望遠鏡(ぼうえんきょう)とは、遠くにある物体を可視光線・赤外線・X線・電波などの電磁波を捕えて観測する装置である。古くは「遠眼鏡(とおめがね)」とも呼ばれた。
観測に用いられる電磁波の波長により、光学望遠鏡と電波望遠鏡に大別される。電磁波を捕える方式による分類では反射望遠鏡と屈折望遠鏡がある。
目次 [非表示]
1 概論
2 基本
3 歴史
3.1 天体観測
3.2 通信手段
4 種類
5 組み立て式望遠鏡
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
8.1 光学の要素技術
9 外部リンク
概論[編集]
光子、ニュートリノ、重力子としての粒子及び電磁波、ニュートリノ、重力波の波長領域を観測する装置全体を一般には望遠鏡と呼ぶ。特に、遠くにある物体が放つ、それらの粒子・波長を用いて物体像を拡大して観測を行うことを目的に、設計・製造された装置を狭義の望遠鏡とする。また、粒子の検出装置も狭義の望遠鏡とすることがある。
基本[編集]
望遠鏡とは、カメラのレンズと同じようなものであると思えば分かりやすい。ただし口径の大きな対物レンズ(反射式においては反射鏡)と口径が小さい接眼レンズに分かれる。対物レンズは凸レンズであり、接眼レンズが凹レンズであれば正立像が得られる(ガリレオ式望遠鏡)。接眼レンズを凸レンズにすれば倒立像となる(ケプラー式望遠鏡)が、さらに大きな倍率が容易に得られる。これをそのまま天体に向ければ天体望遠鏡となる。
望遠鏡を望遠鏡たらしめているのはその光学系である。姿勢変化、温度変化、風向・風速の変化などが起こってもレンズや反射鏡など光学系の個々のパーツに振動、変形などの影響を与えないことが求められる。望遠鏡光学系をその支持機構ごと支え、天球上の任意の位置に向ける装置を「架台」と呼ぶ。架台はスムーズに駆動し、長時間にわたって高精度で天体を追尾できなければならない。天体が発する光は、一般に非常に弱く、詳しい分析に耐えるほどの光量を集めようとすれば、大望遠鏡を持ってしても何時間の露出が必要となることが珍しくないからである。近年、より深く宇宙を探査するために、ますます大型の望遠鏡や観測装置が必要とされるようになってきている。
大望遠鏡においては、巨大な光学素子をいかにコンパクトで軽量かつ堅牢な架台で支えるかが重要となってくる。架台がコンパクトで軽量になるほど、その駆動機構への負担が軽減され、望遠鏡全体を覆うドームや建物などの建設コストも下げられる。また、架台の堅牢性の向上にも繋がり、指向・追尾性能を向上させることにもなる。架台のコンパクト化を図るためには、反射望遠鏡においては、その主鏡の焦点口径比(F値)を小さくし、明るい光学系とすることが肝要である。近年の大望遠鏡は、F比の小さい主鏡を製作する技術が進歩したことによって、建設が可能となったとも言える。
歴史[編集]
ナポリのジャンバッティスタ・デッラ・ポルタの『博学史』(1589年、20巻)の17巻の10章が望遠鏡についての記述がある(ヨハネス・ケプラーの『屈折光学』(1611年)にもデラ・ポルタが20年前に望遠鏡を発明したと記述されている)。ネーデルラント連邦共和国のベックマン(ヤンセンの息子サカリアセンからレンズ研磨を習った)の日誌によると、1604年にミデルブルフの眼鏡職人サハリアス・ヤンセンがイタリア人の所有の1590年と書かれた望遠鏡を真似て作ったという。シルトリによると自分の客から作り方をならったオランダ、ミッテルブルフの眼鏡職人ハンス・リッペルスハイが「kijker」と命名した2枚のレンズ組み合わせた望遠鏡について1608年10月2日、特許申請をオランダ総督にした。10月14日にはAlkmaarのJ.アドリアンスゾーン・メチウス(Adriaanszoon Metius 、1571年 - 1635年 1598年からフラネカー大学教授)が特許申請を行なった(2年間改良していたという)。この同時申請のため特許はどちらにもおりなかった。リッペルスハイは双眼望遠鏡も作り、またマウリッツ総督の命により900フローリンで軍用望遠鏡を作った。日本においては近藤正斉の『外藩通書』によれば1613年(慶長18年8月4日)に「慶長十八年八月四日、インカラティラ国王ノ使者於駿城御礼申上ル…長一間程之遠眼鏡六里見之ト見ユ」とあり、イギリスのジェームズ1世の使いジョン・セーリスが徳川家康に献上のもの(現徳川美術館所蔵)が最古とされる。[1]
