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白岩賢太2015年06月27日 08:05老人の老人による老人のための政治
衆院選、大阪市内の投票所で投票をする人たち(写真は産経新聞)
老人の老人による老人のための政治。19世紀、奴隷解放宣言で知られる米大統領、リンカーンが民主政治の原則を大衆の前で訴えた演説をもじり、最近こんな言葉をよく耳にする。高齢者の意見が過剰に政治に反映される「シルバーデモクラシー」とも揶揄されるが、先の大阪都構想をめぐる住民投票の結果を受けて、このフレーズがメディアでも頻繁に使われるようになった。
65歳以上の高齢者が総人口に占める割合が25%となり、「超高齢化社会」の進行著しいわが国にあって、全有権者に占める高齢者の割合が高くなるのは当然だ。多数意見が政治を動かす民主主義国家であればなおのこと、高齢者を優遇する政策が政治に反映されやすくなるのも自然な流れと言えるだろう。
国立社会保障・人口問題研究所が昨年11月に公表した社会保障費用統計によると、2012年度の政策分野別の社会支出(OECD基準)のうち高齢者政策の割合は、全分野の中で最も高い47・6%、金額にして53兆6272億円に上る。他の先進国と比較しても群を抜いて高く、この数字だけをみればわが国の高齢者政策の優遇ぶりがうかがえる。大阪都構想の否決をめぐっても、敬老パスの廃止がクローズアップされたが、こうしたお年寄りへの優遇策を「老害」と批判する声は決して少なくない。
ただ、社会支出が高齢者に偏っていることと、「老害」批判をごちゃ混ぜにする議論はいささか的外れである。政治の方向性を決定するのは、あくまで有権者の意思であり、その意思を表明する場として投票という機会が与えられているからに他ならない。
この手の議論でいつも引っ掛かるのは、「政治に関心がない」とか「投票しても何も変わらない」といった無関心、無気力の若者による「選挙離れ」の原因をすべて政治不信に擦り付けてしまう風潮である。
確かに、日々政局ばかりに明け暮れる政治家の言動や、最初は「若者目線だ」と調子の良いことを言いながら、いつしか長老議員の意見に流されていく体たらくをみせられると、一票を投じる行為自体、バカバカしくなることもある。だからといって、選挙で「白紙委任」してしまえば、ますますお年寄りの政策を優遇することになることも肝に銘じるべきだろう。
我々は一票を投じることでしか政治を変えることができない。投票しないことは現状を受け入れたに等しい。選挙にも行かず、ただ「老害」ばかりをあげつらうのは、それこそただのわがままに過ぎない。無責任に駄々をこねるのは子供だけでいい。現状を憂い、自分の生活やこの国の未来を少しでも案じているならば、やはり選挙に行くしかない。
くしくもつい先日、選挙年齢が18歳以上に引き下げられる法案が成立した。これをチャンスに変えるのも変えないのも、彼ら若者たちの意欲次第である。むろん、お年寄りがもっと将来世代に配慮すべきだという意見も忘れてはならない。だが、他人任せで甘えていても結局は同じことの繰り返しだ。いま必要なのは、自分たちの意識改革しかない。
「せっかく選挙権を与えても…」とお年寄りたちに「バカ者」扱いされないためにも、投票できる権利を目いっぱい行使しよう。すぐにはダメでも、近い将来、君たちの選択がきっと大きなうねりとなる日が来る。
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再生核研究所声明239(2015.6.23)自由な立場の人の意見、発想の尊重を
もちろん人は自分が大事で、個人はまわりの環境に気を使うものである。環境とは所属する組織や職場、交流関係やまわりの地域である。よく在るとは 環境と個人が上手い状態に調和していることであるから、個人の存在は極めて、環境の影響を強く受けるものである。このことは 自由というものが 実はそう簡単ではなく、実際は意見表明や 行動も環境の影響を強く受けているという事実である。多くの場合、その人の背景、環境を、考えれば、意見表明がどうしてそのようなものであるかを、推し量れるだろう。
意見表明と言えば、政策の表明が 社会に大きな影響を与えるという意味で重要である。大事な方針になればなるほど、政治家個人の意見は 党の方針や政策の基本に縛られるのは当然であり、党の方針が定めれば、多くは相当に個人の意見は表明できない立場になってしまう。最高権力者の決定は 殆どは各級機関の決定による形式的な裁可の形をとらざるを 得ない。組織として、社会として当然である。
