2017年のノーベル文学賞に、長崎県出身の日系イギリス人、カズオ・イシグロ氏が選ばれた。候補として注目され続けている村上春樹氏は今年も選ばれなかった。なぜなのか。日本文学研究者の助川幸逸郎氏は「『等身大の文学』を拓いた村上春樹に、ノーベル文学賞が与えられる公算は低い」と分析する――。
ハルキストも納得のイシグロ受賞
今年のノーベル文学賞の発表を、私は東京・千駄ヶ谷の鳩森八幡で聞いた。村上春樹受賞の瞬間を、作家にゆかりの神社で祝う。そういう趣旨のイベントが催され、私はゲスト・スピーカーのひとりとして招かれていた。
村上春樹がかつて経営していたジャズバーはここから近く、春樹のエッセイにも鳩森八幡は登場する。この社と春樹のつながりは深い。
やがて会場に、カズオ・イシグロの受賞が告げられた。春樹の戴冠を待ちうけていた人びとの反応は、意外なほど好意的であった。
「イシグロが今年獲るとは思わなかったけれど、このひとのもとにノーベル賞が行くのは悪くない」
あちこちから湧きあがった、「ああ」とも「おお」ともつかないどよめきには、そんなニュアンスが漂う。
「春樹さんを好きなひとには、イシグロ・ファンも多いので、お集まりのみなさんも喜んでいらっしゃるのではないでしょうか」
私がそう述べると、春樹受賞を祝うために配られていたクラッカーが、肌寒い夜の神社でいっせいに音を立てた。
私自身、カズオ・イシグロの名前を耳にしたとき、目が潤むほどの感激をおぼえた。どうしてイシグロの受賞がうれしかったのか。すぐにはわからなかったが、翌日、知人から届いたメールが理由を教えてくれた。
「イシグロにノーベル賞が与えられたということは、牢屋に入らなくてもこの賞を獲れる、というメッセージですよね」
知人のメールにはそう書かれていた。
英国のブックメーカー「ラドブロークス」が、今年もノーベル文学賞の予想を発表している。そこで最有力候補とされていたのは、ケニアのグギ・ワ・ジオンゴであった。彼は70年代に、反体制的な作品を発表したために拘禁されている。
ソビエトのソルジェニーツィン、中国の高行健……、このタイプの「言論が抑圧されている国で、政府批判をおこなった作家」にスウェーデン・アカデミーは好意的だ。「わが身を危険にさらしても自由のために闘う姿勢」は、文化や地域の隔たりを越えて評価を得やすい。
だが、今年のノーベル文学賞受賞者は、グギ・ワ・ジオンゴではなくカズオ・イシグロだった。イシグロは、日本生まれの英国人。過激な政治運動に身を投じた経歴もなく、文学的著述に専念してきた。
これはおそらく、昨年の反動だろう。周知のとおり、2016年の受賞者はボブ・ディラン。何を「文学」とみなすのか、世界にむかって問いかける大胆な選考だった。
ディランは、受賞後数週間にわたり沈黙。授賞式にも出席しなかった。目下のところ、「主催者が毛色のかわった受賞者に振りまわされた印象」は否めない。
昨年の「斬新すぎる人選の失敗」を踏まえ、「生粋の文学人」から今年の受賞者を選ぶ。そういう判断から、イシグロの戴冠が決められた。そんな風に考えるなら、今年の選考結果に得心がゆく。
牢屋に入らなくても、ロック歌手でなくても、「魅力的な文学作品」を書けばノーベル文学賞が獲れる。スウェーデン・アカデミーはそのことを今年はっきりとしめした。その事実に、「文学でしか語れないもの」を信じたい私は揺り動かされた。この思いは、イシグロの受賞をよろこんだハルキストたちにも共有されていたはずだ。
なぜ春樹でなくイシグロだったのか
ただし、「生粋の文学人」として歩み、すぐれた著述をのこしている書き手はイシグロひとりではない。村上春樹も、「政府に拘禁もされず、芸能活動もしない作家」である。イシグロではなく、春樹を受賞させる選択はありえなかったろうか。
イシグロの作風は多岐にわたる。ブッカー賞受賞の代表作『日の名残り』はリアリズム小説。キャリー・マリガン主演で映画化された『私を離さないで』はSF仕立てだ。長編最新作『忘れられた巨人』は、アーサー王の死後まもない時代を舞台とし、ファンタジーの趣がつよい。
いっぽうで、イシグロの作品には共通の特徴がある。私たちの生が抱える原理的な不自由。そのことを、「運命の囚われ人」になった存在をえがくことでイシグロはしめす。他の有名作家でいえば、フランツ・カフカの作品にテイストが近い。
イシグロの受賞理由を、スウェーデン・アカデミーはつぎのように述べている。
「偉大な感情の力をもつ小説で、われわれの世界とのつながりの感覚が不確かなものでしかないという、底知れない淵を明らかにした。」
イシグロに対する評価として、このコメントは至当といえる。
春樹の作品に登場するのも、多くの場合、疎外意識を抱えた人物だ。とはいえ、春樹ワールドの住民の不自由は、イシグロの登場人物ほど切羽つまってはいない。春樹の描く人間は、自分をとりまく「なじめない状況」に距離をたもち、これと批判的にかかわる。イシグロの世界では、「意のままにできない現実」のただ中に、人びとはいや応なく巻きこまれる。
