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fujipon2015年07月03日 00:00【読書感想】希望の資本論 ― 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか
希望の資本論 ― 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか
作者: 池上彰,佐藤優
出版社/メーカー: 朝日新聞出版
発売日: 2015/03/30
メディア: 単行本
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内容紹介
閉塞感と焦燥感で混迷を極める現代。
私たちは資本主義の矛盾や限界にどう向きあっていけばいいのか?
現代日本の知の水先案内人、池上彰と佐藤優が、 トマ・ピケティの『21世紀の資本』の世界的大ヒットなどで にわかに注目を集めるマルクスの『資本論』を、 革命の書としてではなく、 資本主義を相対化し過酷な社会のなかで 生き延びるための指南の書として読み解く。
いま、『資本論』を読む意味とは?
『資本論』からみえる現代日本は?
幸せな資本主義は可能か?
資本主義社会をサバイバルする技術、 資本主義に絡め取られない生き方とは?
AERA2014年11月10日号の 「資本主義の限界を生き抜く『資本論』」対談を大幅増補して書籍化。
池上彰×佐藤優!
新書界、あるいは今の言論界では数少ない「売れていて、しかもある程度好きなことを言える人」どうしの黄金タッグによる一冊。
今回のテーマは『資本論』です。
とはいえ、佐藤優さんはこれまでもマルクスの『資本論』の重要性について、さまざまな場面で話をされて(あるいは、本を書いて)おられて、この対談の内容には「繰り返し」になっているところも多いのです。
僕のように『資本論』くらいは読んでおかなきゃね……と言いながら、実際にはマルクスの『資本論』をまともに読んだことがない人間にとっては、この対談を読んで「わかった!」なんて思うのは、『もしドラ』を読んで、ドラッカーを理解したような気分になるのと同じようなものなのかな、とも感じます。
でもまあ、実際に『資本論』を読むのは大変だと、このお二人でさえ仰っているわけで。
僕がみてきた「資本主義 vs 社会主義」の対決では、社会主義は、完全に敗北したと言わざるをえないでしょう。
しかしながら、資本主義が「ひとり勝ち」してみると、今度は、資本主義がより先鋭化し、格差は広がっていく一方です。
社会主義という「カウンター」があった時代には、「とりあえず労働者にも良い顔をしておかないと、社会主義革命とか起こされてはたまらないし」という歯止めがあり、それが「社会保障の充実」などにつながっていたのだけれど、いまはもう、資本主義にとって、そんな心配はなくなっているわけです。
そういえば、日本という国を「世界で最も成功した社会主義国家」だと言った人がいましたね。
マルクスの『資本論』って、「負けた側の主張」だし、もう時代遅れなんじゃないの、と僕も思っていました。
でも、マルクスがこの本に書いたのは、「資本主義の本質」だとお二人は仰っています。
それに対して、共産主義革命が起こる、という未来予測は外れたけれど、「資本主義とは、こういうものだ」という定義については、知っておいて損はない。
この本には、トマ・ピケティさんのベストセラー『21世紀の資本』についての話もたくさん出てきます。
巻末には、ピケティさんと佐藤優さんの対談も収録されているのです。
池上さんと佐藤さんが、ちょうど同じ日に別々にピケティさんと対談するスケジュールで、「後攻」の池上さんは、編集者に「ピケティさんはお疲れですから、対談は短めにお願いします」と言われて、「これは、佐藤さんが疲れさせたに違いない」と周囲の人と話していたそうです。
この二人と連戦、とくに佐藤優さん相手となれば、たしかにエネルギー吸い取られそうですよね。
まあ、そのくらい、佐藤さんと池上さんは、お互いを意識している、という面もあるのでしょう。
ちなみに、佐藤優さんは、こう仰っています。
