記事
後藤百合子2015年01月09日 07:01問われる「言論・表現の自由」と宗教
今月7日、イスラム教預言者モハメッドの風刺で有名なフランスの新聞社シャルリー・エブド社がイスラム教徒と思われる男2人に襲撃され、編集長や風刺漫画家など12名の方々が亡くなりました。亡くなられた方々やご家族のことを思うと本当に胸が痛みます。どのような理由にせよ、暴力によって人を傷つけたり命を奪うというやり方は決して許されません。このような事件が二度と起きないよう祈りつつ、事件の背景を考えてみたいと思います。
■預言者モハメッドの風刺漫画を掲載し続けてきた新聞社
報道によると、犯人の男2人は逃走の際に「預言者モハメッドの敵討ちだ」と叫んだといいます。この新聞社は以前からイスラム教で神聖とされている預言者モハメッドの風刺漫画を掲載し続け、火炎瓶を投げいれられたり、反人種差別法で訴追されたりもしている、イスラム教を風刺することについては筋金入りの新聞社だったようです。
このような編集方針を貫いてきた新聞社の真の目的が何なのか、残念ながら私には知るすべはありません。しかし、預言者として崇拝するモハメッドを風刺漫画で嘲笑されてきたフランスのイスラム教徒の方々の反発は容易に想像できます。今回の事件はある意味、起こるべくして起こってしまったともいえるのではないでしょうか。
■幼少から宗教教育を受けるイスラム教徒
シンガポールでは国民の約13%がマレー系イスラム教徒です。イスラム教徒の家庭に生まれた子供たちはほとんどが小学校入学の頃から週末にイスラム教の宗教クラスに通います。ここでは預言者モハメッドが神から啓示されたという聖典コーランの講義やお祈りの仕方などが教えられ、子供たちは日々の生活の中でどうマホメッドの教えを実践していくかを勉強していきます。
大人になってからも宗教と一体のは続きます。一日5回のお祈りは多くのイスラム教徒が行っており、毎週金曜日は礼拝所であるモスクでの祈りと年1度の断食月が教義で義務づけられています。また、大人が生涯を通じて聖典コーランを学ぶ宗教クラスも多くのモスクで定期的に開催されています。私のシンガポールの親友はイスラム教徒ですが、彼女も長年にわたり熱心に宗教クラスに参加していて、イスラム教についてわからないことを聞くと教えてくれたり、即答できないときには宗教クラスの先生に聞いたり自分で調べたりしてくれます。このように多くのイスラム教徒にとって信仰と日常生活は密接に結びついていて、祈りやコーランはなくてはならない大切なものなのです。
■宗教への侮辱とは何なのか?
今回の事件で亡くなられた新聞社の編集長は以前、NHKのインタビューに応えて「イスラム教徒を侮辱するつもりはないが、風刺や批判をする自由は許されるべきだ」という意味のことを話していらっしゃいました。しかし、風刺や批判される人々にとって、どこまでが侮辱で、どこまでがそうでないのかは本人でないとわかりません。
例えば、昨年12月、ミャンマーでニュージーランド人のバーのオーナーが「宗教侮辱罪」で逮捕されました。理由は、仏陀がヘッドフォンをつけているイラストを広告に使い、仏教を侮辱したから。実際にそのイラストを見ましたが、文字通りヘッドフォンをつけている普通の仏像で、私にはただのお洒落なイラストにしか見えませんでした。しかし、熱心な仏教徒の多いミャンマー人々の目には「仏教に対するたいへんな侮辱」と映ったのです。逮捕されたオーナーは「これが仏教に対する侮辱だとは思わなかった。たいへん反省している」と語っているそうです。
もうひとつの例は「Oh my God!」という英語のフレーズです。日本人でもときおり使っている方をみかけますが、キリスト教圏では4文字言葉とまではいかなくてもかなり「品の悪い言葉」と認識されています。理由は旧約聖書のモーセの十戒に「神の名をみだりに口にすることなかれ」という戒めがあり、「God」という言葉を使うこと自体が教えに反すると考えられているからです。ですから、多くの家庭では子供がこのフレーズを使うと親から注意され「my goodness!」や「Oh my!」などに言い換えるように教えます。
このように、いくら本人に悪意はなくても、こと宗教がからむと相手が「侮辱された」「不愉快だ」と思ってしまう場合も少なからずあるのです。
■ほとんどが善良で常識的なイスラム教徒
