2015年3月10日火曜日

記事 赤木智弘2015年03月07日 09:48殺人よりも、正義の妄言がより多くの人を傷つける

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赤木智弘2015年03月07日 09:48殺人よりも、正義の妄言がより多くの人を傷つける




 川崎市で発生した少年によるリンチ殺人の話。
 こうした少年犯罪が発生した時はいつもそうだが、多くの人達が「祭だ!フィーバーだ!!」とばかりに、無責任な発言を連発する。

 まずは自民党の政調会長である稲田朋美が「少年犯罪が非常に凶悪化しており、少年法のあり方が課題となる」という妄言を吐いた。(*1)

 「少年犯罪の凶悪化」と「少年法のあり方」というのは、目立った少年犯罪が発生するたびに口にする人が必ずいるのだが、すでに少年犯罪は数的にも質的にも凶悪化するどころか、減少の一途をたどっていることは、もはや社会常識と言ってもいいレベルの話である。

 「そういえば、稲田朋美って法務大臣やってなかったっけ?」と思って調べてみたら、国政で法務大臣に就いたことはないものの、野党時代の自民党シャドーキャビネットで法務大臣として指名されていた。

 今後、犯罪白書すら読めない人間が法務大臣に就く可能性があるということで、実に恐ろしい話である。

 同様にネット上では、犯人と称される写真や名前が数多く拡散された。中には生中継と称して、容疑者の1人の自宅とされる家を撮影する子供まで現れた。

 問題は、それが正しいか間違っているかということではない。どんな犯罪に対してであれ、我々が私的に誰かに刑罰を与えることがあってはならないということだ。それは容疑者に対してですらそうなのだから、容疑者の家族などであれば尚更である。

 こうした容疑者側の人権を前提とした主張をすると、人々は「被害者家族の無念を考えろ」と主張する。また「自分たちの子供が殺されたらどうするんだ」と反論してくる。

 しかし、そういう人たちは容疑者家族や親類縁者の苦痛や無念を考えたことが少しでもあるのだろうか?

 容疑者の家族の生活が、それを暴き立てようとする人達によって壊れたとして、世間はその罪までもを含めて、犯罪者に押し付けようとする。しかし、容疑者家族の苦痛は、その容疑者自身ではなく、容疑者家族を吊るし上げる人たちによって与えられた苦痛である。それを容疑者の責任に帰すことは本当に真っ当であろうか?

 そして、そうした苦痛を、私達が受けることが決してないと言えるだろうか? 自分たちの家族や親類縁者が、絶対に犯罪を犯さないとでも?

 もっと単純な話をすれば、たとえ親類縁者が犯罪を犯さなくても、世の中には「同じ名字である」とか「いかにもそれっぽい」という理由で、犯罪者やその親類縁者として吊るしあげられる事例がある。

 たとえば、お笑い芸人のスマイリーキクチ氏は、10年以上もネット上で東京都足立区で発生した女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人のひとりという誹謗中傷を受け続けた。

 また、北海道の不動産会社は、事件の容疑者と犯人が苗字が同じだったというだけで、事実無根の誹謗中傷を受け、いたずら電話なども殺到した。

 僕が「お前が被害にあったらどうするんだ!」という論を認めないのは、確率論的に考えて、自分やその家族が誰かに殺される可能性よりも、「犯人を絶対にゆるさない!」と考えている正義の人たちから、全く見知らぬ犯罪などにより、自分が誹謗中傷される可能性のほうがはるかに高いと考えるからだ。

 前述のスマイリーキクチ氏の著書(*2)によると、誹謗中傷を行った犯人たちは、警察に問い詰められると「自分はネットに騙されただけだ」と被害者を演じて、自らの誹謗中傷の罪を自覚し、心から反省し、スマイリーキクチ氏に謝罪をする人はひとりとしていなかったという。

 事件の犯人は裁かれるし、たとえ少年法で数年で出所するとはいえ、少なくとも犯罪を自覚する。しかし、ネットでの自覚なき正義の人たちは、一切犯罪を自覚することはない。自覚したところで被害者であるとうそぶき、自らが他人を傷つけたという現実からは目をそらし続ける。

