2016年11月28日月曜日

ダライ・ラマ14世「仏教は科学者と一緒に歩むことのできる唯一の宗教」講演で説いた“幸せな社会”の築き方

ダライ・ラマ14世「仏教は科学者と一緒に歩むことのできる唯一の宗教」講演で説いた“幸せな社会”の築き方

思想の自由こそが中国を救う道

司会者 それではたっぷりと時間まだございますので、会場の先生方から法王様に質疑応答ということで時間を取らせていただきたいと思います。挙手にて受付させていただきます。先生方、どなたかいらっしゃいませんか? じゃあ渡辺先生。ダライ・ラマ法王14世(以下、ダライ・ラマ) 形式張ったことは私は好きではありませんので、どうぞ遠慮なくなんでもお聞きになってください。私は、日本文化というものは、自己規制を守った本当に礼儀正しい民族だということで心からの尊敬の念を持っております。しかし、あまりにも形式張った難しいようなご様子というのはあまり好きではありません(笑)。質問者1 今日は本当ありがとうございます。それでは、さっそくですが、質問させていただきます。今、グローバリズムが進みまして、そしてさまざまな難民がヨーロッパ各地に押し寄せて、非常に排他的な状況にある。そんななかで、新たなアメリカの大統領が誕生する。そして、例えばフィリピンの大統領もそうですけど、極めて乱暴な物言いをするリーダーが出てくるなかで、また非常に排他主義を取るのではないかと。また過激主義に走るなかで。これからの我が国がどのように、非常に高く評価をしていただいている、この日本に対してたいへんにご理解をいただいている法王が、これから我が国の立ち位置といいましょうか、こういう難しい時代のなかで日本はどのようなかたちで世界貢献すべきか、ご示唆をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。ダライ・ラマ それは、みなさま方、日本の方々が一番よくご存じなのではないでしょうか。私は実際にはこの日本を毎年のように訪問させていただいているわけですが、私はたった2週間、3週間ほど滞在して、そして戻っていく人間でしかありません。日本のみなさまのほうがずっとよくご存じだと申し上げたのは、そのような理由からです。私はただ短い滞在の間に、私の大好きな日本のお米とそしてうどんを楽しんで帰っていくだけの人間であるわけです。しかし、より深いレベルで考えてみますと、これから未来にやってくる世界に対して、自由とそして民主主義と、そのようなものが本当にフルに生かされた社会とならなければならないと考えています。ですから、今までにあった全体主義などに陥る、そういった誤りが繰り返されてはなりません。例えばソビエト連邦ですが、この国も暴力によって倒されたわけではなく、民衆の希望によって、このような現在のようなかたちに変化を遂げたわけです。ですから、たとえ中国であっても、そのようになるのではないかという気持ちを私自身は持っています。中国という国は、中国にいる13億人の中国の民衆のものです。このすべての民衆たちが、実際になにが行われているのか、どうなっているのかということをすべて完璧に知る権利を持っています。そして、たとえ中国政府の成していることであっても、なにが正しいことでなにが間違ったことであるのかを知る権利が存在しています。検閲などのひどい取締りも非常に厳しい状態にあるわけですが、そのようなことばかりを続けていったのでは、中国政府は自ら破壊して瓦解していくようなことになってしまうのではないかと思います。現在では、非常に中国人のツーリストが多く、本当に20万~30万人もの中国人たちが外国に留学し、そして学んでいるという時代に入っているわけです。つまり、そのすべての中国人たちも、同じように、この物質的なものの向上、そして科学技術を自分が体得するということを望んでいるわけであり、私たちが考えているように、中国政府がコミュニストとしての間違ったさまざまな行いをすることによって、自らの人民たちによる信頼を失墜させてしまうことになってしまうのではないかと思っています。そして中国には、昔からのマルキシズムという経済的な観念があります。私自身もマルキストであるということを以前から非常に明確にお話しています。しかし、完璧に、レーニンの説いている主張には反対です。レーニンの主張のなかには、非常に厳しい取締りや秘密主義といったものが存在していて、それは戦時下においては、ある意味では正しいかもしれませんけれども、そのような精神性というものが引き続きこの平和な時代にも行われているということは、正しいことだとは思えません。ですから、中国の国のなかにおきましても、自由、つまり表現の自由、そして言論の自由、そして民主主義、そして思想の自由というものが唯一中国を救う道だと、私自身は考えている次第です。