近年、アルカイーダやタリバンのテロ行為や非常に好戦的なイスラム国の台頭などにより、先進諸国ではイスラム教徒への風当たりが強くなっています。このような国々では、イスラム教徒だというだけで入国審査が厳しくなったり、女性ではヒジャブと呼ばれるスカーフをつけていると白い眼で見られたり、という差別が頻繁に起こっているようです。
しかしごく少数の過激なグループを除き、ほとんどのイスラム教徒はほとんどのキリスト教徒や仏教徒と変わらない、善良で常識をわきまえた人々です。にもかかわらずイスラム教徒であるというだけでいわれのない差別を受け続けていたり、大切に守り、心のよりどころとしている信仰が風刺されたり批判をされたりしていれば、どんなに平静を保とうとしても堪忍袋の緒が切れてしまう、ということもありえます。特に若者の場合は今回の事件のように鬱積した怒りが暴力となって噴出してしまうケースも少なからず出てくるでしょう。それがまたイスラム教徒に対する怒りや差別をうむという悪循環に陥っているように思えてしかたありません。
■言論と表現の自由は他人が大切にしているものを侮辱するためにあるのではない
以前、シンガポールの言論の自由について書きましたが、建国当初からさまざまな宗教や人種の人々が協力し合って国作りをしてきたシンガポールでは、とりわけ宗教や人種に対する言論と表現の自由は厳しく規制されています。仲間内の冗談ではあっても、マスコミを含め公式な場で侮辱的な発言をすることは決して許されません。
今回の事件をただ「言論の自由を暴力で封じる許せない行為」と切り捨て犯人を糾弾するだけで終わらせるのではなく、逆にこの事件を教訓に、自分たちと異なる宗教や信条を尊重し、多様なな信仰や考え方をもつ人々が調和して暮らしていくための「言論と表現の自由」とは何なのかを、もう一度考え直すべき時期に来ているのではないでしょうか。そして二度とこのような事件が起きない社会に変わっていけるよう、願ってやみません。http://blogos.com/article/103068/
痛ましい事件ですね。まず、言論の自由の保証は素晴らしい文化ですので、尊重したい。言論は言論で反対するのが筋では。人の大事なものを軽く扱うは、気をつけるべきでは?
再生核研究所声明 66(2011/06/18):
言論の自由を篤く保障し、実りある議論のできる社会に
近年、果たして、日本に言論の自由が保障されているかについて 疑わしめる状況が起きている。最近も、原発反対を表明したら、仕事を変えざるを得ないような状況に追い込まれた、と報道されている。このような場合、言論の自由は表現の自由として、人権のうちでも中枢をなすものとして、日本国憲法はおろか、世界人権宣言にも著しく反するものであることは 天下周知の事実であるから、明白な形をとらず、虐めのような、間接的な抑圧として現れる極めて、陰気な形をとるのが特徴である。そこで、まず、言論の自由について、日本国憲法にしたがって確認しておきたい:
日本国憲法
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
検閲は、これをしてはならない。 通信の秘密は、これを侵してはならない。
また、世界人権宣言は:
世界人権宣言 (1948年12月10日第3回国際連合総会採択)
第19条
すべて人は、意思及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。(「ただし」とか「公共の福祉の場合を除き」といった例外的制限が無く、絶対的な人権として採択されている点に注意。)
また、直接関与する新聞倫理綱領には:
新聞倫理綱領 (2000(平成12)年6月21日制定)
21世紀を迎え、日本新聞協会の加盟社はあらためて新聞の使命を認識し、豊かで平和な未来のために力を尽くすことを誓い、新しい倫理綱領を定める。
国民の「知る権利」は民主主義社会をささえる普遍の原理である。この権利は、言論・表現の自由のもと、高い倫理意識を備え、あらゆる権力から独立したメディアが存在して初めて保障される。新聞はそれにもっともふさわしい担い手であり続けたい。
おびただしい量の情報が飛びかう社会では、なにが真実か、どれを選ぶべきか、的確で迅速な判断が強く求められている。新聞の責務は、正確で公正な記事と責任ある論評によってこうした要望にこたえ、公共的、文化的使命を果たすことである。
編集、制作、広告、販売などすべての新聞人は、その責務をまっとうするため、また読者との信頼関係をゆるぎないものにするため、言論・表現の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなければならない。(以下略)
