2016年2月4日木曜日

清原容疑者 ブログに離婚後の寂しさ吐露 2月3日 13時32分

清原容疑者 ブログに離婚後の寂しさ吐露
2月3日 13時32分

清原容疑者 ブログに離婚後の寂しさ吐露
覚醒剤を所持していたとして逮捕された清原容疑者は、去年11月に立ち上げた公式ブログでほぼ毎日、日々の出来事や心境などをつづっていました。とりわけ、離婚して以来、なかなか会うことが出来ない息子たちへの思いや1人で過ごす日々の心境をたびたび吐露しています。
去年12月14日の記載では「久しぶりに息子達3人で焼き肉を食べた あっと言う間に時間が過ぎた 別れ際に最後まで手を振る2人に涙がでた 今、1人ぼっちで部屋にいる 今年はあと一回だけ さみしい」と記しています。
そして、先月10日には、「今日約3週間ぶりに息子達とご飯を食べた 嬉しかった 本当に会いたかった 息子達の笑顔や笑い声、生きていて良かった これからも息子達の成長を生き甲斐に生き抜こう」と記し、前を向こうとする心境をつづっていました。
そして、逮捕される前日の今月1日、「知り合いに絵を書いてもらった 結構似てる」と記していたのがブログの最後の書き込みでした。
長嶋さんのことばもブログに
清原容疑者はブログを去年の11月25日から始めていて最初の日には「あの運命のドラフト11月20日から30年が経ち、新たなスタートをしたいと思います」とブログを始めた理由を記していました。
先月11日には、巨人時代の監督だった長嶋茂雄終身名誉監督とプロ野球の名球会のイベントで会ったことについて触れていて、「長嶋さんと握手させて頂いた 長嶋さんは左手で自分の右腕をつかみ自分を引きよせ耳元で君はまだまだ若い頑張るんだぞ 長嶋さんの眼力 左手の力強さに圧倒されただただはいありがとうございます 深々と頭を下げる自分の事を気にかけて頂いていた 涙が出るのを必死で我慢した」などと記していました。
一方、先月19日のブログでは、店でほかの客に笑いながら指をさされたことがあったとしたうえで「完全に頭の中でブチキレる あかん我慢やと歯を食いしばる 完全乱闘モード我慢、我慢 やっぱり、あかん!その瞬間灰皿を叩き割った」などとつづっていました。http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160203/k10010395631000.html

再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
つくられた人間、考えてみれば、人間は気づいたら生まれていた。いつもお腹が空くから、空腹を満たしたい、できれば美味しく気持良いものを頂きたい。寒さも暑すぎるのも嫌で 快適な環境で過ごしたい。これらの気持ちは 多くの動物と同じように 誰でも懐く基本的な要求ではないだろうか。人生の意義は 感動することにある と人生の基本定理で述べた。 しかし、何故、どうして、感動するかと問えば、実はそれらは既に 定められていると言える。空腹を満たしたい、いい感動をしたい、年頃になると恋に目覚めて、注目されたり、思われたりしたい という情念がひとりでに 湧いてくる。これらのほとんどが、定められていて、われわれは多くはそのような情念に動かされて生きていると言える。すなわち、われわれの道は、生きる道は、実は定まっていて、その道を歩まされていると言える。人は何故生きているのかと問えば、多くの人は、 死にたくないから、上記のように生物の本能を満たしたいから、と答えるだろう。もし人間が、生きたくない、死にたいと 本当にそのように感じる心がつくられていれば、人間は生きず、当然、生存できず、人間は滅んでしまうだろう。だから、人間をつくったものは、人間を生かすような仕組みをわれわれに備えているのは当然である。
われわれがつくられた存在であることは 歴然である。誰ひとりとして、自分をつくったものはいなく、基本的なものは与えられ、定められている。われわれが自分で、自分の自由意思で決めた、判断したと言っても、それは良い気持ちや、感動するためなど、天賦のものに従うように働いていると言える。
人間が自由といっても、そのような意味で、われわれはつくられたものの意思に従っているだけの存在であるとも言える。そのような意味で、われわれば だだ生かされているだけの存在だとも言える。少し、哀しくもなるが、良く生きるとは、帰するところ、われわれをつくったものの意思に忠実に従って生きる、ということになる。そこで、われわれが如何につくられているかを よく知ること、そして、それに良く従って生きるのが 良いということになる。
例えば、空腹を満たしたいは、相当に基本的な要求であるから、見方を変えれば、われわれは胃の要求に縛られ、終生胃の要求を満たすように働かされているとも言える。
恋の要求、愛されたい、仲間を増やしたい、友人が欲しい、家族が欲しい、真理を追求したい、などなどみな人間の存在の仕組みに織り込まれていて、我々はそれらに支配されて働かせられていると言える。
人間が、自分が どのようにつくられているかを問うことは、なんじ自らを知れの核心ではないだろうか。人生如何に行くべきかについて、私はどのようにつくられているかと問うのは 良い方法ではないだろうか。この観点では 相当に客観的に科学的な解明を進めることができるのではないだろうか。地についた考え方であると考える。
ここには、人間如何に生きるべきかの原理ばかりではなく、人間が自分をつくったものから完全に解放され、完全な自由を得る原理さえ確かにある。

