出演者は東大・早大・慶応大の卒業生ばかり…討論番組はいつから高学歴エリートに支配されてしまったのか
2016年1月6日 6時0分 現代ビジネス
Wikipediaより
写真拡大
■若きエリートによる意見交換
元日の深夜にNHK教育テレビ(Eテレ)で放送された『新世代が解く! ニッポンのジレンマ』における、20代の女性=ベンチャー企業代表で東大大学院生=の発言が、SNS上で物議を醸した。
『ニッポンのジレンマ』は1975年以降に生まれた人たちによる討論番組で、2012年に始まった。昨年までの出演者は70年以降生まれに限定されていたが、今回から年齢制限があらためられた。
過去の討論のテーマは「資本主義」や「男女共同参画社会」、「芸術」など多岐にわたった。今回のタイトルは「『競争』と『共生』のジレンマ」で、資本主義の原理である自由競争と民主主義が目指す平等な共生の両立が実現されているかどうかを、11人の若者が話し合った。ちなみに、司会は古市憲寿さん(30) =社会学者、東大大学院生=と青井実アナウンサー(34)で、やはり75年以降生まれだ。
女性は番組内で、経済的に貧しい人が生まれる理由について、「ただの情報格差であったり、想像力、知識を得られないでいるため」と考察。生活に困窮する人をサポートする現行の生活保護制度については、「あまり良いと思ってない」と否定的な考えを示した。その上で、「生活保護ではなく、最低限の社会貢献をしたとき、それに対応して何かを分配する」という新しい仕組みを提案した。
女性の発言について、SNS上では賛否が分かれた。福祉関係者やジャーナリストら生活保護制度の実情を知る人ほど、女性の発言には批判的だったようだ。
そもそも女性の発言は、健常者で労働年齢層(15~64歳)の生活困窮者を念頭に置いたものと受け取れた。だが、実際に生活保護を受けている約163万世帯のうち、5割近くは65歳以上の高齢者世帯。働きたくても働けない、傷病者世帯と障がい者世帯の割合も3割以上に達する。発言と実態は噛み合っていない。反論が出るのも無理からぬ話だった。
また、現在は子供の6人に1人が貧困状態にあるとの指摘もあり、生まれたときから社会貢献どころではない人は少なくない。第一、何が社会貢献なのかを決める物差しなど最初から存在しないのだから、批判の声が上がるのも仕方がないことだろう。
筆者は、発言を責めるつもりは毛頭ない。討論番組なのだから、公序良俗に反しない限り、何を発言しようが自由。むしろ、女性の発言は興味深かった。若くして会社を起こし、東大大学院に通う人が、弱者とされる人たちに対して、どんな考え方を持っているのかが分かったからだ。
『ニッポンのジレンマ』自体も面白い番組だと思っている。長く続いてほしい。だが、もどかしい面もある。参加者が、いわゆる学歴エリートに偏っている点だ。今回の放送の場合、出演者11人の母校は東大(院も含む)が8人、早大が2人、アメリカの大学が1人。これでは、若者たちの討論というより、一部の若き学歴エリートたちによる意見交換に見えてしまう。
■エリートは決して万能ではない
ドラマ『北の国から』(フジテレビ)などの作者として知られる脚本家の倉本聰氏(81)は、「週刊現代」の1月4日発売号で、こう語っている。
「社会に出て多くの人と付き合ってみて、一流とされる大学を卒業した人が、人間としても立派とは限らないとよく分かりました。僕も東大を出ましたが、だからといってそれだけでは何の意味もありません」
50代以上、あるいは60代以上の人の多くが同調する言葉ではないだろうか。にもかかわらず、近年のテレビは学歴エリートを重用する傾向が強まっている気がしてならず、違和感を拭えない。
倉本氏は不幸な戦争を招いてしまったのも学歴エリートの責任だと論じている。
「自分の食べる物すらつくれない政治家や官僚、軍部の人間たちが、農村から若者を勝手に徴用し、戦場に送り込んだのです。そうして多くの若者たちが戦場の露と消えていった」(同)
倉本氏は学歴エリートをありがたがっていない。世間では若い人でも学歴エリートを崇めない人が珍しくない。テレビ界も若者たちに発言させる場合、学歴エリートに拘る必要はないだろう。なにしろ、若者の約半分は大学に進学しない。しかも、世間から高学歴と呼ばれる大学に進む若者はごく一部。また、学歴エリートの意見が正しいとは限らないのだから。
『ニッポンのジレンマ』を見ていて、傑出した政治学者だった故・衞藤瀋吉氏の言葉を思い出した。まだAO入試が一般化していなかった87年、衞藤氏が学長を務めていた亜細亜大学が人物本位の一芸一能入試を導入すると、一部のマスコミが強く批判した。その当時、衞藤氏に会ったところ、憤然としながら、こう反論した。
「勘違いしている人が多いが、戦後の復興が成し遂げられ、今の豊かな日本があるのは、一部のエリートが優秀だったからではない。大勢の日本人が誠実かつ懸命に働いた成果です。私は将来の日本の中核となる人材をつくる」
衞藤氏自身は旧制一高から東大、東大大学院と進み、30歳で東工大助教授、44歳で東大教授になった超エリート学者だった。それだけに、エリートが万能でないことを知り抜いていたのだろう。
アルピニストで環境問題にも熱心な野口健氏(42)は、衞藤学長時代に一芸一能入試で亜大に進んだ一人。入学後、衞藤学長から、こう声を掛けられたという。
「いやー君、本当に成績悪いな。でも君には目標があるんだから、頑張れよ。大学は応援します。山に登ればちゃんと帰ってこなければいけないように、大学に入ったらしっかり卒業しないといけない。何年かかってもいいから卒業しなさい」(野口氏のブログより)
衞藤氏が亜大の学長でなかったら、「世界のノグチ」の人生は違ったものになっていたかもしれない。
■テレビ界は学歴より能力を重視すべきでは?
