にあり、⑦の未那識は潜在意識のため更に心の内側にあります。⑧の阿頼耶識に限っては心のどこにあるかは自分たちで自覚することはできません。
画像引用元:©車田正美/集英社・東映アニメーション
なぜ冥界ハーデス編からエイトセンシズ(阿頼耶識)が必要なのか?
死後の世界についての著書は多々ありますが、我々日本人に最も身近で正確に書かれているのは仏教の経典と言えるでしょう。経典の解説を書いてしまうと、また別の話題になってしまいますので止めておきます。お坊さんや研究者の書かれた正確な仏教の本も多く出ているので知りたい方は読まれるといいかと思います。
先ほどお話した中で出てきた『冥界』と言う敵側の本拠地ですが、東洋的な『地獄』と同じものと考えます。作中でも死後の人間が罪の重さにより刑罰を受けていますので同じものと考えて良いでしょう。私たちに身近な仏教の地獄でも罪の重さに応じた死後の生まれ変わり先とされており、もちろん勝手に行くことはできません。冥界も作中のキャラクターの発言からも「生きたまま行くことはできない」「死んでから行けば死者と同じように冥界の法則通りに扱われてしまう」とあります。
そこへ生きたまま行き、自由に行動できる方法はエイトセンシズ(阿頼耶識)を目覚めさせる事になります。
この世で私たちに先ほどの①~⑤の視覚や聴覚の五感がないと、正確にこの世の情報を得ることができず不自由な生活となってしまう事と同じように、あの世では阿頼耶識がなければ正確な情報が得られない。つまりは、この世で言う視覚や聴覚を失った状態となるため行動が制限されると考えられます。おそらく普通の死者は阿頼耶識を目覚めさせる事ができずにいるため、自分が裁かれている状況を正確に受け入れる事ができず地獄で苦しんでいるのでしょう。
作中でも同様にエイトセンシズ(阿頼耶識)に目覚めていなければ、冥界での自分の状況を正しく認識できないため自由に行動ができない事になります。
主人公星矢たち聖闘士は、冥界へ行く直前で「ん?目覚めた」と簡単に阿頼耶識に目覚めていますが、現実の世界に生きる私たちは相当な修行をしなければ身につけられない、もしくは1人だけでは何をしても身につけられない認識の力なのかもしれません。
男性に人気の聖闘士星矢、この物語は西洋的な舞台設定でありながら東洋的な思想が多く組み込まれています。作中に登場する星矢たち聖闘士の強さの源『コスモ』、この力がどのようなものかの原点には実は仏教の考え方の1つにありました。作中でコスモとされているのは仏教の八段階の意識の1つ未那識(作中ではエイトセンシズ)、コスモの最終段階とされるのは阿頼耶識(エイトセンシズ)。ただ技の威力を高めるだけではなく、冥界編においてなぜエイトセンシズが必要なのかを考えてみましたが、如何だったでしょうか?
いつもとは違う視点で人気アニメを見て見ると、また新たな発見があって面白いものですね。
子供の頃よく見ていました:
再生核研究所声明297(2016.05.19) 豊かなゼロ、空の世界、隠れた未知の世界
ゼロ除算の研究を進めているが、微分方程式のある項を落とした場合の解と落とす前の解を結び付ける具体的な方法として、ゼロ除算の解析の具体的な応用がある事が分かった。この事実は、広く世の現象として、面白い視点に気づかせたので、普遍的な現象として、生きた形で表現したい。
ある項を落とした微分方程式とは、逆に言えば、与えられた微分方程式はさらに 複雑な微分方程式において、沢山の項を落として考えられた簡略の微分方程式であると考えられる。どのくらいの項を落としたかと考えれば、限りない項が存在して、殆どがゼロとして消された微分方程式であると見なせる。この意味で、ゼロの世界は限りなく広がっていると考えられる。
消された見えない世界は ゼロの世界、空、ある隠された世界として、無限に存在していると考えられる。たまたま、現れた項が 表現する物理現象を記述していると言える。
これは、地球に繁茂する動植物が、大海や大地から、生まれては、それらに回帰する現象と同様と言える。大量に発生した卵の極一部がそれぞれの生物に成長して、やがて元の世界に戻り、豊かな大海や大地は生命の存在の元、隠れた存在の大いなる世界であると考えられる。無数の生命の発生と回帰した世界の様は 生物、生体の様の変化は捉えられても、人間の精神活用や生命の生命活動の様の精しい様などは 殆ど何も分からない存在であると言える。我々の認知した世界と発生して来た世界と消えて行った認知できない世界である。
このような視点で、人間にとって最も大事なことは 何だろうか。それは、個々の人間も、人類も 大きな存在の中の小さな存在であることを先ず自覚して、背後に存在する大いなる基礎、環境に畏敬の念を抱き、謙虚さを保つことではないだろうか。この視点では日本古来の神道の精神こそ、宗教の原点として大事では ないだろうか。未知なる自然に対する畏敬の念である。実際、日本でも、世界各地でも人工物を建設するとき、神事を行い、神の許しを求めてきたものである。その心は大いなる存在と人間の調和を志向する意味で人間存在の原理ではないだろうか。それはそもそも 原罪の概念そのものであると言える。