ここで述べたい主旨は、人は環境の影響を強く受けていて、個人の意見の表明は難しく、多くの意見がどのように環境の影響を受けているか、背景に思いを巡らすことが大事だということである。
このことは、個人の自由な意見表明が難しく、縛られており、多くの真実、あるべき意見、考えが各級の組織に縛られていて、必ずしも適切な在り様が 顕にならず、おかしな世相を形作る危険性があるということである。少数政党政治で政党政治が進めば、意見や考え方は限られ、縛られ、多くの意見が活かされず、多く人々の意思を反映できず、支持政党なし、政治に無関心な層を増大させるのではないだろうか。この辺の在り様が民主主義の難しさの本質的な点ではないだろうか。
上記で、組織の意見は組織の利益を反映させるものであるから、世に在るべき在り様があるとすれば、それを公正に判断できる者は、内容の利害に直接関与しないいわば、自由な立場の意見を重視するのが大事ではないだろうか。世に多くの評価委員や審査委員を、直接決定結果の利害に関与するような立場の者から除くは 相当に当たり前の常識ではないだろうか。しかしながら、社会では、その辺の常識が崩れていることは 実は多いのではないだろうか。特に政治的な社会では顕著ではないだろうか。重要な人事で 人事権を有している者が自己の立場を有利にする立場で行なうは 相当に普遍的である本質的な面もある。学術界でも、芸術界、スポーツ界、いろいろなサークルでも自分たちの仲間の利益を自然に考えてしまうのは、高度化、細分化、孤立化の傾向の結果として自然なものである。そこで、そのような影響を受けない、第3者的な自由な立場の意見などの参照は大事ではないだろうか。公の立場や公正な立場を考えて行なうのは 場合によるが相当に無理な要求ではないだろうか。 そこで, 仲間や自分たちの利害を考えて判断する弊害が出る。声明の題名の主旨は、自由人の意見の尊重で 内容によって、公正な立場を取れる人の意見の尊重、人の活用を考えるということである。
ここで自由人の意味について、素人の意見という視点も大事ではないだろうか。専門馬鹿という表現が有るように 専門家は 狭い専門的な世界に入り込み、孤立化し、視野の狭い、独善的で、おかしな判断になる面もあるので、いわば素人の意見を参考にするのは良いことではないだろうか。素人とは、自由人であるとも言える。 ― いわゆる裁判員制度は、制度の善し悪しは問題としても、基本精神としては そのような大事な発想から出ていると考えられる。
日本のマスコミの信頼がゆらぎ、言論界の人の意見が おかしいのではないだろうか という、疑念の空気は相当に強いと言える。それらは、何か見えない圧力が利いていて、自由な意見では 既にないのではないか、という疑念に満ちた世相の増大ではないだろうか。多くが利益や圧力で動いているのではないかという 疑念を感じさせられる世相ではないだろうか。 マスコミや言論界が多様な意見を紹介して、適切な判断ができるように絶えず、努力するのは当たり前であるが、多様な意見を 自由な立場の意見か、特定の利害に縛られた意見かを良く、見極めて対処するのが大事ではないだろうか。
少し、複雑な内容になったが、この声明の主旨は表現されているのではないだろうか。
以上
再生核研究所声明228(2015.5.3)選挙制度の在り様についての具体的で簡単な提案 ― 選挙期間の延長を
地方選挙が行われた。地方選挙は選挙期間が7日間で、
(注: 選挙運動は,公示日(告示日)に立候補届が受理された時から選挙が行われる日の前日まですることができる。
1. 参議院選挙及び知事選挙が17日間。
2. 政令指定都市の市長選挙が14日間。
3. 衆議院選挙が12日間。
4. 都道府県議会選挙及び政令指定都市議会選挙が9日間。
5. 政令指定都市以外の市議会選挙及び市長選挙が7日間。
6. 町村議会選挙及び町村長選挙が5日間。)
始めから慌ただしく、お願いします、頑張りますの 連呼で 恰も名前を売り込むだけの運動に、第3者の人には思われる。立候補者の人物像、政策、政治姿勢など殆ど分からず、多くは 地元の人だから、あるいは政党によって、言わば立候補者の人物像が分からずに 感じで投票しているのが実情ではないだろうか。また、それらが、投票率の低さの原因ではないだろうか。選挙費用等は 関与したことがないので、 実情は分からないが、運動の様をみると結構大変な額ではないだろうか。民主主義の在り様について いろいろな面から、問題を意識している人は 世に多いのではないだろうか。
いわゆる選挙で選らばれる人は その組織において極めて重要であるという観点から、選挙における心得を次のように述べて来た:
再生核研究所声明 52(2011.3.22): 選挙における心得、留意事項