日本のピケティ・ブームには二つ理由があると思います。最初、「21世紀の資本」じゃなくて、「21世紀の資本論」と紹介された。それによって『資本論』世代の郷愁を呼び起こした。1980年代までは大学でマルクス経済学もやっていましたからね。それから2番目は、格差を扱っているということで、安倍政権に対して非常に不満を持っている人たちが、ピケティ氏に仮託して、安倍政権批判を語りたいという思いがあった。この二つによって起きている側面があるので、直接ピケティ氏の理論とは関係がないところもあります。
このブームには、「日本にとって(とくに、安倍政権を批判したい人にとって)ちょうど良いタイミングで出た、『格差の拡大』を扱っている理論だった」という面もあるのです。
『21世紀の資本』僕もいつか読まなくては、と思いつつも、書店で手にとると、「これは枕にはちょうど良いかもしれないが……」と逡巡してしまうんですよね。
でも、若い人たちは頑張って読んだらいいよ、なんて薦めるのもおこがましいのだけれども。
池上さんは、ピケティさんの『21世紀の資本』について、こんなふうにまとめておられます。
ピケティ氏はさまざまな矛盾、経済的な格差を、バルザックなどの文学作品に深く傾倒することによって感じ、世の中の矛盾をどのように分析すればいいか、あるいはどのように良くすれば良いのかという問題意識があって経済学に入っていった。しかしアメリカに行ってみるととんでもない経済学だったので、これを拒否して新たなことを考えるようになった。
そして得た理論は、資本主義においては必ず格差が広がる傾向にある、ということがデータでわかったということ。どんな論理であろうと、データはそれを示している。
ピケティ氏にインタビューした時、彼はこうした格差を少しでも改善し、縮小するためには、富裕層に対する資産税等ということを考えていかなければいけない、それが民主主義の力であると力説したので、私が「『21世紀の資本』は民主主義のための本ですね」と言ったら、彼は「わかってくれましたか、これは実は民主主義の本なんです」と言っていました。いまこそ民主主義によって、資本主義経済のさまざまな矛盾を押さえこむべきで、彼はそれができるというふうに考えているわけです。
池上さんは「マルクスが革命でひっくり返さなければいけないと考えたことを、ピケティ氏は民主主義で改善しようとしている」と仰っています。
僕みたいな、「経済の専門家ではない人間」にとっては、これを読んだだけで、「ちょっとわかったような気分になってしまう」のは、良いことなのか、悪いことなのか。
佐藤さんは、いまの時代に『資本論』を読むことのメリットについて、こんな話をされています。
ところで『資本論』で大変重要なことがあります。『資本論』の強さは「論理の力」だということです。だから「資本論」を読み解くと、論理が強くなるんですね。
今回のIS(いわゆる『イスラム国』)における日本人人質事件に関していうと、まず最初、テロリストが2億ドル(約238億円)の身代金を要求しました。その時にマスコミから来る問い合わせは、「身代金を払うべきか、払わないべきか」というものなんですよ、全部。
私だったら、それに対して「それは疑似命題である」と答えます。すなわち前提に問題があって、答えができない命題だと。ウサギの角の先が丸いか尖っているかという禅問答と一緒なんです。なぜなら、紙袋一つに入るのは、日本円だったら5000万円、米ドルだったら50万ドルと仮定して、2億ドルというのは400袋です。これだけの連番ではない、古い札を72時間以内に集めることは不可能です。しかもその重さは2トンになる。金塊でやりとりする場合には5トン。5トンの金塊を受け渡すということは、事実上不可能。このように考えれば、それは明らかです。
それから、リシャウィ死刑囚との交換を要求した後、1月27日くらいだったかな、一時楽観論が出た。私はその楽観論が出る前に、「これはIS側は交渉する余地がない、極めて危ないんだ」ということを言っていたんです。それで楽観論が出た時にも、「そうではないんだ」と言いました。常識で考えてみろと。まとまった条件を発表するんだったらわかるけれども、まだまとまっていないヨルダン側の条件をマスメディアを通じて大臣が発言しているのはどういうことかというと、それは交渉のパイプが詰まっているからなんだと。だから、メディアを通じて交渉せざるをえない状況になっている。ISには、交渉するつもりがない。この流れははっきりしていると。こういう流れは、「論理の力」がないと見えないんですよね。