しかしながら、人類が好きなように生きたいも道理であり、巨大都市を建設して、環境を汚染して生存を享受したいも道理であるから、それらの一面も否定できず、それは結局全体的な有り様の中でのバランスの問題ではないだろうか。人類の進化の面には必然的に人類絶滅の要素が内在していると考えられる:
再生核研究所声明 144(2013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
そこで、結局は全体的な調和、バランスの問題である:
再生核研究所声明 56: アースデイ の理念
発想における最も大事なことに触れたが、表現したかった元を回想したい。― それは存在と非存在の間の微妙な有り様と非存在の認知できない限りない世界に想いを致す心情そのものであった。無数とも言える人間の想いはどこに消えて行ったのだろうか。先も分からず、由来も分からない。世の中は雲のような存在であると言える。
以 上
再生核研究所声明257 (2015.11.05)
無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点
(道脇さんたちの、和算の伝統を感じさせるような、何とも 言えない魅力 がありますね。 添付のように完成させたい。例の専門家たち、驚いて対応を検討しているのでは?どんどん、事情がみえてきました. 今朝の疑問も きれいに散歩中 8時15分 ころ、解決できました.成文化したい。2015.11.1.9:7
無限遠点の値の意味を 約1年半ぶりに 神は関数値を平均値として認識する で 理解できました。今、気になるのは,どうして、正の無限 負の無限、および ゼロが近いのかです。その近いという意味を、 正確に理解できない。 近い事実は 添付する 電柱の左右の傾きに現れている。
log 0=0
と定義するのが 自然ですが、それには、 ゼロと マイナス無限大 が一致しているとも言える。 そのところが 不明、何か新しい概念、考え 哲学が 求められている???
2015.11.1.05:50)
ローラン展開の正則部の値の解釈のように(再生核研究所声明255 (2015.11.03) 神は、平均値として関数値を認識する)、実は当たり前だったのに、認識がおかしかったことに気づいたので、正確に表現したい。
まず、正の無限大とは何だろうか。 1,2,3,…… といけば、正の整数は 正の無限大に収束、あるいは発散すると表現するだろう。 この正確な意味は イプシロン、デルタ論法という表現で厳格に表現される。すなわち、 どんなに大きな 整数 n をとっても、あるN を取れば(存在して)、N より大の 全ての整数 m に対して、n < m が成り立つと定義できる。 いろいろな設定で、このようにして、無限は定義できる。 どんなに大きな数に対しても、より大の整数が存在する。 それでは、+∞ とは何だろうか。 限りなく大きな数の先を表す概念であることが分かる。 大事な視点は +∞は 定まった数ではなくて、極限で考えられたもので、近づいていく先を表した状況で考えられていることである。 これらの概念は極限の概念として、現代数学で厳格に定義され、その概念は新しいゼロ除算の世界でも、全て適切で、もちろん正しい。
簡単な具体例で説明しよう。 関数y=1/x のグラフはよく知られているように、正の実軸からゼロに近づけば、+∞に発散し、負からゼロに近づけば、-∞に発散する。 ところが、原点では、既に述べてきたように、その関数値はゼロである。 この状況を見て、0、+∞、-∞ らが近い、あるいは 一致していると誤解してはならない。+∞、-∞ らは数ではなく、どんどん大きくなる極限値や、どんどん小さくなる極限値を表しているのであって、それらの先、原点では突然にゼロにとんでいる 強力な不連続性を示しているのである。
複素解析における無限遠点も同様であって、立体射影で複素平面はリーマン球面に射影されるが、無限遠点とは あらゆる方向で原点から限りなく遠ざかった時に、想像上の点が存在するとして、その射影としてりーマン球面上の北極を対応させる。 関数W=1/z は原点でその点が対応すると、解析関数論では考え、原点で一位の極をとると表現してきた。
しかしながら、新しく発見されたゼロ除算では、1/0=0 であり 原点には、ゼロが対応すると言っている。 これは矛盾ではなくて、上記、一位の極とは、原点に近づけは、限りなく無限遠点に近づく、あるいは発散するという、従来の厳格議論はそのままであるが、ゼロ除算は、原点自身では、数としてゼロの値をきちんとして取っているということである。 この区別をきちんとすれば、従来の概念とゼロ除算はしっかりとした位置づけができる。 近づく値とそこにおける値の区別である。
