ガリレオ・ガリレイ(Galileo Galilei、ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)は、イタリアの物理学者、天文学者、哲学者。
パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られている。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。
目次 [非表示]
1 名前
2 生涯
2.1 生い立ち
2.2 学業と業績
2.3 父の死と家族の扶養
2.4 結婚と子供
2.5 晩年
2.6 年譜
3 業績
3.1 天文学
3.2 物理学
3.3 科学革命
3.3.1 有名な失敗
3.4 その他の主な業績
4 裁判
4.1 第1回の裁判
4.2 第2回の裁判
4.3 裁判以後
4.4 裁判の影響
4.5 裁判の検証
4.6 ローマ教皇庁の対応
5 その他
6 主な著書
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 伝記・研究文献
9 関連項目
10 外部リンク
名前[編集]
トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる[1][注 1]。
イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名で呼ぶ習慣がある(他にも、ダンテ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、ナポレオン(イタリア系フランス人)等)ため、名である「ガリレオ」と呼称されることが多い。ちなみに、ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
ガリレオは1564年に、ヴィンチェンツォ・ガリレイ ( Vincenzo Galilei )を父として、ジュリア・アンマンナーティ (Giulia Ammannati )を母として、トスカーナ大公国領ピサで誕生した。父のヴィンチェンツォは1520年フィレンツェ生まれの音楽家で呉服商も営んでいた人物で、母はペーシャ生まれで、二人は1563年に結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長子で長男のガリレオが生まれたのであった。この後、ガリレオには弟4人、妹2人が出来た。(なお弟のひとりミケランジェロ・ガリレイ(英語版)(1575年 - 1631年)は父のように音楽で活躍し、リュート奏者、作曲家として名を残した。)
父ヴィンチェンツォは音響学の研究で数的な記述・分析を重視する手法を用いた。これが後に息子ガリレオが運動研究で採った数的な手法に影響を与えることになったと指摘されている。
学業と業績[編集]
1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年頃からトスカーナ宮廷付きの数学者 オスティリオ・リッチ(英語版)にユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。
1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。
1605-1607年ころのガリレオ
1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。
1624年のデッサン
前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、 息子のガリレオは、物体の運動の研究をする時に(父に倣って)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパには無かった、と考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験も行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法を採った、と一般に考えられている[注 2]。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。
「#業績」を参照
父の死と家族の扶養[編集]
1591年に父が死去し、その後は家族の扶養や妹の(結婚の)持参金の支払いはガリレオの肩にのし掛かることになった[3][4]。
結婚と子供[編集]
ガリレオはしばしばヴェネツィアを訪れていたが、そのヴェネツィアで(6歳ほど年下の)マリナ・ガンバ(Marina Gamba、1570年生まれ)と出会い、交際が始まり、当時パドヴァにあったガリレオの家で二人は一緒に暮らし始めた。二人は2女1男をもうけた。
ガリレオは敬虔なローマ・カトリックの教徒であった。教会が認める形の結婚をしなかったのは、教会に敵意をもっていたからではなく、多くの弟妹の面倒を見なければならなかったため、経済的負担が重すぎたからである[5]。
愛娘のマリア・チェレステ
フィレンツェでのガリレオの家
信仰の篤いガリレオは、二人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei, 1600年8月12日 - 1634年4月2日)とリヴィア(Livia, 1601年 - 1659年)を幼いうちにアルチェトリ(英語版)の聖マッテオ修道院に入れた。ヴィルジニアは1616年修道女になりマリア・チェレステ (Maria Celeste) と改名した(この名は聖母マリアの名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたものである。Celesteとは天のこと。)。マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通がガリレオの死後彼の文書の中から発見され現存している。リヴィアは1617年修道女になりアルカンジェラと改名した。息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio, 1606年 - 1649年)は1619年に父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ (Sestilia Bocchineri) と結婚した。
晩年[編集]
晩年、最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を失った後のガリレオ(1636年)。ユストゥス・サステルマンス(en)による肖像画。
当時(中世イタリア)の権力者たちの権力争いの渦[注 3]に巻き込まれる中で、(物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの)政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは(他の世渡り上手な学者たちに比べると)あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまい[6]、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることになった[6]。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるようにガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637~1638年ころには失明した。
フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にあるガリレオの墓
だが、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に没した。
年譜[編集]
1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。
1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)。
1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。
1586年 最初の論文『小天秤』を発表。
1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。
1589年 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。
1591年 父ヴィンチェンツォ死去。
1592年
ピサ大学の職が任期切れになる。
(ジョルダーノ・ブルーノ、捕縛される。)
ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。
1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。
1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。1男2女をもうける。
(1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる。)
1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。
(1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争。)
1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。
1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。
1610年
木星の衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを『星界の報告』(Sidereus Nuncius)として公刊する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。
(ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。)
ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。
1611年 リンチェイ・アカデミー入会。
1613年 『太陽黒点論』を刊行。
1613年頃? マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。
1613年頃 2人の娘を修道院に入れる。
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。
コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。
1623年 『贋金鑑識官』、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む。
1632年
『二大世界体系についての対話(Dialogo Sopra I Due Massimi Sistemi del Mondo)』をフィレンツェで刊行。日本では『天文対話』という題で出版されている。
ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
1633年
第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。
シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。
アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。
1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。
晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
1642年 アルチェトリにて没。
業績[編集]
天文学[編集]
ガリレオのものとされる望遠鏡(レプリカ、グリフィス天文台)
木星の衛星の初の発見を記した1610年の草稿。この成果は『星界の報告』に織り込まれてゆく。
『星界の報告』(1610年)
ガリレオによる月の満ち欠けの観測図(1616年)
Il Saggiatore『贋金鑑識官』(1623年)。彗星が天体かどうかという問題を巡って、サルシなる人物(論敵のグラッシを想定しているとされる)の説を酷評する。またこの書でガリレイは、自然という書物は数という言葉で書かれている、という見解を示す。
ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた[7]。
これを用いて1609年月に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた[注 4])があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった[8]。
また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius) として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。
金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返す上に、大きさを変えることも発見した。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。この場合、金星は地球からつねに三日月型にしか見えないはずであった。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった・
さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった[9]。
ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある[要出典]。
なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見過ぎであると考えられている[10]。
ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが[11]、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。
その他には、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した[12]。
物理学[編集]
Discorsi e Dimostrazioni Matematiche Intorno a Due Nuove Scienze『新科学対話』1638年刊
ピサ大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている[13]。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。
ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである[14]。
この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている。この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (Viviani) の創作で、実際には行われていない、とする研究者も多い[注 5]。このエピソードに先立って既に「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられる事になる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。
実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである[14]。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。
アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている[15]。
科学革命[編集]
ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。
読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。
有名な失敗[編集]
彼が発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。ここでは主なものを挙げる。
ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。ケプラーのルドルフ星表が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった[16]。
地動説の証拠として潮汐を挙げた。実際には、月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。ガリレオ自身は潮汐こそが地動説の最も重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる。ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。
その他の主な業績[編集]
「小天秤」
幾何学的・軍事的コンパス
関数尺を改良したもので、さまざまな計算を行うことができた。また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。ガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた[17]。
裁判[編集]
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている[18]。
第1回の裁判[編集]
ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿 (Francesco Romulo Roberto Bellarmino) だった。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である[19]。 その内容は、次のようなものであった。
「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。」[20]。
しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している[21]。