天体観測[編集]
1672年アイザック・ニュートンが王立協会に提供した望遠鏡の複製品。
ウィリアム・ハーシェルの望遠鏡
ガリレオ・ガリレイはハンス・リッペルスハイの発明を知った後、1609年5月に1日で作った望遠鏡を初めて天体に向けた[2]。そのころの接眼レンズは凹レンズで正立像だが、倍率は低いものであった。その後は、目の能力を拡大するために、様々な光学の要素技術開発にともない、様々な種類の天体望遠鏡、フィールドスコープ、双眼鏡等が開発された。19世紀から20世紀にかけて発達した写真技術を使い、肉眼での観察から、より客観的な測定ができる天体観測が行われるようになった。20世紀に入って、電子工学の発展に伴い、光学系としての望遠鏡に附属する観測装置の開発が進んだ。光電効果を利用した光電測光器による光電測光技術が発達し、マイクロチャンネルプレートなどを使った暗視装置が誕生した。現在ではCCDイメージセンサを冷却して撮像する冷却CCDカメラによって100%近い光子を検出できるようになった。また、電磁波領域におけるレーダーや宇宙通信等の測定装置開発から、電波望遠鏡が誕生した。そして、宇宙技術の進展に伴い、人工衛星として宇宙空間に設置する宇宙望遠鏡へと発展を遂げた。それらの要素技術との組み合わせによって、ニュートリノ望遠鏡、重力波望遠鏡等も生まれ、21世紀初頭の現在、全ての波長に対する観測装置が出揃うことになった。
通信手段[編集]
文字コードを表示する信号機を遠方から望遠鏡で読み取る腕木通信に代表される欧米式通信方法、日本で江戸時代に始まり大正初期まで用いられた旗振り通信は、望遠鏡の発明と普及を前提とした通信における過去技術であった。
種類[編集]
天体望遠鏡 - 天体を観察・観測するために作られた望遠鏡。分解能と集光力の両方の性能が重視される。おおまかに分けて屈折式と反射式の2種類があるが、それぞれ一長一短がある。
詳細は「天体望遠鏡」を参照
地上望遠鏡 - 小型の望遠鏡に正立プリズムを付け、鳥や動物、地上風景などを主に観察・観測する物。軽量で防水設計になっていたり、機種によっては手持ちでの使用を考慮してあったりと、取り扱いが簡単になっていることが多い。
詳細は「フィールドスコープ」を参照
ナイトビジョン - 淡い光を電気信号などにて増強するもの。軍事用などで使われる、ほぼ等倍率のものから、天体望遠鏡に取り付けて使うカメラタイプのものまで各種ある。
詳細は「暗視装置」を参照
双眼鏡 - 基本的にはフィールドスコープを2つ並べて立体視できるようにしたものと考えて良いが、天体望遠鏡を2つ並べて、天体を見ることを前提に作られたものもある(双眼望遠鏡と呼ぶことが多い)。
詳細は「双眼鏡」を参照
単眼鏡 - 片手サイズの小さな望遠鏡。
電波望遠鏡 - 宇宙からやってくる微弱な電波を捉える望遠鏡。多くはパラボラアンテナの形をしている。
詳細は「電波望遠鏡」を参照
宇宙望遠鏡 - 軌道上に打ち上げられた望遠鏡。地球大気による電磁波の吸収や像の揺らぎがない。
詳細は「宇宙望遠鏡」を参照
組み立て式望遠鏡[編集]
天文教具として、誰でも手軽に組み立てられる望遠鏡が考案されている。レンズや反射鏡の研磨には、高度な熟練の技術が必要なため[3]、レンズ・反射鏡・接眼レンズ・鏡筒をセットにした教材が販売されている。 趣味用だけではなく、天体観望用の解説書や星座早見環(鏡筒部に印刷された星図に、時刻や日付を合わせると、天の子午線上にある天体を見つけやすくするための、簡易星座早見盤)などもあるので、初めて天体観測や天体観望を行う人にもわかりやすい製品。
国内での主な初心者向けの、組み立て式望遠鏡を製造・販売している会社のリンクを参考までに示す。
オルビィス株式会社テレスコハウス(望遠鏡ショップ)。コルキット。屈折式天体望遠鏡と反射式天体望遠鏡。以前はキング商会(キングジム=キング事務機器とは別会社)として事業を営んでいた頃からの製品で、口径は5cmの屈折式と10cmの反射式のキットからなる。解説書が添付されているので、小学校高学年以上の人には組み立てられるはずということで、1970年代には雑誌『子供の科学』などでも紹介されていた。
大人の科学.net学習研究社刊、大人の科学マガジン。Vol.11及びVol.19が天体望遠鏡。
