2015年5月8日金曜日

記事 井戸まさえ2015年05月05日 20:36統一地方選挙「無投票」を考える

記事
井戸まさえ2015年05月05日 20:36統一地方選挙「無投票」を考える



 統一地方選挙の振り返りつつ、まずは県議選における「無投票」の問題を考えてみる。(関連で後半「無所属」についても、ちと言及)
   さて、「無投票」と「低投票率」はいずれも政治に対しての住民の関心が低いことから生まれる裏と表の関係であると思われがちだが、その根は別にあるとワタクシは思っている。
 以前、佐藤優先生と対談した時「低投票率は必ずしも民主主義の危機ではない。むしろ高投票率の方が国としては危機状態にあるということ」であるとのご指摘も受け、その件についてはまた別のところで述べているのでぜひ読んでいただきたい・・って有料だがね(笑)
 「無投票」となる要因は明らかに構造的な問題である、とワタクシは思っている。
  1人区が多すぎるのである。
  たとえば新潟県でも、
http://www.niigata-nippo.co.jp/…/senkyo…/20150405173268.html
   千葉県でも、ネットで引けば同様の記事が出てくる。
http://www.sankei.com/reg…/news/150405/rgn1504050045-n1.html
   地方議会では行革の一貫として定員の削減と、それと同時に1票の格差を改善しよう選挙区割りの見直しなどを行う。
 その際に自民党系会派は1人区を増やす案を推進する。2人区案は基本、却下である。当然ながら1人区の方が有利だからである。
 無投票選挙区を規模別に見ると、実際、1人区が前回の161から192に増加している。その多くは自民系が取っている。
ただ、無投票選挙区は2人区でも77から98、3人区で16から25にそれぞれ増えたということを見ると、共産党の動向が気になる。で、調べてみた。
 1~3人区の無投票選挙区で共産党公認で当選したのは和歌山県有田郡区のみである。
 ということは、他の無投票となった1~3人区選挙区では共産党が候補を擁立していない、ということになる。以前は「どんなに厳しい選挙区でも候補者を必ず立てる」というイメージがあったが、選択と集中をしている、ということなのだろうか。
   擁立者数の比較を見ると共産党は前回2011年を37人上回る262人を擁立している。
自民党の擁立候補は前回を66人上回る1310人。公明党は3人減の169人をそれぞれ擁立。
 民主党は前回の571人のなんと6割弱の332人だ。維新の党は126人。
  民主系の一部が維新に行ったとしても非自民系で100名ほど立候補者数が減っている。
 前回、民主党は小沢幹事長の号令のもと、「3人区以上は民主党で複数擁立」という方針を立ててもいた。
 これは政権与党として統一地方選、参議院選挙を闘う上で当然の戦略とされたが、現場は分裂気味の選挙となり、それが逆に党の結束を弱めた一因になったことは結果が証明しているとも言える。
 いずれにせよ、1人区で「無投票」が増える原因のひとつは、その選挙区で国政で拮抗する2党、もしくは3党の「代理戦争的役割」がないからである。
 現状のように自民党が圧倒的有利と言われる状況の中で、他党が候補者を立てる余裕も、またほぼ可能性がない中で「火中の栗を拾う」候補者もいない。以前、例えば自民党に不利な風の中で無投票=不戦敗を避けるため、県連職員がその割の合わない役目を引き受けていた例を見て来たが、それが出来るのは「組織」が機能しているからである。今の民主党や維新の各県連にはそこまでの体力はないだろう。
 一方で、当選する人数が少なければ少ない程、党派制を出し過ぎると広く票を取れないので、どこかの政党に所属していても「無所属」として出馬する「ステルス無所属候補者」がいるが、当選後の「所属会派」を見れば、彼らの出自はわかることになる。
 もちろん「真性無所属」もいる。
 党が議員を選ぶ大きな基準となる国政と違って、地方選挙においてはそこまで重視はされない。むしろ既存政党への不満を持った層の受け皿となる「無所属」という選択肢は、過去から一定の存在意義を持って来た。野田元総理を始め、前原、玄蕃氏たちも県議会議員選挙に挑戦した時は「無所属」で、批判勢力の票をまとめて当選したのである。
 2人区、3人区の場合、当事者同士の微妙なバランスで「争い」を避けようとの思惑が生まれ、新規参入がし難い状況を作り出す。逆に言えばそれだけ「選挙に強い」というオーラをそれぞれが出す、もしくは事前のちょっとした駆け引きも含め(例えば県議選に出ようとしていた人を、応援するから市議に回れ、とか)
 いずれにせよ、「選挙」は「個人の努力」もさることながら「構図」である、とつくづく感じる。
  例えば、この選挙区に共産党が立ってたらどうだっただろうか、とか、民主党の市議会議員の取っている票と県会議員の票に明らかに差がある場合は、自民党の県議会議員の票を見る。自民党公認全市議会議員の票と公明票を足したより少なければ、そこは簡単。公明党票が流れているのである。
 ・・・なーんてことを、ゆっくり分析できれば、表面で見えている選挙のあれこれとは違う手練手管が見えてくる。
 こま猫先生が学者の書く論文について「研究者あたりの研究費のジニ係数とか計算できると面白い」と書いていたが、政党も、また政党助成金を出している有権者も、今あるデータを他の角度から分析するツールを持てば、候補者と、議員の実績、また今後の期待値も含めて、もっと有益な情報を得ることが出来るのではないか、とも思う。
 そんなソフトの開発もしてみたいなあ。
(短時間で書いたので、ちょっと雑ですんません・・)http://blogos.com/article/111543/