イシグロの小説は、春樹の作品より深刻な印象をのこす。先ほどカフカを引きあいに出したが、過去の「大文学」に読後感が似ているのは春樹よりイシグロだ。
私たちは、自らの意志にかかわりなく、この世界に送り出される。そこで生きのびるための条件も、自力ではほとんど動かせない。私たちは、たしかに不自由を強いられている。
そういうことはしかし、常に意識にのぼっているわけではない。
日常の端々で、「意のままにならない事態」に遭遇する。そのとき自分の環境が、どれほど困難であるかにふと思いをいたす――人間が不自由と向きあう実情は、春樹の描くそうした光景に近い。
「等身大の不自由」を描く。これまでの有名作家にくらべ、その点で春樹は画期的だった。
ゆえに、「伝統的な大文学」を選ばなくてはならない今年、「カフカのようなイシグロ」ではなく「等身大の春樹」に戴冠させる。そういうシナリオは、スウェーデン・アカデミーの立場からするとおそらく禁忌であった。
村上春樹は新しい「世界文学」を開いた
私の知っている編集者によると、アジアでも欧州でも、ブックフェアの会場に「村上春樹特設コーナー」が設置されているという。カズオ・イシグロは、そこまで大々的に売り出される作家ではない。
イシグロ・ワールドと真剣に向かいあうには相当な覚悟が要る。そこまでの負荷を、春樹は読者に求めない。にもかかわらず、私たちの生活実感の深い部分に春樹は触れてくる。
20世紀は世界的に、文学に特別な地位が与えられている時代だった。哲学者たちは文学を論じることで、社会や人間について語った。今日、メディア環境は激変し、文学にそうした「知的先鋭性」をもはや期待されない。
絵画賞も音楽賞もないノーベル賞に文学賞があるのは、20世紀における文学の独特の位置づけとかかわっている。
村上春樹は、日常の隣に「存在の不自由」を接続させることで、新しい文学に向けて扉を開いた。それによって彼は、国境を越えて幅広く読まれるに至った。
ノーベル賞は、20世紀的意味あいを文学に求める。ディランの受賞も、音楽を包摂することで、文学という領域の特権性を維持する試みであった。
ということは、「等身大の文学」を拓いた春樹に、ノーベル文学賞が与えられる公算は低い。そのことを、村上春樹はむしろ誇るべきだろう。
とても興味深く読みました:
再生核研究所声明 390(2017.10.31): 人間は 何をしているのだろう。
高い山の頂きから人里を見ながら、ふと思う。人間は一体何をしているのだろうかと。人間はもちろん、生物であり、動物であるから、生命の本質である本能原理に動かされていることは歴然である。動物が争い、食し、朽ち果てていくのを見ると 同じ生物としての哀しい定めに共感、共鳴を覚える。人間が何をしているのかと思えば、多くはそれら本能原理に占められていることを実感する。まず、生きること、家族、家庭を大事にして仲間と助け会う、少しばかりは安定し、それぞれの社会で良い関係 立場に立ちたい、それらは分かり易いが 多くの人間の共通する部分で、それらのための努力が人生の大部分である。政治家が 生活が大事だというとき、それらは、居、食、住、民政を整え、安心して暮らせるような社会を目指していると言えよう。問題はそれらで人生の大部分に成っている現実である。それらの基礎において人間は相当に同じようではないだろうか。
このような生物的な基本が満たされたら、人間は一体何をなすだろうか。人間はその先、何をなすように作られているのだろうか。退職などして、大きな自由を得たとき、人間は何をするだろうか。もちろん、喜びや感動をしたい、良い気持ちに成りたいのである。人間進化の先、人間は一体何を求めるように作られているのだろうか。人間いったい何をなすべきか。
人生とは一体何だろうか。人間は一体何を目指しているのだろうか。社会も人も、生きよ、生きよと言って、生きることをひたすらに求めている。しかしながら、生きるということの意味は それではそれは何だろうか。ただ生物が生きるように 少しでも永く生きていれば良いのであろうか。- もちろん、生きて存在しなければ始まらない、それは生命の基本定理である。その先の意味を求めている。物心つく前の天才少年の様は その観点から極めて興味深く、進化する人間の姿として考えられる(再生核研究所声明 9 (2007/09/01): 天才教育の必要性を訴える。)
このような問題意識を抱くこと、それ自体が人生についての ある迷いの表れである と言える。そこで、人生の原理を確認したい。われ思う故に我あり、生きて存在しなければ始まらない。人生の意義は 感動することにある。人間の生きる究極の在り様は 真智への愛 - 神の意志を求めること にある。
人は、好きなことを求めて行くということである。志が有ったり、好きなことがきちんとあって個人的にも社会的にも調和していれば それは幸せな人生と言えるのではないだろうか。