星の手帖社世界天文年日本委員会と共同開発したケプラー式屈折天体望遠鏡。15倍と35倍の2種類。団体販売を目的にしているため、団体では20ドルで購入できるようにして開発された。最大の目的は、途上国などで理科教育支援などを行う青年海外協力隊や国内の科学館で行う天体教室向けの製品である。個人での購入は星の手帖社他科学館売店やインターネット通販や書店を通じて購入可能である。
脚注[編集]
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^ 齋藤隆一 「望遠鏡は1537年にあったか」(参考文献 斉田博「望遠鏡の発明前後」『星の手帖』(1982年冬号 河手書房新社)他) 季刊『邪馬台国』1993年秋号52号 梓書院 p200-
^ 齋藤隆一 「望遠鏡は1537年にあったか」(参考文献 斉田博「望遠鏡の発明前後」『星の手帖』(1982年冬号 河手書房新社)他) 季刊『邪馬台国』1993年秋号52号 梓書院 p200-
^ ガラスの研磨による反射鏡の自作はアマチュアで何とか可能なレベルであり、材料や解説書の販売が行われている
参考文献[編集]
小林浩一、光の物理、東京大学出版会、2001年
吉田正太郎『天文アマチュアのための望遠鏡光学・反射編』誠文堂新光社 ISBN 4-416-28813-1
吉田正太郎『天文アマチュアのための望遠鏡光学・屈折編』誠文堂新光社 ISBN 4-416-28908-1
日本物理学会編、宇宙を見る新しい目、日本評論社、2004年https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1
再生核研究所声明 271(2016.01.04): 永遠は、無限は確かに見えるが、不思議な現象
直線を どこまでも どこまでも行ったら、どうなるだろうか。立体射影の考えで、全直線は 球面上 北極、無限遠点を通る無限遠点を除く円にちょうど写るから、我々は、無限も、永遠も明確に見える、捉えることができると言える。 数学的な解説などは下記を参照:
再生核研究所声明 264 (2015.12.23):永遠とは何か―永遠から
再生核研究所声明257(2015.11.05): 無限大とは何か、無限遠点とは何か―新しい視点
再生核研究所声明232(2015.5.26): 無限大とは何か、無限遠点とは何か。―驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明262(2015.12.09): 宇宙回帰説―ゼロ除算の拓いた世界観
とにかく、全直線が まるまる見える、立体射影の考えは、実に楽しく、面白いと言える。この考えは、美しい複素解析学を支える100年以上の伝統を持つ、私たちの空間に対する認識であった。これは永劫回帰の思想を裏付ける世界観を 楽しく表現していると考えて来た。
ところが、2014.2.2.に発見されたゼロ除算は、何とその無限遠点が、実は原点に一致しているという、事実を示している。それが、我々の数学であり、我々の世界を表現しているという。数学的にも、物理的にもいろいろ それらを保証する事実が明らかにされた。これは世界観を変える、世界史的な事件と考えられる:
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
現在、まるで、宗教論争のような状態と言えるが、問題は、無限の彼方、無限遠点がどうして、突然、原点に戻っているかという、強力な不連続性の現象である。複数のEUの数学者に直接意見を伺ったところ、アリストテレスの世界観、世は連続であるに背馳して、そのような世界観、数学は受け入れられないと まるで、魔物でも見るかのように表情を歪めたものである。新しい数学は いろいろ証拠的な現象が沢山発見されたものの、まるで、マインドコントロールにでもかかったかのように 新しい数学を避けているように感じられる。数学的な内容は せいぜい高校生レベルの内容であるにも関わらず、考え方、予断、思い込み、発想の違いの為に、受けいれられない状況がある。
発見されてから あと1ヶ月で丸2年目を迎え、いろいろな実証に当たる現象が見つかったので、本年は世界的に 受けいれられることを期待している。
ゼロ除算の発見の遅れは、争いが絶えない世界史と同様に、人類の知能の乏しさの証拠であり、世界史の恥であると考えられる。できないことを、いろいろ考えて出来るようにしてきたのが、数学の偉大なる歴史であったにも関わらず、ゼロでは割れない、割れないとインドで628年ゼロの発見時から問題にされながら1300年以上も 繰り返してきた。余りにも基本的なことであるから、特に、数学者の歴史的な汚点になるものと考える。そのために数学ばかりではなく、物理学や哲学の発展の遅れを招いてきたのは、歴然である。