近年の一部テレビ番組における学歴エリートの特別扱いは異様にすら思える。たとえば、朝日新聞は「学歴フィルター(就職試験の際、企業側が特定の大学出身者以外の志願者を最初から除外する)」などという言葉を使い、繰り返し学歴差別を批判しているが、系列のテレビ朝日はクイズ番組『Qさま!!』において、毎回のように学歴エリートを特別扱いする。
『Qさま!!』では学歴エリートの芸能人が特別にチームを組む。学歴エリートをもてはやしているように見える。半面、大学を離れてから10年も20年も過ぎた芸能人たちが、母校名を前面に出しながらクイズに参戦する姿は奇態でもある。
2015年度の文化勲章を受章した仲代達矢(82)は都立千歳高校の定時制卒。映画監督としても名高いビートたけし(68)は明大中退(2004年に特別卒業認定)。お笑い界の大立者で希代の論客でもある松本人志(52)は兵庫県立尼崎工業高卒。芸能界は学歴エリートが支配する世界ではない。当たり前の話だが、芸能人に問われるのは芸だろう。
学歴がすべてでないのは、芸能界に限った話ではない。本田技研の創業者である故・本田宗一郎氏が高等小学校卒なのは知られている通り。パナソニック創業者である故・松下幸之助氏は経済的事情で尋常小学校すら卒業できなかった。再評価の声が高まっている田中角栄元首相も高等小学校卒。学歴エリートにしか活躍や発言の機会が与えられなかったら、今の日本はない。
テレビ界も80年代までは学歴に強い関心を示していなかったと記憶する。社員にも高卒や専門学校卒、大学中退の人が珍しくなかったからなのかもしれない。テレビが番組内で学歴エリートを重用するようになった背景には、世間の学歴熱の高まりもあるだろう。だが、学歴エリートばかりをありがたがるのは、時代の潮流と逆行する。
2008年のリーマン・ショック直後には経営危機にまで陥りながら、V字回復を成し遂げた日立製作所は、人事の慣習をあらため、2014年に徳島大卒の東原敏昭社長(60)を誕生させた。東大卒業生の就職先NO.1の日立で、東大出身者以外の社長の就任は極めて異例だった。学歴より能力を重視しないと国際競争に勝ち抜けないと判断したのだろう。
海外の事情とて同じ。アップル社創業者の故・スティーブ・ジョブズ氏が大学中退なのは知られている通りである。
『ニッポンのジレンマ』の前身的番組である『若い広場』(62年~82年)や『YOU』(82年~87年)には、さまざまな立場の若者が参加していた。『YOU』の初代司会者の糸井重里氏(67)自身、法大中退。出演者もシンガーの故・忌野清志郎さんら学歴エリートとは無縁の人たちが中心だった。
『ニッポンのジレンマ』も参加者を多様化させたほうが、より中身が濃くなる気がする。たとえば、昨年12月30日のテレビ東京『洋上の激闘!! 巨大マグロ戦争2015~誇り高き挑戦者たち~』には、日本の食を支える20代と30代の漁師たちが複数登場したが、そんな若者たちの社会に対する持論も聞いてみたい。学歴エリートを黙らせてしまう場面もあるのではないか。
クイズ番組等での学歴重視もあらためたほうが時流に合っている気がしてならない。万一、昨年のノーベル生理学・医学賞受賞者で、現代の偉人と崇められる大村智・北里大特別栄誉教授(80)が『Qさま!!』に出演したら、番組側は扱いに困ってしまうに違いないのだから。
大村氏は山梨大学卒。定時制高校の教諭を経て、東京理科大大学院に進んだ。本人は「もし、自分が東大に入っていたら、自分のような研究者は弾き出されていた」と語り、学歴エリートでないことを誇りにしている。仮に大村氏が『Qさま!!』に出演し、番組側が高学歴チームに入れようとしたら、本人は拒むだろう。
実現するかどうかは別とし、一億総活躍社会が目標となっている御時世である。本当か嘘かは確かめる術がないが、新人採用時に学歴不問を謳う大企業も珍しくない。社会を映す鏡であるはずのテレビ番組で、学歴エリートが偏重されるのは不思議でならない。
http://news.livedoor.com/article/detail/11031788/
再生核研究所声明260 (2015.12.07) 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
進路の相談を受けて、数日、大学受験について余計な危惧が心に広がって気になって来たので書き留めて置きたい。良く状況を調べた訳ではないので、軽く考えて頂きたい。
受験勉強が過熱化した場合の弊害のことである。ある相当有名な国立大学では、 東京出身者が入学者全体の85%を超えたということ、同じように日本の代表的な国立大学の入学者が特殊な高校や予備校で特訓を受けた生徒の入学者が大きな割合を占めているという。 また、かつて受験指導で有名な教授に伺ったところによれば、地方で普通の教育を受けた者が有名大学に入るのは至難なことと、組織を含めた自らの持つ情報の優秀さと指導のコツの良さに言及していた事が奇妙に気になる。要するに、今や、特殊な教育を受けた者でないと有名大学に入学できない状況があるように見える。― これは経済力や環境の良さも大きく左右しているものとも言える。 しかし、これに対しては、どんな入試でも優秀な者は良い大学に入れるから何も心配ないとの羨ましい人の言葉もある。
そこで危惧とは、
1) みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2) 創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、