国は国民たちのものでなければならない

そして、このような現在の状態におきまして、先日アメリカの選挙が行われました。非常に複雑な状況でもありましたが、そのなかで、アメリカという国も民主主義をうたってきた国であり、そしてこの世界のなかで最も大きな力をもつ大国でもあります。ですから、この世界全体の国々を導いていく立場として、これまでうたってきた民主主義に従った政治をぜひ行っていっていただきたいと考えています。もちろんまだ数少ないリーダーシップがあり、そういった間違ったことというのも起きてくることはありうると思いますが、この世界は70億人の人間たちのものです。同様に、日本というのは日本の民衆たちのものです。常に私はこのようなことを申し上げているわけであり、もしこのようなことを申し上げても構わなければ、日本は天皇陛下のものではありません。日本の民衆たちのものです。このように、日本だけではなく、どのような国だけであっても、その国は人民たちのものでなければなりません。政府というものは常に移り変わっていくものですが、人民たちは常にそこに住んで暮らしていかなければならないからです。これが私の持っている考えであり、日本はアジアの諸国のなかで最も工業化された国であり、民主国家であると。そしてそれに加えて、神道そして仏教という、非常に裕福な優れた伝統をもった国となっています。そして、この神道にもとづいて言うならば、すべての命、そしてすべての自然に対する敬意の心を持っているということは、たいへんすばらしい観念だと私は思っており、現在もそのような態度を失ってはならないと考えています。しかし、私たちは科学技術を向上させるために、さまざまな間違った行為にも従事してしまうことがあります。ですから、私たち自身もこの自然の一部だということを考えて、自然に対する、神道的な、尊重の気持ちを持つことで、環境を守っていくということも忘れてしまってはならないわけです。そして、みなさま方の持っている、この仏教という宗教についてですが、みなさま日本人の方々も、私たち同様、大乗仏教の伝統にもとづく弟子たちとなっておられます。つまり、そのようなことで毎日般若心経を唱えておられると思いますが、私は自分自身は、仏教だけではなく、この世のなかに存在しているすべての宗教に対する尊敬の念を維持しております。そして、そのような意味においても、異なる宗教間の調和を図ることを自分自身の使命の1つとしているのは、そのような理由によっています。つまり、すべての宗教が、愛、慈悲、そして許し、寛容というようなことを同時に共通の教えとしてうたっているわけであり、その一方で哲学的な見解や概念のなかには、さまざまに異なった部分が存在しています。しかし、私たち仏教徒は、ナーランダー僧院から伝わる原始仏教からの流れを引き受けたこの仏教を、私たち自身が引き継いでいるということを忘れてはなりません。そして、私自身が過去30年あまりにわたって、近代科学に携わる科学者たちとの対話を毎年のように続けてきたという体験からお話を申し上げますと、この世のなかに存在しているたくさんの宗教だけで、仏教だけが科学的、論理的なものの考え方にもとづいた教えを理解するという方法論を取っているという意味において、科学者と手に手を取って進むことのできる唯一の宗教ではないかと、私は思っています。もちろん日本のみなさま方にとっては、神道そして仏教の伝統というものは非常に重要な位置を占めているわけですから、みなさま方の国のなかで、たとえ科学技術が本当に向上された時代に入っても、みなさま方自身が世俗的な意味における倫理観を守り、自己規制を守るような社会を維持されていくことを私は願っています。そのようにして私たちはよりよい幸せな未来を願うことができるようになると思います。