以 上
再生核研究所声明 264 (2015.12.23): 永遠とは何か ― 永遠から
現代人は 空間とは 座標軸で表される数の組の集合 で表させるものと発想しているだろう。 基礎である直線は 実数を直線上に並べたもの、逆に直線とは 実は 実数全体の表現と考えられる。 すなわち、直線とは 基準点である原点ゼロから、正方向と負方向に正の実数と負の実数が大小関係で順序づけられ無限に双方向に伸びていると考えられる。
そこで、永遠とは 直線に時間を対応させ、限りなく正方向に進んだ先のことを 想像している。どこまでも どこまでも 先に行けばどうなるだろうか。直線上でも、平面上でも である。 砂漠の伝統を有する欧米文化の背景、キリスト教などの背後には、 永遠とは限りなく 果てしなく先にあると発想しているという。 どこまでも、どこまでも きりのない世界である。 ユークリッド幾何学が そのような空間を考えていることは確かである。
ところが四季に恵まれたアジアの民は、限りなく広がる世界に、不安や淋しさを直感して、 正の先と、負の先が一致していて、直線は円で どこまでも どこまでも行くと反対方向から、現在に至り、永遠は繰り返しであると、四季の繰り返し、天空の繰り返し、円運動のように発想して 仄かな安心感を覚えているという。永劫回帰、輪廻の思想を深く懐いている。実に面白いことには 美しい複素解析学では、立体射影の考えによって、直線を球面上の円と表現し、無限遠点の導入によって、 これらの思想を 数学的に厳格に実現させ、全ユークリッド平面の全貌を捉え、無限の彼方さえ捉えることが出来た。 その時 永遠を 確かに捉え、掴むことさえ出来たと言える。立体射影による球面上の北極に 確かに存在すると言える。素晴しい、数学を手に入れていた。この美しい数学は 100年以上もリーマン球面として、複素解析学の基本となってきている。
ところが2014.2.2偶然に発見されたゼロ除算の結果は、この無限遠点が 実は原点に一致していた という衝撃的な事実を述べていた。 永遠、無限の彼方と想像していたら、それが 実は原点に戻っていたという事実である。 それが我々の数学であり、ユークリッド空間の実相である。幾何学の性質や物理的な法則をきちんと説明している、我々の世界の数学である。
それで、永遠や無限遠点、我々の空間の 十分先の考え方、発想を考える必要がある。
無限の先が原点に一致している事実、それを如何に理解すべきであろうか。
それについて、 次のように解説してきた:
再生核研究所声明232(2015.5.26)無限大とは何か、無限遠点とは何か。― 驚嘆すべきゼロ除算の結果
再生核研究所声明257 (2015.11.05) 無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点
再生核研究所声明262 (2015.12.09) 宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観
新しい世界観は 始まりから始まり 最後には 突然戻るということを述べている。 しからば、始めとは何で 終りとは何だろうか。 これについて、 始めも終わりも、質的な変化であると定義できるのではないだろうか。 簡単な数学で万物、universe の現象を説明するのは難しい状況は確かにあるだろう.しかし、ゼロ除算の思想は、新羅万象が絶えず変化して 繰り返している様を表現しているように感じられる。
大事な人生の視点は 今日は 明日のためや遠い未来のためにあるのではなく、 現在、現在における在るべき適切な在りようが大事だと言っているようである。もちろん、現在は、未来と過去に関係する存在であり、それらは関係付けられ、繋がっているが 焦点はもちろん、 現在にあるということである。
ビッグバンの宇宙論は 適切に理解され、始めとは 大きな変化で 現状の元が始まり、
やがて突然、元に戻って 終わることを暗示しているようである。人生とは 要するに 内なる自分と環境に調和するように在れ と ゼロ除算は言っているようである。
ゼロ除算は 仏教の偉大なる思想 を暗示させているように感じられる。