再生核研究所声明228(2015.5.3)選挙制度の在り様についての具体的で簡単な提案 ― 選挙期間の延長を
地方選挙が行われた。地方選挙は選挙期間が7日間で、
(注: 選挙運動は,公示日(告示日)に立候補届が受理された時から選挙が行われる日の前日まですることができる。
1. 参議院選挙及び知事選挙が17日間。
2. 政令指定都市の市長選挙が14日間。
3. 衆議院選挙が12日間。
4. 都道府県議会選挙及び政令指定都市議会選挙が9日間。
5. 政令指定都市以外の市議会選挙及び市長選挙が7日間。
6. 町村議会選挙及び町村長選挙が5日間。)
始めから慌ただしく、お願いします、頑張りますの 連呼で 恰も名前を売り込むだけの運動に、第3者の人には思われる。立候補者の人物像、政策、政治姿勢など殆ど分からず、多くは 地元の人だから、あるいは政党によって、言わば立候補者の人物像が分からずに 感じで投票しているのが実情ではないだろうか。また、それらが、投票率の低さの原因ではないだろうか。選挙費用等は 関与したことがないので、 実情は分からないが、運動の様をみると結構大変な額ではないだろうか。民主主義の在り様について いろいろな面から、問題を意識している人は 世に多いのではないだろうか。
いわゆる選挙で選らばれる人は その組織において極めて重要であるという観点から、選挙における心得を次のように述べて来た:
再生核研究所声明 52(2011.3.22):  選挙における心得、留意事項
プロ野球やサッカーチームの監督が、極めて重要な役割を果たすように、いわゆる選挙で選らばれる人は その組織において極めて重要である。それは選挙で選ばれた人は、逆に何らかの権力、決定する権利を有することになるからである。 例えば、衆議院は国権の最高機関として首相を選出する権利を有するばかりではなく、国家の意志にかかわる重要事項を決定する重要な権限を有している。地方議会や知事や市長等々、何らかの大きな影響力と権限を有している。 そこで、そのような人物の選出において、適切な人物を選ぶ大事な視点について考察したい。 どのように心得て人物を選ぶかという、視点である。― 以下略
と述べ、具体的に詳しく留意すべきことを述べている。それらは要するに人物評価であるから、 そうは簡単でなく、適切に評価するのに 相当な時間を必要とするのは 当然である。この点、典型的な例として、アメリカの大統領選挙が想起される。複雑な方法で長い期間をかけて行われるのは、いろいろな視点から、慎重に、慎重に人物を選択するためであるとされている。
そこで、選挙制度の在り様の簡単で具体的な提案を行いたい。 選挙期間を3ヶ月間くらいに長く延長して、十分に時間をかけて全体の状況が理解できるようにするということである。選挙期間を長くすれば、選挙の在り様は相当に変わり、 連呼や単なる挨拶ではなく、より地味な深みのある選挙活動が行われるであろう。それはまた、政治への関心を広め、また深めるだろう。さらに人と人の交流を深める効果をもたらすだろう。実際、選挙期間が3ヶ月間の国に5年間滞在したが、何時選挙が行われたか、第3者には全然分からず、街は選挙に関して 平静そのものであった。沢山の立て看板や車による連呼などの虚しい選挙の様を変えられるのではないだろうか。 具体的な提案を行いたい。
以 上