ああ、なるほどな、と。
相手の思惑を想像するよりも、具体的に出てきた条件を検証していけば、それが「実現可能」かどうかがわかる。
それが「実現不可能」であれば、最初から交渉の余地はなかった。
「2億ドル」を物理的に考える、というアプローチがあるのか……
ただ、『資本論』を読むことに挫折した僕からすると、「『資本論』を読むと論理的思考力が身につくのか、もともと論理的思考力があったからこそ、『資本論』を読みこなすことができたのか?」と、考え込んでしまうんですけどね。
お二人は、『資本論』の読み方についてのアドバイスもされています。
池上彰:私は大学時代に読みましたが、『資本論』はやはり、とっつきにくくて難しかった。まずマルクスの『賃金・価格・利潤』を読み、そのあと『経済学批判』を読んだ上だと、なんとなく、ようやくわかるんですよ。いきなり『資本論』はつらい。
佐藤優:そうですね。『賃金・価格・利潤』は、マルクスが労働者相手に、すでに『資本論』の論理ができあがっているところで講演をしているので、比較的わかりやすいんですよ。
みんなが「読もう」と思っているにもかかわらず、ハードルがけっこう高い本だからこそ、読んでいるとアドバンテージが得られる、というのも事実なので、興味がわいた方は、ぜひチャレンジしてみてはいかがでしょうか。
僕もいつか……って、いつになるのかねえ……http://blogos.com/article/120384/
再生核研究所声明75(2012.2.10): 政治・経済の在りようについて
(この声明は 再生核研究所声明に関心を抱く方の要望によって、動機付けられたものです。他方、大谷杉郎 元群馬大学名誉教授の下記の文が気になって来ました: (新里山文明 ― 私は、基本的には、社会の制度、経済の仕組みにまで立ち入らないと解決はしないと思っています。無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組みの通用した時代は、もうあきらめたほうがいいと思っています。技術と社会制度と、それに人々との考え方と、みんな一緒にならないと循環社会、新里山文明の時代は来そうにありません。 ―( 日だまりの風景 平成18年9月15日発行 大谷杉郎著 印刷所 太陽印刷工業(株)P106~P107より )(群馬大学工業会会報・平成11年3月 99)p95~p107より)。)
上記両者の意見には いわゆる資本主義は 社会主義同様 行きづまっているのではないか、新しい社会の、経済の在りようを模索する必要が有るのではないか との考えを暗示しているようにみえる。
もちろん、政治・経済の在りようについての総合的な考察は、大きな課題であるから、考察を進めるには 重い課題ということになる。 しかしながら、歴史は連続的に流れ、慣性の法則で動いている(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)とすれば、現状の問題点を分析することによって、在るべき方向が見えて来ると考えられる。
現在の世界を、アメリカ、EU, 日本など、いわゆる自由主義経済、資本主義社会、民主主義の国々、および、 ロシア、中国など、いわゆる社会主義の変化で 社会主義と資本主義の中間に位置する国々、および いろいろな国柄を反映させているその他の国々と考えてみよう。 社会主義国では、経済活動は国によって計画され、企画されて、人々を資本家から解放し、より平等で公正な社会を目指していると考えられたが、結果は産業・経済活動が停滞し、民生の遅れをもたらし、皮肉にも自由、平等、民主主義の理念から外れ、社会主義の理念は 内部から、崩壊し、より自由な経済活動を許す、解放経済の方に向かわざるを得なかったようにみえる。 これは自由な経済活動が、産業の活性化をもたらし、国や特定の機関の管理では、庶民の力を発揮することができないという、 いわば、人間の本性に根ざした原理から出ていると考えられる。
しからば、資本主義諸国の現状における問題とは何だろうか。 いみじくも、アメリカ,EU, 日本に共通する大きな課題は、 膨大な債務を抱えて、財政破綻の危機にさらされているということである。これは、民主主義の中で、庶民の意志を尊重するあまり、各国の政府が無責任な財政運営を余儀なくされてきたということに他ならない。 民主主義は衆愚政治に陥り、国家は財政破綻を迎えたと、旧社会主義や独裁主義国家から、嘲笑されかねない由々しき事態ではないだろうか。 自由を保証する社会は、そもそも人類の理想であるから、財政の立て直しによる、復活を願わざるを得ない。