人生について語れば、曖昧にならざるを得ない。人の心は 内と外の環境で揺れ動くものである。
同じような心境で書いた次も参照:
再生核研究所声明 145 (2013.12.14)生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察
以 上
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告
http://ameblo.jp/syoshinoris/theme-10006253398.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12263708422.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12272721615.html
再生核研究所声明365(2017.5.12)目も眩むほど素晴らしい研究課題 ― ゼロ除算
(2017.5.11.4:45 頃 目を覚ましたら、突然表題とその構想が情念として湧いてきたので、そのまま 書き留めて置きたい。)
そもそもゼロ除算とは、ゼロで割る問題であるが、ゼロの発見者、算術の確立者が既に 当時、0/0=0としていたにも関わらず(Brahmagupta (598 - 668 ?). defined as $0/0=0$ in Brāhmasphuṭasiddhānta (628))、1300年以上もそれは間違いであるとして、現在に至っている。最近の知見によれば、それは 実は当たり前で、現代数学の初歩的な部分における大きな欠落で、現代数学の初歩部分は相当な修正、補充が要求されている。問題は、無限の彼方に対する概念が 無限と考えられていたのが 実はゼロであったとなり、ユークリッド幾何学の欠落部分が存在し、強力な不連続性が現れて、アリストテレスの世界観に反する世界が現れてきたことである。超古典的結果の修正、補完、新しい世界の出現である。
初等数学は 無限の概念や勾配が関係する部分で大きな変更が必要であり、2次曲線論ですら 修正が要求される。多くの物理学や数理科学に現れる公式において 分母がゼロのところで、新しい知見を探す、考えることができる。
ところで、数学とは何だろうかと問い、その中で、良い結果とは、
基本的であること、
美しいこと、
世の中に良い影響を与えること、
上記の観点で、想い出されるのは、ピタゴラスの定理、アインシュタインの公式、ニュートンの万有引力の公式や運動の法則、少し、高級であるが 神秘律 オイラーの公式 などである。
この観点で ゼロ除算の公式
1/0=0/0=z/0=0
を掲げれば、その初歩的な意味とともに 神秘的に深い意味 を知って、慄然とするのではないだろうか。それゆえにゼロ除算の研究は 世界史的な事件であり、世界観に大きな影響を与える。ゼロ除算は初等部分から 神秘律に至る雄大な研究分野であると言える。
探そうゼロ除算、究めようゼロ除算の意義。神の意思を追求しよう。
ゼロ除算は、中学生からはおろか、小学生にも分かって 楽しめる数学である。実際、道脇愛羽さん(当時6歳)は、ゼロ除算の発見後3週間くらいで、ゼロ除算は当たり前と理由を付けて、述べていた。他方、多くの大学教授は 1年を遥かに越えても、理解できず、誤解を繰り返している面白い数学である。世界の教科書、学術書は大きく変更されると考えられる。多くの人に理解され、影響を与える研究課題は、世に稀であると言える。
以 上
再生核研究所声明371(2017.6.27)ゼロ除算の講演― 国際会議 https://sites.google.com/site/sandrapinelas/icddea-2017 報告
ゼロ除算については、既に相当な世界を拓いていると考えるが、世の理解を求めている状況下で、理解と評価、反響にも関心がある:
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響があり、さらに哲学、宗教、文化への大きな影響がある。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、数学者ばかりではなく、人類の名誉にも関わることである。実際、ゼロ除算の歴史は 止むことのない闘争の歴史とともに人類の恥ずべき人類の愚かさの象徴となるだろう。世間ではゼロ除算について不適切な情報が溢れていて 今尚奇怪で抽象的な議論によって混乱していると言える。― 美しい世界が拓けているのに、誰がそれを閉ざそうと、隠したいと、無視したいと考えられるだろうか。我々は間違いを含む、不適切な数学を教えていると言える: ― 再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判 ―。