第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」[22]と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。
第1回裁判の直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。
この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、という但し書き、
天体が“実際に”いかに動くかは形而上学の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮設的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為
を付けて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。
第2回の裁判[編集]
1630年ガリレオは、地動説の解説書『天文対話(英語版)』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた[23]。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった[24]。ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており[25]、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった[26]。
裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した[27]。しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった[28]。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった[29]。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった[27]。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている[30]。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった[31]。
1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿 (Maffeo Vincenzo Barberini) がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある[32]。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。
1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている[33]。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった[34]。
有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた[35]。その後につぶやいたとされる “E pur si muove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である[36][37]。また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくギリシア語で言った[要出典]という説もある。
裁判以後[編集]
ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった[38]。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されなかった[39]。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた[40]。
裁判の影響[編集]
この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。
フランスのルネ・デカルトは、Traité du monde et de la lumière (タイトルは『世界論』などと訳されている。)の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『方法序説』(1637年刊)に記している。[注 6] さらに1634年にガリレオの『天文対話』の原稿を手に入れて読み検討してみて、自説を出版するのは危険があると判断したらしい。というのはデカルトはTraité du monde ~で(ガリレオ同様に、あるいはそれ以上に) héliocentrisme 太陽中心説を展開していたからである。[注 7]
当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったので、イタリア外では影響はあまりなかった。ただし、科学的検証に宗教が口出しをする悪しき慣行の前例となったという批判がある。
裁判の検証[編集]
この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた[41]。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること。第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。
Giorgio di Santillana らによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれを直ちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている[注 8]。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのか未だにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。
このほか、次のような説もある。
そもそも、1616年の裁判は存在しない。これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出る、ということをガリレオに伝えるためであった。その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下した、という噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらった、という[42]。
1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したものである(同席者がいたことはガリレオも認めている)。ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。
1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判の成り行きに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。しかし、結局、ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた[43]。
ローマ教皇庁の対応[編集]
1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった[44]。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである[45]。
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教 (Angelo Amato) は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。
2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている[注 9]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4
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\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 237: A reality of the division by zero $z/0=0$ by geometrical optics}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
\date{\today}
\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we shall state a reality of the division by zero $z/0=0$ by the reflection (geometrical optics) and from this fact we will be able to understand that the division by zero $z/0=0$ is natural in both mathematics and our physical world.
\bigskip
\section{Introduction}
%\label{sect1}
By {\bf a natural extension of the fractions}
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
for any complex numbers $a$ and $b$, we, recently, found the surprising result, for any complex number $b$
\begin{equation}
\frac{b}{0}=0,
\end{equation}
incidentally in \cite{s} by the Tikhonov regularization for the Hadamard product inversions for matrices, and we discussed their properties and gave several physical interpretations on the general fractions in \cite{kmsy} for the case of real numbers. The result is a very special case for general fractional functions in \cite{cs}.
The division by zero has a long and mysterious story over the world (see, for example, google site with division by zero) with its physical viewpoints since the document of zero in India on AD 628, however,
Sin-Ei, Takahasi (\cite{taka}) (see also \cite{kmsy}) established a simple and decisive interpretation (1.2) by analyzing some full extensions of fractions and by showing the complete characterization for the property (1.2). His result will show that {\bf our mathematics says} that the result (1.2) should be accepted as a natural one:
\bigskip
{\bf Proposition. }{\it Let F be a function from ${\bf C }\times {\bf C }$ to ${\bf C }$ such that
$$
F (b, a)F (c, d)= F (bc, ad)
$$
for all
$$
a, b, c, d \in {\bf C }
$$
and
$$
F (b, a) = \frac {b}{a }, \quad a, b \in {\bf C }, a \ne 0.
$$
Then, we obtain, for any $b \in {\bf C } $
$$
F (b, 0) = 0.
$$
}
\medskip
Furthermore, note that Hiroshi Michiwaki with his 6 year old daughter gave the important interpretation of the division by zero $z/0=0$ by the intuitive meaning of the division, {\bf independently of the concept of the product }(see \cite{ann}) . See \cite{ann} for the basic meanings of the division by zero.
We shall state a reality of the division by zero $z/0=0$ by the concept of reflection (geometrical optics). It seems that the common interpretations for the reflections for the center of a circle and the point at infinity are not suitable.
\section{Reflection points}
For simplicity, we shall consider the unit circle ${|z| = 1}$ on the complex $z = x +iy$ plane.
Then, we have the reflection formula
\begin{equation}
z^* = \frac{1}{\overline{z}}
\end{equation}
for any point $z$, as well-known (\cite{ahlfors}). For the reflection point $z^*$, there is no problem for the points
$z \neq 0, \infty$. As the classical result, the reflection of zero is the point at infinity and conversely, for the point at infinity we have the zero point. The reflection is a one to one and onto mapping between the inside and the outside of the unit circle.
However, we wonder the following common facts:
Are these correspondences suitable?
Does there exist the point at $\infty$, really?
Is the point at infinity corresponding to the zero point? Is the point at $\infty$ reasonable from the practical point of view?
Indeed, where can we find the point at infinity? Of course, we know plesantly the point at infinity
on the Riemann sphere, however on the complex $z$-plane it seems that we can not find the corresponding point. When we approach to the origin on a radial line, it seems that the correspondence reflection points approach to {\it the point at infinity} with the direction (on the radial line).
\section{Interpretation by the division by zero $z/0=0$}
On the concept of the division by zero, there is no the point at infinity $\infty$ as the numbers. For any point $z$ such that $|z| >1$, there exists the unique point $z^*$ by (2.1). Meanwhile, for any point $z$ such that $|z| < 1$ except $z=0$, there exits the unique point $z^*$ by (2.1).
Here, note that for $z=0$, by the division by zero, $z^*=0$. Furthermore, we can see that
\begin{equation}
\lim_{z \to 0}z^* =\infty,
\end{equation}
however, for $z=0$ itself, by the division by zero, we have $z^*=0$. This will mean a strong discontinuity of the function
\begin{equation}
W = \frac{1}{z}
\end{equation}
at the origin $z=0$; that is a typical property of the division by zero. This strong discontinuity may be looked in the above reflection property, physically.