しかしながら、資本主義社会で見られる、次のような現象については、大きな歯止めと警戒、対処が必要ではないだろうか。
債務の増大と金融不安、
過熱な自由競争の国際化、
過熱な投機の在り様、
行きすぎた世界的な経済活動、
行きすぎた世界の均一化、
多くの失業者の出現、
為替の急激な変動、
貧富の大きな格差、
アメリカなどに見られる 軍事産業の力、
大量生産、大量消費の在り様、
お金、お金の風潮の増大、
社会生活まで、共生より競争の世相、成果主義や評価、評価の厳しい世相、
経済活動の環境、社会への大きな影響 など、
それらについて、関係する国際的な機関で 枠をはめ、より良い方向に誘導するような政策を進める必要が有るのではないだろうか。植物界でも動物界でも、自由に野放ししておけば良いとはならず、適当な手入れ、癌細胞などは除去するなど適切な処置が必要であるように である。― これは要するに、現状の自由を尊重する、資本主義と民主主義の在りようを評価して、そこから発する大きな歪を是正していこうとの 現実的な対応を志向するものである。
上記 (無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組み)などについては 税率によって、 調整して行く と考えるのは 如何なものであろうか。
他方、ロシアや中国における在りようの問題では、いまだ自由の保証が十分では無く、人権、人間の尊厳の観点から問題が有るのではないかとの危惧の念を抱かせるが、それぞれの国には それなりの歴史と伝統、文化が有るのだから、軽々しく内政干渉のような態度をとらない姿勢が大事ではないだろうか。 アラブや、その他の諸国についても お互いに内政干渉を控え、いろいろな国による、多様な在り様、多様な文化の存続を尊重、重視していくべきではないだろうか。 いわゆる グローバリゼーションは 地球を画一化して、貧しい均一的な 世界を作り、 傾向として良くないと評価したい。 多様な世界を志向したい。
逆に民主主義の問題点を指摘して置きたい。 上述の様に国民に慮る故に 政府が弱く、政府が責任ある政治を進めることができない状況が起きているから、政治家の身分を安定的に保証して、責任ある政治に専念できるように配慮すべきではないだろうか。そのためには、首相や国会議員の任期を長くして、その間、身分を篤く保証することも検討に値するのではないだろうか。アメリカの大統領選出過程などは あまりにも 長く、現実的ではないのではないだろうか。多数の意見が広く表現できるのは良いが、無責任なムードのようなもの、世論で、 政治が歪められやすい状況について、警戒を要するのではないだろうか。 次の危惧を参照(再生核研究所声明 33: 民主主義と衆愚政治)。
以 上
再生核研究所声明 143 (2013.12.10) グローバリゼーションの危険性
(2013.12.6.3時45分 夢の中で新しい原理を 情景を交えながら発見し、目を覚ましました。グローバリゼーションの危険性と、人類滅亡の原理です。 声明の案にできそうです。適切か検討します。 ― その夢は 農村地帯で、1軒の農家の畑だけが緑の野菜で覆われ 他の周辺の広大な農地は 灰色になって広がり、異様であったが、一人の青年が、グローバリゼーションの影響で 他の農家がやって行けず、農家では お金が入らないと言っていました。人類滅亡の概念は 哲学的、根本的な大事な原理を述べているが、それは その後 夢、うつつに考察したものである。 成文化を試みたい。)
上記で いわゆる市場主義の原理で 事を進めれば、生業が成り立たなくなると言う、根本問題を提起している。 実例でも、例えば、 広々としたベトナムの農村では、田植えを 手で、一株ずつ人海戦術で植えているが、日本では、田植え機械で 夫婦二人で、どんどん田植えが行われている。稲刈り、収穫作業も同様の差がある。農作業の重労働を想い出し、胸を痛めたものであるが、アメリカの小麦の生産方式など考えれば、日本の農家の農作業など、ベトナムと日本の差以上であろう。それらが、市場主義、自由競争となると、ベトナムの農家も日本の農家も成り立たないのは、道理である。このような危惧は、至る所に現れ、世界混乱の主因になるだろう。長い間続いていた、文化、習慣、慣習、生活基盤の破壊である。― インドの痛ましい情景を時として、回想する。土を運ぶのに、土を籠に入れ 頭に載せて、沢山の女性が連なって運んでいる。普通考えられるトラックで運べば、如何に簡単に大量に運べるかを考えると、痛ましい仕事である。しかしながら、それらを機械化すれば、失業者の増大や、取り巻く環境の激変で大きな混乱が起きるだろう。
