2016年2月29日月曜日

重力波だけではなかった! アインシュタインが予言した“終末”が恐すぎる 「第四次世界大戦後、人類はバケモノに…」 2016.02.28

重力波だけではなかった! アインシュタインが予言した“終末”が恐すぎる 「第四次世界大戦後、人類はバケモノに…」
2016.02.28

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■重力波って何?

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※イメージ画像:『アインシュタインの予言』(共立出版)
 天才物理学者であるアルベルト・アインシュタイン(1879~1955年)が、100年前に存在を予言した「重力波」。これまで観測が難しいとされてきたが、なんとアメリカの重力波検出器「LIGO」によって初めて「重力波」の検出に成功したのだ。これは「ノーベル賞級の成果」という。

「世紀の大発見」と世界的に報じられたが、サイエンスに縁遠い人々にとっては、その重要性がさっぱり分からない。「重力波」って、宇宙戦艦ヤマトの「波動砲」みたいなものなのだろうか…? なんて思う人も多いだろう。

「重力波」とは、質量を持つ物体が動いた時に、周囲の時間や空間が歪み、波のように伝わる現象である。我々人間や身の回りの物すべてには、「質量」があるため、手を回しても発生するのだが、その「重力波」は小さすぎて観測するのは非常に難しい。

 今回、直接観測されたのは、「地球から13億光年離れたふたつのブラックホールが合体した時に放出された重力波」であった。このブラックホールはそれぞれ、太陽の質量の36倍と29倍のもの。それが衝突・合体し、さらに巨大な62倍のブラックホールができた。しかし、これでも地球に伝わった「重力波」による時空の歪みは、地球から太陽の距離(約1億5000万 km)の間が、原子1個分変化する程度だったという。つまりは、メッチャデカイ規模の現象が観測されても、メッチャクチャ小さな反応しかないということだ。

 この反応を発見するために、世界中の研究機関が巨額の資金を投じて必死になっていたのだから、今回の成果は学術的には狂喜乱舞するものに違いない。

 ハッキリ言って今すぐ我々の生活に役立つことではない。だが「重力波」の観測成功で「時間や空間の伸び縮み」が実証された。これからの天文学の発展にもつながるだろう。

 アインシュタインが1916年に発表した時空・空間に関する理論、「一般相対性理論」でこれまで予言した以下の項目はすべて直接検証された。

・重力レンズ効果
・重力による赤方偏移
・水星の近日点移動
・時間の遅れ

 ただ、「重力波」は直接検証されなかったため、「アインシュタイン最後の宿題」ともいわれていたのである。しかし、やっと「重力波」の存在が証明された。アインシュタインの予言は、発表から奇しくも100年後に成就したのである。

 しかし、この「重力波」以外に、アインシュタインが人類に残した恐るべき終末予言をご存知であろうか?http://tocana.jp/2016/02/post_8979_entry.html