 僕は犯罪者よりも、そうした数多くの正義の人たちの方が、はるかに恐ろしくてならないのだ。

*1:「少年事件が凶悪化している」というのは本当か? 自民・稲田政調会長「発言」を検証(弁護士ドットコム)
*2:『突然、僕は殺人犯にされた ネット中傷被害を受けた10年間』(スマイリーキクチ 竹書房)http://blogos.com/article/107224/

次の観点は大事では:



再生核研究所声明205(2015.2.11) 宿命論



人生、世界については 結構多くの見解を述べてきた。最近も

再生核研究所声明203(2015.2.4) 人間とは何か、人生とは何か
(ちょっと風邪気味の日が続いて回復したとき、ひとりでに閃いた,人間、人生についての断面である)

― 人生とは、始めも分らず、終末の先も分らない。周りの環境と分けの分らない感情、情念で、ふらふら生かされているようにみえる。背後には 本能である生命の活動があることが実感できる。―  

また、

今回,明確に実感したのは、我々が感じ、意欲が湧いたり、喜びを感じたりするのは、原理的に健康状態に左右されて、理屈や夢や思想や我々の理性的な面では無くて、生命力が大きいということである。多くの人間の悩みや、迷い,不安さえ、その元には健康問題があり、健康状態の問題が、人間の精神状態に大きな影響を与えているのではないかという、基本に対する省察を実感したということである。生命力が有り、健康ならば、ひとりでに人生に夢が湧き、喜びや、感動が 些細なことからも湧いてくるだろう。従って、絶えず健康状態に気遣うは、人間を考える場合ばかりではなく、人生における基本であると言える。汝自らを知れ、汝 足元を見よ。汝自らの生命を思え。―

さらに、

―人間とは何か、人生とは何か。 それらは、肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる、雲のような存在であるが、人間を精神と捉えると結構安定している存在であると言える。実際、人は何十年と私は、私と思うだろう。我々が 広く環境と自己に 何時も留意するのは 大事な心得と言える。―

このように考えると、人間が積極的な存在ではなく、受動的で、何者かによって生かされている現実を深く受け止めることになる。私たちは 若い頃、寿命も、運命も定まっている、場合によっては、前世からの因縁で 定めだから仕方ないという発想を、老人たちから幾度となく聞かされてきて、相当な時代、そのような世界観を人々は 仏教の影響を除いても 本能的に感じてきたのではないだろうか。結構、悟ったように、それは定め、因縁だから仕方ない、― そのような人生観、世界観は世に多いのでは ないだろうか。いま、それらを諒として 自然に受け入れられる心を実感している。
しかしながら、積極的に人生を意志して行こうという精神からは そのような心情から新しい局面を観たい。
最近、心を痛めた、イスラム国による、人質事件と処刑、死刑囚の処刑、痛ましい痛切残念な事件、あるいは痛ましい殺人事件。宿命論とはこの場合、それぞれの立場では 仕方がなかったという視点である。日本人人質も、パイロットもそれぞれの義を通したものであり、死刑囚と言えども 兄弟など爆死させられて、絶望に追い込まれた、心情は痛いほど理解できる。パイロットなどは上官の命令で命をかけて、任務を遂行したものであり、何ら罪、責任が問われる立場ではない. 後藤健二氏などは 危険を顧みず友人の救命に向かい、イラクの人々のために尽くした行為は まさに聖人レベルではないだろうか。痛切残念である。ここで述べたい視点は、ある者や国を批判することではなく、それぞれの立場で、言わば義があり、仕方のない面があるという視点である。殺人事件が起こると、大騒ぎを起こして騒ぎ立てるが、相手の立場に立てば、それなりに追い詰められた苦しみや、状況があり、誰でもそのような立場になれば、同じような状況に追い込まれるものである という、人間の普遍性、人間は皆同じような存在であり、偶然、そのような環境や状況では、皆同じようではないだろうかと、観る視点に想いを致すことである。
たまたま、環境で、状況で そのような幸運や不運にあっているという、視点は 人間を優しくし、社会を明るくするのではないだろうか。生きるもの全ては、哀しい運命を共有する仲間たちではないか。切ない。マスコミは 弱いもの虐めのようなことは よして欲しい。 明るい世相を描いて欲しい。

以 上

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