そこで、グローバリゼーションの危険性 を 夢の中の青年に代わって、世に訴え、注意を換気したい。
個々の存在してきた、事実、経過は大事であり、何事、新しい変化との調和に 思いを致さなければ、混乱の素になるだろう。何事変化に、早ければ良い、改めれば良い の考えには 根本的な問題が内在していて、危険であると考えたい。
グローバリゼーション は エントロピー増大の法則のように 避けられない面が有るだろう、そこで、絶えずブレーキをかけて行くような配慮、全体的な影響と調和を考える努力が必要ではないだろうか。
以 上
追記、参考資料(ウィキペディア):
グローバリゼーション
グローバリゼーション(英: Globalization, Globalisation)は、社会的あるいは経済的な関連が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす現象である。
概略[編集]
この語は、様々な社会的、文化的、経済的活動において用いられる。使われる文脈によって、例えば世界の異なる地域での産業を構成する要素間の関係が増えている事態(産業の地球規模化)など、世界の異なる部分間の緊密な繋がり(世界の地球規模化)を意味する場合もある。
世界史的に見れば、何らかの現象の「グローバリゼーション」は、大航海時代に起源を発する。大航海時代により、ヨーロッパ諸国が植民地を世界各地に作り始め、これによりヨーロッパの政治体制や経済体制の「グローバリゼーション」が始まり、物流の「グローバリゼーション」が起こった。これが本格化し始めた時期は19世紀で、ナポレオン戦争による国民国家の形成や、産業革命による資本主義の勃興が、近代の「グローバリゼーション」を引き起こした。
第二次世界大戦が終わると、アメリカ合衆国を筆頭に冷戦の西側諸国で多国籍企業が急成長し、現代の「グローバリゼーション」が始まった。1970年代から「グローバリゼーション」という語は使われるようになったが、より一層広まった時期は、アメリカ合衆国が湾岸戦争に勝利し、ソビエト連邦が崩壊したことにより、アメリカ合衆国の単独覇権が確立された1991年以後である。ソビエト連邦が崩壊すると、経済面では、「運輸と通信技術の爆発的な発展や、冷戦終結後の自由貿易圏の拡大によって、文化と経済の枠に囚われない貿易が促進する事態」も指すようになった。グローバリゼーションの負の現象、例えば工業や農業といった産業が世界規模での競争(メガコンペティション)や、多国籍企業による搾取の強化と、それに伴う国内産業の衰退とプレカリアートの世界的増大という事態を指す場合もある。そのため、最近では否定的な語として用いられる例も多くなった。
1991年以後、グローバリゼーションの負の現象を非難する人々は、主要国首脳会議の開催地などで反グローバリゼーションを訴えている。又、グローバリゼーションが多国籍企業を利して末端の労働者を害する現象「アメリカニゼーション」だと揶揄する人々も少なくない(グローバル資本主義)。
2010年代に入る前後からは、かつてコスト削減や利益を増やすために中国企業に積極的にノウハウを教えた日本の企業が、逆に中国企業に買収される動きも出ている[1]。
異義語[編集]
「グローバル」と「インターナショナル」、「グローバリゼーション」と「インターナショナリゼーション(国際化)」という語は、意味する範囲が異なる。「インターナショナリゼーション」は国家と国家の間で生じる現象であるのに対して、「グローバリゼーション」は地球規模で生じるものであり、国境の存在の有無という点で区別される。
具体的に言えば、世界地図を見て国境を意識しながら国家間の問題を考えれば、「インターナショナル」な問題を考えている事になる。対して、地球儀を見ながら地球全体の問題を考えれば「グローバル」な問題を考えている事になる。即ち、「グローバリゼーション」の方が「インターナショナリゼーション」よりも範囲は広くなる。