再生核研究所声明289(2016.02.26)  終末の心得

8歳の少年から、巨大素数の構造に興味があると聞いたときには驚かされた。生まれながらの感性と言えるものも確かにあるように感じられる。思えば、子どもの頃 星空を見るのが好きで、宇宙の営みの壮大さと人間の生涯の儚さを知って、そもそも人生の意義とは何だろうかという疑問を懐いたが そのころから永い歳月が夢のように過ぎた。気づいてみれば、何の変化も、進歩というほどのこともなく、在るように感じられる。しかしながら、結局,人生とはどのようでも結局は同じようなものであるという心境にいたれば、 それはそれで相当に良い状況であると言える。それは生まれたからには、人生を肯定したいという 誰しも懐くであろう心境だからである。
宗教関係者は あるいは宗教や信仰に興味を懐く人は、いろいろ心の準備や人間の在り様の心構えを,あるいはそのための修行の必要性を感じるかも知れない。しかし 結局はみな同じようではないだろうか。心の在りようには個性があって それぞれに 自分に合ったように考えるのが良いのではないだろうか。
そこで、内省の状況について 心の持ちようについての最近の心境を表現してみたい。
まずは、神の概念を想起したい。人間はなにものかによって作られたものであり、人間は生まれる前も、終末の後も、気づいてみれば、生きている現在ですら、定かには分からず、ただ本能に従って生かされているだけである。生きているだけである。それはちょうど母親の懐にあって、ぼんやり生きているような存在である。真智への愛と言っても、求道と言っても 食欲などと本質的に変わらないと言える。そこでは 人間も、動物も、植物も、草木や花も みな同じような存在にみえる。それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流さられるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。それゆえに われわれは良くは分からないが 大いなるものに愛されていると感じられる者は まこと幸せではないだろうか。心から祈り、祈れるものは幸せであるといえる。そのような意味で、古代人は幸せな存在であったともいえる。大自然とともに在ったからである。― 無明であるだけ、それだけ幸せな面が、明暗のようにあるように感じられる。
深い確信にいたらずとも、そもそも人類、地球といっても 所詮小さな 儚い存在であり、この世で拘るようなものは 何もない事実を、真実をしっかりと見つめれば、大きな自由を得て、安らかな終末を迎えられるのではないだろうか。そのとき、人生を、希なる機会として、肯定できるだろう。
そのような心境では、世界は より良く見えて、世の美しさと 人類の愚かさを実感できるのではないだろうか? 愚かな人類の世界史を恥ずかしく想起したい。
以 上


再生核研究所声明288(2016.02.19) 戦友達 ― 共生、共感、共鳴

(ある構想が湧いたのであるが、大きな課題 纏めて表現は難しいが その時の直感を表現してみたい)
人間は作られたものであり、本質は動物も、生物も変わりはない。生物共通の課題は生、死で、それはゼロ除算におけるゼロと無限のように紙一重で微妙な関係にある。人間に与えられた意識の中における、滅することに対する存念、畏れは、生命作用の裏腹なる存在である。
恥ずかしい人類の世界史とは、ほとんど生命の本能に基づく 生存と基本的な欲求のために、不条理で、愚かな戦いを繰り返してきた事実にある。地球規模で見れば、人類は地球の生態系を破壊する癌細胞のように見えるだろう。人類は野生動物にも劣る、猿知恵以下の悪しき知能で、分を弁えない失敗作となっている可能性も高い。恥ずかしい。
戦争や戦いは、暗い人類の先史時代の物語として、恥ずかしい世界史上のこととして終わらしめ、明るい新しい時代を切り拓きたい。神をも震撼させるような美しい文化、世界史を描きたいものである。
この世に生を享けて、盲目的に戦場に駆り立てられ、生命を肯定することもできずに、亡くなって行った人々、それは敵、味方なく、我々の戦友たちであり、生命と定めを共有する我々の仲間たちである。人間は動物、生物と同様であり、生物の本能を満たしたい、そのために空腹を満たし、快適な環境で暮らし、家族や仲間たちと共感、共鳴したい。しかしながら、悪しき時代にはそれらの基本も満たされず、人生を閉じて行った人々は世に多い。それらの仲間たちに、彼らの無念さを 戦友たちへの思いのように、人類の世界に対する無念さとともに頭を垂れてしまう。今尚、そのような意味で、悪しき時代が続いていると言える。
しかしながら、そもそも人生とは、平和で文化が進んでも、生活がいくら改善されても、本質的に 戦場そのものであり、世代交代の様は 何ら戦場と変わりないことを示していることが実感される。
そこで、ある年代に至れば、仲間たちが次々とこの世から去っていき、上手く人生、世界を肯定して、安からに魂を天に返すことができただろうか という、情感が湧いてくる。
いろいろ共通の出会いや関係を持った人々、同じ時代を生きた人々に 共通の運命を感じ、同じ時代を生きたものとして、共感、共鳴し、人生、世界を肯定し、大いなるもののうちに上手く回帰されたか との想いが湧いてくる。
そのとき、もはや、過去の競争、諍いなど余りにも小さく、愚かしいことのように感じられる。
そこで、人々よ、そこから、人間として誇れる、新しい 世界史を、世界を切り拓いて行こうではないか。その原理は気づいてみれば ゼロ除算のように当たり前であり、公正の原理に基づく、生命の共感、共鳴、共生の原理で 十分である。思えば、2000年以上も前に 既に諭されていた聖人たちの教えそのものではないだろうか。まこと、聖人たちの教えに回帰したい。