以 上
再生核研究所声明295(2016.04.07) 無限の先にあるもの、永遠の先にあるもの ―盲点
セロ除算は新しい空間像をもたらしたので、いろいろな面から論じ、例えば、再生核研究所声明 271(2016.01.04): 永遠は、無限は確かに見えるが、不思議な現象 の中で、次のように述べた。
直線を どこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか。立体射影の考えで、全直線は 球面上 北極、無限遠点を通る無限遠点を除く円にちょうど写るから、我々は、無限も、永遠も明確に見える、捉えることができると言える。 数学的な解説などは下記を参照:
再生核研究所声明264 (2015.12.23):永遠とは何か―永遠から
再生核研究所声明257(2015.11.05):無限大とは何か、無限遠点とは何か―新しい視点
再生核研究所声明232(2015.5.26):無限大とは何か、無限遠点とは何か―驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明262(2015.12.09)::宇宙回帰説―ゼロ除算の拓いた世界観
とにかく、全直線が まるまる見える、立体射影の考えは、実に楽しく、面白いと言える。この考えは、美しい複素解析学を支える100年以上の伝統を持つ、私たちの空間に対する認識であった。これは永劫回帰の思想を裏付ける世界観を 楽しく表現していると考えて来た。
ところが、2014.2.2.に発見されたゼロ除算は、何とその無限遠点が、実は原点に一致しているという、事実を示している。それが、我々の数学であり、我々の世界を表現しているという。数学的にも、物理的にもいろいろ それらを保証する事実が明らかにされた。これは世界観を変える、世界史的な事件と考えられる:
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
現在、まるで、宗教論争のような状態と言えるが、問題は、無限の彼方、無限遠点がどうして、突然、原点に戻っているかという、強力な不連続性の現象である。複数のEUの数学者に直接意見を伺ったところ、アリストテレスの世界観、世は連続であるに背馳して、そのような世界観、数学は受け入れられないと まるで、魔物でも見るかのように表情を歪めたものである。新しい数学は いろいろ証拠的な現象が沢山発見されたものの、まるで、マインドコントロールにでもかかったかのように 新しい数学を避けているように感じられる。数学的な内容は せいぜい高校生レベルの内容であるにも関わらず、考え方、予断、思い込み、発想の違いの為に、受けいれられない状況がある。
この声明では 盲点の視点から、強調したい存念を纏めたい。
直線をどこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか? 関数 y = 1/xで 正方向からx がゼロに近づいたらどうなるであろうか? あるいは 同様に上記立体射影で 北極にどんどん近づいたら どうなるであろうか? どんどん進んだらどうなるであろうかという問題である。伝統的で自然な考えは 何に近づくかと発想して、近づいた先、具体的には、無限大や北極に(無限遠点)に行くと考えるのは当然ではないだろうか。この発想の基礎には連続性、あるいは極限値の考え方がある。近づいて行った先が、求める対象であると考えてきた。具体的な関数y = 1/x では 正方向からx がゼロに近づいたら,限りなく大きくなるので、無限大が 1/0 の自然な値であろうと考えてきた。ところがゼロ除算の数学は、突然ゼロであると言っている。驚嘆すべき現象、事件である。北極に近づいた先が北極(無限遠点)であるから,平面上のあらゆる方向の先は、北極(無限遠点)であろうと発想してきたが、実は突然、原点に飛んでいるということが明らかにされた。無限の先は、実はゼロであったという事実である。我々はどんどん近づく先を考えたが、真の先までは考えず、あくまでも近づく先を考えていたことになる。これは無限の先を見てきた時の,それこそ、盲点そのものであったと言えるのではないだろうか。無限の先は、連続性ではなく、実は強力な不連続性、飛びが生じていたという事実である。これは全く、思いがけない、現象である と言える。それは、盲点、あるいは落とし穴があったと表現できよう。
従って、無限の彼方に関する我々の世界観は 大きな変更を要求されることになるだろう。
以 上
Matrices and Division by Zero z/0 = 0
0 件のコメント:
コメントを投稿