入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3) 優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4) 特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5) 厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6) 入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7) 危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、
等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。 もちろん、修行の時代が有っても良いだろうが。 教育については下記も参照:
再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明17:教育界の改革を求める
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明 44:梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明 60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明91(2012.5.20):創造性についての一考察
再生核研究所声明102(2012.10.10):成果主義の弊害について
再生核研究所声明147(2013.12.27):創造性についての 第二考察
再生核研究所声明152(2014.3.21):研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
再生核研究所声明173(2014.8.6):愛が無ければ観えない
再生核研究所声明187(2014.12.8):工科系における数学教育について
再生核研究所声明218(2015.3.19):興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254 (2015.11.2):愛が無ければ観えない ― について、 更に
以 上
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1) 教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2) あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3) 勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4) 優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5) ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6) 簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7) 大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8) 大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
再生核研究所声明 4 (2007/03/17):競争社会から個性を活かせる社会に:
現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。
その理由は:
1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。
2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。
3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。
4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。
5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。
6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。
7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。
8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。
国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10114138890
【仏国ブログ】日本のいじめ「単一民族社会が生み出した副産物か」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0915&f=national_0915_086.shtml
【台湾ブログ】素晴らしい日本、でもいじめなどの厳しい問題もあり
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0531&f=national_0531_241.shtml
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
http://www.cnn.co.jp/business/35035799.html
国の借金1024兆円=国民1人当たり802万円―11年度末見込み
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111028-00000162-jij-bus_all
日本の財政を考える より
http://www.zaisei.mof.go.jp/
0 件のコメント:
コメントを投稿