2015年3月26日木曜日

【倫理について】

【倫理について】
私は無神論者です。
(有心論者の方、申し訳ございません。)
最近疑問に思ったのがカルヴァンの「予定説」です。
「神が予め予定したことに従って行動している」とは思えないのです。
私の考えは、「人間は一人一人、何かをこの世の中に訴えるために生まれてきた。
その訴える内容は予め決まっている。」でもここで、
「じゃあ、誰に決められてるの?」となったとき、行き詰まりました。
しかし神とは思えないのです。
あなたの意見を聞かせて下さい。
人間が運命づけられている のは、確かでは?人間の自由は 枠の中では?
再生核研究所声明205(2015.2.11) 宿命論
   (早朝論文を纏めて、すっきりした日、朝食後 妻の肩もみをしているとき、春めいた予感を感じて ひとりでに浮かんだ 人生の断面についての考えである)
人生、世界については 結構多くの見解を述べてきた。最近も
再生核研究所声明203(2015.2.4) 人間とは何か、人生とは何か
(ちょっと風邪気味の日が続いて回復したとき、ひとりでに閃いた,人間、人生についての断面である)
― 人生とは、始めも分らず、終末の先も分らない。周りの環境と分けの分らない感情、情念で、ふらふら生かされているようにみえる。背後には 本能である生命の活動があることが実感できる。―  
また、
今回,明確に実感したのは、我々が感じ、意欲が湧いたり、喜びを感じたりするのは、原理的に健康状態に左右されて、理屈や夢や思想や我々の理性的な面では無くて、生命力が大きいということである。多くの人間の悩みや、迷い,不安さえ、その元には健康問題があり、健康状態の問題が、人間の精神状態に大きな影響を与えているのではないかという、基本に対する省察を実感したということである。生命力が有り、健康ならば、ひとりでに人生に夢が湧き、喜びや、感動が 些細なことからも湧いてくるだろう。従って、絶えず健康状態に気遣うは、人間を考える場合ばかりではなく、人生における基本であると言える。汝自らを知れ、汝 足元を見よ。汝自らの生命を思え。―
さらに、
―人間とは何か、人生とは何か。 それらは、肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる、雲のような存在であるが、人間を精神と捉えると結構安定している存在であると言える。実際、人は何十年と私は、私と思うだろう。我々が 広く環境と自己に 何時も留意するのは 大事な心得と言える。―
このように考えると、人間が積極的な存在ではなく、受動的で、何者かによって生かされている現実を深く受け止めることになる。私たちは 若い頃、寿命も、運命も定まっている、場合によっては、前世からの因縁で 定めだから仕方ないという発想を、老人たちから幾度となく聞かされてきて、相当な時代、そのような世界観を人々は 仏教の影響を除いても 本能的に感じてきたのではないだろうか。結構、悟ったように、それは定め、因縁だから仕方ない、― そのような人生観、世界観は世に多いのでは ないだろうか。いま、それらを諒として 自然に受け入れられる心を実感している。
しかしながら、積極的に人生を意志して行こうという精神からは そのような心情から新しい局面を観たい。
最近、心を痛めた、イスラム国による、人質事件と処刑、死刑囚の処刑、痛ましい痛切残念な事件、あるいは痛ましい殺人事件。宿命論とはこの場合、それぞれの立場では 仕方がなかったという視点である。日本人人質も、パイロットもそれぞれの義を通したものであり、死刑囚と言えども 兄弟など爆死させられて、絶望に追い込まれた、心情は痛いほど理解できる。パイロットなどは上官の命令で命をかけて、任務を遂行したものであり、何ら罪、責任が問われる立場ではない. 後藤健二氏などは 危険を顧みず友人の救命に向かい、イラクの人々のために尽くした行為は まさに聖人レベルではないだろうか。痛切残念である。ここで述べたい視点は、ある者や国を批判することではなく、それぞれの立場で、言わば義があり、仕方のない面があるという視点である。殺人事件が起こると、大騒ぎを起こして騒ぎ立てるが、相手の立場に立てば、それなりに追い詰められた苦しみや、状況があり、誰でもそのような立場になれば、同じような状況に追い込まれるものである という、人間の普遍性、人間は皆同じような存在であり、偶然、そのような環境や状況では、皆同じようではないだろうかと、観る視点に想いを致すことである。
たまたま、環境で、状況で そのような幸運や不運にあっているという、視点は 人間を優しくし、社会を明るくするのではないだろうか。生きるもの全ては、哀しい運命を共有する仲間たちではないか。切ない。マスコミは 弱いもの虐めのようなことは よして欲しい。 明るい世相を描いて欲しい。
以 上