地動説のように真実は、実体は既に明らかである。 ― 研究と研究成果の活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。 研究課題は基礎的で関与する分野は広い、いろいろな方の研究・教育活動への参加を求めたい。素人でも数学の研究に参加できる新しい初歩的な数学を沢山含んでいる。ゼロ除算は発展中の世界史上の事件、問題であると言える (再生核研究所声明325(2016.10.14) ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて)
そのような折り、ISAAC マカオ国際会議では、招待、全体講演を行い、ゼロ除算について、触れ、 論文も発表したものの(Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and Applications -Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China. (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 177) Sep. 2016 305pp.(Springer) )
今回頭記の200名を超える大きな国際会議で、ゼロ除算と微分方程式について真正面からゼロ除算の成果を発表することができた。
ゼロ除算には、世界史と世界観がかかっているとの認識で、この国際会議を記念すべきものとするようにとの密かな望みを抱いて出席した。そこで、簡単に印象など記録として纏めて置きたい。
まずは、3日目 正規の晩餐会が開かれる恵まれた日に 最初に全体講演を行った。主催者の学生が多数出席されたり、軍の専属カメラマンが講演模様を沢山写真に収めていた。図版を用意し、大事な点はOHPで講演中図示していた。用意した原稿は良く見えるように配慮したので、全貌の理解は得られたものと考えられる。 結びには次のように述べ、示した。宣言文の性格を持たせるとの意思表示である:
{\bf The division by zero is uniquely and reasonably determined as $$1/0=0/0=z/0=0$$ in the natural extensions of fractions. \\
We have to change our basic ideas for our space and world.\\
We have to change our textbooks and scientific books on the division by zero.\\
Thank you for your attention.}
講演に対して、アラブ首長国の教授が、現代数学を破壊するので、全て認められないとの発言があった。後で、送迎中のバスの中で、とんちんかんな誤解をしている教授がいることが分かった。過去にも経験済みであるが、相当に二人共 感情的に見えた ― それはとんでもないという感じである。閉会式に参加者を代表して謝辞を述べられたギリシャの教授が、画期的な発見で、今回の国際会議の最大の話題であったと述べられたが、要点について話したところ、要点の全てについて深い理解をしていることが確認された。さらにゼロ除算の著書出版の具体的な計画を進めたいという、時宜を得た計画が相談の上、出来た。
そこで、講演原稿と図版を出席者たちにメールし、助言と意見を広く求めている。理解できないと述べられた人にも 要求に応じて送っているが、現在までのところ連絡、返答がない。
主催者から、50カ国以上から200名以上の出席者があったと述べられたが、そのような国際会議で、招待、全体講演を行うことができたのは 凄く記念すべきこととして、出版される会議録、論文集の出版に最善をつくし、交流ができた人々との交流を積極的に進めていきたい。尚、正規の日本人参加者は8名であった。
ゼロの発見国インドからは6名参加していたので、1300年も前に0/0=0が四則演算の創始者によって主張されていた事実を重要視してその状況を説明し、特に対話を深め、創始者に関する情報の収集についての協力をお願いした。ゼロ除算について理解した、分かったと繰り返し述べていたが、どうも感情が伴わず、心もとない感じであった。若いカナダの女性に印象を伺ったところ、沢山の具体例を挙げられたので、認めざるを得ない、内容や意義より驚きの感じで、それが講演に対する全体的な反響の状況を表していると考えられる。
歴史は未来によって作られる。今回の国際会議の意義は 今後の研究の進展で左右されるものと考える。しかしながら十分な記録は既に残されていると考えている。
以 上
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