プロ野球やサッカーチームの監督が、極めて重要な役割を果たすように、いわゆる選挙で選らばれる人は その組織において極めて重要である。それは選挙で選ばれた人は、逆に何らかの権力、決定する権利を有することになるからである。 例えば、衆議院は国権の最高機関として首相を選出する権利を有するばかりではなく、国家の意志にかかわる重要事項を決定する重要な権限を有している。地方議会や知事や市長等々、何らかの大きな影響力と権限を有している。 そこで、そのような人物の選出において、適切な人物を選ぶ大事な視点について考察したい。 どのように心得て人物を選ぶかという、視点である。― 以下略
と述べ、具体的に詳しく留意すべきことを述べている。それらは要するに人物評価であるから、 そうは簡単でなく、適切に評価するのに 相当な時間を必要とするのは 当然である。この点、典型的な例として、アメリカの大統領選挙が想起される。複雑な方法で長い期間をかけて行われるのは、いろいろな視点から、慎重に、慎重に人物を選択するためであるとされている。
そこで、選挙制度の在り様の簡単で具体的な提案を行いたい。 選挙期間を3ヶ月間くらいに長く延長して、十分に時間をかけて全体の状況が理解できるようにするということである。選挙期間を長くすれば、選挙の在り様は相当に変わり、 連呼や単なる挨拶ではなく、より地味な深みのある選挙活動が行われるであろう。それはまた、政治への関心を広め、また深めるだろう。さらに人と人の交流を深める効果をもたらすだろう。実際、選挙期間が3ヶ月間の国に5年間滞在したが、何時選挙が行われたか、第3者には全然分からず、街は選挙に関して 平静そのものであった。沢山の立て看板や車による連呼などの虚しい選挙の様を変えられるのではないだろうか。 具体的な提案を行いたい。
以 上
再生核研究所声明209(2015.2.15) 政治的な配慮 ― 悪の素 ―社会の進歩とは
(昼食後の 何時もの散歩の折り、ひとりでに考えが湧いたものである)
世の秩序を考えれば、あるいは社会の法則として 次の公正の原則を 基本に考えれば 大抵の問題は解決できると述べてきた:
平成12年9月21日早朝,公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました.
1) 法律,規則,慣習,約束に合っているか.
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか.
3) それはみんなに受け入れられるか.
4) それは安定的に実現可能か.
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となればそれは公正といえる.
(再生核研究所声明1)。
相当にしっかりした、上記基準に基づいた判断に いわゆる 手心を加える、それを政治的な判断と 世では 言うのではないだろうか。上記の基準で判断できるものに対して、 配慮するとは 一部の人や、グループ、あるいは自己の立場を有利にしようとする いわば 悪の素と言えるのが 政治的な判断である。
実際、世の多くの問題について、公正の原則で 解決できるものならば、その解決は言わば科学的であり、客観的な判断で 社会の多くの問題は解決できる。政治的な判断が出来る要素は どんどん少なくなり、社会は進化し、政治家の役割は どんどん減少して、科学的に 官僚機構が社会を動かして行くようになるだろう。― 実際、世界史の進化は どんどんそのような方向に進んでいると言えよう。古くは王などが 直接政治を指導して王権が大きな力を持ち、実際に動かしていたものが、どんどん役割を減少させ、官僚機構が実際の多くの部分を動かすように進化してきている。経済政策などでも 科学的に客観的に対処する方向で 進んで行くであろう。
権力者や、実際の責任者が、上記公正の原則に反して、一部の利益、立場を優遇させれば、それは悪の素であり、社会正義に反するものである。されば、政治家は 多くは公正を重んじる裁判官のような役割を果たすようになり、政策の方向性は、多くは官僚機構が進めることになるだろう。民主主義の考えの下で、多数による決定は非科学的であり、本質的に望ましいものではなくて、民主主義の良い点は、いろいろな意見を自由に出せること、そして、変な政治家を排除できるところにある。民主主義は 多数決で決定するところにあるのではない と考えるのが妥当である。 多数決による決定は、衆愚の決定そのものである。
国家や社会は、多数の人々の自由な意見表明を、言論界やマスコミ関係者が議論させ、政治家が それらの状況を判断して 導いていくと考えるのが、妥当ではないだろうか。
結論は、政治的な判断を 少なくして行くことこそ、社会の進歩の原理であると考える。
以 上