再生核研究所声明 33 (2010/04/02):  民主主義と衆愚政治
民主主義( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、問題点を露にし、より良い政治、決定が行われるように注意を喚起したい。
まず、このような方法をとる原理は、重要決定について 関係者がすべて平等に固有なる権利を有するから、その固有の権利の行使として、一般選挙を行い、選出された代表者も同じような考え方から、多数で決定すること、及びそのような過程、方式で多くの意見を基に討論して、みんなで決定する考え方である。この際、少数意見でも適切な意見である可能性があるから、それらを尊重して議論し、最終的には多数決で決定する(少数意見の尊重)というところも 民主主義の重要な点である。現在世界的に考えられている政治権力の決定方式である。それに対して、中国古代で考えられた いわゆる天子様による政治は、絶対権力を有する天子様が一部の人の意見を参考にして、決定していく方式であるが、多くの王政も日本の幕藩体制も大体同じような政治体制と考えられよう。これらの問題点は、権力者のいわば大義名分、すなわち、なぜ、天子や王や将軍が権力を有するのかという理由付けに難しい点がある。また、そのような権力者の決定に本質的な問題がある。しかしながら、そのような大義名分の問題があるものの、良き天子や王の下で、理想的な政治が行われた時代は 世界の各地で見出される。
民主主義の問題点は、まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかることである。 そこで、多くの政治家、代表者は選出されるために膨大な労力を使い、本来の政治や仕事に取り組むためのエネルギーを費やしている。 また、有権者の支持を取り付けるために、構成員のためにならないようなことであっても、約束するような状況が多々起こり得る。 顕著な例として、日本国における膨大な借金と慢性的な財政赤字が挙げられよう。国民の支持を取り付けるために、必要ではあるが、課税を強化できない状況をもたらしている。このようなことを続ければ、国家破産を迎えるのは必然ではないだろうか。民主主義の失敗例に 日本国の場合が記録される可能性を有する ゆゆしき問題である。
民主主義の問題点は、投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が 高いという、事実にある。 また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちである。また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうことなどは、よく有りがちである。しかしながら、選んだのであるから、それは選出者の責任であるという観点は 良く理解できる大義名分である。
みんなで、選出し、みんなで決めたことであるから、如何なる決定でも納得できるは 確かに大事な大義名分であるが、これを誤解すると何でも多数をそろえて、いわば多数の力で、政治その他を推し進めようとなりがちな弊害を生むことになる。多くの会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために   言わば数の結果で悪い決定がなされるのが むしろ多いのが現状であろう。これは原理的にも本質的にそうなる傾向がある。一般に良いものから順に並べれば、多数の決定とは 中間くらいの決定になるのが世の法則だからである。多数による決定とは 決定の便法であり、適切とか、公正とが、正しいという種のものではないことに留意しておく必要がある。( 数学のゼミナールで討論すれば、議論している数学の結果に対する真偽を多数決で決めるのは 何の意味もなく、誰が真実を述べているかによって、自ずから客観的に決定するのとは大きな違いがある。)
さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点も大事である。 沖縄返還に伴う外交問題で、いろいろ密約をしていた状況が露になったが、状況を露にすると国民の反対が出て外交がうまく行かないという、高度な政治判断が行なわれたのは顕著な例である。 憲法改正や、国防の在りようなども同じように難しい問題がある。それらを素人の多くの国民に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるという面も有する。
次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、具体的に運用の在りようについて提案したい:
1)いわゆる代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票しても貰うのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。( 高校時代の世界史の 尊敬する先生の 授業中に述べられた ひっとした言葉が 今鮮やかに蘇り、ここに成文化したい: 私は、よくよく考えて 1票を投じているのに、よく考えないで投票する人と 同じ1票かと思うと 考えてしまう という嘆きの言葉です。)。
2)代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3)代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4)代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5)特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 次の報道の5原則にいつも留意すること:
 (2010年01月31日)
原口一博氏がtwitter でつぶやいたという報道の5原則:
原則1「推定無罪の原則」
…….(最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと)
原則2「公正な報道」
…… (検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること))
原則3「人権を配慮した報道」
…….(他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること)
原則4「真実の報道」
……(自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること)
原則5「客観報道」
…… (問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること)
                                         
みなさん、民主主義は何時でも衆愚政治 に陥り易いので、 衆愚政治に落ち入らないように努力して より良い社会を築いて行こうではありませんか。
                                                          以 上
注:
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、 誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。 また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことを合意することがある(アビリーンのパラドックス)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。 
GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
格好良すぎるぞ。升田幸三!
名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫) [文庫]
升田 幸三 (著)

0 件のコメント:

コメントを投稿