\section{Conclusion}
{\Large \bf Should we exclude the point at infinity, from the numbers?} We were able to look the strong discontinuity of the division by zero in the reflection with respect to circles, physically ( geometrical optics ).
The division by zero gives a one to one and onto mapping of the reflection (2.1) from the whole complex plane onto the whole complex plane.
{\Large \bf The infinity $\infty$ may be considered as in (3.1) as the usual sense of limits,} however, the infinity $\infty$ is not a definite number.
\bigskip
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{ahlfors}
L. V. Ahlfors, Complex Analysis, McGraw-Hill Book Company, 1966.
\bibitem{cs}
L. P. Castro and S.Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
\bibitem{kmsy}
S. Koshiba, H. Michiwaki, S. Saitoh and M. Yamane,
An interpretation of the division by zero z/0=0 without the concept of product
(note).
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{mst}
H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Takagi,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0
(note).
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{taka}
S.-E. Takahasi,
{On the identities $100/0=0$ and $ 0/0=0$}
(note).
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields, Tokyo Journal of Mathematics (in press).
\bibitem{ann}
Announcement 185: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics,
Institute of Reproducing Kernels, 2014.10.22.
\end{thebibliography}
\end{document}
再生核研究所声明236(2015.6.18)ゼロ除算の自明さ、実現と無限遠点の空虚さ
(2015.6.14.07:40 頃、食後の散歩中、突然考えが、全体の構想が閃いたものである。)
2015年3月23日、明治大学における日本数学会講演方針(メモ:公開)の中で、次のように述べた: ゼロ除算の本質的な解明とは、Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、 強力な不連続性を universe の自然な現象として受け入れられることである。数学では、その強力な不連続性を自然なものとして説明され、解明されること が求められる。
そこで、上記、突然湧いた考え、内容は、ゼロ除算の理解を格段に進められると直観した。
半径1の原点に中心を持つ、円Cを考える。いま、簡単のために、正のx軸方向の直線を考える。 その時、 点x (0<x<1)の円Cに関する 鏡像 は y = 1/x に映る。この対応を考えよう。xが どんどん 小さくゼロに近づけば、対応する鏡像 yは どんどん大きくなって行くことが分かる。そこで、古典的な複素解析学では、x =0 に対応する鏡像として、極限の点が存在するものとして、無限遠点を考え、 原点の鏡像として 無限遠点を対応させている。 この意味で 1/0 = ∞、と表わされている。 この極限で捉える方法は解析学における基本的な考え方で、アーベルやオイラーもそのように考え、そのような記号を用いていたという。
しかしながら、このような極限の考え方は、適切ではないのではないだろうか。正の無限、どこまで行っても切りはなく、無限遠点など実在しているとは言えないのではないだろうか。これは、原点に対応する鏡像は x>1に存在しないことを示している。ところが、ゼロ除算は 1/0=0 であるから、ゼロの鏡像はゼロであると述べていることになる。実際、鏡像として、原点の鏡像は原点で、我々の世界で、そのように考えるのが妥当であると考えられよう。これは、ゼロ除算の強力な不連続性を幾何学的に実証していると考えられる。
ゼロ以上の数の世界で、ゼロに対応する鏡像y=1/xは存在しないので、仕方なく、神はゼロにゼロを対応させたという、神の意思が感じられるが、それが この世界における実態と合っているということを示しているのではないだろうか。
この説は、伝統ある複素解析学の考えから、鏡像と無限遠点の概念を変える歴史的な大きな意味を有するものと考える。
以 上
付記 下記図を参照:
パドヴァ大学教授。その業績から天文学の父と称され、ロジャー・ベーコンとともに科学的手法の開拓者の一人としても知られている。1973年から1983年まで発行されていた2000イタリア・リレ(リラの複数形)紙幣にガリレオの肖像が採用されていた。
目次 [非表示]
1 名前
2 生涯
2.1 生い立ち
2.2 学業と業績
2.3 父の死と家族の扶養
2.4 結婚と子供
2.5 晩年
2.6 年譜
3 業績
3.1 天文学
3.2 物理学
3.3 科学革命
3.3.1 有名な失敗
3.4 その他の主な業績
4 裁判
4.1 第1回の裁判
4.2 第2回の裁判
4.3 裁判以後
4.4 裁判の影響
4.5 裁判の検証
4.6 ローマ教皇庁の対応
5 その他
6 主な著書
7 脚注
7.1 注釈
7.2 出典
8 参考文献
8.1 伝記・研究文献
9 関連項目
10 外部リンク
名前[編集]
トスカーナ地方では、長男の名前には「姓」を単数形にしてその名前とすることがある。ヴィンチェンツォ・ガリレイの第一子が「ガリレオ・ガリレイ」と名付けられたのも長男ゆえと考えられる[1][注 1]。
イタリアでは特に偉大な人物を姓ではなく名で呼ぶ習慣がある(他にも、ダンテ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロ、ナポレオン(イタリア系フランス人)等)ため、名である「ガリレオ」と呼称されることが多い。ちなみに、ガリレオ・ガリレイの家系には同じ「ガリレオ・ガリレイ」という名の医師がいた[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
ガリレオは1564年に、ヴィンチェンツォ・ガリレイ ( Vincenzo Galilei )を父として、ジュリア・アンマンナーティ (Giulia Ammannati )を母として、トスカーナ大公国領ピサで誕生した。父のヴィンチェンツォは1520年フィレンツェ生まれの音楽家で呉服商も営んでいた人物で、母はペーシャ生まれで、二人は1563年に結婚し、その翌年にイタリアのトスカーナ大公国領ピサで長子で長男のガリレオが生まれたのであった。この後、ガリレオには弟4人、妹2人が出来た。(なお弟のひとりミケランジェロ・ガリレイ(英語版)(1575年 - 1631年)は父のように音楽で活躍し、リュート奏者、作曲家として名を残した。)
