2016年2月8日月曜日

再生核研究所声明283 (2016.2.8)  受験勉強が過熱化した場合の危惧について

再生核研究所声明283 (2016.2.8)  受験勉強が過熱化した場合の危惧について

再生核研究所は 教育の在るべき姿について、関心が強く、次のような見解を述べて来た:

再生核研究所声明2:中国古代の教育
再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明44: 梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18):日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27): 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明218(2015.3.19): 興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254(2015.11.2) : 愛が無ければ観えない ― について、 更に
再生核研究所声明260(2015.12.07): 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害

最近、奇妙に気になる存念がわいてきたので、率直に表現したい。
もちろん、教育の理念は 良き社会人の育成と個人の生命を生かす為の補助にある。そこで、問題は、それらの教育の本質的な目標から乖離して、現実的な問題として、大学おける選抜の
技術的な観点から、受験のための特訓が永く続く状況が 顕になってきている現実である。次のような客観的なデータから見られる問題点を考えたい:

ある相当に有名な国立大学では、入学者の東京都出身の割合が80%を超えたということ、
また、有名高校や塾の入学者 の割合いの増大。

まずは、このようなデータの解析を 詳しい調査を、日本の教育のあり様の現実を正確に把握できるように 行うことを関係機関に要請したい。それらが、弊害と考えられる点は:

1) 特訓のやりすぎで、創造性の精神や感性を傷つけ、才能を殺してしまっている現実はないだろうか。優秀な才能の持ち主で、思考や思索を深めたいのに 当分受験勉強で気を回せないで苦しんでいる現実がある。
2) 地域や経済的な豊かさが受験の有利さに反映して、多様な世界からの入学者を制限してしまう危惧はないだろうか。
3) 厳しい受験となると選抜される学生の均一さを招き、多様な才能や性格の人間を集めることが難しくなるのでは。
4) ある程度の競争は 現実には避けられず、必要でもあるが、過熱化すると 生涯競争意識ばかり強い、人格の歪みを大きくするようなことはないだろうか。
5) 人生の晩年で、受験勉強のやりすぎの影響で、健康を害したり、活力を失ってしまう現実はないだろうか。

いわゆる名門大学の卒業生が 必ずしも幸せな人生を送っていなく 逆に不幸な人生を送っているような状況は無いか、関係機関は教育の現状を把握するために調査する必要があるのではないだろうか。
以上の危惧は 要するに 勉学のやりすぎで、全人的な人間としての成長を歪めているのではないかと言う、危惧である。何事、長期に亘る、やりすぎ、集中しすぎは良くはないのではないだろうか。
大学のあり様としても、富士山型の大学の序列よりも、八ヶ岳方式に 分散型の方が良いとは、かつて尊敬していた物理学者の 言葉であるが、何時も思い出される。

再生核研究所声明260(2015.12.07)で述べた危惧の纏めを述べて置こう:

1) 1): みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2) 2): 創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3) 3): 優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4) 4): 特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5) 4): 厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6) 5): 入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7)   危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、

等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。
以 上
2016.2.4.15:40
2016.2.4.20:20
2016.2.5.06:10
2016.2.5.13:55
2016.2.5.21:14
2016.2.6.05:30
2016.2.7.06:30
2016.2.7.19:15
2016.2.8.06:08 良い。
2016.2.8.06:45 完成、公表。











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