と、一様に言論の自由の重要性を謳っている。芸術や創造活動など生命の叫びとして、いろいろな表現は人間の生きている証であるから、それらの自由を保障するのは 人間存在の本質に迫る問題である。 しかしながら、具体的に問題が露わになるのは、社会の在り様についての見解、意見で言論の自由が問われる場面が生じる(哲学者のアレクシス・ド・トクヴィルは19世紀初頭のアメリカで人々が政府による報復への恐怖からではなく、社会的圧力のために自由に話すのをためらうのを観測した。個人が不人気な意見を発表するとき、その人は彼の共同体からの軽蔑に直面するか、または乱暴な反応を受けるかもしれない。このタイプの言論の抑圧を防ぐことは政府からの抑圧を防ぐよりさらに難しい: 言論の自由 - Wikipedia)。また、人を傷つける表現、ポルノなど、社会を乱す表現、あるいは事実と異なる発表などなど、法と倫理に関わる難しい問題が生じる(一方でマスコミによってしばしば行なわれる私人の醜聞の暴露、宮内庁による天皇皇族の動静の「代表取材」要求や「写真お貸し下げ」を無批判に受け入れる行為は、言論の自由を自滅させる行為であるとする強い批判もある。前者に関しては、一部のブロガーがそれを真似た行為に走り、さらにはネット掲示板にもその情報を広めて非難を浴びることがあるが、元はと言えば既成マスコミのセンセーショナリズムが一般市民にも発信可能になったということに過ぎない: 言論の自由 - Wikipedia)。これらに対応するには 次の公正の原則を参考にすれば 多くの場合対応できるのではないだろうか:
平成12 年9月21 日早朝、公正とは何かについて次のような
考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して
諒となれば、それは公正といえる。(再生核研究所声明1)
しかしながら、上記、3基本規定は 言論、表現の自由は 最大限保障するように心がけていこうとの 高い精神を謳っているものと理解したい。その本質は、多様な意見、多様な表現が世界を大きくし、世界史を豊かにするという、人間存在の原理から由来するが、他方、社会の在り様や、政治に対する意見などについては、対立する多様な意見の中に 実は価値ある見解が含まれる可能性があるという、観点が大事になる。
例えば、福島原発についても、その危険性を鋭く指摘された 国会での質疑が記録されている。― もし、それらの意見を真剣に受け止めて対応していれば、何十兆円も超えるであろう、国家的な損失を避けることができただろうと残念に考えられる。―
もし、言論、表現の自由が保障されず、束縛されれば、世の意見は偏り、視野は狭くなり、独善に陥り、結果として、貧しい暗い、社会になるだろう。
更に重要な観点は、幾ら言論、表現の自由が保障されたとしても、それらの伝達が適切に行われるかが 重要な問題である。 幾ら価値ある意見、表現でも世に上手く伝えられなければ、世に活かされない、無視されることになるからである。そのような意味でのマスメディア、出版業界など関係機関の見識と役割は、インターネットの普及で改善される傾向が出ているものの依然として重要な役割を果たしている。 実際、日本で、言論の自由がそれほど大きくないとの評価は、マスメディアなどが 偏った見解を一方的に流し、価値ある見解を無視している、反対意見を無視しているとの観測から出ているものと考えられる。
更に、問題点を具体的に指摘すれば、上記新聞倫理綱領に反するように
1) 政府、検察、大企業、軍関係との癒着が深く、独立性が保てず、どこかで検閲のようなことが行われ、新聞が一様に申し合わせたような在り様に感じられること
2) 社説なども高い見識、良識、公正な立場を保てず、視野の狭い、偏った質の低いものになっていて、社会的に大きな影響を与えるようなレベルにはない
3) 一方的な報道が見られ、反対意見や少数意見の中の貴重な意見などを探し、世に活かそうなどの高邁な精神に欠けている
4) 世論調査などを公表して、逆に意図的に世論を誘導しているような恣意が強く出ている。 積極的な不当な政治介入とも理解される
5) 幅広い意見を紹介せず、社の都合の良い意見を多く採用、掲載していて、幅広い意見を世に紹介しようとの精神に欠けているように見える