父ヴィンチェンツォは音響学の研究で数的な記述・分析を重視する手法を用いた。これが後に息子ガリレオが運動研究で採った数的な手法に影響を与えることになったと指摘されている。
学業と業績[編集]
1581年ガリレオはピサ大学に入学するが、1585年に退学。1582年頃からトスカーナ宮廷付きの数学者 オスティリオ・リッチ(英語版)にユークリッドやアルキメデスを学び、1586年にはアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し最初の科学論文『小天秤』を発表する。
1589年にピサ大学の教授の地位を得て、数学を教えた。
1605-1607年ころのガリレオ
1592年パドヴァ大学で教授の職を得、1610年まで幾何学、数学、天文学を教えた。この時期、彼は多くの画期的発見や改良を成し遂げている。
1624年のデッサン
前述のようにガリレオの父は音響学の分野ではすでに数学的な手法を大いに取り入れていたわけであるが、 息子のガリレオは、物体の運動の研究をする時に(父に倣って)実験結果を数的(数学的)に記述し分析するという手法を採用した。このことが現代の自然科学の領域で高く評価されている。彼以前にはこのように運動を数的に研究する手法はヨーロッパには無かった、と考えられている。さらにガリレオは、天文の問題や物理の問題について考える時にアリストテレスの説や教会が支持する説など、既存の理論体系や多数派が信じている説に盲目的に従うのではなく、自分自身で実験も行って実際に起こる現象を自分の眼で確かめるという方法を採った、と一般に考えられている[注 2]。それらにより現代では「科学の父」と呼ばれている。
「#業績」を参照
父の死と家族の扶養[編集]
1591年に父が死去し、その後は家族の扶養や妹の(結婚の)持参金の支払いはガリレオの肩にのし掛かることになった[3][4]。
結婚と子供[編集]
ガリレオはしばしばヴェネツィアを訪れていたが、そのヴェネツィアで(6歳ほど年下の)マリナ・ガンバ(Marina Gamba、1570年生まれ)と出会い、交際が始まり、当時パドヴァにあったガリレオの家で二人は一緒に暮らし始めた。二人は2女1男をもうけた。
ガリレオは敬虔なローマ・カトリックの教徒であった。教会が認める形の結婚をしなかったのは、教会に敵意をもっていたからではなく、多くの弟妹の面倒を見なければならなかったため、経済的負担が重すぎたからである[5]。
愛娘のマリア・チェレステ
フィレンツェでのガリレオの家
信仰の篤いガリレオは、二人の娘、ヴィルジニア・ガリレイ(Virginia Galilei, 1600年8月12日 - 1634年4月2日)とリヴィア(Livia, 1601年 - 1659年)を幼いうちにアルチェトリ(英語版)の聖マッテオ修道院に入れた。ヴィルジニアは1616年修道女になりマリア・チェレステ (Maria Celeste) と改名した(この名は聖母マリアの名と、父ガリレイの愛する天文学にちなむ言葉を組み合わせたものである。Celesteとは天のこと。)。マリア・チェレステ尼と父ガリレオは親子の情愛に満ち溢れた手紙のやりとりをしていたようで、マリア・チェレステから父ガリレオに宛てた手紙124通がガリレオの死後彼の文書の中から発見され現存している。リヴィアは1617年修道女になりアルカンジェラと改名した。息子のヴィンツェンツィオ(Vincenzio, 1606年 - 1649年)は1619年に父に認知され、セスティリア・ボッキネーリ (Sestilia Bocchineri) と結婚した。
晩年[編集]
晩年、最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を失った後のガリレオ(1636年)。ユストゥス・サステルマンス(en)による肖像画。
当時(中世イタリア)の権力者たちの権力争いの渦[注 3]に巻き込まれる中で、(物理や天文の研究に関しては天才的ではあったものの)政治や人間関係に関しては不得手で素朴な考え方をしていたガリレイは(他の世渡り上手な学者たちに比べると)あまりうまく立ち回れず、次第に敵を増やす形になってしまい[6]、ついには彼のことを快く思わない者によって、彼の支持した地動説を口実にして異端審問で追及されるように追い込まれたり、職を失ったり、軟禁状態での生活を送ることになった[6]。職を失い経済的に苦境に立たされ齢も重ねたガリレオは病気がちになった。これを知ったルネ・デカルトは、自身も『宇宙論(世界論)』の公刊を断念してしまった。追い打ちをかけるようにガリレオを看病してくれていた最愛の長女ヴィルジニア(マリア・チェレステ)を1634年に病気で失ってしまう。さらに1637~1638年ころには失明した。
フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂にあるガリレオの墓
だが、そうした困難な状況においてもガリレオは口述筆記で成果を残し、1642年に没した。
年譜[編集]
1564年 イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれる(当時、この地はトスカーナ大公国領だった)。
1581年 ピサ大学に入学(医学専攻)。
1585年 ピサ大学退学。家族でフィレンツェに移住。
1586年 最初の論文『小天秤』を発表。
1587年 初めてローマを訪問。当時の碩学クリストファー・クラヴィウスを尋ね、教授職の斡旋を願う。
1589年 ピサ大学数学講師(一説では教授)に就任(3年契約)。
1591年 父ヴィンチェンツォ死去。
1592年
ピサ大学の職が任期切れになる。
(ジョルダーノ・ブルーノ、捕縛される。)
ヴェネツィア共和国(現在のイタリアの一部)のパドヴァ大学教授(6年契約)となり移住。この頃、落体の研究を行ったとされる。
1597年 ケプラー宛の手紙で、地動説を信じていると記す。
1599年 パドヴァ大学教授に再任。この頃、マリナ・ガンバと結婚。1男2女をもうける。
(1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる。)
1601年からトスカーナ大公フェルディナンド1世の息子コジモ2世の家庭教師を兼任(大学の休暇時期のみ)。
(1608年 ネーデルランド共和国(オランダ)で望遠鏡の発明特許紛争。)
1608年 トスカーナ大公フェルディナンド1世死去。ガリレオの教え子のコジモ2世がトスカーナ大公となる。
1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。
1610年
木星の衛星を発見、「メディチ家(トスカーナ大公家のこと)の星」と名づける。これを『星界の報告』(Sidereus Nuncius)として公刊する。この頃から、地動説へ言及することが多くなる。
(ケプラーが『星界の報告者との対話』を発刊、ガリレオを擁護する。)
ピサ大学教授兼トスカーナ大公付哲学者に任命され、次女のみを連れフィレンツェに戻る。
1611年 リンチェイ・アカデミー入会。
1613年 『太陽黒点論』を刊行。
1613年頃? マリナと別れ、彼女の新しい結婚相手を見つけたとされるが、伝記の記載のみで根拠がないともいわれる。
1613年頃 2人の娘を修道院に入れる。
1615年 地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争となる。
1616年 第1回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から、以後、地動説を唱えないよう、注意を受ける。
コペルニクスの『天体の回転について』、ローマ教皇庁より閲覧一時停止となる。
1623年 『贋金鑑識官』、ローマ教皇ウルバヌス8世への献辞をつけて刊行される。
1631年 娘たちのいるフィレンツェ郊外アルチェトリの修道院の脇の別荘に住む。
1632年
『二大世界体系についての対話(Dialogo Sopra I Due Massimi Sistemi del Mondo)』をフィレンツェで刊行。日本では『天文対話』という題で出版されている。
ローマへの出頭を命じられ、ローマに着く。