以 上

再生核研究所声明287(2016.02.12) 神秘的なゼロ除算の歴史―数学界で見捨てられていたゼロ除算
(最近 相当 ゼロ除算について幅広く歴史、状況について調べている。)
ゼロ除算とは ゼロで割ることを考えることである。ゼロがインドで628年に記録され、現代数学の四則演算ができていたが、そのとき、既にゼロで割ることか考えられていた。しかしながら、その後1300年を超えてずっと我々の研究成果以外解決には至っていないと言える。実に面白いのは、628年の時に、ゼロ除算は正解と判断される結果1/0=0が期待されていたということである。さらに、詳しく歴史を調べているC.B. Boyer氏の視点では、ゼロ除算を最初に考えたのはアリストテレスであると判断され、アリストテレスは ゼロ除算は不可能であると判断していたという。― 真空で比を考えること、ゼロで割ることはできない。アリストテレスの世界観は 2000年を超えて現代にも及び、我々の得たゼロ除算はアリストテレスの 世界は連続である に反しているので受け入れられないと 複数の数学者が言明されたり、情感でゼロ除算は受け入れられないという人は結構多い。
数学界では,オイラーが積極的に1/0 は無限であるという論文を書き、その誤りを論じた論文がある。アーベルも記号として、それを無限と表し、リーマンもその流れで無限遠点の概念を持ち、リーマン球面を考えている。これらの思想は現代でも踏襲され、超古典アルフォースの複素解析の本にもしっかりと受け継がれている。現代数学の世界の常識である。これらが畏れ多い天才たちの足跡である。こうなると、ゼロ除算は数学的に確定し、何びとと雖も疑うことのない、数学的真実であると考えるのは至極当然である。― ゼロ除算はそのような重い歴史で、数学界では見捨てられていた問題であると言える。
しかしながら、現在に至るも ゼロ除算は広い世界で話題になっている。 まず、顕著な研究者たちの議論を紹介したい:

論理、計算機科学、代数的な体の構造の問題(J. A. Bergstra, Y. Hirshfeld and J. V. Tucker)、
特殊相対性の理論とゼロ除算の関係(J. P. Barukcic and I. Barukcic)、
計算器がゼロ除算に会うと実害が起きることから、ゼロ除算回避の視点から、ゼロ除算の研究(T. S. Reis and James A.D.W. Anderson)。
またフランスでも、奇怪な抽象的な世界を建設している人たちがいるが、個人レベルでもいろいろ奇怪な議論をしている人があとを立たない。また、数学界の難問リーマン予想に関係しているという。

直接議論を行っているところであるが、ゼロ除算で大きな広い話題は 特殊相対性理論、一般相対性理論の関係である。実際、物理とゼロ除算の関係はアリストテレス以来、ニュートン、アインシュタインの中心的な課題で、それはアインシュタインの次の意味深長な言葉で表現される:

Albert Einstein:
Blackholes are where God divided by zero.
I don’t believe in mathematics.
George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} [1]:
1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

数学では不可能である、あるいは無限遠点と確定していた数学、それでも話題が尽きなかったゼロ除算、それが予想外の偶然性から、思いがけない結果、ゼロ除算は一般化された除算,分数の意味で、何時でも唯一つに定まり、解は何時でもゼロであるという、美しい結果が発見された。いろいろ具体的な例を上げて、我々の世界に直接関係する数学で、結果は確定的であるとして、世界の公認を要請している:
再生核研究所声明280(2016.01.29) ゼロ除算の公認、認知を求める
Announcement 282: The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday

詳しい解説も次で行っている:
○ 堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える(18)
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku

以 上


何故ゼロ除算が不可能であったか理由

1 割り算を掛け算の逆と考えた事
2 極限で考えようとした事
3 教科書やあらゆる文献が、不可能であると書いてあるので、みんなそう思った。







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