他者に対する優しさと思いやりを高める

司会者 ありがとうございました。じゃあ、次の先生、どうぞ。質問者2 櫻井よしこです。いつも法王様のお話によって、私たちはいろんなことを教えていただいているんですけれども、私たち日本人がチベットの若い世代のためにしてやれることはなにか。ダラムサラで学んでいる多くのチベットの若者たちを、法王様はどのような方向に導いていかれたいのか。そのことについて、具体的に日本の私たちができることはなにかをお教えくださればと思います。ダライ・ラマ 私は、午前中に世田谷学園という男子学生の中学生と高校生に対する講演をしてきたばかりです。このことを考えましても、私は今、世界の未来は若者たちの方に依存していると考えているわけです。もちろん日本の未来を考えるときも同様です。より幸せな人間社会を作るためには、つまりより幸せな日本社会をみなさま方が築くためには、科学の助けを得て、近代科学という部分をますます高めていくことももちろん必要となってきます。しかしながら、それだけでは十分ではないのです。そこで私たちが今しなければならないことはなにかといいますと、私たちの心のなかの内なる優れた資質を高めるということに対する注意をもっと向けていただきたいということです。つまり、宗教に信心があってもなくてもまったく構いませんけれども……例えば、億万長者のような方は、非常にたくさんのお金をお持ちですが、一見すると、そのような方はきっと幸せに違いないと思う方が多いと思います。しかし、実際にはそのような人たちはたくさんのストレスを抱えていて、不幸な人生を歩んでいるということが非常に多いんです。それはなぜかといいますと、今までの私たちの人間社会が物質志向の社会であり、そして内なる私たちの心のよき資質に関する注意を向けてこなかった結果だと思います。つまり、私が申し上げている、この内なる個々の価値というのは、すなわち慈悲の心であり、他者に対する優しさと思いやりのことを意味しています。そして、このような慈悲の心というものは、自分自身に自信がなければ芽生えてはきません。そこですべての行動を行うとき、私たちが必ずやしなければならないことは、真実を語るということ。そして正直な心を維持するということ。そして透明な、裏表のない人間であるということ。これらのことが非常に大切です。これはもちろん単に若い人だけではなく、政治家の方々も、この透明性を維持する、裏表がない態度を維持することをして政治活動をしていただくならば、おそらくより多くの人々からの信頼を得ることができると思います。つまり、もし私たちが現実と違うようなことを言い、嘘を言ったり、騙したりというようなことするようでは、私たちは人々からの信頼を得ることはできません。ですから、このような裏表のない透明感を維持するは、1人の人間として非常に大切な要素となってくるわけです。そして若者たち、とくに勉強をしている人たちが、将来のことを考えて、専門的な知識を得ようというようなときであっても、単なる知識・教養のレベルだけに留まることなく、必ずや内なる心の価値、すなわち他者への思いやりというものを忘れてはならない。このようなことを、私はアメリカやヨーロッパやインドや日本を訪問するときに、いつでもどこでもお話をさせていただいております。

日本とチベットの良好な関係とは

質問者2 すいません。今ちょっと……私の質問の趣旨が曖昧だったと思いますが、日本の私たちはチベットを支援したいと考えています。世界の平和のためにも、よりよい世界のためにも。そして、チベットの現在はこれからの若者たちによって支えられていくと思うんですけれども、チベットの若い人たちのために、私たち日本人がなにができるか。日本国は多くの若者を世界中から留学などで招く計画をもっていますけれども、そのなかで、法王様が、チベットの若者たちをどのように教育し、世界に羽ばたかせたいと思っておられるか、そのなかで日本がなにができるかということについてお話いただければと思います。ダライ・ラマ 日本の国のために日本人がなにができるかということですけれども、現在の世の中では、たくさんの学生が留学するようなことが行われています。そこで実際的に成すことができるのは、例えば、ダライ・ラマ13世の時代に、若者たちを日本に留学させようと13世は考えておられたことがありました。そして1960年代になって、そのように考えておられたことが実際に実行されたのがその時代までかかったのです。その時に、日本のあるグループの方々がチベット人の学生を呼んでくださり、そして大学にも行かせていただいて、本当に実際的にそういったかたちでの支援をしていただいたという事実があります。ですから、そのようなかたちの支援も非常にありがたい支援だと思います。昨日まで、私は高野山大学のほうを訪問しておりましたけれども、高野山大学とも交換留学というようなものを2、3年前から考え、そして実際にすでに実施が始まっております。私たちはこの小さなグループを作って、この仏典の翻訳事業をする事業を、ともに日本人とチベット人が手を組んで進めていけたらということを考えています。つまり、チベット語のなかに翻訳されていて、そして中国語にないものを、実際にチベット語から日本語に訳していくということ。そして、チベット語のなかに訳されていないものをまたチベット語のほうに訳していくということ。こういった事業ができたらということを、私自身が何年も前から考えていたことでありました。つまり、日本の仏教徒の方々と、私たちチベット人の仏教徒の持っている流れというものは、ナーガルジュナをはじめとする偉大な導師たちが教鞭をとっておられた、ナーランダー僧院の伝統にもとづいています。つまり、まったく同じ源を仏教徒として共有しているということができます。ですから、私たちが手に手を取ってともにこの翻訳事業を進めることが、仏教徒としてできる1つの支援として考えられる、非常にありがたい支援だと私は思います。そして学生たちに関しても、非常に正直な態度でそういったものに臨んでいただきたいと考えているわけです。そして、そういった事業を推進するにあたって問題となるのが言葉の障害ということにあります。日本語をしゃべることのできるチベット人も少ないですし、チベット語をしゃべることのできる日本人というのもまだ少ないです。ですから、お互いに交換留学を推進することによって、こういった言葉の障害を克服していくことができたらと、このように考えているわけです。そしてもう1つは、1960年代の前半におきまして、オイスカ(OISCA)というボランティアのグループの方々が南インドのチベット人居住区のほうに実際に行かれて、そちらのほうで支援をしてくださったということも行われてきたわけです。ですから、実際にはもっと私たちチベット人と日本の方々が交流深めていくと、コンタクトを密に行うことが、そういったすべて支援において役に立つのではないかと思います。