訳語[編集]
大学共同利用機関法人人間文化研究機構国立国語研究所の「外来語」言い換え提案では「地球規模化」を挙げている。グローバリゼーション、グローバル化といった言葉もよく使われる。中国語では、「全球化」と訳される。
徴候[編集]
グローバリゼーションの傾向が認められる現象は多くあるが、現代の「グローバリゼーション」では3つの流れがある。(1)第二次世界大戦後に地球規模化した現象、(2)世界恐慌最中の1930年代前半に失われたが、現在に復活している現象、(3)米ソ冷戦終結後の1990年代に地球規模化した現象:の3つである。これらの現象には、ヒト・モノ・カネと情報の国際的な流動化が含まれる。また科学技術、組織、法体系、インフラストラクチャーの発展がこの流動化を促すのに貢献した。一方で、様々な社会問題が国家の枠を超越し、一国では解決できなくなりつつある。
より明確にいうと、地球規模化が認められるものには:
• 世界経済の融合と連携深化。
• 貿易の発展。
• 直接投資を含む資本の国際的流動の増加。
• 国際金融システムの発展。
• 多国籍企業による世界経済の支配割合の高まり。
• 世界で最適な調達・販売を行なうサプライチェーン・マネジメントの発達。
• 航空と海運の航路増大による物流ネットワークの発達。
• インターネット、通信衛星、電話などの技術を使った国境を越えるデータの流れの増大。
• 地球規模的に適用される標準、基準などの増加。(例:著作権法)
• 異文化交流の機会増加。
• 増大する国際的な文化の交換。文化の同化、融合、欧米化、アメリカ化(アメリカナイゼーション)、日本化及び中華化を通じての文化差異の減少。
• 増加する海外旅行、観光。
• 不法入国者・不法滞在者を含んだ移住者の増加。
• 政治主体の一元化
• 世界貿易機関(WTO)などの組織への国際的取り決めを通じての国家支配権と国境(の重要さ)の衰退。
• 国民国家の枠組みにとらわれないNGOなどの組織拡大。
• WTO、WIPO、IMFなどの国際的組織の役割の増大。
• 経済的格差の世界化
• 世界的な富裕層の増大、発展途上国における中流階級の成長、先進国の中流階級の没落・貧困化
• 社会問題の世界化
• 疫病の世界的流行。
• 犯罪の世界規模化。
• 地球全体の環境問題。
• 紛争への世界的関与。
※上記のすべての項目に地球規模化が認められるかどうかについては議論の余地がある。
賛否[編集]
グローバリゼーションの進展については、賛同して推進しようとする意見もある一方で、批判も強く、様々な立場から撤廃しようとする意見[(反グローバリゼーション・脱グローバリゼーション)が提示されている。様々な分野においてその功罪につき議論されている。
国家経済的視点では、ジョセフ・E・スティグリッツは、グローバリゼーションの利点を認めつつも、現状の市場・制度の下では二極化が進む欠点の方が多いと述べる。 またポール・クルーグマンは主に覇権国家や多国籍企業の利益追求を肯定・促進する(新自由主義)ために広められるドグマの一種であると書いている[要出典]。ただしその著書『グローバル経済を動かす愚かな人々』からも分かるように、クルーグマンはグローバリゼーションそのものに反対しているわけではない。
以下でグローバリゼーションに対する賛成・反対双方の意見を載せる。ただしここに載せた意見が経済学的に正しいとされているものとは限らない。貿易#貿易に関する誤解も参照の事。
賛同[編集]
• 国際的分業(特化)が進展し、最適の国・場所において生産活動が行われるため、より効率的な、低コストでの生産が可能となり、物の価格が低下して社会が豊かになる。
• 投資活動においても、多くの選択肢から最も良いものを選択することができ、各企業・個人のニーズに応じた効率的な投資が可能となる。
• 全世界の様々な物資、人材、知識、技術が交換・流通されるため、科学や技術、文化などがより発展する可能性がある。また、各個人がそれを享受する可能性がある。
• 各個人がより幅広い自由(居住場所、労働場所、職種などの決定や観光旅行、映画鑑賞などの娯楽活動に至るまで)を得る可能性がある。