再生核研究所声明 129 (2013.8.28):
美しい社会はどうしたら出来るか ― 世の中なぜ上手く行かないか
(2013.8.22 零時頃 新しい声明案が湧き、大いに気に成る。良い社会を築く問題点である。)
再生核研究所は 今の世の中 おかしいのではないか として、美しい社会を築くにはどうしたら良いかと考察し、始めに再生核研究所声明1で 次のように述べている:
(最近の世相として、不景気・政界・財界・官界・大学の不振、教育の混迷、さらにニューヨークのテロ事件、アフガン紛争、パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。
一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。
現在、社会の規範が混乱し、不透明になっているように思うが、公正の原則を確認して、行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり、多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか。)
そこで、上記 閃きにしたがって逆の立場から、考察、補充して置きたい。
まず、大きな権力と影響を与える政治家の立場から、考察しよう。
政治家は地位を得るのに汲々として、公正な行為がとれない本質的な問題を抱えているのが、民主主義の制度ではないだろうか。絶えず、地位が侵される立場であるから、まずは、自己の立場、権力の維持、したがって自分と仲間の視点を重視せざるを得ないのは、深刻な 当然の、本質的な問題である。古くは論功賞、ご恩と奉公はそれらの基礎である。民主主義には選挙過程と政治家の地位保存で膨大な労力を費やし、公正の原則や在るべき政策以前で終わってしまうような状況が有るのではないだろうか。安定した王政や貴族政、世襲制の方が良いという面が多いのではないだろうか。将来の大きな問題として提起しておきたい。次も参照: 再生核研究所声明 33:民主主義と衆愚政治
権力者が、在るべき社会の在りようを無視して、狭い意味での自己の利益を優先させる事である。明治初期には 国家の指導者たちが、相当に公や国家を論じて、義を重んじ 常に公を心にした高い志が 日本国の輝かしい時代を築いた原動力ではなかったかと評価、追想される。
それは政治家ばかりではなく、大学や学会などその他至る所でも 公の地位を利用して、自己の都合の良いように行うのは 世界的に見られる恥ずべき現象である。公の立場と個人的な利益の混同は 常に批判して、何時も人格の高潔さに思いを致すべきである。
政治的な面は、お金と権力に結び付き易いから、政治性に興味を抱く者、政治家などでは、始めから いわゆる野心家がいて、自己の利益追求を考えている者が多い現実に注目して 新しい制度の在りようの検討とともに大いに警戒すべきである(再生核研究所声明 52: 政治家や組織の代表者の選出における留意事項)参照。
公正と正義となれば、それらを守らせるのが、裁判官、検事などの役割で 国家の基本であるから、それらに圧力を掛けたり、また圧力に屈していると見られるようでは 共に卑劣、言語同断 それこそ、昔の武士道では切腹者である。公正な真実の報道を魂とし、社会正義を志すマスコミ関係者も同じように聖職者であり、同じような厳しさが求められるのは 当然である。
日本では、大事な、政治家、司法関係者、マスコミ関係者、多くの権力者たちが上記、公の立場をないがしろにして、自己の利益を図ったり、あるいは圧力に屈しているように見えるのが、当初に述べているおかしな社会にならしめている 元凶ではないだろうか。そこで、再び公正の原則を確認して、公の立場に従って行動できるように、行動させるようにお互いに自戒して行くように心掛けたい。それが帰するところ、美しい社会の実現の第1歩、基礎であると考える。
そこで、モラルの面で、いわゆる社会の上層部、指導者たちが高い学歴を有しているのは 普通であるが、いわゆる中国の科挙制度が おかしな、厳しい試験制度を永く続けたため、その制度の弊害で良き人材が現れず、中国が衰退の道を歩んだとの説もあるが、日本でも知識偏重で 人物たる教育の面が疎かになっているようなことはないか と大いに気に成る。それは 頭ばかりが大きくて 心が貧しいと表現されるだろう。
以 上
追記: 稲村和夫氏 などを 全国紙の論説主幹などに登用できる文化力が日本に有れば、日本は どんなに素晴らしい国になるだろう。人材の登用がおかしいのでは? 2013.8.24.10:45
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