中国についての考え

質問者3 ありがとうございます。自由民主党の山田賢司と申します。法王猊下、本日はたいへん貴重なお話ありがとうございます。また、日本にお越しくださいまして、ありがとうございます。私の質問は、櫻井先生の聞こうとなさってたことに近いんですけれども、ちょっとポイントが違ってるんじゃないかんと思ったんでね。単刀直入に。法王猊下のお話のなかでは、デモクラシー、民主主義ですとかfreedom of speech、表現の自由が大事だということをお話いただきました。一方で、中国からの独立は考えていないというお話もなさっておられました。私、チベットの人々の幸せを考えると、中国から独立しない……こんなことは、政治的なことはもうお話にならないとは言っておられるんですが、民主主義であるとか表現の自由とかが保証されていない、こういう中国において、チベットの人たちは本当に幸せなのか。チベットの方を幸せにするために我々がどんなことができるのか、こういったことを教えていただければと思います。ダライ・ラマ そこで、現在の中国には約30~40年昔から比べますと非常に大きく状況は変化しております。つまり、リーダシップをとる人間は次から次へと変わっていくわけです。昔の毛沢東の時代、そして鄧小平の時代、そして江沢民、そして現在は習近平の時代と入っているわけですけれども、この1000年以上の中国の歴史のなかにおきまして、非常に中国の人たちは勤勉な方々であり、非常に現実的になろうという努力もおそらくされてきたのではないかと思われます。そのようななかにおいて、中国政府にとっては、market-oriented economy、この市場を非常に大切にし、そして経済というものをますます復興させようというポリシーに入ってきたわけです。もちろん、これは反社会主義のようなことになるわけですが、現実を見るならば、もっと市場を豊かにすること、そして経済を豊かにすることが中国の発展につながるという考え方にもとづいて、そのようなことがされてきたわけです。そして、江沢民の時代に入り、それから胡錦濤の時代に入りますと、どちらかというと、静かな時代に入ってきました。その後習近平の時代に入ると、彼はできるだけ汚職をなくそうと、隠さずにすべて正直に出して、そしてきれいな社会にしていこうという努力を考えたようです。これは単に軍事関係者だけではなく、一般民においてもそのようなことを、きれいな社会をつくるという努力を考えてきたわけです。今までは中国というのは非常に閉ざされた社会であり、独立した司法システムというものをもっていませんでした。そのような部分をできるだけ変えようということを彼は考えてきたのです。ですから、そのような点で、それは非常に認めることができると思いますけれども、実際的には、それがまだどのような方向に向かうかはわからないような状態であり、しかしながら、そのような困難に直に直面し、立ち向かおうという勇気は称えるべきものだと私は思っています。そこで先ほどからお話している、情報の自由、そして言論の自由、報道の自由というものが求められている中国のなかで、汚職問題というものはなんとか自分たちでハンドルできるものではないかということを、習近平は考えてきたわけです。そこで、来年の末に第19回のパーティ、さまざまな党議会が開かれる予定となっていて、その結果を見てみようかと思っています。