以 上
再生核研究所声明262 (2015.12.09) 宇宙回帰説 ― ゼロ除算の拓いた世界観
最近展開しているゼロ除算が、新しい世界観を示しているのは 大変興味深い。直線とは一体どうなっているだろうか.空間とはどのようになっているだろうか。これについて、現代人は、双方向にどこまでも どこまでも 続いている直線を想像するであろう。限りなく広がった平面や空間である。ところが 立体射影によって 平面全体を球面上に1対1に写せば、全平面は 球面から北極を除いた球面上に1対1にきちんと写るから、無限に広がる 全平面の全貌が捉えられる。ところが平面上には存在しない想像上の点 それはあらゆる方向に限りなく遠くに存在する無限遠点の導入によって、その点を球面の欠けた1点北極に対応させれば、無限遠点を含めた平面全体は 球面全体と1対1にきちんと対応する。
このような対応で 平面上の円や直線全体は 球面上では共に円に対応するという美しい対応になり、平面上の直線は 球面上では、北極(無限遠点)を通る円に写ると、直線と円の区別は 球面上では不要になる。また、平面上の平行線とは 無限遠点で 角度ゼロで交わっている(接している)と平面上の構造がよく見えて、無限遠点を含めての平面の全構造が 捉えられる。このように、考えると、直線とは、球面上では北極を通る円、平面上では無限遠点を通る直線となる。この構造は、直線を1方向にどこまでも, どこまでも進めば、無限遠点を 通って、逆方向から戻ってくるという、永劫回帰の思想をちょうど実現している。それは、球面上では、 円を繰り返し回ることを意味する。 その様は 何もかも すっかり良く見える。
これが、従来100年以上も続いた世界観で、関数y=x やW=zは 無限遠点に近づけば、それらの像も無限遠点に近づいていると考えるだろう。 関数y=x の値は正方向にどんどん行けば、どんどん大きくなると考えるだろう。
しかるに、ゼロ除算1/0=0は、それらの関数は無限遠点にいくらでも近づくと 無限遠点にいくらでも近づくが、無限遠点自身では、突然ゼロになっていることが 幾何学的にも確認された。上記、北極は 実は原点ゼロに一致しているという。
話しを簡単にするために、 関数y=x を考えよう。右に行けば、プラス無限に、負の方向左に行けば 負の無限に限りなく近づくは 従来通りである。ところが、ゼロ除算では いずれの方向でも上記無限遠点では 値ゼロをきちんと取っているという。ゼロ除算の数学では、どんどん、増加した先、突然、ゼロ、原点に戻っているという。また、円でも球面でも半径Rをどんどん大きくすると、当然、円の面積や球の体積はどんどん限りなく大きくなるが、半径が無限のとき、突然、それらはゼロになるという。それらの理由も数学ばかりではなく、幾何学的にも明確に見えている。
この数学的な事実は、我々の世界、宇宙がどんどん拡大して行くと突然、ゼロに帰するということを暗示させている。 ― これは 宇宙回帰説を意味しているようである。
これは、ユニバースの普遍的な現象、どんどん進んだ先が、元に突然戻る原理を示しているようである。
そもそも人生とは如何なるものか。― よくは分からないが、事実として、生まれて、どんどん物心がついて、人間として精神活動が活発化して、多くは本能原理によって生かされて、そして、突然元に戻ることを意味しているようである。このことを深く捉えられれば、世界がよりよく観え、悟りの境地に達する大きなヒントを得ることができるだろう。
ここでは ゼロ除算の帰結として、宇宙回帰説、ユニバースの回帰説を唱えたい。この考えでは、どんどん進めば、突然元に戻るという原理を述べている。珠算における 御破算で願いましては で 再び始めることを想起させる。これは、また、reset と同様であると考えられる。
以 上
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
https://notevenpast.org/dividing-nothing/
割り算のできる人には、どんなことも難しくない
世の中には多くのむずかしいものがあるが、加減乗除の四則演算ほどむずかしいものはほかにない。
ベーダ・ヴェネラビリス
数学名言集:ヴィルチェンコ編:松野武 山崎昇 訳大竹出版1989年
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