再生核研究所声明175(2014.8.8)  人間の擁く 大きな虚像


どのレべルで人間を捉えるかで、表現の基調は自ずから変わるが、湧いた直観で成文化してみたい。
虚像だから、実状、実体でない架空の像、イメージ、誤解、思い込みなどである。
そもそも人間は 本来、多くは運命づけられ、何者かによって、作られ、操られているのにその実体を知らず、気づかず、好きなように相当に自由に自分で生きている、行動していると思っている。 そのことが、そもそも虚像の最たるものである。我々のやりたいこと、行動の殆どが 生物繁茂の原則に従う、本能原理から出てきていて、自分のこととは、実は自分のためではなく、いわば遺伝子の乗り物の役割りを果たすための要請に従っていると言える。 人間はそのためのシモベのような存在であるとも言える。大事な、恋、育児、それらの愛は この原理の最たるもので、遺伝子の健全な移転現象に操られている人間の基本的な在りようである。食欲も本能の基本であるが、生体が維持できなければ、遺伝子の存在さえ危うい。生存の原理。
人間を上手く、支配する原理として、死を嫌がる、畏れさせる精神を備わせたのは当然である。 死を良きものとしては、生命は保持できず、遺伝子は、最も困る状況に追い込まれるからである。人間が少し賢くなれば、この虚像を見破り、死こそ、生命の解放であり、これ幸いと悟りの心境に至るだろう。 死の恐怖、忌み嫌う心情は備えられた、大きな人間の虚像である。
世間では、多くは 名誉は大事だと考えられている、死後のことでも名誉に拘わるは世に多く、また人生の大きな要素にもなっている。しかしながら、それらは何か とよくよく考えて見ると、多くは虚像で、殆ど意味のないものである実体を知るであろう。あまりに愚かに進むと浅ましさというより、憐みさえ感じてしまうだろう。虚栄心など さらに虚像である。勝ち負けの情念や闘争心、優劣観など、たわいもない空しい虚像である。ドラマ、ニュース、多くの情報さえ、虚像の虚像と言える。
多く描く目標や幸福な状況の想像的な世界は 多くは虚像であり、 到達したり、叶えたりするとやがて空しく感じられ、さらに先に虚像が出来て、どんどん変わって行くことを知るだろう。人間の心は絶えず変化して、喜びや感情さえ変化していく。まるで、霧の中の存在のように見える。
このような世界観は、達観や超越的な生き方を暗示しているが(


再生核研究所声明19 (2008/09/14): 超越への道、悟りへの道;
再生核研究所声明 63(2011.05.25) : 解脱; 神、自由、不死への道 - 安らかに終末を迎える心得; 
再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること;
再生核研究所声明86(2012.4.25):  未だ おめでたい人類 - 先史時代;
再生核研究所声明 118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 
再生核研究所声明 145(2013.12.14) 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察;
再生核研究所声明149(2014.3.4) 生きること、生命の本質、活動して止まないもの;
再生核研究所声明155 (2014.4.25) 生きる意味は 文学者にも分からない??;
再生核研究所声明158(2014.5.22) 生命と人生
)、


一段と高い視点で人生、世界を観る意味で良いのではないだろうか。
しかしながら、上記虚像とは、火の無いところに煙が立たない の喩の通り、裏には、核には、実は なにか実があり、本質的なものもあるとも言える。 また、人間は所詮 造物主 には逆らうことはできない。
人間とは、何者か? 人間として生きる意味は何か? と問う。
以 上

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