毛沢東との会話

このように政府レベルにおいてのコンタクトというものも、もちろんなんらかのよきものをもたらすものであるわけですが、それ以外に、私たちは同じ仏教徒であるということから、中国人の仏教徒である教養人の方々に、機会があるときには常にお目にかかって話をするというような努力を私自身は続けています。その結果、非常に多くの仏教徒の方々、そして学者の方々と親密なコンタクトを取ることができ、そのようなことが不可欠な要素であるということを身に染みて感じることができました。そして、約4年前に北京大学で行われた調査の結果から見ますと、4年前には仏教徒の人口が約3億人であったわけです。そして、その多くが知識人であり教養人であったということも報告されていますが、4年前に比べて、現在の仏教徒の中国における人口は、2年間で4億人に膨れ上がっております。これは非常に大きな変化です。これは、昔私自身が毛沢東にお目にかかって、その時毛沢東は私に対して「宗教は毒である」ということを私に伝えました。しかし、実際にはそれがそうではないということが、現在の世の中になってわかってきたのです。ますます多くの中国人たちが仏教の教え、とくにチベット仏教の教えに信心したいという関心を持つような人たちがますます増えているのです。つまり、これこそが真摯な本物の仏教だということを知って、そしてますます信心の心を寄せてくるという大きな変化も同時に起きています。そこで1954年~1955年にかけまして、私自身が5~6ヵ月の間北京に滞在して、何回も毛沢東にお目にかかる機会がありました。そして、その時に毛沢東が私に尋ねたことが、「チベットには自分自身の国旗がありますか?」ということを聞かれました。そして私が「あります」とお答えしたところ、毛沢東ご自身が「あなた方はその国旗を私たちの赤い旗の隣にいつも維持するべきである」ということを非常に明らかに私に言われたのです。現在の状況におきましても、ヨーロッパやアメリカなど、西洋社会を調べてみましたならば、私たちの国旗を持ってさまざまな抗議活動をしてくださる方々が非常に多いです。そのような状況において、そのような抗議活動というのは、チベット人の立場においての抗議活動であり、またそれに対する反抗議というようなことをする中国人の方々が増えています。毛沢東ご自身が私に対して「国旗はぜひ維持するべきである」というようなことをぜひそういった方たちにお話したいと、ときどき私自身が考えています。つまり、私自身のことを「分離主義者だ」という批判が、いつも必ず中国側から出てくるのですが、そのような共産党の高官たちが言うのは、本当に懐疑心にもとづいた狭い心でしか物ごとを捉えることができないということから、常に、実際的にはわかっているかもしれないのに、いまだに私のことを分離主義者だといって非難してくるという状態が続いているということになるわけです。もちろんチベットと中国は民族的にもまったく違った民族ですし、文化もいろいろ異なった部分が多いので、私たちチベット人がチベット文化を学び、それを維持することが非常に大切なことだということを、ぜひ中国人も理解してもらいたいと、いつも考えているわけです。今では中国語をぜひ学べと、中国人たちはチベット人たちを中国語のうまい人たちにより仕事を与えるというようなことをするぐらい、中国語を学ばせチベット語からできるだけ遠ざからせようというようなことをしているわけですが。もし習近平が、国における調和というものと、そしてまとまりのある国家を目指すということを言っているのであるならば、このうたい文句は心の奥底から来なければなりません。

チベット人の不屈の精神は変わらない

つまり、調和のある社会ということは、信頼関係にもとづいてしか築くことはできないのです。調和のある社会が必要だということをうたいながら、そこに住んでいる国の人たちに恐怖感を植え付けることは、ともに結び合わせていくことは不可能なことであるからです。つまり、全体的に見ますと、中国は確かに変わってきつつあります。もっと大きなレベルで中国の人たちが変わっていくならば、必ずやこの世界に対して大きな貢献ができる民族だと私は思います。しかしながら、現在の政治システムを維持するかぎり、それは可能ではありません。つまり、この人々の間に不信感が広がるということは、本当に一番まずい条件なのです。それはどのような国においてもまったく同じことであり、中国側は、インド人のインドの国対しても、同じコミュニストの国であるベトナムに対しても、常に疑いの心を向けています。そうではなく、私たちに最も必要なのは信頼関係であり、その信頼関係にもとづいて、なんらかの建設的な結果を望むことができるわけです。ですから、習近平は非常に現実的な対策を取っているかのように見えますが、それが本当に確かなものであるかどうかを判断するのはまだ時期が早いかと思われます。司会者 ありがとうございました。赤沢先生と原口先生からご質問、アイコンタクトでいただいておりましたが、タイムアップということでご了承いただければと思います。ニコ生放送をさせていただきまして、ただいま10,043人の方々にご視聴いただきました。ありがとうございました。法王様、どうもありがとうございました。それでは最後に閉会の辞で、参議院議員、山谷えり子先生からお願いをしたいと思います。(ダライ・ラマ氏、まだ質問者が残っていることを気にする)ダライ・ラマ この中国の共産党当局の強行派のなかにいる人たちのなかにも、どのようにしてこのチベット問題を解決できるかということを考えている人たちがしだいに増えています。ですから、自由社会に生きている人々が、本当に中国側が現実的な問題解決の方法を取らないかぎり解決はないということが、自由な世界に生きている人たちにもわかってきているわけです。チベット支援をしてくださる方々は、非常に明らかなメッセージとして、ますます多くの方たちがこのチベット問題に関心を寄せてくださっているというサインがあちこちに出ているのです。ですから、1949年以来、今まで約5世代のチベット人が移り変わってきているわけですが、私たちチベット人の持っている不屈の精神というものはまったく変わってはおりません。すごく強い精神性というものを、たとえこの難民の、亡命の地で生まれた若い人たちですら維持しているわけです。これが私たちの内的な、内側における主な一番最も大切な要素だと思います。それに加えまして、国際社会の方々が、ますます多くの人たちがこのチベット問題というものに関心を持ってきてくれているということが、私たちが本当に希望を持つことのできる明らかなサインではないかと考えています。司会者 ありがとうございました。http://logmi.jp/170319