• 密接に各国が結びつくことによって、戦争が抑制される可能性がある。
• 環境問題や不況・貧困・金融危機などの大きな経済上の問題、人権問題などの解決には、国際的な取り組みが必要でありこれらに対する関心を高め、各国の協力、問題の解決を促す可能性がある。
反対[編集]
• 安い輸入品の増加や多国籍企業の進出などで競争が激化すると、競争に負けた国内産業は衰退し、労働者の賃金の低下や失業がもたらされる。
• 投機資金の短期間での流入・流出によって、為替市場や株式市場が混乱し、経済に悪影響を与える。
• 他国・他地域の企業の進出や、投資家による投資によって、国内・地域内で得られた利益が他地域・国外へと流出する。
• 従来は特定地域に留まっていたテロリズムや武力紛争が全世界化し、各地域の安全が脅かされる。
• 多国籍企業の進出や人的交流の活発化によって、生活と文化が世界規模で均質化し、地域固有の産業や文化が消滅する。
• 地域間競争の活発化によって、投資・経済活動の巨大都市(世界都市)への集中が進み、農山村や中小都市が切り捨てられ衰退する。
• 多国籍企業の影響力増大によって、各国の国家主権や地方自治が破壊される。
• 投資家やエリート官僚が政治を牛耳るようになり、各国・各地域の民主主義はグローバルな寡頭制に置き換えられる恐れがある。
• 厳しい競争の中で企業を誘致したり国内産業を育成しようとするため、労働環境は悪化し、環境基準が緩められ、社会福祉が切り捨てられるようになる(底辺への競争)。
再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界
(これは、最近、夢中になっているゼロ除算の発想から湧いた、逆思考である。要するに遠い将来から、人生や世界をみたら、考えたら、どのようになるかという視点である。)
主張が明確に湧いたので、結論、趣旨から述べたい。人は我々の目標や希望が未来にあり、そのためにその目標に向かって、努力、精進などと志向しているは 多いのではないだろうか。そのような意味で、我々の関心が、先に、先に有るように感じるのではないだろうか。これは自然な心情であろうが、別の視点も考えたい。成長や発展、変化には適切な有り様が有って、早ければ良い、急いで進めれば良いとはならないということである。現在は、未来のためにあるのではなく、現在、現状はそれ自体尊いという視点である。先、先ではなく、 いま、いまが大事であるという視点である。生物の成長には固有のリズム、
成長のペースがあるということである。我々は、生物としての枠、構成されている状況によって制限があり、適切な有り様が存在する:
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
理想的な有り様には 自然な終末もあり、大局的にみれば、大きな流れにおける調和こそ
大事ではないだろうか。次の声明
再生核研究所声明144(3013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
の題名も真実だろうが、そこで述べた、
そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、慌てず、 自分の心の状態を尊重する ということである。人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。
言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば
磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。
原子力発電所の開発促進は適切であろうか。
グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。
成果主義は行き過ぎではないだろうか。
経済の成長、発展 優先も大いに気になる。
などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:
再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。
以 上
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