以 上


再生核研究所声明 274(2016.01.08): 間をとることの重要性、余裕を持とう
ここで述べたいことは、次に相当表れているので先ず、要点を復習したい:

再生核研究所声明234(2015.6.16)西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 雅について

まず、雅の語を確認して置こう: 雅(みやび、まさ〔名乗り〕)とは、上品で優雅なこと。宮廷風・都会風であること。風采の立派なこと。動詞形は「みやぶ」。(ウィキペディア)

本では、弓の名人、源重実が 西行(義清)に雅の意味を説明している。 大事な言葉を引用しよう(その辺の精読を勧めたい):

弓を射るとき、型があり、それから外れると、いかに矢が的を射ぬいても、それは雅の匂いを失う、的に当たるより、むしろ雅であるが大事、雅であることは、この世に花を楽しむ心である、余裕があったとき初めてこの世を楽しもうとする気持ちになる。この楽しもうとする心が雅なのだ、矢を射ること そのことが、好きな人、当たれば嬉しいが、当たらなくても好きな人 そういう人こそが 留まる人、つまり雅である人だ。―― しかしながら、雅とは拘らない、自由に楽しむ姿勢であるから、生や死に拘ることは既に 雅の心に反しているのであるから、相当に高い悟りを表していると言える。――  ガツガツしないで ゆったりと楽しむ心、超然とした心持ち、それが雅と表現できるだろう。 留まる心 だという。―― 世相で言えば、平安時代の貴族の生活は 雅すぎで、現代の世相は ガツガツしすぎているとは言えないだろうか。世相に落ち着きをとり戻したい。

現代の世相は 何か急かされているような状況はないだろうか、それゆえに 自分の世界や、家庭、生活に追われて視野が狭く、相手や他の世界をしっかり観る余裕が無くなっているような状況はないだろうか。もちろん、活動は生命の躍動の原理であるが、活動を質の高いものにするには、明に対して暗、間を、静をきちんと配慮するのが大事ではないだろうか。日本では、お茶の時間です、という良い習慣がある、大事にしたい。
ところで解析的な解とは、厳密解であり、一切の誤差を許さない、それに対して誤差を許す解、近似解を求めるチコノフ正則化法は神秘力を有し、そこからゼロ除算1/0=0を発見したが、解の誤差を許容することによって、良い近似解の構成を格段に簡明にする、哲学的な意義がある。これは何事余裕をもって考えようである。具体的な心得として、社会には何事期限や締め切りがあるものであるが、それらの期限以前に余裕をもって済ませてしまおうという、心得である。期限が迫れば、何かの事情で いろいろ期限のことで余計な気遣いがひとりでに湧いてきて、精神衛生上も 良くない状態に追い込まれるだろう。 もちろん、期限を守れないのは、世の約束、秩序の根幹に抵触することであるから、厳禁であることは 当然である。
急かされた生活、仕事について、先ず、精選、無駄なことや余計なことを排除して、余裕を持つ態度が大事ではないだろうか。精選良いものを少なく、選択するは、省エネの原理であり、間をとる、作る原理ではないだろうか。絶えず、心の整理、整頓に心がけることが 大事ではないだろうか。― ここで最も大事なことは 余計な想像をしないこと、気にしないことである。永遠の意味や宇宙回帰説:

再生核研究所声明262(2015.12.09) 宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観 
再生核研究所声明 264 (2015.12.23):  永遠とは何か ― 永遠から

などは、人生そのものに 余裕を与える 心持ちの原理になるだろう。それらは、人生の目標などが 未来にあるのではなくて、現在にあることを述べている。一歩踏み込めば、ものごとの結果、成果などは 大して意味はなく、活動している過程に意義があること知ることである。
                                     以 上

再生核研究所声明175(2014.8.8)  人間の擁く 大きな虚像



どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。

虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。

そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。

人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。

世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。

多く描く目標や幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。

このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(



再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;

再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 

再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること;

再生核研究所声明86(2012.4.25):  未だ おめでたい人類 - 先史時代;

再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 

再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;

再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;

再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;

再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生

)、



一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。

しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。

人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。

以 上















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