1633年
第2回異端審問所審査で、ローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受け、終身刑を言い渡される(直後にトスカーナ大公国ローマ大使館での軟禁に減刑)。
シエナのピッコロミーニ大司教宅に身柄を移される。
アルチェトリの別荘へ戻ることを許される(ただし、フィレンツェに行くことは禁じられた)。
1634年 ガリレオを看病していた長女マリア・チェレステ死去(生まれたときの名はヴィルジニア)。
1637年 片目を失明。翌年、両眼を失明。以後、執筆は弟子と息子ヴィンツェンツィオによる口頭筆記になる。
1638年 オランダで『新科学対話』を発刊。口頭筆記には弟子のエヴァンジェリスタ・トリチェリが行った。
晩年 振り子時計を発明。図面を息子とヴィヴィアーニに書き取らせる。
1642年 アルチェトリにて没。
業績[編集]
天文学[編集]
ガリレオのものとされる望遠鏡(レプリカ、グリフィス天文台)
木星の衛星の初の発見を記した1610年の草稿。この成果は『星界の報告』に織り込まれてゆく。
『星界の報告』(1610年)
ガリレオによる月の満ち欠けの観測図(1616年)
Il Saggiatore『贋金鑑識官』(1623年)。彗星が天体かどうかという問題を巡って、サルシなる人物(論敵のグラッシを想定しているとされる)の説を酷評する。またこの書でガリレイは、自然という書物は数という言葉で書かれている、という見解を示す。
ガリレオは望遠鏡を最も早くから取り入れた一人である。ネーデルラント連邦共和国(オランダ)で1608年に望遠鏡の発明特許について知ると、1609年5月に一日で10倍の望遠鏡を作成し、さらに20倍のものに作り変えた[7]。
これを用いて1609年月に望遠鏡を向けて見たガリレオは、月面に凹凸、そして黒い部分(ガリレオはそこを海と考えた[注 4])があることを発見した。現代ではこのような岩石型の天体の表面の凹凸はクレーターと呼ばれている。月は完璧に球形であるとする古いアリストテレス的な考えでは説明がつかないものであった[8]。
また、翌年の1610年1月7日、木星の衛星を3つ発見。その後見つけたもう1つの衛星と併せ、これらの衛星はガリレオ衛星と呼ばれている。これらの観測結果は1610年3月に『星界の使者』(Sidereus Nuncius) として論文発表された(この論文には、3月までの観測結果が掲載されているため、論文発表は4月以降と考えられたこともあるが、少なくとも、ドイツのヨハネス・ケプラーが4月1日にこの論文を読んだことが分かっている)。この木星の衛星の発見は、当時信じられていた天動説については不利なものであった(詳細な理由は天動説を参照)。そのため論争に巻き込まれはしたが、世界的な名声を博した。晩年に、これらの衛星の公転周期を航海用の時計として使うことも提案しているが、精度のよい予報ができなかったことや、曇天時に使えない割には、船舶に大きな設備を積む必要があったことから、実際には使われなかった。
金星の観測では、金星が月のように満ち欠けを繰り返す上に、大きさを変えることも発見した。プトレマイオスモデルでは、金星は地球と太陽を結ぶ線に置かれた周転円の上にある。この場合、金星は地球からつねに三日月型にしか見えないはずであった。これは、金星が太陽の周りを公転していることの確かな証であった・
さらに、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した。これは、太陽ですら完全なものではないという疑惑を投げかける発見になった[9]。
ガリレオは、望遠鏡での観測で太陽の黒点を観測した最初の西洋人とされる。ただし、中国の天文学者がこれより先に太陽の黒点を観測していた可能性もある[要出典]。
なお、ガリレオは晩年に失明しているが、これは望遠鏡の見過ぎであると考えられている[10]。
ガリレオは1597年にケプラーに宛てた手紙の中ですでに地動説を信じていると記しているが[11]、17世紀初頭まではそれを公言することはなかった。主にこれら3点(木星の衛星、金星の満ち欠け、太陽黒点)の証拠から、地動説が正しいと確信したガリレオは、この後、地動説に言及することが多くなった。
その他には、天の川が無数の恒星の集合であることなども発見した[12]。
物理学[編集]
Discorsi e Dimostrazioni Matematiche Intorno a Due Nuove Scienze『新科学対話』1638年刊
ピサ大聖堂で揺れるシャンデリア(一説には香炉の揺れ)を見て、振り子の等時性(同じ長さの場合、大きく揺れているときも、小さく揺れているときも、往復にかかる時間は同じ)を発見したといわれている[13]。ただしこれは後世に伝わる逸話で、実際にどのような状況でこの法則を見つけたのかは不明である。この法則を用いて晩年、振り子時計を考案したが、実際には製作はしなかった。
ガリレオはまた、落体の法則を発見した。この法則は主に2つからなる。1つは、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しないということである。2つめは、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例するというものである[14]。
この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、とも言われている。この有名な故事はガリレオの弟子ヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニ (Viviani) の創作で、実際には行われていない、とする研究者も多い[注 5]。このエピソードに先立って既に「落下の法則」を発見していたオランダ人のシモン・ステヴィンの実験と混同して後世に伝えられる事になる。よって後述のアリストテレスの理論を瓦解させたのはガリレオではなくステヴィンの功績となる。
実際にガリレオが行った実験は、斜めに置いたレールの上を、重さが異なり大きさが同じ球を転がす実験である。斜めに転がる物体であればゆっくりと落ちていくので、これで重さによって落下速度が変わらないことを実証したのである[14]。この実験は、実際にもその様子を描いた絵画が残っている。
アリストテレスの自然哲学体系では、重いものほど早く落下することになっていたため、ここでもアリストテレス派の研究者と論争になった。ガリレオ自身は、たとえば、1個の物体を落下させたときと、2個の物体をひもでつないだものを落下させたときで、落下時間に差が生じるのか、というような反論を行っている[15]。
科学革命[編集]
ガリレオは、ニコラウス・コペルニクス、ヨハネス・ケプラー、アイザック・ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされている。
読者に同一の実験を促して検証させることによって、自説の正しさを証明するという手段をとった、最初期の科学者である。ただし、そのような手段をとった科学者はガリレオ以前にもイブン・アル・ハイサム(ラテン名アルハゼン)、ウイリアム・ハーベー、ウィリアム・ギルバートなどがいる(ハーベーやギルバートも科学革命を推し進めた人物とされている。また、ガリレオは自著の中でたびたびギルバートに言及している)。
有名な失敗[編集]
彼が発表した説には大きな過ちのある説も多かったが、近代科学の発生初期の人物のため、そのような過ちはあって当然だという指摘もある。同時代のケプラーや若干後のニュートンなども同じような失敗があった。ここでは主なものを挙げる。
ケプラーの法則が発表されても「すべての天体は完全な円を描いて運動する」と主張し続け、「楕円運動などをするわけがない」というようなケプラーを暗に批判する文も書いている。その意味では、ガリレオはアリストテレス的な考えにまだ縛られていた時代の人物であった。ケプラーのルドルフ星表が発表され、楕円軌道に基づいて惑星の位置予報がされる時代になっても撤回しなかった[16]。