6) 日本の新聞界、マスコミが如何に弱体化、退化しているかは、福島原発事故における対応、特に所謂メルトダウンの真相が、事故発生後2ヶ月も経って明らかにされた事実から、明白である。これは、世界史に残る日本の醜態である。放射能汚染状況などは 日本のマスコミを信じず、海外のメディアを参考にしている有様である
7) 個人の過ちに寛容でなく、社会的に傷つけるような 弱い者 虐めの感じを否めない。情報環境に対する配慮も求められる
8) 上記新聞倫理綱領に書かれている、基本的な在り様の精神に 全体的に欠けているような状況は、マスコミ批判として、相当強い世論になっていると考えられる。マスコミには 世の批判に謙虚に答える姿勢に欠けているように見える、まるで、大きな権力を有しているような、尊大さが見られる。 ― 世の問題は そんなに難しいものではなく 上記 公正の原則 に従えば 容易に改善できるものであると 考える。―
さて、現在大きく対立する意見として、原発の是非の問題、財政、経済、増税の問題、政党支持の問題、外交、防衛問題などがある。そこで、それらの問題に対する言論の自由からの考え方について、簡単に触れたい。
原発の是非の問題: 飛行機の是非の問題は 世界的に問題となっていないようである。 原発も原理は同じではないだろうか。原発を十分制御できて、総合的な評価において採算が取れれば、利用したいと考えるのは道理である。飛行機でも全滅の現実は起きており、被害の状況が是非を決定することになると考えられる。問題は、それらの評価が、大部分の人が素人で分からない状況であるという現実である。分からないのに感覚的に、賛成、反対を表明したり、国民投票で決めようというのは如何なものであるかと考える。 まるで、あれも霞と民主主義 以外のなにものでもなくなってしまう。 多数で決めれば良いとはならないと考える。 専門的な総合的な判断が不十分では、投票、それ以前の、議論すら、意味がないのではないだろうか。また真実ではない、一部の利害に基づく見解では、さらに混乱を世に巻き散らすことになる。いわゆる御用学者などと言われる言葉が広まっているのは、真理を追究する研究者にとっては 恥ずべきことである。専門家として、研究者としての信頼を欠いている現象とみられる。 そこで、第三者の客観的な評価、意見の表明が重要になって来る。 財政、経済、増税問題なども基本的に 素人には分からない難しい問題と言える。
政党支持の問題、外交、防衛問題など: これらの問題は、自由に意見を表明、また働きかけて、日本国のために どうすれば良いかを 真面目に考えるべきである。特に残念なことは、見解が違うと、相手を決めつけて、実り有る議論ができず、対立のための議論になってしまいがちなことである。 これは より良い道を選ぼうとする基本精神を失い、論争のための議論、あるいは勢力争いの、また利害のための議論に陥っているからである。これでは 良い意見が出ても採択されたり、活かされないので、空しい議論になってしまう。 現在の政党のように、あるいは派閥のような 単なる、争いのための議論が横行しているのは残念である。 背後に有るべき、国にとってどうしたら良いか、社会のためには どうしたら良いかの基本精神を失っている状況と言える。 野党は 政府のあらさがしに夢中で、 相手を追い詰めるのが仕事のように錯覚している場面が多く、単なる権力争いに明け暮れていて、国家、国民のことを なおざりにしているようにも見える。 これでは、自分たちのことより、国のためにはどうしたら良いかの、 基本を見失った、本末転倒の在り様である。
これは 日本国の文化としても言える。 議論をしながら、より高い知見を得よう、高まっていこうの精神が欠落していて、実りある議論ができない、視野の狭さが根付いている。 多様な意見、考えが自由に述べられ、議論、交流によって、より高い、より広い視点に立って高まっていけるような社会を 目指すべきである。対立する意見が出たら、自分の見解がより高い視点にいける可能性があると 積極的に歓迎すべきである。― 実際、研究者は何時でも いろいろな考え方、見方、批判を歓迎している。
言論、表現の自由を篤く保障して、自由な議論、交流ができる、明るい、社会を築きたい。
広い視野を持ちたい。それは人間存在を豊かにする基本的な原理でもある。
日本では、周りに気遣いばかりして、いろいろな発言が出にくい環境、文化を有しているが、それでは、賢明な在りようや、活力ある社会を創造できず、結果として、貧しい社会になってしまうだろう。
以上
0 件のコメント:
コメントを投稿