2016年2月23日火曜日

いじめを苦に27年間引きこもる43歳男性 社会復帰を目指してマラソンに挑む 2016.2.19 松本ミゾレ

いじめを苦に27年間引きこもる43歳男性 社会復帰を目指してマラソンに挑む
2016.2.19
松本ミゾレ
ニート 仕事 引きこもり



社会復帰を目指す姿に感動

良質なドキュメンタリー番組として、20年間親しまれている「ザ・ノンフィクション」(フジテレビ系)。2月14日には、昨年7月に放送され話題となった内容を、追加取材した特別編「27年ぶりの運動靴~その後~」が放送された。27年間引きこもり続けている43歳の男性とその母親の生活に密着したものだ。

内閣府の調査によると、引きこもりは全国に70万人いるとされているが、特に40代を超えた引きこもりは増加傾向にあるという。番組では、彼の再起までの日々が紹介された。(文:松本ミゾレ)

69歳母の苦悩、息子は長い引きこもりの間にうつ病に…

VTRは、43歳の中年引きこもりを抱える69歳の母親の独白からスタートする。

「親として何をしてやれば良いのかわからなくなって……」

母子は静岡県にある団地の一室で暮らしている。3DKの立派な部屋ではあるが、そこら中に書籍が溜まって足の踏み場もない。息子の直樹さんはずっと家の中に閉じこもりっきり。1人では外に出られない、正真正銘の引きこもりだ。

直樹さんの容貌は、43歳と言われればそう見えるし、未成年と言われればそうも見えてしまう。顔立ちが幼いように感じられた。引きこもっているうちにうつ病を発症し、薬を服用している。

物音に過敏なようで、日中は横になっていても野外から聞こえる些細な音が原因でなかなか寝付けないという。何をするでもなく家の中に篭っていると、体力も消耗しないから寝るのも難しいだろう。

43歳で初めての買い物、停滞した時間が動き出す

直樹さんは、元々かなり活発な性格をしており、中学生時代はサッカー部で活躍していたという。しかし、在学中に足を痛めてしまい、大好きなサッカーを続けることができなくなってしまった。

さらにこの時期、いじめの標的となり、担任も見て見ぬふりをし、友人も彼を助けることはなかった。孤立し、他人が恐ろしく感じた直樹さんは、とうとうある時を境に、外出すらしなくなった。

撮影から半年が経った頃、この親子に変化が生じた。直樹さんが部屋を整理する意思を見せたのだ。家具店を訪れるのは、43年の人生の中で初めてのこと。驚くことに、レジでお金を払うのも初めてだったというが、何とか自力で買い物を完了させた。止まっていた時間が、やっとこさ動き出した。

「初めて。初めてだ。上手くいったね、夢みたいだ」

感慨深そうに、1人の力で棚を組み立てていく。組みあがった棚に、床を覆い尽くしていた本を次々に収納していく。人生、初体験尽くしの1日だ。

マラソンを経て社会復帰を果たし、仕事も始める

そうは言っても、27年続いた暗い日々がそう簡単に終わるものでもない。直樹さんは相変わらず自立する様子は見せず、高齢の母は体力、精神、共に限界を迎えていた。そんなある日、親子は8時間かけて和歌山の山里を訪れる。そこには、社会で生き辛く感じている人々が集う施設があった。

施設の名は「共育学舎」。無料で食事、宿泊が可能で、義務もないコミュニティである。

寝食の心配のないこの施設では、人生に思い悩んだ人々が、全国からやってくるという。

「生きているだけでいい」

この施設の代表、三枝孝之氏にそう言われた直樹さんは、「気が楽になる」と呟き、なんとここでの日々を送るうちに、作業の手伝いも申し出るまでになった。ずっと社会復帰の機会を待ち望んでいたのかもしれない。彼にとって、ここでの生活はそのためのきっかけになったようだ。

再び静岡の自宅に戻った直樹さんは、自立をするためにある決意を固めた。それは地元のマラソン大会に出場して、自分に自信を取り戻すこと。これまで1人では外出もできなかったが、本気で立ち直ろうと考えたのである。思い立ったら後は早かった。

27年ぶりに履く運動靴は朝日に照らされ、直樹さんはたった1人で練習をスタートする。大会当日は大勢の参加者に混じって出走し、道中かなり苦しい局面もあったようだけど、10kmの道のりを見事に踏破した。四半世紀以上にも及んだ暗い日々が、とうとうこのマラソン大会でゴールした瞬間に終わった。

さて、家に引きこもって生活している人は日本中に大勢いるが、どこかでそんな生活を脱却しなければならない日が訪れる。周囲が自立の手助けをしてくれれば良いが、現実はそう甘くない。いずれは直樹さんのように、自分自身の力で立ち直る決意が必要になる。

番組の終盤では、直樹さんの近況が紹介されている。野菜を卸し、レストランに届けるという仕事を手にした彼は、今ようやく社会復帰を果たした。https://news.careerconnection.jp/?p=20928

再生核研究所声明80(2012.03.20)  挑戦 とは 何か

(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。 
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。 
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。

以 上

再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。

以 上

再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴

(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。

以 上








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