地動説の証拠として潮汐を挙げた。実際には、月と太陽の重力が原因であり、ガリレオの時代の科学ではまだ説明ができない現象であった。ガリレオ自身は潮汐こそが地動説の最も重要な証拠だと考えていたふしがあるが、この主張は当時分かっていた科学的事実にも整合せず、最初から誤っていたものであった。もしガリレオの説が正しければ、満潮は日に1度しか起きないはずであるが、実際には通常約2回起きる。ガリレオは2度あるように見えるのは、地形などがもたらすもので例外的なものだと主張した。
その他の主な業績[編集]
「小天秤」
幾何学的・軍事的コンパス
関数尺を改良したもので、さまざまな計算を行うことができた。また分度器の機能も持っており、天体の観測に使用できた。ガリレオはパドヴァ大学教授時代にこのコンパスを販売し、使い方を教えることで収入を得ていた[17]。
裁判[編集]
ガリレオが地動説を唱え、それを理由に有罪判決を受けたことはかなり有名である。このことから、当時地動説を唱えるものはすべて異端とされ、それによって科学の発展が阻害された、という考えがされてきた。しかし現在では、ガリレオが神父たちよりもキリスト教の本質をよく理解し、科学的な言葉でそれを説いていたために快く思われず、でっちあげの偽裁判で有罪判決を受けたのではないか、と指摘されている[18]。
第1回の裁判[編集]
ガリレオが地動説について言及し始めると、ドミニコ修道会士ロリーニと論争になり、ロリーニはローマ教皇庁検邪聖省(以前の異端審問所が名を変えたもの)にガリレオが唱えている地動説は異端であると訴えた。この裁判の担当判事はイエズス会員ロベルト・ベラルミーノ枢機卿 (Francesco Romulo Roberto Bellarmino) だった。このときの判決文はバチカンの秘密文書室に保管されているが、第2回の裁判までの途中で偽造された疑いが濃厚である[19]。 その内容は、次のようなものであった。
「太陽が世界の中心にあって動かず、大地が動くという上記意見を全面的に放棄し、そしてその意見をふたたび話してでも書いてでも、どのような仕方においても抱かず、教えず、弁護しないよう命じられ、申しつけられた。さもなければ聖省はかれを裁判にかけるであろうと。この禁止令にガリレオは同意し、従うことを約した。」[20]。
しかし、この判決文にガリレオの署名はなく、第2回の裁判においてもガリレオは見たことがないと主張している[21]。
第1回裁判の判決が下される少し前、担当判事のベラルミーノがガリレオの友人へ送った手紙には、「私は、あなたとガリレオが、もし自分たちの意見を1つの仮説として、そして1つの絶対的真理としてではなく発表するのであれば、これまで以上に慎重に行動してよいと思う」[22]と綴り、必ずしもガリレオの研究を否定していない。この手紙の内容と矛盾するため、第1回裁判の判決文は第2回裁判のために偽造されたと考えられている。
第1回裁判の直後、1616年、ローマ教皇庁はコペルニクスの地動説を禁ずる布告を出し、コペルニクスの『天球の回転について』は一時閲覧禁止の措置がとられた。
この後コペルニクスの著書は、単に数学的な仮説である、という但し書き、
天体が“実際に”いかに動くかは形而上学の領域であって教会の教理に服するが、天体の予測をより容易かつより正確にする仮設的手段であれば、その主張は形而上学でも神学でもないので、教会の教理に服する必要はない、という理解から、地動説が後者に属する学説であることにより、教会教理の批判ではない、という立場を明らかにする行為
を付けて、教皇庁から閲覧が再許可された。ガリレオは、ベラルミーノの忠告もあり、しばらくは活動を控えた。
第2回の裁判[編集]
1630年ガリレオは、地動説の解説書『天文対話(英語版)』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。ガリレオは、ベラルミーノの判決文の内容から、地動説を紹介しても、その説に全面的に賛同すると書かなければ問題はないと考えて出版許可をとり、ローマ教皇庁も若干の修正を加えることを条件に出版許可を与えた[23]。『天文対話』は、1632年2月22日、フィレンツェで印刷、発行された。
翌1633年、ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった[24]。ガリレオが、あえてこの書をローマではなくフィレンツェで許可をとったこと、ローマ側の担当者に、序文と書の末尾だけしか送らずに許可をとったこと、ガリレオが事情に詳しくないフィレンツェの修道士を審査員に指名したことなどが特に問題とされた。ただし、全文が数百ページあるという理由で序文と末尾の送付で済ませることには事前にローマ側担当者も同意しており[25]、ガリレオが指名したフィレンツェの審査官は正規のフィレンツェの異端審問官であった。さらに、書の表紙に3頭のイルカが印刷されていることさえ、それが教皇に手下がいるという意味だというねじ曲げた解釈をする者がローマにおり、問題とされた。ただしこの3頭のイルカは、フィレンツェの出版業者のマークで、他の書籍にも印刷されていたため実際には問題にはならなかった[26]。
裁判でガリレオは、ベラルミーノ枢機卿が記した「ガリレオは第1回の裁判で地動説の放棄を誓っていないし、悔い改めが強要されたこともない」という証明書を提出して反論した[27]。しかし検邪聖省は、ガリレオを有罪とするという裁判記録を持ち出して再反論した。この裁判記録には裁判官の署名がなく、これは検邪聖省自らが定めた規則に沿わないものであった[28]。しかし、裁判では有罪の裁判記録を有効とし、ガリレオの所持していた証明書は無効とされた。第1回の裁判の担当判事ベラルミーノは1621年に死去しており、無効の根拠を覆すことはできなかった[29]。この結果、ガリレオは有罪となった。検邪聖省側の記録には、地動説を「教えてはいけない」と書いてあったが、ガリレオが提出した「ベラルミーノ枢機卿の証明書」には、教えることの是非についての記載はなかった[27]。裁判ではこの命令が実際にあったという前提で進められた。ガリレオ自身はそう言われたかどうか記憶にないがなかったとは言い切れないと答えている[30]。1616年にガリレオとベラルミーノ以外の人物もいたことになっており、これについてはガリレオも認めているが、その人物が誰で何人いたのかについては不明のままであった[31]。
1616年当時の裁判にも参加し、ガリレオの親友でもあったバルベリーニ枢機卿 (Maffeo Vincenzo Barberini) がローマ教皇ウルバヌス8世となっていたが、教皇の保護はなかった。一説によれば、『天文対話』に登場するシンプリチオ(「頭の単純な人」という意味)は教会の意見を持っており、シンプリチオは教皇自身だと教皇本人に吹き込んだ者がおり、激怒した教皇が裁判を命じたというものがある[32]。この説には物証がないが、当時から広く信じられている。さらにガリレオ自身、敬虔なカトリック教徒であったにもかかわらず、科学については教会の権威に盲目的に従うことを拒絶し、哲学や宗教から科学を分離することを提唱したことも、当初ガリレオを支持していたウルバヌス8世が掌を返したようにガリレオを非難するようになった要因とされる。そして結果的にはガリレオ裁判において、ガリレオを異端の徒として裁かせる結果に繋がっている。
1633年の裁判の担当判事は10名いたが、有罪の判決文には7名の署名しかない。残りの3名のうち1名はウルバヌス8世の親族であった。もう1名はこの裁判にはもとから批判的な判事だったとされている。ただし、判決文に7名の署名しかないのは、単に残りの判事は判決当日、別の公用で裁判に出席できなかっただけではないかという推測もされている[33]。なお、全員の署名がなくても、有罪の判決は有効であった[34]。
有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた[35]。その後につぶやいたとされる “E pur si muove”(それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である[36][37]。また、「それでも地球は動く」はイタリア語ではなくギリシア語で言った[要出典]という説もある。
裁判以後[編集]