非常にためになりました:

再生核研究所声明297(2016.05.19) 豊かなゼロ、空の世界、隠れた未知の世界

ゼロ除算の研究を進めているが、微分方程式のある項を落とした場合の解と落とす前の解を結び付ける具体的な方法として、ゼロ除算の解析の具体的な応用がある事が分かった。この事実は、広く世の現象として、面白い視点に気づかせたので、普遍的な現象として、生きた形で表現したい。
ある項を落とした微分方程式とは、逆に言えば、与えられた微分方程式はさらに 複雑な微分方程式において、沢山の項を落として考えられた簡略の微分方程式であると考えられる。どのくらいの項を落としたかと考えれば、限りない項が存在して、殆どがゼロとして消された微分方程式であると見なせる。この意味で、ゼロの世界は限りなく広がっていると考えられる。
消された見えない世界は ゼロの世界、空、ある隠された世界として、無限に存在していると考えられる。たまたま、現れた項が 表現する物理現象を記述していると言える。
これは、地球に繁茂する動植物が、大海や大地から、生まれては、それらに回帰する現象と同様と言える。大量に発生した卵の極一部がそれぞれの生物に成長して、やがて元の世界に戻り、豊かな大海や大地は生命の存在の元、隠れた存在の大いなる世界であると考えられる。無数の生命の発生と回帰した世界の様は 生物、生体の様の変化は捉えられても、人間の精神活用や生命の生命活動の様の精しい様などは 殆ど何も分からない存在であると言える。我々の認知した世界と発生して来た世界と消えて行った認知できない世界である。
このような視点で、人間にとって最も大事なことは 何だろうか。それは、個々の人間も、人類も 大きな存在の中の小さな存在であることを先ず自覚して、背後に存在する大いなる基礎、環境に畏敬の念を抱き、謙虚さを保つことではないだろうか。この視点では日本古来の神道の精神こそ、宗教の原点として大事では ないだろうか。未知なる自然に対する畏敬の念である。実際、日本でも、世界各地でも人工物を建設するとき、神事を行い、神の許しを求めてきたものである。その心は大いなる存在と人間の調和を志向する意味で人間存在の原理ではないだろうか。それはそもそも 原罪の概念そのものであると言える。
しかしながら、人類が好きなように生きたいも道理であり、巨大都市を建設して、環境を汚染して生存を享受したいも道理であるから、それらの一面も否定できず、それは結局全体的な有り様の中でのバランスの問題ではないだろうか。人類の進化の面には必然的に人類絶滅の要素が内在していると考えられる:

再生核研究所声明 144(2013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である

 そこで、結局は全体的な調和、バランスの問題である:

再生核研究所声明 56: アースデイ の理念

発想における最も大事なことに触れたが、表現したかった元を回想したい。― それは存在と非存在の間の微妙な有り様と非存在の認知できない限りない世界に想いを致す心情そのものであった。無数とも言える人間の想いはどこに消えて行ったのだろうか。先も分からず、由来も分からない。世の中は雲のような存在であると言える。
以 上

再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか

ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:

Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
数 0 は正でも負でもなく、素数でも合成数でも単数でもない。しかし、0は偶数である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0x= 0 である。しかしx0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。

実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:

しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:

19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。

複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。

全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。

古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。

2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上

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