ガリレオへの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になった[38]。しかし、フィレンツェの自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。すべての役職は判決と同時に剥奪された。『天文対話』は禁書目録に載せられ、1822年まで撤回されなかった[39]。
死後も名誉は回復されず、カトリック教徒として葬ることも許されなかった。ガリレオの庇護者のトスカーナ大公は、ガリレオを異端者として葬るのは忍びないと考え、ローマ教皇の許可が下りるまでガリレオの葬儀を延期した。しかし許可はこの時代には出ず、正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日にフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂で行われた[40]。
裁判の影響[編集]
この後、ガリレオの著書はイタリアでは事実上発行できなくなったため、『新科学対話』は、ガリレオの原稿が何者かによって持ち出され、プロテスタント教国のオランダで勝手に印刷されたという設定で発行された。
フランスのルネ・デカルトは、Traité du monde et de la lumière (タイトルは『世界論』などと訳されている。)の原稿をほぼ書き終えていたが、1633年のガリレオ裁判の報を聞いて出版をためらったことを、『方法序説』(1637年刊)に記している。[注 6] さらに1634年にガリレオの『天文対話』の原稿を手に入れて読み検討してみて、自説を出版するのは危険があると判断したらしい。というのはデカルトはTraité du monde ~で(ガリレオ同様に、あるいはそれ以上に) héliocentrisme 太陽中心説を展開していたからである。[注 7]
当時のローマ教皇庁はイタリア外での権力はなかったので、イタリア外では影響はあまりなかった。ただし、科学的検証に宗教が口出しをする悪しき慣行の前例となったという批判がある。
裁判の検証[編集]
この裁判には疑問が多いことから、19世紀後半から検証が行われた[41]。第1の大きな疑問は、1616年の判決が2種類あり、内容がまったく逆であること。第2には、『天文対話』の発刊にはローマ教皇庁から正式の許可があったにもかかわらず、発刊をもって異端の理由とされたことである。
Giorgio di Santillana らによれば、有罪の裁判記録そのものが、検邪聖省自身が偽造したものであった。もちろんこれを直ちに信じるわけにはいかないが、無罪の判決文が無効という証拠がいまだ見つからないことと、第2の理由もこれにより説明がつくことから、署名のない有罪の判決文は偽造であるという考えが強くなっている[注 8]。ただし、この1616年の有罪の判決文が偽造であるという説については、偽造した者が誰なのか未だにわかっていないということもあり、ただちにこれを認めることはできないという主張がある。
このほか、次のような説もある。
そもそも、1616年の裁判は存在しない。これは、当時ガリレオは告発も起訴もされていないということを根拠にしている。この説に基づくと、ベラルミーノがガリレオを呼び出したのは、今度、地動説を禁止する布告が出る、ということをガリレオに伝えるためであった。その後、ベラルミーノがガリレオを呼び出し、何らかの有罪判決を下した、という噂が広まったため、困ったガリレオがベラルミーノに無罪の判決文(正確には、ガリレオは何の有罪の判決も受けていないという証明書)を作ってもらった、という[42]。
1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、ベラルミーノが判決を言い渡したときに、同席した者がベラルミーノの口頭での発言を記述したものである(同席者がいたことはガリレオも認めている)。ただしこの説でも、記述した者の名が明らかでない。また、担当判事の署名がない以上、有効な文書でないという事実にかわりはない。
1616年の裁判の署名のない有罪の判決文(らしきもの)は、裁判の成り行きに合わせてあらかじめ用意されたもので、あとはベラルミーノの署名を書き足すだけで有効になるよう、先に作られていたものだった。しかし、結局、ガリレオは有罪とならなかったため、この文書にベラルミーノの署名はされなかった。ただし文書はローマ教皇庁に残され、第2回の裁判で証拠とされた[43]。
ローマ教皇庁の対応[編集]
1965年にローマ教皇パウロ6世がこの裁判に言及したことを発端に、裁判の見直しが始まった[44]。最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである[45]。
2003年9月、ローマ教皇庁教理聖省(以前の異端審問所)のアンジェロ・アマート大司教 (Angelo Amato) は、ウルバヌス8世はガリレオを迫害しなかったという主張を行った。
2008年1月16日の『毎日新聞』によると、ローマ教皇ベネディクト16世が17日にイタリア国立ローマ・ラ・サピエンツァ大学での記念講演を予定していたが、1990年の枢機卿時代にオーストリア人哲学者の言葉を引用して、ガリレオを有罪にした裁判を「公正だった」と発言したことに学内で批判が高まり、講演が中止になった。その後ベネディクト16世は2008年12月21日に行われた、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で、ガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めている[注 9]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%83%AC%E3%82%A4
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 237: A reality of the division by zero $z/0=0$ by geometrical optics}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
\date{\today}
\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we shall state a reality of the division by zero $z/0=0$ by the reflection (geometrical optics) and from this fact we will be able to understand that the division by zero $z/0=0$ is natural in both mathematics and our physical world.
\bigskip
\section{Introduction}
%\label{sect1}
By {\bf a natural extension of the fractions}
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
for any complex numbers $a$ and $b$, we, recently, found the surprising result, for any complex number $b$
\begin{equation}
\frac{b}{0}=0,
\end{equation}
incidentally in \cite{s} by the Tikhonov regularization for the Hadamard product inversions for matrices, and we discussed their properties and gave several physical interpretations on the general fractions in \cite{kmsy} for the case of real numbers. The result is a very special case for general fractional functions in \cite{cs}.
The division by zero has a long and mysterious story over the world (see, for example, google site with division by zero) with its physical viewpoints since the document of zero in India on AD 628, however,
Sin-Ei, Takahasi (\cite{taka}) (see also \cite{kmsy}) established a simple and decisive interpretation (1.2) by analyzing some full extensions of fractions and by showing the complete characterization for the property (1.2). His result will show that {\bf our mathematics says} that the result (1.2) should be accepted as a natural one:
\bigskip
{\bf Proposition. }{\it Let F be a function from ${\bf C }\times {\bf C }$ to ${\bf C }$ such that
$$
F (b, a)F (c, d)= F (bc, ad)
$$
for all
$$
a, b, c, d \in {\bf C }
$$
and
$$
F (b, a) = \frac {b}{a }, \quad a, b \in {\bf C }, a \ne 0.
$$
Then, we obtain, for any $b \in {\bf C } $
$$
F (b, 0) = 0.
$$
}
\medskip
Furthermore, note that Hiroshi Michiwaki with his 6 year old daughter gave the important interpretation of the division by zero $z/0=0$ by the intuitive meaning of the division, {\bf independently of the concept of the product }(see \cite{ann}) . See \cite{ann} for the basic meanings of the division by zero.
We shall state a reality of the division by zero $z/0=0$ by the concept of reflection (geometrical optics). It seems that the common interpretations for the reflections for the center of a circle and the point at infinity are not suitable.
\section{Reflection points}
For simplicity, we shall consider the unit circle ${|z| = 1}$ on the complex $z = x +iy$ plane.
Then, we have the reflection formula
\begin{equation}
z^* = \frac{1}{\overline{z}}
\end{equation}
for any point $z$, as well-known (\cite{ahlfors}). For the reflection point $z^*$, there is no problem for the points
$z \neq 0, \infty$. As the classical result, the reflection of zero is the point at infinity and conversely, for the point at infinity we have the zero point. The reflection is a one to one and onto mapping between the inside and the outside of the unit circle.
However, we wonder the following common facts:
Are these correspondences suitable?
Does there exist the point at $\infty$, really?
Is the point at infinity corresponding to the zero point? Is the point at $\infty$ reasonable from the practical point of view?
Indeed, where can we find the point at infinity? Of course, we know plesantly the point at infinity
on the Riemann sphere, however on the complex $z$-plane it seems that we can not find the corresponding point. When we approach to the origin on a radial line, it seems that the correspondence reflection points approach to {\it the point at infinity} with the direction (on the radial line).
\section{Interpretation by the division by zero $z/0=0$}
On the concept of the division by zero, there is no the point at infinity $\infty$ as the numbers. For any point $z$ such that $|z| >1$, there exists the unique point $z^*$ by (2.1). Meanwhile, for any point $z$ such that $|z| < 1$ except $z=0$, there exits the unique point $z^*$ by (2.1).
Here, note that for $z=0$, by the division by zero, $z^*=0$. Furthermore, we can see that
\begin{equation}
\lim_{z \to 0}z^* =\infty,
\end{equation}
however, for $z=0$ itself, by the division by zero, we have $z^*=0$. This will mean a strong discontinuity of the function
\begin{equation}
W = \frac{1}{z}
\end{equation}
at the origin $z=0$; that is a typical property of the division by zero. This strong discontinuity may be looked in the above reflection property, physically.
\section{Conclusion}
{\Large \bf Should we exclude the point at infinity, from the numbers?} We were able to look the strong discontinuity of the division by zero in the reflection with respect to circles, physically ( geometrical optics ).
The division by zero gives a one to one and onto mapping of the reflection (2.1) from the whole complex plane onto the whole complex plane.
{\Large \bf The infinity $\infty$ may be considered as in (3.1) as the usual sense of limits,} however, the infinity $\infty$ is not a definite number.
\bigskip
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{ahlfors}
L. V. Ahlfors, Complex Analysis, McGraw-Hill Book Company, 1966.
\bibitem{cs}
L. P. Castro and S.Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
\bibitem{kmsy}
S. Koshiba, H. Michiwaki, S. Saitoh and M. Yamane,
An interpretation of the division by zero z/0=0 without the concept of product
(note).
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{mst}
H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Takagi,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0
(note).
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{taka}
S.-E. Takahasi,
{On the identities $100/0=0$ and $ 0/0=0$}
(note).
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields, Tokyo Journal of Mathematics (in press).
\bibitem{ann}
Announcement 185: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics,
Institute of Reproducing Kernels, 2014.10.22.
\end{thebibliography}
\end{document}
再生核研究所声明236(2015.6.18)ゼロ除算の自明さ、実現と無限遠点の空虚さ
(2015.6.14.07:40 頃、食後の散歩中、突然考えが、全体の構想が閃いたものである。)
2015年3月23日、明治大学における日本数学会講演方針(メモ:公開)の中で、次のように述べた: ゼロ除算の本質的な解明とは、Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、 強力な不連続性を universe の自然な現象として受け入れられることである。数学では、その強力な不連続性を自然なものとして説明され、解明されること が求められる。
そこで、上記、突然湧いた考え、内容は、ゼロ除算の理解を格段に進められると直観した。
半径1の原点に中心を持つ、円Cを考える。いま、簡単のために、正のx軸方向の直線を考える。 その時、 点x (0<x<1)の円Cに関する 鏡像 は y = 1/x に映る。この対応を考えよう。xが どんどん 小さくゼロに近づけば、対応する鏡像 yは どんどん大きくなって行くことが分かる。そこで、古典的な複素解析学では、x =0 に対応する鏡像として、極限の点が存在するものとして、無限遠点を考え、 原点の鏡像として 無限遠点を対応させている。 この意味で 1/0 = ∞、と表わされている。 この極限で捉える方法は解析学における基本的な考え方で、アーベルやオイラーもそのように考え、そのような記号を用いていたという。
しかしながら、このような極限の考え方は、適切ではないのではないだろうか。正の無限、どこまで行っても切りはなく、無限遠点など実在しているとは言えないのではないだろうか。これは、原点に対応する鏡像は x>1に存在しないことを示している。ところが、ゼロ除算は 1/0=0 であるから、ゼロの鏡像はゼロであると述べていることになる。実際、鏡像として、原点の鏡像は原点で、我々の世界で、そのように考えるのが妥当であると考えられよう。これは、ゼロ除算の強力な不連続性を幾何学的に実証していると考えられる。
ゼロ以上の数の世界で、ゼロに対応する鏡像y=1/xは存在しないので、仕方なく、神はゼロにゼロを対応させたという、神の意思が感じられるが、それが この世界における実態と合っているということを示しているのではないだろうか。
この説は、伝統ある複素解析学の考えから、鏡像と無限遠点の概念を変える歴史的な大きな意味を有するものと考える。
以 上
付記 下記図を参照:
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